Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第6章 教師の心・生徒の心
「21世紀への母と子を語る」(池田大作全集第62巻)
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1
教師は子どもの「最大の教育環境」
吹浦
創価学園の入学式(一九九九年四月八日)の模様をうかがい、感動しました。
壇上で池田先生が、社会で活躍する卒業生の代表を自ら紹介されたり、前列にいた数人の生徒を壇上に招いて激励され、祝辞も一人ひとりに呼びかけられるように話をされた、と。
その様子を見ていた来賓の中国・南開大学の王所長(周恩来研究センター)が、「池田先生が『生徒といっしょにやっていこう』と、学園生の中に入られて……。生徒を思う池田先生の心を、ひしひしと感じました。こんな荘厳な入学式は、初めて見ました」と述べられていたそうです。
池田
私にとって、一年のうちで一番うれしい日は、創価学園と創価大学の入学式であり卒業式です。そこには未来がある。希望がある。成長しようというみずみずしい息吹がある。できるならば、全員と握手を交わし、声をかけながら、最大限に祝福したい気持ちでいっぱいなのです。一人も残らず「栄光の人生」を勝ち取ってほしいと祈るような思いで、一回一回、真剣に臨んできました。
師の戸田先生は、これからの人たち、伸びゆく青年たちに会うことを何よりも楽しみにされ、その時間を最も大切にされていた。私も、同じです。だからこそ、時間をこじあけるようにして、学園や創大に足を運んできたのです。
東京の創価高校の卒業生も、今年で一万人を超えました。関西校もあわせると、約一万八〇〇〇人――。それぞれの使命の道で凛々しく活躍する卒業の様子をうかがうたびに、「二十一世紀の希望」が大きく育っていることを実感する毎日です。
橋口(ヤング・ミセス中央委員長) 私も、関西創価学園で学んだ三年間には、たくさんの思い出があります。
なかでも忘れられないのが、高校三年生の時の記念撮影です。一九八〇年(昭和五十五年)四月、池田先生が突然、学園に立ち寄られ、私たち寮生と懇談し、記念撮影をしてくださったのです。
懇談の折、入学したばかりの中学一年生の寮生に、「親元を離れて寂しい思いをすることもあるだろうが、“今は、一人で生きていける強い自分をつくる貴重な時期である”と心に決め、明るく伸び伸びと育ってほしい」と激励されるのを聞き、ここまで私たちのことを思ってくださっているのかと、胸が熱くなりました。
その後、先生が二日後に中国訪問を控えた、忙しいスケジュールの中で時間をつくってくださったことを知って……。「何としても、期待にお応えしていこう」と決意したことを、昨日のことのように思い出します。
池田
たしか、第五次訪中に出発するために大阪に行った時のことだね。
会長を勇退してから、なかなか関西学園に行く機会もなかったので、何とか時間をつくって訪問したいと考えていたのです。
いつも私は、この生徒たちに会えるのは最後かもしれない、との思いで生きてきました。
ですから、たとえ一瞬でも、一人ひとりの心に飛び込むように接しながら、その後の人生を勝ち抜いていけるだけの思い出をつくってあげたいと全魂を注いできたのです。
吹浦
教育者の使命は本当に大きいですね。
創価学会教育部では、自らが子どもにとって「最大の教育環境」たろうと、皆さん、懸命に頑張っておられます。
その挑戦をまとめた「教育実践記録集」には、内外の教育関係者から大きな反響の声が寄せられています。
池田
うれしいことです。何より教師の皆さんが、成長しようと奮闘されていることがすばらしい。
一つひとつは小さなことかもしれないが、「
一は万が母といへり
」とあるように、「真剣」の人が一人いれば、変革の輪は大きく広がっていくものです。
なかには、意識はあっても、自分一人ではどうにもならないと考えてしまう人もいるかもしれない。厚い壁にぶつかって進めなくなる時もあるでしょう。だがそこで、「壁があるということは、その向こう側は大きく開けているということだ。よし、もう少し頑張ってみよう」と、雄々しく挑戦する人が勝利です。
