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日蓮大聖人・池田大作

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第31巻 「誓願(続)」 誓願(続)

小説「新・人間革命」

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1  誓願(続)(1)
 一九九三年(平成五年)を、学会は「創価ルネサンス・勝利の年」と定めた。
 山本伸一は一月下旬から、約二カ月にわたって、北・南米を訪問した。
 アメリカでは、カリフォルニア州にある名門クレアモント・マッケナ大学で「新しき統合原理を求めて」と題して特別講演した。
 伸一は、世界の新たな統合原理を求めるにあたって、人間の「全人性」の復権がカギを握ると述べ、そのために「寛容と非暴力の『漸進主義』」「開かれた対話」の必要性などをあげ、仏法で説く、仏界、菩薩界に言及した。
 講演の講評を行ったのは、ノーベル化学賞・平和賞受賞者のライナス・ポーリング博士であった。博士は、「講演で示された菩薩の精神こそ、人類を幸福にするもの」と評価し、「私たちには、創価学会があります」と高らかに宣言してくれた。
 さらに、創価大学ロサンゼルス分校では、“人権の母”ローザ・パークスと会談した。
 ――五五年(昭和三十年)、アフリカ系アメリカ人の彼女は、バスの座席まで差別されることに毅然と抗議した。それが、バス・ボイコット運動の起点となり、差別撤廃が勝ち取られていったのである。
 伸一は青年たちと、その人権闘争を讃え、「“人類の宝”“世界の母”ようこそ!」と歓迎した。まもなく迎える彼女の八十歳の誕生日を、峯子が用意したケーキでお祝いもした。
 人間愛の心と心が響き合う語らいのなかで、彼女は、『写真は語る』という本が出版されることに触れた。著名人が、人生に最も影響を与えた写真を一枚ずつ選んで、載せる企画であるという。自分が、その一人に選ばれたことを伝え、こう語った。
 「あのバス・ボイコット運動の際の写真を選ぼうと思っていました。しかし、考えを変えました。会長との出会いこそ、私の人生にいちばん大きい影響を及ぼす出来事になるだろうと。世界平和のために、会長と共に旅立ちたいのです。もし、よろしければ、今日の会長との写真を、本に載せたいのですが」
2  誓願(続)(2)
 山本伸一は、“掲載される写真を、自分との語らいの場面にしたい”という、ローザ・パークスの要請に恐縮した。
 後日、出版された写真集が届けられた。彼女の言葉通り、伸一と握手を交わした写真が掲載されていた。「人権運動の母」の、優しく美しい笑顔が光っている。
 冒頭には、こう書かれていた。
 「この写真は未来について語っています。わが人生において、これ以上、重要な瞬間を考えることはできません」。そして、文化の相違があっても、人間は共に進むことができ、この出会いは、「世界平和のための新たな一歩なのです」と――。
   
 伸一は、このアメリカ訪問で、ロサンゼルスにある「寛容の博物館」を訪れている。
 同博物館では、世界各地での人権抑圧や、人類史上最大の残虐行為であるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の歴史に焦点を当てて、展示が行われていた。館内を見学し、ユダヤの人びとの、受難の過酷さに触れた彼は、同博物館の関係者たちに語った。
 「私は、貴博物館を見学し、『感動』しました! いな、それ以上に『激怒』しました! いな、それ以上に、『このような悲劇を、いかなる国、いかなる時代においても、断じて繰り返してはならない』と、未来への深い『決意』をいたしました」
 民族、思想、宗教等の違いによる差別や抑圧。そして、それをよしとしてしまう人間の心――そこに生命に潜む魔性がある。その魔性と戦っていくことこそ、仏法者の使命にほかならない。
 初代会長・牧口常三郎は、戦時中、戦争遂行のために思想統制を進める軍部政府の弾圧と戦い、獄死した。共に投獄された第二代会長・戸田城聖は、戦後、「地球民族主義」の理念を掲げ立った。この師弟の行動は、人間を分断する、あらゆる「非寛容性」に対する闘争であった。広宣流布とは、人権のための連帯を築き、広げていくことでもある。
3  誓願(続)(3)
 二月六日、山本伸一は、アメリカのマイアミから、コロンビア共和国へ向かった。セサル・ガビリア・トルヒーヨ大統領並びに文化庁の招聘によるもので、コロンビアは、初めての訪問である。大統領は、一九九〇年(平成二年)八月、同国最年少の四十三歳で就任し、テロ撲滅、麻薬組織の取り締まりに力を注いできた。
 伸一の一行がマイアミを発つ前、コロンビアの首都のサンタフェ・デ・ボゴタ市(後のボゴタ市)の繁華街で、車に仕掛けられた爆弾が爆発し、市民が吹き飛ばされるという事件が起こった。当時、麻薬組織によるテロ事件が相次いでいたのである。国内には非常事態宣言が出されていた。
 コロンビアで伸一は、東京富士美術館所蔵の「日本美術の名宝展」の開幕式などに出席することになっていた。三年前に日本で開催された「コロンビア大黄金展」(東京富士美術館主催)の答礼の意味も込められていた。
 大統領府から伸一に、訪問についての問い合わせがあった。彼は、言下に答えた。
 「私のことなら、心配はいりません。予定通り、貴国を訪問させていただきます。
 私は、最も勇敢なるコロンビア国民の一人として行動してまいります」
 それは、伸一の“誓い”であったのだ。
 四年前、来日したビルヒリオ・バルコ大統領(当時)から、同国の「功労大十字勲章」が贈られた折、伸一は、こう述べている。
 「私どもも“同国民”との思いで、貴国のために貢献していきたいと念願しています」
 彼は、たとえ何があろうとも、信義には、どこまでも信義をもって応えたかった。それが友情の道であり、人間の道であるからだ。
 コロンビア到着の翌七日、支部が結成され、伸一はメンバーと記念撮影し、激励した。
 八日には、大統領府のナリーニョ宮殿にガビリア大統領夫妻を表敬訪問した。この時、彼は、大統領に長編詩を贈り、若き偉大なるリーダーの勇気と行動を讃え、コロンビアの前途に「栄光あれ!」とエールを送った。
4  誓願(続)(4)
 ガビリア大統領は、山本伸一の訪問を心から歓迎し、コロンビアの「サン・カルロス大十字勲章」を贈った。
 さらに、この日、伸一は、「日本美術の名宝展」の開幕式に出席し、ここでも文化庁長官から、「文化栄光勲章」を受けている。
 九日、彼は、空路、ブラジルのリオデジャネイロへ向かった。
 リオデジャネイロの国際空港では、伸一が到着する二時間前から、一人の老齢の紳士が待ち続けていた。
 豊かな白髪で、顔には、果敢な闘争を経てきた幾筋もの皺が刻まれていた。高齢のためか、歩く姿は、幾分、おぼつかなかったが、齢九十四とは思えぬ毅然たる姿は、獅子を思わせた。今回の伸一の招聘元の一つである、南米最高峰の知性の殿堂ブラジル文学アカデミーのアウストレジェジロ・デ・アタイデ総裁である。
 彼は、当時の首都リオデジャネイロの法科大学を卒業後、新聞記者となり、一九三〇年代、自国の独裁政権と戦った。投獄、三年間の国外追放も経験した。戦後は第三回国連総会にブラジル代表として参加し、エレノア・ルーズベルト米大統領夫人や、ノーベル平和賞を受賞したフランスのルネ・カサン博士らと、「世界人権宣言」の作成に重要な役割を果たしてきた。その後もコラムニストとして差別との戦いに挑み、文学アカデミーの総裁に就任後も、言論戦を展開し続けていた。
 総裁は、ヨーロッパ在住の友人から、伸一のことを聞かされ、著作も読み、また、ブラジルSGIメンバーと交流するなかで、その思想と実践に強い関心と共感をいだき、伸一と会うことを熱望してきたという。
 空港で、今か今かと伸一の到着を待つ総裁の体調を心配し、「まだ休まれていてください」と気遣うSGI関係者に、総裁は言った。
 「私は、九十四年間も会長を待っていた。待ち続けていたんです。それを思えば、一時間や二時間は、なんでもありません」
5  誓願(続)(5)
 山本伸一がリオデジャネイロの空港に到着したのは二月九日の午後九時であった。一行を、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁らが、包み込むような笑みで迎えてくれた。
 総裁は、一八九八年(明治三十一年)生まれで、一九〇〇年(同三十三年)生まれの恩師・戸田城聖と、ほぼ同じ年代である。伸一は、総裁と戸田の姿が二重映しになり、戸田が、自分を迎えてくれているような思いがした。
 総裁と伸一は、互いに腕に手をかけ、抱き合うようにしてあいさつを交わした。
 「会長は、この世紀を決定づけた人です。力を合わせ、人類の歴史を変えましょう!」
 総裁の過分な讃辞に恐縮した。その言葉には、全人類の人権を守り抜かねばならないという、切実な願いと未来への期待が込められていたにちがいない。伸一は応えた。
 「総裁は同志です! 友人です! 総裁こそ、世界の“宝”の方です」
 世界には、差別の壁が張り巡らされ、人権は、権力に、金力に、暴力に踏みにじられてきた。「世界人権宣言」の精神を現実のものとしていくには、人類は、まだまだ遠い、過酷な道のりを踏破していかなくてはならない――総裁は、そのバトンを引き継ぐ人たちを、真剣に探し求めていたのであろう。
 翌十日、伸一は、リオデジャネイロ市内で行われた、リオの代表者会議に出席した。彼は、明十一日が戸田城聖の生誕九十三年の記念日であることから、恩師の指導を引きながら、仏法と社会生活について言及した。
 「戸田先生は、次のように話されていた。『御本尊を受持しているから、商売の方法などは、考えなくても、努力しなくとも、必ずご利益があるんだという、安易な考え方をする者がいるが、これ大いなる誤りであって、大きな謗法と断ずべきである』(『戸田城聖全集1』所収)」
 戸田は、日蓮仏法は、いわゆる“おすがり信仰”などではなく、御本尊への唱題をもって、わが生命に内在する智慧を、力を引き出し、努力、活用して、価値を創造する教えであると訴えたのである。
6  誓願(続)(6)
 山本伸一は、皆の幸せを願いつつ訴えた。
 「戸田先生は、『法華を識る者は世法を得可きか』との御文について、努力もせずに、『ご利益があるんだというような読み方は、断じて間違いである』と断言され、こう続けられている。
 『自分の商売の欠点とか、改善とかに気のつかぬ者は、大いに反省すべきであろう。されば、自分の商売に対して、絶えざる研究と、努力とが必要である。吾人の願いとしては、会員諸君は、一日も早く、自分の事業のなかに、“世法を識る”ことができて、安定した生活をしていただきたいということである』(『戸田城聖全集1』所収)
 戸田先生の願いは、そのまま私の願いでもあります。今、世界的に不況の風は厳しい。しかし、私たちは、それを嘆くだけであってはならない。『信心』によって、偉大な智慧と生命力を発揮して、見事に苦境を乗り切ってこそ、『世法を識る者』といえます。
 “信心をしていればなんとかなる”という安易な考え方は誤りです。信心しているからこそ、当面する課題をどう解決していこうかと、真剣に祈り、努力する――その『真剣』『挑戦』の一念から最高の智慧が生まれる。一切の勝利のカギは、この『信心即智慧』の偉大な力を発揮できるかどうかにある」
 戸田城聖の生誕記念日である二月十一日――伸一が、戸田の広宣流布への歩みを綴った小説『人間革命』全十二巻の、「聖教新聞」紙上での連載が完結した。
 一九六四年(昭和三十九年)十二月二日に沖縄の地で起稿し、翌六五年(同四十年)の元日付から「聖教新聞」に連載を開始。途中、海外訪問が続いたり、体調を崩したりしたことなどから、長い休載期間もあったが、前年の九二年(平成四年)十一月二十四日に脱稿し、この二月十一日付で、千五百九回にわたる連載を終えたのである。文末に伸一は、「わが恩師 戸田城聖先生に捧ぐ」と記した。
 この書は、弟子・山本伸一の、広布誓願であり、師への報恩の書でもあった。
7  誓願(続)(7)
 十一日、山本伸一は、リオデジャネイロ連邦大学での名誉博士号の授与式に出席した。
 謝辞のなかで彼は、この日が恩師・戸田城聖の生誕記念日であることに触れ、師の哲学について語った。
