Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第1章 幼児教育――信頼の世界
「21世紀への母と子を語る」(池田大作全集第62巻)
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言葉でなく行動で示す
政森
はい。私も、そのことを、いつも心がけてきました。
ささいなことですが、子どもが小さい頃、会合に連れていく時は、いつもきれいな服に着替えさせてから行くようにしていました。きれいな服といっても、立派に着飾るということではなく、洗濯した服ということですが。
「これから、大切な学会の会合に行くのよ」と声をかけながら、着替えさせていたのですが、学会活動の大切さを体で覚えていったようです。
しばらくすると、「さあ、会合に行くわよ!」と言うと、洗濯した服に自分から着替えるようになりました。(笑い)
岡野
やはり、子どもに最も説得力があるのは、「言葉」よりも、大人の「姿」であり、「振る舞い」ですね。
池田
そのとおりだね。
立派な言葉や教訓を、どれほど費やしたとしても、大人の行動がそれに伴わなければ、なんにもならない。かえって子どもたちの不信感を強めるだけです。
言葉で教えようとしても、なかなか身につくものではない。自分自身の行動で示し、振る舞いで教えていくことこそ、最高の教育です。
岡野
以前、ネパールのマテマ駐日大使が、池田先生について語っておられた言葉が印象に残っています。
「ただ考えるだけでは哲学者にすぎない。ただ行動するだけでは、実行者にすぎない。『考えること』と『行動すること』の両者が“よき結婚”をしてこそ、偉大な人格者となるのです。SGI会長こそ、その人です」と。
先生の振る舞いを鑑にして、教育者として成長していきたいと思っています。
政森
昭和五十三年(一九七八年)七月、池田先生は五年ぶりに鳥取に来られました。この時、会員のために全力で行動される先生の姿を、中国方面女子部長として間近で拝見したことが、私の原点になっています。
この時、先生は中国方面の学会歌「地涌の讃歌」をつくってくださいました。
岡野
昭和五十三年といえば、宗門問題の最中。新しい前進を期そうと、全国各地で次々と新しい愛唱歌が生まれた年でしたね。
政森
そうです。この年の五月、広島に来られた先生に、「ぜひ新しい『中国の歌』を」とお願いしました。
一応、青年部の有志で歌詞の案をつくり、お見せしました。
先生は、それをご覧になり、赤鉛筆をもって直そうとされたのですが、なにしろ、元の詞があまりうまくできていなかったのです(笑い)。とうとう、その時は完成せず、帰京されました。
それから二カ月後の七月十九日、先生は関西から岡山に来られました。岡山文化会館に入られるなり、「さあ、この前の続きをやろう!」とロビーでそのまま、歌詞の添削を始めてくださったのです。
しかし、その日も完成しませんでした。
翌二十日の夕方、鳥取の米子文化会館を訪問。
代表との懇談会が終わり、夜になると、外はすばらしい満月でした。
一切の行事を終えられた先生とともに、会館の庭で、飛び交う蛍を観賞した思い出は、忘れられません。
人工的な明かりは一切なく、あるのは、満月と、満天の星空と、蛍の光だけ。
そこで先生は、「さあ『地涌の讃歌』をつくろう」と言われ、原稿と懐中電灯を持ってきて、その場で最後の直しを入れられたのです。そして、とうとう完成。
見せていただくと、すべて、先生のオリジナルの作詞になっていました。はじめ、三番までしかなかった歌詞は、最後には四番にまでなりました。
岡野
ドラマチックな誕生の瞬間ですね。
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一人でも多くの人に何らかの思い出を
池田
私も、あの時のことはよく覚えています。
中国方面の皆さんが、喜んで歌っていただけるような歌をと、一語、一語、魂を込めてつくりました。
政森
翌日は、なかなか会えない鳥取の同志に、できるだけ会ってあげたいとの先生のご配慮で、自由勤行会が連続して開催されました。
知らせを聞きつけて、会館には、県内中から集まった同志が入りきれないくらい詰めかけたのです。
一回では終わらず、午前、午後と全部で四回の勤行会が行なわれ、すべてに先生は出席してくださいました。
とても暑い日で、たしか三七度を記録したと記憶しています。会館のクーラーを全開にしても、会場を埋めた方々の熱気で、部屋はまったく涼しくなりません。
私は先生の後ろのほうにいたのですが、先生は流れる汗もぬぐわず、同志を激励されていました。髪の毛からは、汗がぽたぽたと肩にしたたり落ちていました。
この日午後には、二カ所の個人会館も訪問され、また島根の友との懇談会もしてくださいました。
先生はほとんど休息もとらず、勤行会を終えてもなお、本会場に入りきらない方々のもとへと、あらゆるところに足を運び激励されていました。
そしてまた、屋外の仮設テントでは、自らスイカを切って、みんなにふるまってくださいました。
猛暑のなか、少しも休まれることなく、同志のために行動される先生の姿を目の当たりにし、とにかく感動の連続でした。
池田
あの時は、本当に暑かったね。(笑い)
一人でも多くの人に、何らかの「思い出」をつくってさしあげたかったのです。
今は活動の舞台も世界に広がり、なかなか各地にお邪魔できませんが、今もその気持ちは、まったく変わりません。
一番、苦しんでいる人、最も困難なところで戦っている人、そうした方々を思い、スピーチし、筆を執る毎日です。
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母の一念は“奇跡”をも起こす
政森
のちのことになりますが、私が中国方面の婦人部長になる時、この大任をまっとうできるかどうか、悩みました。
しかし私は、鳥取で会員のために尽くし抜かれた池田先生の勇姿を思い起こし、「そうだ! あの先生のお姿を忘れてはならない! 先生の万分の一でも、私も会員の方々のために働かせていただこう!」と心を決めることができました。
池田
私のことはともあれ、人々のために尽くす――その生き方こそが、子どもの心に鮮やかに投影され、無言のうちに種を植えていくのです。このてい談も、同じ思いで取り組んでいます。生活と戦いながら、懸命に育児に取り組む方々のために。
先ほど、紹介したハンコックさんは、お母さんについて、こうも語っていました。
「母が結婚した当時、黒人は将来に何の希望ももてない時代でした。みんな自暴自棄になり、いつも家庭不和や夫婦げんかばかり。子どもがぐれて、警察沙汰になったり、麻薬に走る家庭も多かった。
そうしたなか、母は、大きな夢と将来への展望をもっていました。
今の生活を脱皮し、有意義な人生を送りたい! 子どもにもそうさせたい! そういう夢です」
ハンコックさんのお母さまは、人種差別の激しい、アメリカ南部のジョージア州で生まれ育った。
日本に住むわれわれとは比較にならない、大変な環境であったにちがいない。
しかし、それでもお母さまは、「大きな夢」と「将来への展望」を持ち続けた。
子どもたちのために。家族のために。
ハンコックさんは、「母がしたことは“奇跡”だ」と言われた。
母の一念は、“奇跡”をも起こすことができるのです。
皆さんもお子さんたちが「大きな夢」と「将来への展望」を抱いて、強く生き抜いていけるよう、励まし続けていってください。
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