戦前の時代、牧口先生もたった一人で、教育改革の旗を高く掲げられた。“子どもたちのために”という一心からです。
教師に限らず、子どもにとって、味方になって自分のことを応援してくれる親や周りの大人がいるというのは、私たち大人が思う以上に、本当に心強いことです。
2
子どもを守り抜く「父の愛」
橋口
岡山で生まれ育った私が、関西創価学園に行くことができたのも、父親のおかげでした。「中学生文化新聞」などで学園の記事を見ても、憧れの世界の話で、まさか自分が行けるとは思っていませんでした。
でも、中学三年になり、父が「応援するから、関西創価を受けたらどうか」と言ってくれて……。後で聞いたのですが、池田先生のもとへ行けばまちがいないと、私が合格できるように、夜中に人知れず、題目をあげてくれたこともあったそうです。
吹浦
すばらしいお父さんですね。
橋口
振り返ってみても、父の一言がなければ、そのまま地元にいたと思います。
学園に行って生涯の友人がたくさんできたのも、池田先生とお会いし、人生が大きく開けたのも、みんな父のおかげであり、パートで学費を援助してくれた母のおかげでした。
しかし、学園に入って間もない頃、父が岡山から隠岐島に単身赴任することになり、家族が三カ所に別れてしまい、もともと苦しい家計が、さらに苦しくなった時がありました。
私も、せっかく学園に来たけれど、このまま親元を離れて、寮生活を続けるのは無理かなと思ったものでした。
その時も、父は会社に直談判に行き、「給料を倍にしてくれないと、娘が学校に通えなくなる」と訴えたそうで……。(笑い)
あまりの熱意に打たれたのでしょうか、会社が善処してくれることになりましたが、そのことを後で聞いて、見えないところでの父の苦労、そして愛情を感じました。
池田
いざという時には、脇目もふらず、子どものために何でもできるというのが、父親の本当の愛情です。そういう父親をもった子どもは幸せです。
何もなく順調な時はいい。子どもを後ろから、温かく見守ってあげていればいい。
しかし、子どもが大きな岐路に立った時には、陰に陽に力強く後押ししてあげることが、父親の大切な役割だと思う。
吹浦
私も、教師を辞めて、創価学会の本部職員になりたいと考え始めた時に、父に相談しました。
私の話を黙って聞いていた父は、最後に「あれだけおまえが頑張ってなった教師だぞ。本当にいいのか」と、私の覚悟を一言確かめただけでした。私の心を理解してくれた上で、さりげなく後押ししてくれた父の言葉は、何よりの励ましになりました。
3
「情熱」こそが教育の真髄
池田
人間は、一人で一人前にはなれない。自分のことを心から思ってくれる、親や教師や友人など、支えの存在があってはじめて、確かな成長の軌道を歩める。
本当に自分のことを理解してくれている人がいる限り、子どもも、安心して力を出すことができる――それぐらい、心の絆は重要です。「親子の絆」「教師と生徒の絆」「師弟の絆」と、さまざまな絆があるが、人生の年輪を深めれば深めるほど、そのありがたみが分かるようになる。
深い意味での人生の喜びというのは、こうした絆のなかにのみ見いだすこことができるものなのです。
吹浦
牧口先生の提唱された創価教育学も、その人間と人間との絆――「教師の心」と「生徒の心」を結ぶ教育実践の積み重ねのなかから生み出されたものですね。
池田
牧口先生はいかなる名声も求めなかった。最大の目的は子どもたちの幸福で、最大の喜びは子どもたちと接することだった。
一教育者であることを無上の誇りとされていたのです。本当に偉大な先生です。
常に教育現場の最前線に立ち、理論を温めては実践に移し、その実践をとおして理論をさらに練り直す――この繰り返しのなかで「創価教育学」を打ち立てていかれたのです。
当時、先駆的な教育改革を唱えた牧口先生に対し、世間は黙殺したり、迫害を加えた。そのなかで、ただ子どもたちの未来を思い、万年の指針を体を張って遺されたのです。