 「私は恩師から、“誰人であれ、平等に、内なる生命の最極の宝を開いていくことができるという哲学”を学びました。また、“誠実なる対話を積み重ね、民衆の連帯を広げゆく平和の王道”を託されました。そして“『民衆のため』『人間のため』という慈悲の一念に徹しゆく時、智慧は限りなく湧いてくるという人間学”を受け継いだのであります。
 恩師は、戦後間もなく『地球民族主義』という理想を青年に提唱いたしました。当時は、全く評価されませんでしたが、民族紛争の激化に苦しむ現代世界は、この『共生の道』を志向し始めております」
 彼は、わが師の偉大さを世界に宣揚したかった。また、自分を育んでくれた恩師に、この名誉博士号を捧げたかったのである。
 翌十二日、伸一は、リオデジャネイロのブラジル文学アカデミーを訪れ、アタイデ総裁と会談した。ここでは、以前から話が出ていた総裁との対談集『二十一世紀の人権を語る』の発刊について合意がなされた。
 対談の進め方としては、まず伸一の方で、いくつかの質問事項を用意して、渡すことになった。
 総裁は語った。
 「嬉しいことです。人権の問題について、ここまで理解してくださっている会長と対話できるとは。確かに『世界人権宣言』は、発表されました。しかし、その精神を、最も明確に、現実の行動の上に翻訳し、流布してくださっているのは会長です。作成した人びと以上の功績です。人間は『行動』です。とともに『思想』が大事です。二人で対談集を完成させましょう」
 伸一は、総裁の、この大きな期待に応えねばならぬと、決意を新たにしたのである。
8  誓願(続)(8)
 アタイデ総裁は、静かだが、深い思いのこもった口調で、山本伸一に切々と訴えた。
 「私は、もうすぐ百歳を迎えます。これまで生きてきて、これほど『会いたい』と思った人は初めてです。
 会長は、偉大な使命のある方です。人間学と人間性の人であり、精神の指導者です。
 会長の人生には、すべて意味がある。世界の命運は、会長の行動とともに次第に大きく開かれてきました。人類の歴史を転換している方です。
 自らの行動で構想を現実化し、具体化してこられたことに、私は敬服します」
 伸一は、総裁の自分への期待には、「世界人権宣言」の精神を、なんとしても現実のものにしなければならないという、強い心が込められていることを感じた。
 総裁は、伸一を、見つめながら語った。
 「『新しい世紀』が、まもなく、やってきます。それは、ブラジルと日本、そして世界にとっての『新しい時代』が、やってくることを意味するのではないでしょうか」
 「そうです。『新しい時代』をつくるために総裁は戦ってこられた。私も同じです。目的は、人類が幸福に生きられる『新しい時代』を開くことです」
 伸一が、答えると、総裁は、微笑みを浮かべ、そして、力強い声で言った。
 「『言葉』を意味するラテン語の『ウェルブム(verbum)』とは、また、『神』を意味します。私たちは、この崇高なる『言葉』を最大の武器として戦いましょう」
 二つの魂は、強く、激しく響き合った。
 伸一は、アタイデ総裁との会談に引き続いて、ブラジル文学アカデミー在外会員(外国居住者)の就任式に出席した。
 同アカデミーは、ブラジルが王制から共和制に移行したあとの一八九七年に、祖国ブラジルを「知の光」で導いていこうとの熱願のもとに創立された。四十人の国内会員と二十人の在外会員から構成されており、いずれも終身会員である。
9  誓願(続)(9)
 ブラジル文学アカデミーが、“文化・文学の偉大なる保護者”と認める在外会員には、ロシアの文豪レフ・トルストイ、フランスの人道主義作家エミール・ゾラ、イギリスの社会学者のハーバート・スペンサーなど、知の巨人たちが名を連ねてきた。
 山本伸一は、日本人としても、東洋人としても、初めての在外会員となる。
 就任式には、アントニオ・オアイス文化大臣(大統領代理)をはじめ、ブラジル各界の著名な識者、文化人らが出席した。また、イタマル・フランコ大統領からも祝福のメッセージが寄せられた。
 さらに、席上、「マシャード・デ・アシス褒章」が伸一に贈られた。文学アカデミーの初代総裁となったマシャード・デ・アシスの名を冠した、この褒章は、“世界的業績を残した文化人”に対して、特別に授与される同アカデミー最高の栄誉章とのことであった。
 伸一は、在外会員就任を記念し、「人間文明の希望の朝を」と題して講演を行った。
 ――科学技術の発達に伴い、地球一体化が進む現在、宗教は、人間の精神性を陶冶し、善きものへと高めながら、新たなコスモス(調和の世界)形成の基盤となっていかねばならない。そうした開かれた宗教性こそが、二十一世紀の地球文明のバックボーンとなるであろう、と訴えた。
 この式典には、ブラジルの新聞各社が取材に訪れており、伸一の在外会員就任と記念講演を報道した。
 彼は、ブラジル文学アカデミーをはじめ、ブラジルでの顕彰は、SGIメンバーの社会貢献と、学会理解への着実な努力の勝利であると思った。かつては、学会への誤解と偏見から、伸一の入国さえ許可されないことがあったが、今、南米最高の知性の殿堂から最高の評価と深い信頼を得て、在外会員となる時代になったのである。目立たぬ日々の奮闘の積み重ねが、社会を動かしていく。
 伸一は、一人ひとりの同志を心から讃え、「ブラジル万歳!」と叫びたかった。
10  誓願(続)(10)
 山本伸一がリオデジャネイロを発ち、初訪問となるアルゼンチンへ向かったのは、二月十四日であった。
 ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁は、その後、しばらくして体調を崩した。しかし、伸一との対談集発刊への情熱は、いささかも衰えなかった。幾分、健康が回復すると、六月半ばから、伸一が示した質問と意見に対する回答を口頭で述べ、テープに録音した。
 限りある人生の時間と、懸命に戦うかのように、力を振り絞り、言葉を紡ぎ出していった。到来する「新しい時代」のための「人権の闘争」に、最後の最後まで命をかけたのだ。
 対談集の準備は、リオデジャネイロでの二人の語らいをベースに、書簡で続けられた。総裁の最後の口述となったのは八月中旬であった。数日後に入院し、一九九三年(平成五年)九月十三日、人権の巨星は、九十五歳を目前にして、偉大なる生涯の幕を閉じた。
 対談集『二十一世紀の人権を語る』は、月刊誌『潮』に連載されたのち、九五年(同七年)二月十一日に発刊されている。
 伸一は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに到着した翌日の十五日、宿舎のホテルで、アルベルト・コーアン大統領府元官房長官と会談したあと、市内で行われたアルゼンチン代表者会議に出席した。
 参加者のなかには、十八日に開催される、第十一回世界青年平和文化祭の準備に励む青年たちの、日焼けした元気な顔もある。
 アルゼンチンでも、青年が立派に成長し、広布の未来が限りなく開かれていた。
 この十五日の夕刻は、日本時間では十六日の朝にあたり、日蓮大聖人の御聖誕の日である。伸一は、集った友に力強く訴えた。
 「ひとたび太陽が東天に昇れば、その大光は遍く全世界を照らす。同様に日本に聖誕された大聖人の『太陽の仏法』は、全地球の全民衆を赫々と照らし、妙法の大慈悲の光を注いでいきます。そして、この大聖人の仏法の世界性、普遍性を見事に証明してくださっているのが、アルゼンチンの皆様の活躍です」
11  誓願(続)(11)
 山本伸一は、声を弾ませて語っていった。
 「アルゼンチンと日本は、地球の反対側に位置し、距離的には最も離れています。そのアルゼンチンの皆様と、日蓮大聖人の御聖誕の日をお祝いすることができた。大聖人は、どれほどお喜びであろうか。
 アルゼンチンのことわざに『太陽は皆のために昇る』とあります。大聖人の『太陽の仏法』は『平等の仏法』である。大聖人は『皆のために』――末法万年のすべての民衆のために、大法を説き残された。信仰しているか、信仰していないかによって、人間を偏狭に差別するものでは決してありません。
 どうか皆様は、心広々と、太陽のように明るく、アルゼンチンの全国土、全民衆に希望の光彩を送っていただきたい」
 彼は、「臨終只今にあり」との思いで励ましを続け、同国の大詩人アルマフェルテの言葉「時には、『偉大なる運命』が眠っている場合がある。それを呼び覚ますのは『苦悩』である」(ALMAFUERTE著『OBRAS COMPLETAS』EDITORIAL CLARIDAD S.A.)を紹介した。
 「仏法で『煩悩即菩提』と説かれているように、問題や悩みを抱えていない人など、おりません。また、そんな一家もなければ、そんな地域もありません。
 人生は、悩みとの戦いです。大事なことは、自分にのしかかる、さまざまな苦悩や問題を、いかに解決していくかです。『悩み』を越えた向こう側にある『勝利』に向かって、知恵を絞り、努力を重ねることです。
 もし、こんな悩みがなければ――と現実を離れ、夢を見ているだけの生き方は、敗北です。どうすれば、今の課題を乗り越え、価値と勝利に変えていけるか――常に、その前向きな努力をなす人が『勝つ人』なんです。
 自分の一念が、そのまま人生となる――この真理を、見事なる勝利の劇で証明する『名優』であっていただきたい。また、周囲にも『自信』をもたせる『励ましの人』であっていただきたい」
 伸一は、アルゼンチンの同志が一人も漏れなく「不屈の勝利王」であってほしかった。
12  誓願(続)(12)
 二月十六日正午、山本伸一は、ブエノスアイレスの大統領公邸に、カルロス・サウル・メネム大統領を表敬訪問した。
 語らいで伸一は、二十一世紀は、「人類一体化の世紀」「地球文明興隆の世紀」にしなければならないとして、民族の融合の大地アルゼンチンに脈打つコスモポリタニズム(世界市民主義)に期待を寄せた。
 今回の南米訪問では、各国で、国家指導者等との会見や記念の式典が、間断なく続くことになる。そのスペイン語の通訳・翻訳を見事に務めたのが、アルゼンチン出身の女子部の友たちであった。
 彼女たちは、日系人の両親のもと、アルゼンチンで育った。少女時代に、鼓笛隊の活動を通して、信心を学び、“人びとの幸せのために、広布のために生きたい”との思いを深めていった。
 そして、アルゼンチンの国立大学や、国費留学生として日本の大学で懸命に勉学に励む一方、語学の習得にも力を注ぎ、SGIの公認通訳となったのである。
 若き生命に植えられた“誓い”の種子は、やがて“使命”の大樹となって空高く伸びる。
 十六日の夜、伸一は、アルゼンチンの上院、並びに下院を表敬訪問した。
 上・下両院のある国会議事堂は、荘厳なグレコローマン様式であり、一九〇六年(明治三十九年)に完成。軍事政権時代は議会活動の禁止によって閉鎖されていたが、八三年(昭和五十八年)、軍政に終止符が打たれると、国会議事堂として復活した。アルゼンチンの“民主の朝”を告げる象徴となった。
 上院では伸一の「平和への不断の活動」に、下院では彼の「『世界の諸民族の平和』への闘争」に対して特別表彰が行われた。地球の反対側にあって、伸一の発言に耳を傾け、その行動を注視してきた人びとがいたのだ。
 これもアルゼンチンの同志が、誠実に対話を重ね、信頼を広げてきたからこそである。
 伸一は、メンバーの奮闘に心から感謝し、その栄誉を、皆と分かち合いたいと思った。
13  誓願(続)(13)
 上院議長は、山本伸一との語らいの折、アルゼンチン議会で、伸一の平和提言などをもとにして、法律を作ったことを伝えた。
 それは、新たに「平和の日」を設け、アルゼンチンの小学・中学・高校等で、平和について学び合い、諸行事を行うという法律である。
 同法制定の理由のなかで、「ある優れた日本の思想家は、われわれが今日、生きている時代の挑戦すべきことを、以下のように要約している」として、一九八三年(昭和五十八年)の「SGIの日」記念提言の次の一節を引用し、伸一の名を明記している。
 「二十一世紀は我々の眼前にあります。その輝かしい舞台で活躍する若い世代の前途を、戦火が焼き尽くすようなことがあっては断じてなりません。真に民衆が主役の時代を築くか否かは、すべて国民の手にかかっております。その賢明な進路の選択が、今ほど要請されている時はありません」
 この法律は、八五年(同六十年)八月に発布されている。
 上院議長は語った。
 「『平和とは、戦争がない状態をいうのではない』とのSGI会長の訴えは、人間が人間らしい尊厳をもって生きられる世界をつくろうとのメッセージだと思います。幸い、冷戦は終わりましたが、世界には多くの戦争があります。私は、会長やSGIの活動のなかにこそ、それらを等しく解決するための『基準』と『価値観』があると信じています」