創価教育の魂は、その牧口先生の厳父のごとき精神の強さ、責任感にあります。
人がどうあれ、環境がどうあれ、状況がどうであろうとも、自分が強くなればいい。縁に紛動されるのではなく、自分が最高の善縁となっていく――これが「創価」の名に込められた「価値創造」の生き方なのです。
教育というのは、「人間」をつくり、「未来」をつくる大切な仕事です。教師の方々は大変な毎日かもしれないが、世の中で一番尊い仕事をされている。私は最大に応援したい気持ちでいっぱいです。
昨今、「学級崩壊」が指摘される状況もあるようですが、負けないでほしい。一歩一歩でもいい。昨日より今日、今日より明日へと、自己建設の歩みを進めてほしいのです。
そして、自分しかできない、黄金の教育実践を勝ち取っていただきたい。それは、後に続く後輩たちへの最大の激励にもなります。
橋口
そうした一歩一歩の歩みが、未来を着実に開いていくことになるのですね。
池田
そのとおりです。だからこそ教育を“聖業”と呼ぶのです。
この前(一九九九年三月三十日)、牧口先生の創価教育学に深い理解を示されていたアメリカの哲学者・故ノートン博士の夫人とお会いした。
ノートン博士の遺志を継いで、自らも「教育」に力を注がれているメアリー夫人は、「教鞭をとるということは、深い次元において『未来』に触れることなのです」と述べ、「教師にとって、最も大事な資質は『学生を思う心』にある」と強調しておられた。教育の真髄の言葉です。
わが子のごとく、否、わが子以上に生徒や学生を思う心――教育の成否は、この一点にかかっています。牧口先生は、教育とは「生命という無上宝珠を対象とするに基づく」(『創価教育学体系・第三巻』「第四編 教育改造論」牧口常三郎全集第六巻所収)ものであらねばならないと訴えられていますが、その一人ひとりの生命を揺り動かす「情熱」こそが、教育の魂です。
牧口先生、戸田先生はその先覚者として、「教育の王道」をどこまでも貫かれたのです。
4
「君たちこそ、時代の担い手」
吹浦
かつて戸田先生の私塾「時習学館」で学んだことがある、山下肇・東京大学名誉教授は、当時の思い出をこう述べられたことがあります。
「(戸田)先生自身が燃えていたんですね。我々が接していても、何か熱いものを感じた。触れると火傷しそうな、熱気だな、あれは。覇気というか、気迫ですね。話をしていても、そういう迫力がじかに伝わってきました」と。
池田
当時、三十代だった戸田先生が、牧口先生の教育思想を実践する場として力を注いでいたのが、時習学館でした。
そこに山下先生は、小学五年から中学二年までの四年間、通われた。中学受験の時には、こんなエピソードもあったと、うかがったことがある。
――受験日の朝、会場の学校に向かうと、思いがけない人が、外套を着て校門の前で待っていてくれた。それが、戸田先生だったというのです。
戸田先生は、緊張を解きほぐすかのように冗談を言われ、「いいか、気持ちの問題だ。落ち着いて問題に取り組むんだ。君には実力があるんだ」と励ました。それで、山下先生は落ち着いて受験することができ、難関を突破したというのです。
橋口
戸田先生の慈愛を、肌身で感じることができたからでしょうね。
池田
そうでしょう。心というものは通じるものです。勇気も、希望も、情熱も、教師の心が燃えている限り、生徒にも必ず伝わっていく。
山下先生は、半生を通じて、『きけわだつみのこえ』をはじめとする戦争体験の継承などの運動に力を注いでこられた。そういった生き方をしてきたのも、「戸田先生に情熱を吹き込まれたからではないか」と語っておられる。
また戸田先生は当時、「君たちこそ、時代の担い手だ」と、伸びようとする心を引き出すかのように、教壇に立たれていたといいます。
そうした、生徒が好きでたまらない、何でもしてあげたいという気持ちこそ、子どもたちが大きく成長する土台となるものではないだろうか。
吹浦
私も子どもが大好きで、教師になったのですが、辛い時や苦しい時にも、その気持ちが何よりの支えとなりました。
もちろん、どう授業を進めるかという方法論も重要ですが、“子どもが大好き”という心が根本になくしては、空回りしてしまうのではないかと思うのです。
子どもの心というのは本当に敏感です。小学校一年生くらいでも、教師のよいところ、悪いところを、恐ろしいくらい見抜いてしまう……。(笑い)
5
教師は「親の如き慈悲心」で
池田
「正直にして諂曲ならず、利己主義にあらずして親の如き慈悲心の所有者」(『創価教育法の科学的超宗教的実験証明』牧口常三郎全集第八巻所収)――これが牧口先生が教師の要件として挙げられたものでした。
親が、どの子にも別け隔てなく愛情を注ぐように、教師も「親の如き慈悲心」で子どもたちを包み込み、育んでいくことが大切です。
橋口
小学生を対象にしたある調査でも、「先生が相手をしてくれなかった時」「先生がだれかを特別扱いした時」に、ストレスを感じるという結果が出ています。
教師の側では特に意識してなくても、子どもにはそう感じられる時は少なくないようですね。
吹浦
よく分かります。その場だけ取り繕おうとしても、子どもの真っ白な心には、通じるものではありません。子どもには、真正面から向き合う以外にないなと、つくづく感じたものです。
私は、幼い頃から学校の先生になるのが夢でした。姉たちが楽しそうにランドセルを背負って出かける様子を見ながら、「そんなに楽しい所なら、ずっとそこにいたい一と思い(笑い)、憧れ続けてきたのです。
ですから、大学を卒業して夢が現実になった時は本当にうれしかった。子どもたちと手をつなぎ、歌をうたいながら、桜の季節をスタートした思い出は、今も鮮やかです。しかし、現実はそんなに甘くはなかった。(笑い)
クラス運営が思うようにいかず、一学期が終わった頃には、わずかばかりの自信も失いかけて、「何のために教師になったのか」と考えるまでになりました。
子どもの心が理解できなくて、つかめなくて、絶望的な気分になった時もありました。
橋口
辛かったでしょうね。
池田
教師といっても、人間ですから、時には失敗したり、迷うこともあるでしょう。
教育とは、そもそも時間のかかるものです。辛抱強く、一人ひとりと信頼関係を築いていくことです。
特に最初の頃は、ベテランの先生との経験の差を実感し、愕然とする思いに駆られることもあるかもしれない。しかし、最初から一人前の人などいないのです。
6
自分以上の「人間」に育てる
吹浦
私も悩んでいるうちに、自分よりもかわいそうなのは子どもたちのほうではないかと、はっと気づいたのです。
そんな時に拝したのが、御書の「
大悪
をこ
起
れば大善きたる
」の一節でした。
「そうだ。大変な今こそ“大きく変わる”チャンスだ。子どもたちのために、もう一度頑張ろう。まず自分が変わることだ」と、気持ちが大きく開けました。それから、よりいっそう真剣に祈り、仕事に向かえるようになったのです。
それからは、単なる担任という立場を超えて、「この子たちと出会ったことには、すべて意味がある。私が責任をもって、全員が幸福で成長できるように心を砕いていこう」と思うようになれました。
一人ひとりの家庭を訪ね、じっくり話をすると、次の日は驚くほど様子が変わり、“先生は、自分の味方なんだな”と思うのか、「心が開いた」ことが分かるのです。そこから、本当の心の交流が始まりました。
教師を辞めて二〇年以上になりますが、当時の教え子たちからは、今でも電話や手紙をもらうことがあります。彼らの立派に成長した姿が、私にとっての何よりの宝です。
橋口
それはすばらしいことですね。
池田
教師の方に限らず、“これでよい”などと思っているなら、成長が止まっている証拠です。
必要以上に気負うことはない。背伸びする必要もありません。子どもたちと手をとりあって、いっしょに成長していけばよいのではないだろうか。
牧口先生も、「自分といっしょに進もう、という謙虚な態度をもつことこそ正しい教師のあり方である」(『創価教育学体系・第四巻』「教育方法論」牧口常三郎全集第六巻所収、趣意)と言われています。
そして、その牧口先生がよく引用されていたのが「従藍而青(青は藍より出でて、しかも藍よりも青し)」との言葉です。これこそ教育の最大の目的と言えましょう。