 SGIへの世界の期待は、余りにも大きかった。生命尊厳の仏法を基調とした平和運動が、時代の要請となっていることを、同行した誰もが実感したのである。
 翌十七日には、アルゼンチンの国立ローマス・デ・サモーラ大学から伸一に、「名誉博士号」「法学部名誉教授」の称号が贈られ、その授与式が行われた。また、席上、伸一の同国訪問をブエノスアイレス州の公式行事にすることを宣言した州議会の議決が発表されるとともに、同州の十の市から、「市の鍵」「市の盾」等が贈られたのである。
14  誓願(続)(14)
 二月十八日夜には、第十一回世界青年平和文化祭が、「民族融合の大地に 希望の曲」をテーマに、男女青年部ら千五百人が出演して、ブエノスアイレス市のコリセオ劇場で、はつらつと開催された。
 同市の公式認定行事となった、この文化祭には、ガリ国連事務総長も祝福のメッセージを寄せ、フロンディシ元大統領をはじめ、ブエノスアイレス市長、コルドバ大学、ローマス・デ・サモーラ大学、ラ・マタンサ大学の各総長や各界の代表、そして、中・南米十カ国のSGI代表などが出席した。
 来賓の一人は、感慨無量の表情で語った。
 「アルゼンチンは、ヨーロッパ各国から移住してきた人びとが大多数を占める国です。摩擦もありました。出身国への郷愁も強い。同じアルゼンチン人としての意識も薄れがちです。文化祭のテーマ『民族融合の大地』は、私たちの心からの願いなのです」
 その融合の縮図を、この文化祭に見て、共感、感動したというのである。また、「SGIは、世界市民の創出をめざしている。こうした視点が今、必要だ」との声もあった。
 文化祭は、会場を航空機に見立てて、アルゼンチンという大地から、「世界」「人類」の平和の大空へと旅立つ様子を表現していく。
 ステージでは、フラッグ隊、鼓笛隊、コーラスグループなど、未来っ子の演技が続き、青年たちのエネルギッシュなモダンダンスや、世界三大劇場の一つであるコロン劇場の六人のダンサーによる、優美にして軽やかな踊りが披露された。
 文化祭の圧巻は、アルゼンチンタンゴの大巨匠であるオスバルド・プグリエーセとマリアーノ・モーレスの共演であった。
 出席者は、目を見張り、耳を疑った。まさに“世紀のイベント”であり、“夢の共演”であった。なかでもプグリエーセは、一九八九年(平成元年)十一月の引退公演で、七十年間のタンゴ人生を締めくくり、「もう舞台にあがることはない」と噂されていた。
 伸一は、巨匠の厚情に、深く感謝した。
15  誓願(続)(15)
 世界青年平和文化祭の三日前にあたる十五日のことである。会場のコリセオ劇場に姿を見せたマリアーノ・モーレスは、アルゼンチンのメンバーに語った。
 「文化祭が行われる十八日は、私の誕生日です。でも、お祝いはしません。SGI会長と皆さんのために演奏します」
 モーレスは、最初に文化祭の開催を聞いた時、「それは、すばらしい。私もできる限り応援します」と言って、出演を約束したのだ。
 山本伸一とモーレス夫妻の最初の出会いは、一九八八年(昭和六十三年)四月、民音公演で来日した折であった。モーレスは、将来、曲を作り、SGI会長に贈りたいと語り、伸一は、四年前に亡くなった夫妻の子息を偲び、「富士を望む良き地を選んで、桜を記念植樹させていただきたい」と申し出た。
 その後、モーレスは、伸一に、新曲「アオーラ」(今)を献呈している。
 一方、オスバルド・プグリエーセ夫妻との出会いは、八九年(平成元年)、民音で引退公演を行うために来日した時である。プグリエーセは、伸一のためにタンゴの曲を作りたいと述べ、その約束を果たし、「トーキョー・ルミノーソ」(輝く東京)を作曲して贈った。副題は、伸一の提案によって、「友情の賛歌」となっていた。
 モーレスが劇場に来た翌日、今度は、プグリエーセが楽団を率いて劇場を訪れた。練習のためである。楽器が運び込まれた。彼が愛用してきたグランドピアノもあった。八十七歳の巨匠が、なんと、そのピアノを自分で押そうとしたのだ。南米最高峰のタンゴ王が、わざわざ練習に来るとは思ってもみなかったうえに、自らピアノを動かそうとする姿に、居合わせたメンバーは驚きを隠せなかった。
 二人とも、一人の人間として、伸一との信義に応え、人類の平和を願う青年たちの文化祭に賛同し、惜しみない協力をしてくれたのだ。友情の輪の広がりこそが、人間を結ぶ力となる。
 「平和」とは「友情」の異名といえよう。
16  誓願(続)(16)
 「タンゴの皇帝・プグリエーセ」と「タンゴの王者・モーレス」の“夢の共演”に、青年平和文化祭は沸き返った。
 山本伸一は、一つ一つの演技に大きな感動を覚えながら、励ましと賞讃の拍手を送り続け、文化祭を記念して和歌を贈った。
 「天も地も 喜び祝さむ 文化祭
    アルゼンチンの 諸天は舞いけり」
 翌十九日午後、第一回アルゼンチンSGI総会が、ブエノスアイレス市郊外の会場で開催された。これには全国からメンバー二千五百人が集ったほか、中・南米三カ国、スペインの友も参加した。
 席上、同国最古の大学である国立コルドバ大学から伸一に、「名誉博士号」が贈られた。
 フランシスコ・J・デリッチ総長は、授与の理由に、伸一が、「新たなヒューマニズム(人間主義)」を確立し、広げてきたこと、それによって、「東洋」と「西洋」の融合が可能であると知らしめたことをあげた。
 「私どもは教えていただきました。人類は『文化』『宗教』の違いによる対立を乗り越えられるのだと。そして、異なる地域性や距離・時代の隔たりを超えて、友好を結ぶことができるのだと――この偉大な『平和』と『友愛』の普遍のメッセージは、あらゆる『国境』を越え、人類の無知が人間を制限する『心の国境』をも超えて、人類を一つに結びゆくものであります」
 総会では歓迎のアトラクションもあり、アルゼンチンのフォルクローレ(民謡)などが次々と披露された。ギターをかき鳴らし、足を踏み鳴らし、陽気な歌と舞の輪が広がった。支部結成以来二十九年、待ちに待った伸一との出会いの喜びを皆が全身で表現した。
 伸一は、総会の前後も、役員など、さまざまなグループとカメラに納まり、激励を続けた。この訪問で彼と出会い、励ましを受けた青年たちや少年少女が、二十一世紀の同国のリーダーへと育っていくのである。
 「励まし」は、成長を促す力となる。
17  誓願(続)(17)
 山本伸一の平和旅は続いた。
 一九九三年(平成五年)二月二十日、伸一の広布開拓の舞台は、アルゼンチンからパラグアイへと移った。このパラグアイも初めての訪問である。そこは、大河パラグアイ川をはじめ、幾多の河川が大地と人間を潤す、美しき「森と水の都」であった。
 空港では、首都アスンシオン市の市長から、歓迎の「市の紋章」の盾が贈られた。
 翌二十一日、伸一は、パラグアイ文化会館に七百人の同志が集って行われた、同国の第一回SGI総会、パラグアイ広布三十二周年を記念する「友好の夕べ」に出席。ここでも真っ先に子どもたちを励ました。
 「みんなに会えて嬉しいよ。大きくなったら日本へもいらっしゃい。待っています」
 総会で彼は、草創期を築いた同志の名をあげて、その功労を讃えた。さらに、アマンバイ地区、そして、サンタローサ、エンカルナシオン、イグアス、アスンシオンの各支部名を読み上げ、奮闘をねぎらっていった。
 移住した日系人から始まった広布であり、計り知れない苦労があったにちがいない。
 パラグアイの同志は、決して多いとはいえないが、メンバーは、日本からの移住者をはじめ、皆が勤勉に努力を重ね、社会に深く信頼の根を張り巡らせてきた。
 九〇年(同二年)にアスンシオン市で「世界の少年少女絵画展」(SGI、パラグアイ文部省共催)を開催した折には、アンドレス・ロドリゲス大統領も出席している。
 また、今回の伸一の訪問を歓迎し、郵政局では、彼の滞在期間中、すべての郵便物に「SGI」の消印を押すことを決定した。その決議文には、「SGIは、世界平和の実現、民衆の相互理解の深化、文化の尊重を根本的な目的として活動し、国連のNGOでもあり、価値を創造するための団体である」とあり、「SGI会長の訪問は、国家諸機関及び関係団体が敬意と共鳴を表すべきものである」としていた。
 同志の地道な社会貢献の結実といえよう。
18  誓願(続)(18)
 第一回パラグアイSGI総会の席上、山本伸一は、「諸天は、勇気ある人を守る!」と訴え、一人立つことの大切さを語った。
 「人数ではありません。一人、真剣に立ち上がれば、自分に縁するすべての人びとを、また、環境も栄えさせていくことができる。そのために、真剣に祈り、行動している事実が大事なんです」
 信仰という赫々たる太陽を燃やしながら自分の周囲に、わが地域に、希望と蘇生の大光を送り、友情と励ましの人間共和の連帯を築き上げていく――そこにこそ、広宣流布の確かな軌道があり、世界最先端のSGIの運動の意義もある。
 さらに、一生涯、信心の火を消すことなく信念を貫いていくよう望み、こう強調した。
 「何があろうが一喜一憂するのではなく、『生涯』という視野に立って、悠然と進んでいくことです。また、お子さん方にとっては、今は勉強が仕事です。信心の基本だけは、きちんと学びながら、徹底して『勉学第一』で進むことが、『信心即生活』となります。
 信心の継承といっても、信仰は、子ども自身が選択していく問題です。要は、『大変な時には真剣に唱題すれば、必ず乗り越えられる』ということを、しっかりと示し、教えていくことです。あとは、いたずらに神経質になることなく、伸び伸びと成長させていただきたいのであります」
 「友好の夕べ」では、同志の喜びが爆発した。婦人部の合唱団や少年少女の合唱団が、さわやかな歌声を響かせた。賑やかな調べに乗って、伝統の「ダンサ・デ・ラ・ボテージャ」(ビンの踊り)も披露された。
 さらに、会友である世界的ギタリストのシーラ・ゴドイが、この日のために作曲した「ファンタジア・ハポネス」(日本の夢)の演奏で祝福した。
 また、後継の音楽隊、鼓笛隊は、草創の時代から歌い継がれてきた「パラグアイ本部歌」を誇らかに奏でた。この歌には同志たちの忘れ得ぬ思い出があった――。
19  誓願(続)(19)
 一九七四年(昭和四十九年)、山本伸一は、ブラジルを訪問する予定であった。しかし、学会に対する誤解などがもとでビザが発給されず、結局、ブラジル行きはなくなった。
 この時、パラグアイ音楽隊は、伸一の前で演奏し、パラグアイの同志の心意気を示したいと、ブラジルをめざした。ところが、彼らも入国は許可されなかった。それでも、観光地であるブラジル国境のイグアスの滝までは、バスで入ることができた。
 「よし、ここで演奏しよう! 自分たちの心は、先生に届くはずだ」
 彼らは、大瀑布の轟音と競うかのように、力いっぱい演奏した。
 その十年後の八四年(同五十九年)、伸一は十八年ぶりにブラジルを訪れた。喜びに胸を躍らせて駆けつけたパラグアイのメンバーが、伸一の前で熱唱したのが、この「パラグアイ本部歌」であった。
  梢をわたる 風の音
  コロラドの森 越えゆけば
  流れる汗か 同志の顔
  コロニア(入植地)の道 果てしなし(作詞・山本邦男)
 歌を聴き終わった伸一は言った。
 「いい歌だ! 決意が伝わってきます。
 今度は、パラグアイにも行くからね」
 以来九年、遂に、念願が叶い、この日を迎えたのだ。
 「友好の夕べ」で伸一は、音楽隊、鼓笛隊の演奏に大きな拍手で応えながら言った。
 「ありがとう! 生命が共鳴しました。
 二十一世紀には、青年の皆さんが、草創の同志の後を継いで、使命の空へ、大きく羽ばたいてください。また、皆が私を超えていってください。その時、広宣流布の流れは、全世界を潤す、滔々たる大河となるでしょう」
 二十二日、伸一は大統領府にロドリゲス大統領を表敬訪問した。その折、長編詩「民衆の大河の流れ」を贈っている。
20  誓願(続)(20)
 山本伸一は、大統領との会見に続いて、パラグアイの外務省を訪れた。同国の「国家功労大十字勲章」の授章式に出席するためである。授章式であいさつに立った外相は、伸一の平和行動に言及し、こう語った。
 「誠実な『対話』を通してのみ、差別をなくし、地球規模での恒久平和と相互理解が得られるとの信条による、会長の平和への戦いは、人類の規範です」
 さらに、この二十二日には、パラグアイ国立アスンシオン大学から伸一に、哲学部名誉博士号が贈られ、その授与式に出席した。
 そして、二十三日夕、彼は、次の訪問地のチリへと向かったのである。
 「天も地も 川の流れも 仏土かと
    地涌の菩薩の 君たち忘れじ」
 彼がパラグアイの友に贈った和歌である。
 パラグアイを発った搭乗機は、アンデス上空を飛行していった。眼下に広がる山々の残雪が、夕映えのなかで、黄金に輝いていた。
 チリは、伸一にとって、ちょうど五十カ国目の訪問国となる。思えば、どの国も、一つ、また一つと、全精魂を注いで歴史の扉を開く、真剣勝負の広布旅であった。
 戸田城聖は、第二代会長に就任した翌一九五二年(昭和二十七年)の正月、「いざ往かん 月氏の果まで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」と詠んだ。また、生涯の幕を閉じる十日ほど前、伸一を枕元に呼び、メキシコに行った夢を見たと語った。
 「待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。行きたいな、世界へ。広宣流布の旅に……」――そして、命を振り絞るようにして言うのであった。
 「君の本当の舞台は世界だよ」「うんと生きるんだぞ。そして、世界に征くんだ」
 戸田の心は、全世界の民衆の幸福にあり、世界広布にあった。しかし、恩師は、一度も海外に出ることはなかった。伸一は、戸田の言葉を遺言として生命に刻み、師に代わって世界を回り、「太陽の仏法」を伝えてきた。
21  誓願(続)(21)
 山本伸一は、恩師・戸田城聖の逝去から二年余がたった一九六〇年(昭和三十五年)五月三日、第三代会長に就任すると、その五カ月後の十月二日には、世界平和の旅へ出発した。
 第一歩を印したハワイでは、連絡の手違いから、迎えに来るべきメンバーも来ていなかった。旅先で著しく体調を崩し、高熱に苦しんだこともあった。学会への誤解から、政治警察の監視のなかで、同志の激励を続けた国もあった。
 北・中・南米へ、アジアへ、ヨーロッパへ、中東へ、アフリカへ、オセアニアへと、人びとの幸福を願って駆け巡ってきた。
 社会主義の国々へも、何度となく足を運び、友誼と文化の橋を架けた。
 日蓮大聖人の御遺命である「一閻浮提広宣流布」を実現するために、命を懸ける思いで世界を回り、妙法という平和と幸福の種子を蒔き続けてきた。恩師の戸田と心で対話しながらの師弟旅であった。
 その海外訪問も、このチリの地で、いよいよ五十番目となるのだ。
 彼の脳裏に和歌が浮かんだ。
 「荘厳な 金色に包まれ 白雪の
    アンデス越えたり 我は勝ちたり」
 やがて、山並みの上に、三日月が光を放ち、大明星天(金星)が美しく輝き、星々が瞬き始めた。伸一には、それが諸天の祝福であるかのように感じられた。
 チリに到着した翌日の二十四日、彼は、首都サンティアゴ市の市庁舎で、名誉市民称号にあたる「輝ける賓客章」を受けた。
 その授章決議書には、伸一の訪問は、「チリと日本の『人間相互の理解』を一層深め、さらには人間の基本的な価値観を共有する『友情の絆』を確固たるものにしていく『特別な機会』である」と述べられていた。
 その後、伸一は、サンティアゴのチリ文化会館を訪問し、第一回チリSGI総会に出席した。皆の喜びが弾けた。経済の混乱、軍事政権による人権侵害など、長い冬の時代を越え、今、希望の春の到来を感じていたのだ。
22  誓願(続)(22)
 チリの首都サンティアゴでは、一九七三年(昭和四十八年)、軍事クーデターが勃発した。上空には戦闘機が飛び交い、街には戦車や武装兵があふれた。メンバーの中心者夫妻の家も、戦いに巻き込まれ、機銃掃射を浴びた。二階は銃弾で蜂の巣のようになったが、夫妻は一階の仏間にいて、無事だった。
 二人は、戒厳令下の街へ飛び出し、同志の安否を気遣い、一軒一軒、訪ねて歩く日々が続いた。集会は禁じられていた。訪問した家々で、“家族座談会”を開いて歩いた。
 その後も、会合の開催には、国防省の許可が必要であり、場所も会館一カ所だけに限られた。しかし、同志は皆、意気軒昂であった。会合の内容を視察に来た警察官にも、SGIの平和運動のすばらしさを訴えた。
 チリの同志は、頬を紅潮させて、当時の様子を山本伸一に報告した。
 「牧口先生も、戸田先生も、戦時中、日本にあって、特高警察の監視のなかで、勇んで広布に戦われてきた。また、山本先生は、私たちに、折々に心温まる励ましを送り、勇気をくださった。先生は、すべてご存じなんだと思うと、力が湧きました」
 師を胸に抱いて同志は走った。いつも心に師がいた。ゆえに負けなかった。各支部や地区で自由に会合が開けるようになったのは、民主政権が実現した三年ほど前からである。
 そのなかで、同志たちは、伸一のチリ訪問を願い、祈って、活動に励み、一日千秋の思いで待ち続けたのである。
 政情不安が続くなか、南北約四千二百キロという広大な国土で、知恵を絞り、工夫を重ね、スクラムを組んで前進してきた同志の苦闘に、伸一は、胸が熱くなるのを覚えた。
 地涌の菩薩は、日本から最も遠い国の一つであるチリにも、陸続と出現していたのだ。
 チリ文化会館で伸一は、未来部の子どもたちにも声をかけた。
 「出迎えありがとう。日本から来ました。日本は、海をはさんでチリのお隣の国だよ」
 子らは夢の翼を広げ、目を輝かせた。
23  誓願(続)(23)
 第一回チリSGI総会のスピーチで山本伸一は、チリの各地で活動に励む同志の労苦を思いながら、「逆境に負けずに頑張り抜いてこられた皆様には、アンデスの山並みのごとく、限りなく功徳が積まれていくことは絶対に間違いない」と賞讃した。
 伸一は、さらに、このチリで、海外訪問は五十カ国・地域となったことを伝えた。
 三十三年前、富士の高嶺を仰ぎつつ、世界平和への旅を開始して以来、五大州を駆け巡ってきた。そして、日本とは地球のほぼ反対側にあり、“南米の富士”(オソルノ山)がそびえるチリを訪れたのである。
 伸一は、烈々たる気迫で呼びかけた。
 「戸田先生は、さぞかし喜んでくださっているにちがいない。しかし、いよいよ、これからが本番です。常に皆様を胸中に描き、日々、共に行動している思いで、全世界を、楽しく朗らかに、駆け巡ってまいりたい!」
 さらに、「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」の御文を拝し、賢明な振る舞いの大切さを強調。広宣流布を展望し、広く開かれた心で、メンバーではない方々にも、よく気を配り、互いに尊敬し合い、友情を大切にしながら、仲良く交流を深めていくのが、私どもの信仰であると語った。
 「信心即生活」であり、「仏法即社会」である。その教えが示すように、仏法は開かれた宗教であり、決して、学会と社会との間に壁などつくってはならないことを、伸一は訴えておきたかったのである。
 そして、結びに、「一人も残らず、大満足、大勝利、大福運の人生を!」と呼びかけた。
 総会に続いて行われた「創価家族の集い」では、子どもたちが、大きな石像遺物モアイのあるイースター島の踊り「サウサウ」を披露すれば、鼓笛隊が「春が来た」を演奏。また、男女青年部は、民族舞踊「クエカ」を力の限り踊った。
 チリにあっても、広布の開拓者である父や母の心を受け継ぎ、若き世代がたくましく育っていた。希望があり、輝く未来があった。
24  誓願(続)(24)
 「創価家族の集い」では、「シ・バス・パラ・チレ」(もしもチリへ行くのなら)を大合唱した。山本伸一も一緒に手拍子を打った。
  この地の人びとは皆
  旅人よ あなたを迎えてくれます
  チリでは ほかの地から来た人が
  どれほど好きか
  あなたは おわかりになるでしょう
 メンバーは、喜びを満面にたたえ、「世界広布模範」の前進を誓い、熱唱した。
 この日、チリの新しき原点が創られた。
 二十五日正午、伸一は、大統領府(モネダ宮殿)に、パトリシオ・エイルウィン・アソカル大統領を表敬訪問した。大統領とは、前年十一月の来日の折に会見していた。
 その時、民衆に奉仕するリーダー像、劇的なチリ民主化、環太平洋時代を開く両国の文化交流などをめぐって語らいが弾み、十五分とされていた会見時間は、約四十五分になった。
 別れ際、大統領は言った。
 「決してこれが、最初で最後の出会いにならないことを望みます。この次は、ぜひ、わが国で、大統領府でお願いしたい」
 その時の約束が実現したのである。
 大統領は、東京での会見のあと、伸一とトインビー博士との対談集『生への選択』(日本語版『二十一世紀への対話』)を、すべて読了したことを告げ、再会を喜んでくれた。
 語らいでは、文化の力、環境問題などが話題となった。また、伸一は、桂冠詩人として、大統領に長編詩「アンデスの民主の偉容」を贈った。そこには、こうあった。
 「武力に勝る『道理』の力!
  剣の力にも勝る『精神』の力!
  心なき悪しき力は
  たとえ猛威を奮おうと
  所詮 それは一時の幻の勝利
  『道理』の力 『精神』の力こそが
  やがては 納得と歓喜のうちに
  民衆の大地を 広く潤す」
25  誓願(続)(25)
 エイルウィン大統領は任期を終えて四カ月後の一九九四年(平成六年)七月、夫妻で日本を訪問し、その折には、創価大学で記念講演を行った。山本伸一とは、通算、三回にわたって会談し、これらの語らいなどをもとに、九七年(同九年)十月、対談集『太平洋の旭日』が発刊されたのである。この年は、「日本・チリ修好通商航海条約」が締結されてから、百周年の佳節にあたっていた。
 二月二十五日夜、伸一は、チリから、ブラジルのサンパウロに到着した。
 滞在中、ブラジルSGI自然文化センターに、世界三十二カ国・地域の代表が集った、第十六回SGI総会に出席した。
 総会では、学会員こそ「前人未到の一閻浮提広宣流布の開拓者である」「大聖人直結の誇りを永遠に胸中に燃やしてまいりたい」と呼びかけた。そして、一人ひとりが人間として最大に輝き、その人間の光で家庭を、地域を、社会を照らし、人間と人間の友情を幾重にも結び広げていくSGIの人間主義の大道を、にぎやかに愉快に進もうと訴えた。
 さらに、三月八日にはアメリカのマイアミへ移動し、ここでは研修会等に出席。その後、サンフランシスコで、科学者のライナス・ポーリング博士と四度目の会談を行ったほか、メンバーとの懇談・指導を続け、三月二十一日に帰国したのである。
 伸一は、五月には、フィリピン、香港を訪問。九月から十月には、アメリカ、カナダを回り、アメリカではハーバード大学に招かれ、「二十一世紀文明と大乗仏教」と題して、同大学で二度目の講演を行っている。
 翌九四年(同六年)は、一月から二月にかけて、香港、中国の深、タイへ。五月半ばからは、三十数日をかけて、ロシア、ヨーロッパを歴訪した。一日一日が、一瞬一瞬が、世界広布の基盤を創り上げる建設作業であった。
 動くべき時に動かず、やるべき時にやらねば、未来永劫に悔いを残す。伸一にとっては、“今”が“すべて”であった。
26  誓願(続)(26)
 「栄光・躍進の年」と定めた一九九五年(平成七年)の元日、山本伸一は、創価学会本部での新年勤行会でスタートを切った。
 一月十五日「成人の日」、伸一は婦人部と新宿区の代表との協議会を開き、二十一世紀を担うリーダー像について語った。
 「これから求められるリーダーの要件とは何か。それは、一言すれば、『誠実』に尽きます。決して威張らず、友に尽くしていくことです。正直さ、優しさ、責任感、信念、庶民性――そうした『人間性』を、皆は求めている。ゆえに、自分を飾る必要はない。自分らしく、信心を根本に、人間として成長していくことが大事なんです」
 伸一は、未来のために、平易な言葉で、リーダーの在り方を語り残しておきたかった。
 「仏法は、人を救うためにある。人を救うのは観念論ではなく、具体的な『知恵』であり、『行動』です。私どもの立場でいえば、以信代慧であり、信心によって仏の智慧が得られる。したがって、何ごとも『まず祈る』ことです。また、結果が出るまで『祈り続ける』ことです。『行動を続ける』ことです。
 釈尊も、日蓮大聖人も『行動の人』であられた。私どもも、そうでありたい」
  
 その二日後の未明、十七日午前五時四十六分ごろ、近畿地方を大地震が襲った。高速道路やビル、家屋の倒壊、火災等の被害は、神戸、淡路島など、兵庫県南部を中心に、大阪、京都にまで広がり、死者約六千四百人、負傷者約四万四千人という大災害となった。阪神・淡路大震災である。
 伸一は、その報に接するや、即座に総力をあげて救援活動を進めるよう手を打った。
 彼は、ハワイにある環太平洋地域を代表する学術機関の「東西センター」を訪問し、講演することになっていたが、出発を延期し、できることはすべてやろうと対応に努めた。