自分を徹して磨き、その磨いた力で、受け持った子どもたちを全員、自分以上の立派な「人間」に育てていこう――その心を燃やし続けることこそ、教育者の使命です。
教育は真剣勝負なのです。
7
子どもの可能性の芽を引き出す
橋口
今の話で、池田先生が二年前(一九九七年)の四月、東京創価小学校に行かれた折のことを思い出しました。当時、夫は創価小学校で新一年生を受け持つことになっていました。
先生は、桜の花びらがじゅうたんのように広がったグラウンドを、教職員の方たちと一周されながら、夫が一年生の担任であることを聞いて、こう言われたと。「一年生か。まだ小さいし、大変かもしれないが、一人ひとり、人間として生きる道筋をつけていく――その大事な基礎を築いてあげるのが先生方の使命だよ」と。
その言葉に夫は、はっとしたそうです。自分の責任の重さを改めて痛感し、教師としての大切な心構えを教えていただいたと感謝していました。
池田
限りない可能性を秘めながら、片時もじっとしていられない。その子どもたちの可能性の芽をどう引き出していくか――。
本来持っている、「伸びよう」「成長しよう」という芽を正しい方向に導いて、最も望ましい形で可能性を開花させてあげるのが教師の役割なのです。
吹浦
私も低学年の生徒を受け持ったことがありますが、「ギャング・エイジ」と呼ばれるほど、本当に好奇心旺盛で、活発です。
それだけに、教師に対しても積極的にかかわりを求めてくる時期です。
小学校でも高学年になるにつれて、自分で教師との距離感も次第につかめるようになってくるようですが、特に低学年の間は、教師の側で細心の注意を払う必要がありますね。
だいたいその時期に、学校が好きになるか、勉強が好きになるか嫌になるかが決まる場合が多いのです。
その時に自分を受け止めてくれる人の存在がいるといないとでは、全然違ってくると思います。
池田
たとえ一瞬だったとしても、自分に向き合ってくれた教師の存在は、いつまでも心に残るものです。小学校時代は、特にそうでしょう。私も、よく覚えています。
尋常小学校では、一年生の担任は手島先生、二年生の時は日置先生、どちらも女の先生で実に優しく、熱心に教えてくださった。今でも、洋服や髪型まではっきり思い起こすことができます。
三、四年の時は竹内先生、そして五、六年の時が桧山先生でした。高等小学校は、岡辺先生。いずれも忘れられない方々です。
小学校以外でも、東洋商業の英語の先生、大世学院の高田先生は、本当によくしてくださった。とても感謝しています。
これまで随筆などをとおして、こうした方々のことを紹介してきたのも、そのご恩に少しでも報いたいとの気持ちからでした。
一人ひとりの可能性をどこまでも信じて、子どもたちが困っている時、行き詰まった時に、自分のことのように受け止めて、全力で応援してあげるのが教師です。
特に病気や家族のこと、友だちや成績のことなどで悩み、苦しんでいる子どもたちに、乗り越える「勇気」と「希望」を与えていく、その慈愛の心こそ、教師の魂なのです。
8
松陰は「ともに学びましょう」と
橋口
三年前(一九九六年)に行なわれた「創価教育同窓の集い」(創価学園や創価大学の出身者を対象とした会合)で、池田先生が吉田松陰の「松下村塾」の話をされました。
その時、先生は、塾生たちと別け隔てなく接し、その行く末に至るまで最大に心を配っていた松陰の姿をとおし、こうおっしゃいました。
「(創価の学舎に)わざわざ来てくださった皆さまを、どう守るか。どう応援できるか。どうしたら創立者としての責務を果たせるか――これが、私の痛切きわまりない決意です。皆さんとの間には、本当に深い因縁と不思議な契りがある。私は、いつも皆さんのことを祈っています」と。
言葉からあふれでる先生の限りない愛情に、胸がいっぱいになりました。
池田
多くの青年を育て、近代日本の夜明けを開いた吉田松陰には、ひときわ深い思いがあります。
小学校時代、担任だった桧山先生が、よく松陰のことを話してくださった。恩師・戸田先生も松陰を好まれて、教育論、青年論を語っておられたことも懐かしい思い出です。