 直ちに、学会本部と関西に災害対策本部が設置された。伸一は、最高幹部と協議を重ね、対策会議にも出席した。
27  誓願(続)(27)
 阪神・淡路大震災の被災地では、各会館が一時的な緊急避難所となり、また、生活物資供給のための救援センターとなった。
 高速道路は倒壊し、建物の崩壊などから一般道の寸断も多く、どこも、どの道も、大渋滞していた。直ちにバイク隊が編成され、瓦礫の残る道を走り、救援物資が被災各地に届けられていった。
 山本伸一は、愛する家族や、住み慣れた家、職場を失った人たちのことを思うと、身を切られるように辛かった。自ら、すぐに被災地に飛び、皆を励ましたかったが、「東西センター」での講演の日が迫っていた。彼は、被災地へ向かう、会長の秋月英介や婦人部長、青年部長らに言った。
 「私に代わって、全生命を注ぐ思いで、皆さんを励ましてほしい。信心をしていたご家族を亡くされた人もいるでしょう。そうした方々には、こう伝えてください。
 ――すべては壊れても、生命に積んだ福徳は、永遠に壊されることはありません。一遍でも題目を唱えたならば、成仏できるのが大聖人の仏法です。亡くなられた同志は、今世で宿命を転換し、来世も御本尊のもとに生まれ、幸せになれることは間違いありません。
 また、『変毒為薬』とあるように、信心によって、毒を変じて薬にすることができる。大聖人は『大悪をこれば大善きたる』と仰せです。
 今は、どんなに苦しくとも、必ず幸せになれることを確信してください。いや、必ずなってください。強い心で、強い生命で、見事に再起されるよう祈り待っています」
 秋月らは、二十四日には、被災地を訪れ、激励に回っている。伸一は、その翌日の夜、日本を発ち、ハワイのホノルルへ向かった。
 二十六日に、ハワイ大学マノア校を訪問したあと、同大学に隣接する「東西センター」を訪れた。
 ここで、国連創設五十周年を記念し、「平和と人間のための安全保障」と題して講演したのである。
28  誓願(続)(28)
 記念講演で山本伸一は提起した。
 ――これまで安全保障といえば、機構、制度の問題として論じられがちであった。しかし、社会及び国家の外的条件を整えることのみに走り、人間自身の変革という根本の一点を避けてしまえば、平和への努力のはずが、かえって逆効果になってしまう場合さえあるというのが、二十世紀の教訓ではないか――と。
 そして、人間革命から社会の変革を志向すべきであるとし、そのためにも、「知識から智慧へ」「一様性から多様性へ」「国家主権から人間主権へ」、人類的な発想の転換が不可欠であることを訴えたのである。
 この会場で伸一は、ハーバード大学のジョン・モンゴメリー博士、ハワイ大学名誉教授のグレン・ペイジ博士、平和学の創始者ヨハン・ガルトゥング博士らと再会している。
 ハワイで彼は、国連創設五十周年を記念する第十三回世界青年平和文化祭や、SGI環太平洋文化・平和会議などに臨み、二月二日に、その足で関西入りした。
 関西では、阪神・淡路大震災の東京・関西合同対策会議や追善勤行法要等に出席し、激励に全力を尽くした。法要で伸一は訴えた。
 「関西の一日も早い復興を祈っています。全世界が、皆様の行動を見守っています。『世界の模範』の関西として、勇んで立っていただきたい。亡くなられた方々も、すぐに常勝の陣列に戻ってこられる。
 御書には『滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて』と仰せです。最高の寂光世界(仏界)への往生を遂げ、死後も、すぐに九界のこの世界へと生まれてこられる。そして、また広宣流布に活躍されるんです。
 私どもは、亡くなられた方々の分まで、明るく、希望をもって、高らかに妙法を唱えながら進んでまいりたい。それが即、生死不二で、兵庫の国土に、関西の大地に、今再びの大福運の威光勢力を増していくからです。
 被災地のすべての方々に、くれぐれも、またくれぐれも、よろしくお伝えください」
29  誓願(続)(29)
 山本伸一は、一九九五年(平成七年)十月末からアジア四カ国・地域を訪れ、この折、「釈尊生誕の国」ネパールを初訪問した。五十一カ国・地域目となる平和旅である。
 ネパールでは、十一月一日、カトマンズ市の王宮に、ビレンドラ国王を表敬訪問した。二日には、国際会議場で行われた、国立トリブバン大学の卒業生への学位授与式に主賓として出席し、「人間主義の最高峰を仰ぎて――現代に生きる釈尊」と題して記念講演した。
 そこでは、“人類の教師”釈尊が残した精神遺産を「智慧の大光」「慈悲の大海」の二つの角度から考察し、自他共の幸福を願う人間主義の連帯こそが、それぞれの国の繁栄を築き、人類全体の栄光を開く光源になると主張。そして、次代を担う使命深き学生たちに、大鵬のごとく、智慧と慈悲の翼を広げ、「平和と生命尊厳の二十一世紀」へ飛翔してほしいと訴えた。
 三日、伸一自身も同大学で、教育大臣(総長代行)から名誉文学博士の称号を受けた。
 ネパールは美しき詩心の大国である。国の豊かさは人びとの「心」の光で決まる――伸一は謝辞で強調した。
 この日、彼は、ネパールの友に案内され、カトマンズ市郊外の丘に車で向かった。「世界に冠たるヒマラヤの姿を、ぜひ、見てほしい」との友の思いに応えたかったのである。
 夕暮れが迫り始め、ヒマラヤは、乳白色の雲に覆われていた。しかし、伸一たちが到着した時、雲が割れ、束の間、ベールを脱いだように、雪を頂いた峨々たる山並みが姿を現した。夕日に映えて、空は淡いバラ色に染まり、山々は雄々しく、そして神々しいまでの気高さにあふれていた。
 伸一は、夢中でシャッターを切った。
 ほどなく、ヒマラヤの連山は、薄墨の暮色に包まれ、空には大きな銀の月が浮かんだ。
 彼を遠巻きにするように、二十人ほどの少年少女が物珍しそうに見ていた。伸一が手招きすると、はにかみながら近付いてきた。子どもたちの瞳は宝石のように輝いていた。
30  誓願(続)(30)
 山本伸一は、子どもたちに言った。
 「私たちは仏教徒です。ここは仏陀が生まれた国です。仏陀は、偉大なヒマラヤを見て育ちました。あの山々のような人間になろうと頑張ったんです。堂々とそびえる勝利の人へと、自分をつくり上げました。皆さんも同じです。すごいところに住んでいるんです。必ず偉大な人になれます。
 みんな、利口そうな、いい顔をしているね。大きくなったら、日本へいらっしゃい」
 彼は、この一瞬の出会いを大切にしたかった。心から励まし、小さな胸に、希望の春風を送りたかったのである。
 翌四日、伸一は、カトマンズ市内でのネパールSGIの第一回総会に臨み、集った百数十人の友と記念のカメラに納まった。そして「どこまでも仲良く進んでください。一人ひとりが良き市民、良き国民として、『輝く存在』になってください」と激励した。メンバーの大多数は、青年であった。まさに、ヒマラヤにいだかれるように、未来に伸びる希望の若木が育っていたのだ。
 ネパールに続いてシンガポールを訪れた彼は、第三回アジア文化教育会議に臨み、シンガポール創価幼稚園を初訪問した。さらに、建国三十周年を祝賀する第一回青年友好芸術祭に出席し、十日夕、香港に到着した。
 イギリス領の香港は、一九九七年(平成九年)に中国へ返還されることになっていた。返還は、八二年(昭和五十七年)の中国共産党中央顧問委員会の鄧小平主任とイギリスのサッチャー首相との会談で、現実味を帯び始めていった。
 資本主義の社会で暮らしてきた人びとにとっては、社会主義の中国のもとでの生活は想像しがたいものであり、不安を覚える人たちもいた。一時期、香港ドルが急落し、市場が混乱に陥ったこともあった。
 “こういう時だからこそ、香港へ行こう! 皆と会って激励しよう!”
 伸一は、そう決めて、八三年(同五十八年)十二月に香港を訪れている。
31  誓願(続)(31)
 山本伸一は一九八三年(昭和五十八年)の香港訪問で、メンバーに力強く呼びかけた。
 「皆さんのなかには『九七年問題』で、“香港はどうなるのかな”と、心配されている方もおられるかもしれない。しかし、私は、全く心配はないと訴えておきたい。堂々と、この愛する香港の地で、自由にして平和、文化、そして国際的発展に薫るこの香港の大地で、妙法に照らされ、守られながら、尊い一生を送っていただきたい」
 「返還の『九七年』以後も、これまでの何倍も賑やかに、何倍も楽しく交流しよう。未来永遠、一緒に勝利の歴史をつくろう!」
 彼は、これまで多くの香港の有識者、またSGIメンバーと語り合ってきたなかで、香港の大発展をもたらしてきたのは、底知れない「人間の活力」であり、人びとに脈打つ「希望の力」であると実感していたのである。
 これまでの「何倍も楽しく」との言葉に、香港の同志は、勇気を得た。
 八四年(同五十九年)十二月、中国とイギリスは中英共同宣言を発表し、九七年(平成九年)七月に香港は中国に返還され、中国の特別行政区になり、返還後五十年は、社会主義政策は実施しないことが示された。資本主義は維持され、一国二制度となるのである。それでも、不安が拭い切れずに、カナダ、オーストラリアなどに何十万もの人たちが移住していくことになる。
 伸一は、香港の未来を思いつつ、中国の要人たちと会談し、歴代の香港総督などとも交流を重ねてきた。
 そして、今回の九五年(同七年)十一月の香港訪問では、著名な作家で、日刊紙「明報」を創刊し、「良識の灯台」として長年、世論をリードしてきた金庸と会談した。彼は、返還後の香港の社会体制を決める「香港基本法」の起草委員会の委員も務めていた。
 二人は、「香港の明日」「文学と人生」をはじめ、幅広いテーマで五回の語らいを重ね、九八年(同十年)、対談集『旭日の世紀を求めて』(日本語版)が発刊されている。
32  誓願(続)(32)
 香港が中国に返還される五カ月前には、山本伸一は金庸に、「返還後も香港は栄え続けるでしょう」と述べ、これからは、経済だけでなく、「心の充足」も焦点になると語った。
 すると、金庸は、強く訴えた。
 「香港SGIをはじめ、SGIの方々には、ぜひ『精神の価値』『正しい価値観』を多くの人たちに示していただきたいのです」
 香港の民衆の幸福と繁栄――二人の心は、この一点にあった。
 伸一が、メンバーに訴え続けたのは、いずこの地であろうが、不屈の信心ある限り、“幸福の宝土”と輝くということであった。
 日蓮大聖人は、「其の人の所住の処は常寂光土なり」と仰せである。
 ――一九九七年(平成九年)七月一日、イギリスの統治下にあった香港は、中国に返還され、歴史的な式典が行われた。
 その祝賀式典のアトラクションには、香港SGIの「金鷹体操隊」も若さあふれる演技を披露した。また、同日夜の記念音楽会には香港SGIの各部の合唱団が出演した。
 伸一は、旧知の江沢民国家主席と香港特別行政区の董建華行政長官に祝電を送った。香港のメンバーは、返還後の香港を「平和と繁栄の港」にとの決意を固め合い、二十一世紀という「第三の千年」へ飛翔していくのだ。
 伸一は、九五年(同七年)十一月の香港滞在中、マカオを訪れ、マカオ大学で名誉社会科学博士号を受けたほか、マカオ市政庁を表敬訪問した。ポルトガル領であるマカオも、九九年(同十一年)、中国に返還されるが、マカオのメンバーも香港の友に続き、希望のスタートを切っていくことになる。
 九五年(同七年)十一月十七日、アジア訪問から帰国した山本伸一は、そのまま中部・関西指導に入った。そして二十三日、関西文化会館で、全国青年部大会、関西総会を兼ねた本部幹部会が開催された。
 その席上、SGI理事長の十和田光一から、「SGI憲章」が発表された。
33  誓願(続)(33)
 SGIは、一九七五年(昭和五十年)一月二十六日、太平洋のグアムで行われた第一回世界平和会議で誕生し、以来、仏法の生命尊厳の思想を弘め、「世界の平和」と「人類の幸福」に寄与するための運動を展開してきた。そのなかで各国・地域のSGIは、地域、社会で信頼を広げ、大きな期待を担うまでになっていた。
 そこで結成二十周年の節目にあたり、「SGIは何をめざして進むのか」という理念と行動の規範を明文化しようと、この九五年(平成七年)、SGI常任理事会・理事会で、SGI憲章制定準備委員会が発足した。そして、十月十七日のSGI総会で「SGI決議」が採択され、それに基づいて、準備委員会で検討を重ね、各国の賛同を得て、憲章が制定されたのである。
 「SGI憲章」は、仏法を基調に平和・文化・教育に貢献することをはじめ、基本的人権や信教の自由の尊重、社会の繁栄への貢献、文化交流の推進、自然・環境保護、人格陶冶などが謳われ、十項目からなっていた。
 この七つ目には、「仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく」とある。
 「世界の平和」と「人類の幸福」を実現するために大切なことは、人類は運命共同体であるとの認識に立ち、共に皆が手を携えて進んでいくことである。これを阻む最大の要因となるのが、宗教にせよ、国家、民族にせよ、独善性、排他性に陥ってしまうことだ。人類の共存のためには、“人間”という原点に立ち返り、あらゆる差異を超えて、互いに助け合っていかねばならない。
 創価学会は、阪神・淡路大震災でも、被災者の救援・支援活動に、総力をあげて取り組み、各国のSGIからも、さまざまなかたちで支援があった。それに対して、被災者をはじめ、多くの人びとから感謝の声が寄せられた。また、SGIは他の宗教団体などとも協力し、核廃絶の運動を推進してきた。
34  誓願(続)(34)
 人道的活動のために、宗派や教団の枠を超えて、協力していくことは、人類の幸福を願う宗教者の社会的使命のうえからも、人間としても、必要不可欠な行動といってよい。
 そして、共に力を合わせて、課題に取り組んでいくには、互いの人格に敬意を払い、その人の信条や文化的背景を尊重していくことである。
 本来、各宗教の創始者たちの願いは、人びとの平和と幸福を実現し、苦悩を解決せんとするところにあったといえよう。その心に敬意を表していくのである。
 よく日蓮大聖人に対して、「四箇の格言」などをもって、排他的、独善的であるとする見方がある。しかし、大聖人は、他宗の拠り所とする経典そのものを、否定していたわけではない。御書を拝しても、諸経を引いて、人間の在り方などを説かれている。
 法華経は、「万人成仏」の教えであり、生命の実相を説き明かした、円満具足の「諸経の王」たる経典である。それに対して、他の経典は、一切衆生の成仏の法ではない。生命の全体像を説くにはいたらず、部分観にとどまっている。その諸経を絶対化して法華経を否定し、排斥する本末転倒を明らかにするために、大聖人は、明快な言葉で誤りをえぐり出していったのだ。
 そして、釈尊の本意にかなった教えは何かを明らかにするために、諸宗に、対話、問答を求めたのである。それは、ひとえに民衆救済のためであった。それに対して、幕府と癒着していた諸宗の僧らは、話し合いを拒否し、讒言をもって権力者を動かし、大聖人に迫害を加え、命をも奪おうとしたのである。
 それでも大聖人は、「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」と、自身に大弾圧を加えた国主や僧らを、最初に成仏に導いてあげたいと言われている。そこには、慈悲と寛容にあふれた仏法者の生き方が示されている。
 人びとを救おうとする、この心こそが、私たちの行動の大前提なのである。
35  誓願(続)(35)
 自身の信ずる宗教に確信と誇りをもち、その教えを人びとに語ることは、宗教者として当然の生き方である。しかし、そこには、異なる考え、意見に耳を傾け、学び、より良きものをめざしていこうとする謙虚さと向上心がなければなるまい。また、宗教のために、人間同士が憎悪をつのらせ、争うようなことがあってはならない。
 現代における宗教者の最大の使命と責任は、「悲惨な戦争のない世界」を築く誓いを固め、人類の平和と幸福の実現という共通の根本目的に立ち、人間と人間を結んでいくことである。そして、その目的のために、各宗教は力を合わせるとともに、初代会長・牧口常三郎が語っているように、「人道的競争」をもって切磋琢磨していくべきであろう。
 SGIは、この「SGI憲章」によって、人類の平和実現への使命を明らかにし、人間主義の世界宗教へと、さらに大きく飛躍していったのである。
 翌一九九六年(平成八年)も、山本伸一の平和旅は続いた。三月に香港を訪問し、五月末から七月上旬には、北・中米を訪れた。
 その折、アメリカでは、六月八日にコロラド州のデンバー大学から、名誉教育学博士号を授与されている。
 十三日には、ニューヨークのコロンビア大学ティーチャーズ・カレッジで、「世界市民」教育をテーマに講演し、訴えた。
 ――世界市民とは、生命の平等を知る「智慧の人」、差異を尊重できる「勇気の人」、人びとと同苦できる「慈悲の人」と考えられ、仏法で説かれる「菩薩」が、その一つのモデルを提示している。教育は「自他共に益する」菩薩の営みである。
 翌日は、ニューヨークの国連本部を訪れ、明石康国連事務次長をはじめ、各国の国連大使らとの昼食会に出席して意見交換した。
 伸一は、二十四日からキューバ文化省の招聘で、同国を訪問することになっていた。彼は果敢に行動した。行動こそが時代を開く。
36  誓願(続)(36)
 キューバは、この一九九六年(平成八年)ごろ、経済的にも、政治的にも、厳しい試練の渦中にあった。東西冷戦が終わり、ソ連・東欧の社会主義政権が崩壊したことによって、社会主義国キューバは、ソ連という強力な後ろ盾を失い、孤立を深めていた。さらに、この年の二月、キューバ軍によるアメリカの民間機撃墜事件が起こり、それを契機に、アメリカでは同国への経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)が成立するなど、緊張した状況が続いていたのである。
 “だからこそ、世界の平和を願う一人として、キューバへ行かねばならない。そこに、人間がいるのだから……。この国とも、教育、文化の次元で、交流の道を開こう!”
 キューバ行きを一週間後に控えた十七日、山本伸一は元米国務長官のヘンリー・A・キッシンジャー博士と、ニューヨーク市内で再会し、旧交を温めた。博士は、アメリカとキューバの関係改善について、自らの思いを語った。伸一は訴えた。
 「一時の風評や利害ではなく、未来のための断固とした信念と先見で行動し、二十一世紀に平和の橋を架設すべきであるというのが私の信条です」
 二人は、率直に話し合った。
 伸一は、キューバへ向かうために、ニューヨークからマイアミへ移動し、フロリダ自然文化センターを初訪問。世界五十二カ国・地域の代表が集っての第二十一回SGI総会に出席した。
 二十四日午後、彼は、カリブ海の七百の島々からなるバハマを初訪問した。このころ、アメリカからキューバへの直行便はなく、第三国を経由しなければ出入国はできなかった。バハマは、伸一にとって、海外訪問五十二カ国・地域目となった。この国でも、男女二人のメンバーが彼を待っていた。
 四時間余りの滞在であったが、この二人を全力で励まし、記念に一文を認め、贈った。
 「ここにも SGI ありにけり
        バハマ創価学会 万才」
37  誓願(続)(37)
 山本伸一たちは、バハマからキューバが差し向けたソ連製の飛行機で首都ハバナのホセ・マルティ国際空港へ向かった。
 二十四日の午後五時半過ぎ、空港に到着すると、文化大臣夫妻をはじめ、多くの政府要人が出迎えてくれた。
 伸一は、心からの謝意を述べ、「民間人であるが、『勇気』と『行動』で、人びとや国と国の“分断”を“結合”に変えていきたい。二十一世紀のために、全力で平和の道を開きたい」と、語った。
 キューバでの滞在は二泊三日であるが、彼は、多くの人びとと友誼を結ぼうと深く心に誓っていた。一つ一つの行事に、一人ひとりとの出会いに、全精魂を注ぐ思いで臨んだ。
 二十五日の午後四時、国立ハバナ大学を訪問した。ここで、伸一の文化交流への貢献を讃えて、ハルト文化大臣から国家勲章「フェリックス・バレラ最高勲章」が贈られた。
 叙勲式で文化大臣は、「会長は『平和の不屈の行動者』であり、叙勲は『平和を願う民衆の連帯』の表れである」と述べた。
 次いで、ハバナ大学からの「名誉文学博士号」の授与式が行われ、引き続き伸一が、「新世紀へ 大いなる精神の架橋を」と題して記念講演をすることになっていた。
 式典の途中から、晴れていた空が、にわかに曇り、沛然たる豪雨となった。会場の講堂の窓に稲妻が走り、雷鳴が轟く。酷暑のキューバで、雨は涼をもたらす恵みである。しかし、あまりにも激しい突然の雷雨であった。
 伸一はマイクに向かい、こう話し始めた。
 「雷鳴――なんとすばらしき天の音楽でありましょう。『平和の勝利』への人類の大行進を、天が祝福してくれている『ドラムの響き』です。『大交響楽』です。
 また、なんとすばらしき雨でありましょう。苦難に負けてはならない、苦難の嵐の中を堂々と進めと、天がわれらに教えてくれているようではありませんか!」
 大拍手が起こり、皆の顔に笑みが浮かぶ。
 深い心の共鳴が場内に広がった。
38  誓願(続)(38)
 講演で、山本伸一は、「二十一世紀に始まる新しい千年には、『人間の尊厳』を基盤とした“希望”と“調和”の文明を、断固として築いてまいりたい」と、思いを披瀝した。
 そして、そのために、三つの「架橋」、すなわち結び合う道を示した。その第一が、人間と社会と宇宙を結ぶ詩心の薫発による「生の全体性」の回復。第二が、他者の苦悩に同苦しつつ、「人間」と「人間」を結ぶこと。第三が、教育に力を注ぎ、未来へ希望の橋を架けることであった。
 この夜、伸一は、フィデル・カストロ国家評議会議長と、革命宮殿で約一時間半にわたって会見した。軍服姿で知られる議長だが、スーツにネクタイを締めて、笑顔で迎えてくれた。平和と友好の意志を感じた。
 話題は、後継者論、人材育成論、政治・人生哲学、世界観など多岐にわたった。だが、一貫して、「対話」と「文化」の力が二十一世紀の平和にとって、極めて大きな要素となることを確認する語らいとなった。
 伸一は、キューバも世界も、未来は「教育」にかかっていると力説した。また、SGIの運動は、どこまでも平和を基調とし、体制を超えた、「人間」を根本とした国際的運動であることを述べ、それは「すべての人間は平等に尊厳である」とする仏教思想の必然の帰結であり、その具体的な表現であると訴えた。
 一方、カストロ議長は、一行を心から歓迎し、相互理解を図るために、キューバと日本の交流を積極的に行いたいと明言した。
 会見のあと、カストロ議長に創価大学から名誉博士号が授与された。謝辞に立った議長は、「今回のSGIの皆さまのキューバ訪問は、平和に貢献する人間主義を主張するうえで、重要なことと思っています」と強調。また、日本は、資源も少なく、土地も狭いうえに、地震や台風などもあるなか、国を発展させてきたと評価し、こう話を結んだ。
 「日本の方々は、『人間に不可能はない』との実証を世界に示された!」
 伸一と議長との友誼の絆は固く結ばれた。
39  誓願(続)(39)
 山本伸一のキューバ訪問以降、日本との文化・教育交流も活発に行われていった。
 また、二〇〇七年(平成十九年)一月六日、キューバ創価学会が正式に宗教法人となり、その登録式が行われている。
 アメリカは、対キューバ経済制裁を次第に緩和し、二〇一五年(同二十七年)に両国は国交を回復することになる。
 一九九六年(同八年)六月二十六日、伸一は、キューバに続いて、パナマに隣接し、「中米の楽園」といわれてきたコスタリカを初めて訪れた。これで海外訪問は、世界五十四カ国・地域となった。コスタリカは、憲法で常備軍を廃止し、永世的、積極的、非武装中立を宣言している国である。
 翌二十七日、伸一は、首都サンホセ市の大統領府で、ホセ・マリア・フィゲレス・オルセン大統領と会見したあと、メンバーとの交歓会に駆けつけるとともに、和歌を贈った。
 「コスタリカ ここにも地涌の 友ありき
    常楽我浄の 人生あゆめや」
 二十八日には、中南米で初の開催となる「核兵器――人類への脅威」展の開幕式が行われた。これには大統領夫妻、ノーベル平和賞を受賞したオスカル・アリアス・サンチェス元大統領らが出席した。
 会場のコスタリカ科学文化センターには、「子ども博物館」が併設されており、そこで遊ぶ子どもたちの元気な声が、式典会場にも響き渡っていた。スピーチに立った伸一は、微笑みながら語った。
 「賑やかな、活気に満ちた、この声こそ、姿こそ、『平和』そのものです。ここにこそ、原爆を抑える力があります。希望があります。子どもたちは、伸びゆく『生命』の象徴です。核は『死』と『破壊』の象徴です」
 席上、伸一は、「“核の力”よりも偉大な“生命の力”を、いかに開発させていくか」「“核の拡大”よりも強力な“民衆の連帯”を、どう拡大していくか」――ここに人間教育、民衆教育の重大な課題があると訴えた。
40  誓願(続)(40)