松陰には、こんなエピソードがあります。
――新しく入塾した少年が、「謹んで、ご教授をお願いいたします」とあいさつすると、松陰は「私は教えることはできませんが、ともに学んでいきましょう」と応えた。
そして、少年たちが帰る時にも、松陰は、わざわざ丁重に見送ったというのです(天野御民『松下村塾零話』から)。
また松陰は、松下村塾から羽ばたく青年たちが思う存分、活躍できるように、“この人物は私が育てました。必ず役に立つと信じます”と、自ら骨折ることを惜しまなかったという。
教え子の行く末までも見守ろうとする姿に、教育者として、また師匠としての深い思いやりを感じます。
次元は異なるが、創価学会もこの「師弟」の精神を貫いてきた。だからこそ強いのです。
一人ひとりの人間を徹して大切にしてきたからこそ、何があっても揺るがない、だれにも切れない強靱な絆ができあがったのです。
橋口
私も苦しくなった時、負けそうになった時に、池田先生からいただいた励ましの数々を思い起こしては頑張ってきました。
一九八四年(昭和五十九年)の五月、私が大学四年の時のことです。女子学生部の代表の一人として、思いがけず、先生との懇談の席に加えさせていただいたことがありました。
その時、はるか未来を見据えるように、先生は「人材こそ、学会の宝です。未来のために、力ある人材を千波万波と磨き育てていく以外にない」とおっしゃいました。
そして、一人ひとりに声をかけてくださり、私たちのほうをご覧になって、最後に一言、「一〇年間、見ているよ」と。ずしりと、心に響く言葉でした。
“未来は今にあり”との心で、人材育成に生命を賭けておられる先生の深い思いに触れたことが、私の信心の原点になりました。
以来、青春の誓いのままに、今日まで歩んでくることができました。本当にありがとうございました。
9
命懸けで育てる人がいてこそ人は育つ
池田
一〇年あれば人間は変わる。ひとたび大目的を定め、その実現のために命を賭ければ、どれだけ歴史を残すことができるか――。
私の人生も、十九歳で戸田先生に師事してからの一〇年間で、大きく開けました。
当時、戸田先生の青年部に対する訓練は非常に厳しかった。しかし、日蓮大聖人の御遺命を実現するために、広宣流布の信心強き人材をつくるために、鍛え方が厳しかったのは当然だったのです。
この戸田先生の厳しさがなければ、今日の創価学会の発展はなかった。
命懸けで育てる人がいるからこそ、人は育つのです。教育といっても、育てる側の一念ですべて決まると言ってよい。
吹浦
いつも、戸田先生と池田先生との厳粛な師弟の絆に心が打たれます。
池田
忘れもしない。一九五〇年(昭和二十五年)、戸田先生が第二代会長に就任される前年のことです。
先生の事業は最大の苦境に直面していた。それは単に一事業の危機ですまされるものではなく、創価学会そのものの断絶につながりかねない――そうした苦衷の最中でした。
当時、二十二歳だった私は、戸田先生と学会を守り抜こうとの思いで、先生のもとで一人戦う、覚悟の毎日でした。
夏のある雷雨の日、私はその思いを日記に書きました。「先生の、激励に応え、再び、世紀の鐘を、私が鳴らそう。先生より離れる者は、離れろ。若き戦士となり、若き闘士となって、先生の意志を、私が実現するのだ」と。
この誓いを、私は今日まで敢然と貫き通してきました。そのことを最大の誇りとしています。
一度しかない、この人生、何を遺していくのか。人間です。未来を切り開く人間を育てていくことは、何物にも代えがたいものです。
イギリスの政治家チャーチルの言葉に、「人生で大事なことは、次の世代のために、よき社会を築き、残すことができたかどうかである」とあります。
二十一世紀、そして第三の千年は「教育」で決まります。その担い手である教育者の方々の使命は計り知れないほど大きい。
ともに前進しましょう! 子どもたちのために――。
ともに勝ち越えましょう! 希望の未来のために――。
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