 山本伸一は、北・中米訪問の翌一九九七年(平成九年)の二月に香港を訪れ、五月には第十次の訪中をし、十月にインドを訪問した。日々、限りある時間との闘争であった。
 九八年(同十年)は、二月にフィリピン、香港へ。五月には韓国へも赴き、この時、初めて、韓国SGI本部を訪れたのである。
 また、翌九九年(同十一年)五月、三度目の訪韓となる済州島訪問を果たした。
 二〇〇〇年(同十二年)は二月に香港へ。
 そして、十一、十二月と、シンガポール、マレーシア、香港を歴訪したのである。
 シンガポールでは、十一月二十三日、S・R・ナザン大統領と大統領官邸で会見した。
 大統領は、温厚にして信念の人であった。
 ――一九七四年(昭和四十九年)、日本赤軍のメンバーら四人が、シンガポールの石油精製施設を爆破し、従業員五人を人質に取るという事件が起こった。その時、国防省治安情報局長官として、冷静に、断固たる信念をもって交渉し、陣頭指揮を執ったのがナザン大統領であった。テロリストらはクウェートへの移送を要求し、日本政府関係者と共に、シンガポール政府関係者の同乗を条件とした。
 ナザン長官は、自ら飛行機に乗り込んだ。そして、最終的に、一人の犠牲者も出すことなく終わったのである。何かあれば、自分が命がけで取り組み、一切の責任を取る――その覚悟をもっていることこそが、リーダーの最も大切な資質であり、要件といえよう。
 自分の身を守ることが第一か、民衆、国民を守ることが第一か――その生き方の本質は、いざという時に、また、歳月とともに明らかになる。時代は、ますます真剣と誠実のリーダーを要請している。
 会見でナザン大統領は、「シンガポールは小さな国です。新しい国です」「多民族、多宗教、多言語の国です。さまざまな困難な状況のなかで、共通の目的に向かって前進してきました」とも、率直に語っていた。
 伸一は、大統領の責任感に貫かれた生き方に、発展する同国の魂を見た思いがした。
41  誓願(続)(41)
 山本伸一が、二十一世紀を生きる青年たちへのメッセージを求めると、ナザン大統領は学会の青年部への讃辞を惜しまなかった。
 「独立記念日の式典で、私は何度も、シンガポール創価学会の演技を見てきました。本当にすばらしい。シンガポールだけでなく、マレーシア創価学会の演技も見てきました。見事に調和しています。規律がある。心を引きつける美しさがあります。いったい、どうしたら、こんなすばらしい演技ができるのだろう――いつも、そう驚いていました。
 しかも、青年が主体者として参加している。演技には、仏法の教えが体現されています。シンガポールの社会においても、人間的な質が、一段と大事になってきています。その意味でも、創価学会は、社会と国家に、すばらしい貢献をしてくださっています」
 伸一は嬉しかった。学会への信頼と期待がここまで社会に広がり、後継の青年たちが賞讃されていることが、何よりも嬉しかった。
 次代を担う青年たちの成長こそが、弟子の勝利こそが、自身の喜びであり、楽しみであり、希望である――それが師の心である。それが師弟の絆である。
 翌二十四日、オーストラリアのシドニー大学から伸一に名誉文学博士号が贈られた。名誉学位記の授与は、シンガポール及び周辺国からの留学生の卒業式典の席で行われた。
 会場は、シンガポールの中心部にあるホテルであった。
 シドニー大学は、オーストラリア最初の大学であり、世界に開かれ、約三千人の留学生が学んでいる。特に、アジアからの留学生が多く、シンガポールも、その一つであった。
 「留学生と長い間、離れていた家族や友人たちにも、晴れ姿を見せてあげたい」との配慮から、シンガポールと香港で卒業式を行うことになったという。そのこまやかな心遣いにも、学生中心の教育思想が脈打っていた。
 「学生のための大学」という考え方こそ、人間教育の確固たる基盤となる。
42  誓願(続)(42)
 ファンファーレが鳴り響き、総長らと共に山本伸一が入場し、シドニー大学のシンガポールでの卒業式典が始まった。
 同大学のクレーマー総長も、キンニヤ副総長補も女性教育者であり、なかでも総長は、さまざまな社会貢献の活動が高く評価され、オーストラリアの「人間国宝」に選ばれている。
 副総長補が「推挙の辞」を読み上げ、総長から伸一に、名誉学位記が手渡された。
 引き続き、学生たちへの卒業証書の授与となった。名前が呼ばれると、四十五人の卒業生が順番に総長の前に進み出て、証書を受け取る。その時、総長は一人ひとりに、温かい言葉をかけていった。
 「今、どんな課題に挑戦しているの?」
 「社会に、しっかり貢献していくのよ!」
 「楽しみながら進むことが大切よ!」
 母親が、わが子を慈しみ、励ますような、ほのぼのとした光景であった。伸一は、そこに、情愛に満ちた大きな教育の力を感じた。
 謝辞に立った彼は、創価教育の父・牧口常三郎初代会長が、一九〇三年(明治三十六年)に発刊した『人生地理学』で、自らが着用していた毛織りの服の原料がオーストラリア産などであることを例に、誰人の生活も、世界の無数の人びとの苦労と密接に結びついていると論じたことを紹介した。そして、牧口が日本の軍部政府の弾圧で獄死したことを語った。
 「帝国主義の吹き荒れる時代のなかで、牧口会長は、いち早く、『地球的相互依存性』への自覚を促し、そして、他のために貢献し、自他共に栄えていくという『人類共生の哲学』を訴えたのです。
 さらに、人類は、『軍事』や『政治』や『経済』の次元で、他を圧しようとするハード・パワーの段階を終え、『人道』を新たな指標として、文化、精神性、人格というソフト・パワーによって、切磋琢磨していくことを強く提唱したのであります」
 伸一は、二十一世紀は、人道をもとに、思いやりをもって、自他共に栄える人類共生の時代であらねばならないと展望していた。
43  誓願(続)(43)
 山本伸一は、二十五日、シンガポール創価幼稚園を訪れた。幼稚園の訪問は二度目だが、タンピネスの新園舎は初めてである。
 伸一と峯子に、園児の代表から花束が贈られた。彼は、「ありがとう!」と言いながら、一人ひとりの手を握っていった。喜びの声をあげる子もいれば、はにかむ子もいる。
 「皆さんとお会いできて嬉しい。皆さんの作品を収めたアルバムを、昨日、見せていただきました。みんな上手でした」
 子どもたちは、日本語で、かわいい合唱を披露してくれた。小さな体を左右に大きく揺らしながらの熱唱である。伸一も、一緒に手拍子を打った。
 「日本語も上手だね」
 皆の顔が、ほころぶ。
 その光景を見ていた園長が感想を語った。
 「子どもたちの表情が、瞬間で変わるのがわかりました。“自分は愛されているんだ”という満足そうな表情でした」
 園内には、英語で書いた、園児のメッセージカードも張り出されていた。
 「先生は世界平和をつくっています。だから、ぼくはパイロットになって、みんなをいろんな国に連れていきたいです」
 「先生は、はたらきすぎです。いつもありがとう。先生の愛情にこたえるために、私もいっしょうけんめいお勉強します」
 伸一は、峯子に言った。
 「ありがたいね。二十一世紀が楽しみだ」
 彼は、未来に懸かる希望の虹を見ていた。
 伸一たちは、幼稚園に続いて、SSA(シンガポール創価学会)の本部を初訪問し、世界広布四十周年記念大会に出席した。
 ここでは、「但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」との御文を拝して訴えた。
 「何があっても御本尊を信じ、題目を唱え抜くことです。御本尊を、母と思い、父と思い、嬉しいことも、苦しいことも、全部、話していけばよい。心の丈を、ぶつけてゆけばよい。必ず全部、御本尊に通じていきます」
44  誓願(続)(44)
 二十六日、山本伸一は、シンガポールとオーストラリアの合同最高会議に出席した。席上、シンガポールが「獅子の都」を意味することから、仏法で説く「師子」に言及した。
 「仏法では、仏を『師子』と呼び、仏の説法を『師子吼』という。大聖人は、『師子』には『師弟』の意義があると説かれている。仏という師匠と共に生き抜くならば、弟子すなわち衆生もまた、師匠と同じ偉大な境涯になれるのを教えたのが法華経なんです」
 一般的にも、師弟の関係は、高き精神性をもつ、人間だけがつくりえる特権といえる。芸術の世界にも、教育の世界にも、職人の技の世界にも、自らを高めゆかんとするところには、必ず師弟の世界がある。
 伸一は、青年たちに力説した。
 「『人生の師』をもつことは、『生き方の規範』をもつことであり、なかでも、師弟が共に、人類の幸福と平和の大理想に生き抜く姿ほど、すばらしい世界はありません。
 この師弟不二の共戦こそが、広宣流布を永遠ならしめる生命線です。そして、広布の流れを、末法万年を潤す大河にするかどうかは、すべて後継の弟子によって決まります。
 戸田先生は、よく言われていた。
 『伸一がいれば、心配ない!』『君がいれば、安心だ!』と。私も今、師子の道を歩む皆さんがいれば、世界広布は盤石である、安心であると、強く確信しています」
 さらに、彼は、「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ」と仰せのように、師子王の心とは、「勇気」であると訴えた。
 「勇気は、誰でも平等にもっています。勇気は、幸福という無尽蔵の宝の扉を開くカギです。しかし、多くの人が、それを封印し、臆病、弱気、迷いの波間を漂流している。どうか皆さんは、勇気を取り出し、胸中の臆病を打ち破ってください。そこに人生を勝利する要因があります」
 未来は青年のものだ。ゆえに、青年には、民衆を守り抜く師子王に育つ責任がある。
45  誓願(続)(45)
 十一月二十七日夕刻、山本伸一の一行は、シンガポールから、マレーシアの首都クアラルンプール国際空港に到着した。伸一の同国訪問は、十二年ぶり二度目である。
 この十二年間で、マレーシア社会も、SGM(マレーシア創価学会)も大いに発展していた。クアラルンプールには超高層ビルが増え、なかでも一九九八年(平成十年)に完成したペトロナスツインタワーは、ビルとして世界一の高さ(当時)である。
 学会の会館も充実し、クアラルンプールの中心地には、地上十二階建てのSGM総合文化センターが翌二〇〇一年(平成十三年)の完成をめざし、建設が進んでいた。また、マレーシア全十三州のうち十二州に、立派な中心会館が整備されることになっていた。
 二十九日には、マレーシア最大の総合大学である国立プトラ大学から伸一に名誉文学博士号が贈られ、同大学で、名誉学位特別授与式が厳粛に挙行された。
 その式典は、真心と友情にあふれていた。
 「推挙の辞」を朗読したのは、女性教育者のカマリア・ハジ・アブ・バカール教育学部長である。彼女は、思いの丈を表現しようと、随所に自作の詩を挟んだ。さらに、突然、マレー語から、日本語に変わった。
 「先生! あなたは偉大な人です。『世界平和』という、先生の生涯の夢が、達成されますように――」
 “すべてマレー語では、私の本当の思いは伝わらないのでは”と考え、日本語を覚え、最後に、直接、日本語で語ったという。
 ペナン州総督のトゥン・ダト・ハムダン・ビン・シェイキ・タヒール総長から名誉学位記が手渡され、伸一の「謝辞」となった。
 「真実の友情の対話は、民族・国境を超え、利害を超え、あらゆる分断の壁を超えます。
 そして、多様性を尊重し、活かし合いながら、寛容と共生と創造の道を、手を携えて進んでいくことこそ、最も大切な道なのであります。なかんずく、教育が結ぶ友情こそが、平和と幸福を護る最も堅固な盾であります」
46  誓願(続)(46)
 山本伸一は、プトラ大学からの名誉学位記の授与に、深い意義を感じていた。マレーシアはイスラム教が国教であり、その国の国立大学から仏法者の彼が顕彰されたのである。
 それは、平和のため、人類の幸福のためという原点に立ち返るならば、宗教を超え、人間として共感、理解し合えることの証明であり、イスラムの寛容性を示すものであった。
 人間と人間が分断され、いがみ合う時代にピリオドを打つために、二十一世紀は、宗教間対話、そして文明間対話がますます重要となろう。
 なお、彼は、二〇〇九年(平成二十一年)にマレーシア公開大学から、そして、翌一〇年(同二十二年)には国立マラヤ大学から、名誉人文学博士号が贈られている。
 伸一は、十一月三十日、マハティール首相と首相府で、二度目となる会見を行った。
 「青年こそ宝」――二人は、未来に熱い思いを馳せつつ語り合った。
 十二月一日、伸一は、マレーシア創価幼稚園を初訪問し、引き続きマレーシア文化会館での世界広布四十周年を記念するSGM(マレーシア創価学会)の代表者会議に出席した。
 熱気に満ちた大拍手が会場に轟いた。
 SGMは目を見張る発展ぶりであった。伸一の入場前、理事長の柯浩方は叫んだ。
 「皆さん! 私たちは勝ちました!」
 国家行事で誰もが驚嘆した五千人の人文字、独立記念日を荘厳してきた青年部のパレード・組み体操、社会貢献の模範と謳われる慈善文化祭、女性の世紀の先駆けとなった婦人部・女子部の「女性平和会議」……。
 そこには、「仏法即社会」の原理に生きる信仰者の、深い使命感からの行動があった。
 理事長は語っていた。
 「ただただ、真心で、誠心誠意やってきたからです。瞬間、瞬間、『今しかない』と」
 伸一はこの日のスピーチで、「『心の財』こそ三世永遠の宝」「幸福の宮殿は自身の中に」と訴え、また、句を贈った。
 「世界一 勝利の都 マレーシア」
47  誓願(続)(47)
 山本伸一の激励行は香港へ移った。これが二十世紀の世界旅の掉尾となる。
 十二月四日、香港SGI総合文化センターで行われた、香港・マカオの最高協議会に出席した彼は、今回で香港訪問が二十回目となることを記念し、一句を贈った。
 「二十回 香港広布に 万歳を」
 そして、一九六一年(昭和三十六年)一月からの香港訪問の思い出をたどりながら、広布草創の功労者の一人である故・周志剛の奮闘を紹介した。
 「周さんは、シンガポール、マレーシアなどに点在する同志の激励のために、数日に一回の割合で手紙を書き送った。手紙は、何か問題が生じれば、二日に一回となり、時には連日となることもあったといいます。
 貿易会社の社長としての仕事も多忙ななか、香港広布の中心者として活動し、さらに、アジアの友に激励の手紙を書き続けることは、どれほどの労作業であったことか。しかも、その分量は、四百字詰め原稿用紙にして、五枚分、十枚分に相当することも珍しくなかった」
 当時は、電話も普及しておらず、インターネットが発達しているわけでもない。身を削る思いで励ましを重ね続けたのである。
 「ある地域の中心者への手紙には、『メンバーと、心から話し合える機会を多くつくることです。それができるのは家庭訪問以外にありません。これによって、同志と心やすく話し合え、密接なつながりもでき、相互の信頼も増すのです。これは、言うは易いが、実行は大変なことです』とあります」
 人体も血が通わなければ機能しなくなる。組織も同じであろう。学会の組織に信心の血を、人間の真心を通わせるのは、家庭訪問、個人指導である。それがあるからこそ、創価学会は人間主義の組織として発展し続けてきた。一人ひとりを心から大切にし、親身になって、地道な対話と激励を重ねていく――それこそが、未来永遠に、個人も、組織も、新しい飛躍を遂げていく要諦にほかならない。
48  誓願(続)(48)
 香港・マカオの最高協議会で山本伸一は、香港の輝ける歴史に言及していった。
 「大聖人の未来記である仏法西還への歩みは、この香港から始まった。そして、一九七四年(昭和四十九年)五月から六月の、日中友好の『金の橋』を架ける初の中国訪問も、ここ香港から出発し、ここ香港に帰ってきました。
 また、世界七十三大学(当時)と学術教育交流を広げる創価大学の『第一号の交流校』となったのは、香港中文大学です。さらに海外初の創価幼稚園の開園(九二年)も香港でした」
 そして、香港・マカオのメンバーは、「二十一世紀もまた、その尊き大使命に生き抜いていっていただきたい」と、力強く励ました。
 折しも、この年の二月、インドの創価菩提樹園に待望の講堂が完成し、前月の十一月二十六日、創価学会創立七十周年を祝賀する、インド創価学会の総会が創価菩提樹園で盛大に開催されたばかりであった。月氏の国インドで、日蓮大聖人の太陽の仏法がいよいよ赫々と輝き、社会を照らし始めたのだ。伸一は、二十一世紀の壮大な東洋広布、世界広布の道が、洋々と開かれていることを実感していた。
 五日夜、伸一と峯子は、香港の陳方安生政務長官官邸での晩餐会に招かれた。
 長官は、一九九三年(平成五年)、総督に次ぐ立場である香港行政長官に、女性として初めて就任し、九七年(同九年)の中国返還以降は、行政長官に次ぐ政務長官として活躍していた。
 また、長官の母は現代中国画の巨匠・方召画伯であり、ちょうど、この時、東京富士美術館では、創立者の伸一の提案による「方召の世界」展が開催中で、好評を博していた。伸一は、九六年(同八年)に香港大学で、この母娘二人と共に名誉学位を受け、その後、交流を重ねてきたのである。
 伸一たちは、方家の家族らの歓迎を受け、香港、そして中国の未来の繁栄を念願して意見交換した。眼下に広がる“百万ドルの夜景”が美しかった。
49  誓願(続)(49)
 十二月七日、山本伸一は、香港中文大学からの学位授与式に臨み、同大学で日本人初となる名誉社会科学博士号を受けた。彼は、一九九二年(平成四年)には同校の「最高客員教授」となっており、その時、「中国的人間主義の伝統」と題して講演も行っている。
 八日、伸一は帰国の途に就いた。香港から向かったのは、常勝の都・関西であった。彼が会長に就任して、真っ先に訪れたのが大阪である。二十世紀の地方指導の最後も大阪で締めくくり、一緒に二十一世紀への新しい扉を開きたかったのだ。皆、伸一と苦楽を共にし、不屈の魂を分かち合う同志である。
 常勝の友の顔は、生き生きと輝いていた。
 十日、伸一は関西代表者会議に出席した。
 いよいよ「女性の世紀」であり、「関西が、その模範に!」と期待を寄せ、「壮年部は男子部と一体になり、婦人部は女子部と一体になって、青年を守り、愛し、励まし、育てていっていただきたい」と呼びかけた。
 十四日には、二十一世紀への旅立ちとなる本部幹部会が、関西代表幹部会、関西女性総会の意義を込めて、大阪・豊中市の関西戸田記念講堂で開催された。
 「明二〇〇一年(同十三年)から、二〇五〇年へ、いよいよ『第二の七つの鐘』がスタートします!」
 伸一は、新しい「七つの鐘」の構想に言及し、民衆のスクラムで、二十一世紀を断じて「人道と平和の世紀」にと呼びかけた。
 また、世界で、女性リーダーの活躍が目覚ましいことを紹介した。
 「今、時代は、音をたてて変わっている。社会でも、団体でも、これからは女性を尊重し、女性を大切にしたところが栄えていく。
 大聖人は『女子おなごは門をひら』と仰せです。広宣流布の永遠の前進にあって、『福徳の門』を開き、『希望の門』を開き、『常勝の門』を開くのは、女性です。なかんずく女子部です」
 麗しき婦女一体の対話の拡大、励ましの拡大は、二十一世紀の新たな力となった。
50  誓願(続)(50)
 二〇〇一年(平成十三年)「新世紀 完勝の年」が晴れやかに明けた。「希望の二十一世紀」の、そして、「第三の千年」の門出である。山本伸一は「聖教新聞」の新年号に和歌を寄せた。
 「新世紀 新たな舞台は 世界かな
    胸の炎の 決意も新たに」
 一月二日、彼は、七十三歳の誕生日を迎えた。伸一が七十代のテーマとしていたのは、「世界広布の基盤完成」であった。
 五月三日、アメリカ創価大学オレンジ郡キャンパスが、待望の開学式を迎えた。人類の平和を担う、新しき世界市民を育む学舎が誕生したのだ。学長に就任したのは、創価高校・創価大学一期生の矢吹好成であった。
 伸一は、万感の思いをメッセージに託し、「『文化主義』の地域の指導者育成」「『人間主義』の社会の指導者育成」「『平和主義』の世界の指導者育成」「自然と人間の共生の指導者育成」を「指針」として示した。
 九月十一日のことであった。アメリカで、四機の旅客機がハイジャックされ、そのうちの二機はニューヨークの世界貿易センタービルに、別の一機は国防総省に突っ込むという事件が起こった。「アメリカ同時多発テロ事件」である。
 死亡者は約三千人、負傷者も六千人を超える悲惨な事態となった。アメリカ政府は、イスラム過激派の犯行と断定し、「テロとの戦い」を宣言。首謀者らが潜伏していると見られるアフガニスタンへの軍事攻撃を開始した。また、その後、ヨーロッパなどで、自爆テロが頻発していくことになる。
 どのような大義を掲げようと人びとの命を奪うテロは、絶対に許されるものではない。
 このテロ事件では、アメリカSGIも直ちに緊急対策本部を設置し、救援活動の応援、義援金の寄託など、できうる限りのことを行った。また、宗教間対話にも積極的に取り組んでいった。平和、戦争反対、暴力をなくす――これは教義を超えた人間の共通の道であり、宗教は、本来、そのためにこそあるのだ。
51  誓願(続)(51)
 山本伸一は、同時多発テロ事件後、各国の識者との会見でも、また日本の新聞各社のインタビューなどでも、今こそ、平和と対話への大世論を起こすべきであると強調した。
 翌年の1・26「SGIの日」記念提言でも、「文明間対話」が二十一世紀の人類の要石となると述べるとともに、国連を中心としたテロ対策の体制づくりをと訴えた。また、テロをなくす方策として、「人間の安全保障」の観点から、人権、貧困、軍縮の問題解決へ、世界が一致して取り組む必要性を提起した。
 彼は、世界の同志が草の根のスクラムを組み、新しい平和の大潮流を起こす時がきていることを感じていた。もとより、平和の道は“険路”である。恒久平和は、人類の悲願にして、未だ果たし得ていない至難のテーマである。なればこそ、創価学会が出現したのだ! なればこそ、人間革命を可能にする仏法があるのだ! 対話をもって、友情と信義の民衆の大連帯を築くのだ!
 また、人類の平和を創造しゆく道は、長期的、抜本的な対策としては正しい価値観、正しい生命観を教える教育以外にない。めざすべきは「生命尊厳の世紀」であり、「人間教育の世紀」である。
 二〇〇一年(平成十三年)十一月十二日、11・18「創価学会創立記念日」を祝賀する本部幹部会が、東京戸田記念講堂で晴れやかに開催された。新世紀第一回の関西総会・北海道栄光総会、男子部・女子部結成五十周年記念幹部会の意義を込めての集いであった。
 伸一は、スピーチのなかで、皆の労を心からねぎらい、「『断じて負けまいと一念を定め、雄々しく進め!』『人生、何があろうと“信心”で進め!』――これが仏法者の魂です」と力説した。そして、青年たちに、後継のバトンを託す思いで語った。
 「広宣流布の前進にあっても、“本物の弟子”がいるかどうかが問題なんです!」
 広宣流布という大偉業は、一代で成し遂げることはできない。師から弟子へ、そのまた弟子へと続く継承があってこそ成就される。
52  誓願(続)(52)
 山本伸一の厳とした声が響いた。
 「私は、戸田先生が『水滸会』の会合の折、こう言われたことが忘れられない。
 『中核の青年がいれば、いな、一人の本物の弟子がいれば、広宣流布は断じてできる』
 その『一人』とは誰であったか。誰が戸田先生の教えのごとく、命がけで世界にこの仏法を弘めてきたか――私は“その一人こそ、自分であった”との誇りと自負をもっています。
 どうか、青年部の諸君は、峻厳なる『創価の三代の師弟の魂』を、断じて受け継いでいってもらいたい。その人こそ、『最終の勝利者』です。また、それこそが、創価学会が二十一世紀を勝ち抜いていく『根本の道』であり、広宣流布の大誓願を果たす道であり、世界平和創造の大道なんです。
 頼んだよ! 男子部、女子部、学生部! そして、世界中の青年の皆さん!」
 「はい!」という、若々しい声が講堂にこだました。
 会場の後方には、初代会長・牧口常三郎と第二代会長・戸田城聖の肖像画が掲げられていた。二人が、微笑み、頷き、慈眼の光で包みながら、青年たちを、そして、同志を見守ってくれているように、伸一には思えた。
 彼は、胸の中で、青年たちに語りかけた。
 “さあ、共に出発しよう! 命ある限り戦おう! 第二の「七つの鐘」を高らかに打ち鳴らしながら、威風堂々と進むのだ”
 彼の眼に、「第三の千年」の旭日を浴びて、澎湃と、世界の大空へ飛翔しゆく、創価の凜々しき若鷲たちの勇姿が広がった。
 それは、広宣流布の大誓願に生き抜く、地涌の菩薩の大陣列であった。
  (小説『新・人間革命』全三十巻完結)
    二〇一八年(平成三十年)八月六日
          長野研修道場にて脱稿
 創価の先師・牧口常三郎先生、
 恩師・戸田城聖先生、
 そして、尊き仏使にして「宝友」たる全世界のわが同志に捧ぐ

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