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日蓮大聖人・池田大作

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崇峻天皇御書  (5/5) 賢きを人と云いはかなきを畜といふ
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る、汝は聖智の者と聞く朕を相してまいらせよと云云、太子三度まで辞退申させ給いしかども頻の勅宣なれば止みがたくして敬いて相しまいらせ給う、君は人に殺され給うべき相ましますと、王の御気色かはらせ給いて・なにと云う証拠を以て此の事を信ずべき、太子申させ給はく御眼に赤き筋とをりて候人にあだまるる相なり、皇帝勅宣を重ねて下し・いかにしてか此の難を脱れん、太子の云く免脱がたし但し五常と申すつはものあり此れを身に離し給わずば害を脱れ給はん、此のつはものをば内典には忍波羅蜜と申して六波羅蜜の其の一なりと云云、且くは此れを持ち給いてをはせしが・ややもすれば腹あしき王にて是を破らせ給いき、或時人・猪の子をまいらせたりしかば・こうがいをぬきて猪の子の眼をづぶづぶと・ささせ給いていつか・にくしと思うやつをかくせんと仰せありしかば、太子其の座にをはせしが、あらあさましや・あさましや・君は一定人にあだまれ給いなん、此の御言は身を害する剣なりとて太子多くの財を取り寄せて御前に此の言を聞きし者に御ひきで物ありしかども、有人蘇我の大臣・馬子と申せし人に語りしかば馬子我が事なりとて東漢直駒・直磐井と申す者の子をかたらひて王を害しまいらせつ、されば王位の身なれども思う事をば・たやすく申さぬぞ、孔子と申せし賢人は九思一言とてここのたびおもひて一度申す、周公旦と申せし人は沐する時は三度握り食する時は三度はき給いき、たしかに・きこしめせ我ばし恨みさせ給うな仏法と申すは是にて候ぞ。

一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ

  建治三年丁丑九月十一日               日蓮花押

   四条左衛門尉殿御返事


四条金吾御書

                    建治四年一月 五十七歳御作

鷹取のたけ・身延のたけ・なないたがれのたけ・いいだにと申し、木のもと・かやのね・いわの上・土の上いかにたづね候へども・をひて候ところなし、されば海にあらざれば・わかめなし・山にあらざれば・くさびらなし、法華経にあらざれば仏になる道なかりけるか・これは・さてをき候いぬ、なによりも承りて・すずしく候事は・いくばくの御にくまれの人の御出仕に人かずに・めしぐせられさせ給いて、一日・二日ならず御ひまもなきよし・うれしさ申すばかりなし、えもんのたいうのをやに立ちあひて上の御一言にてかへりてゆりたると殿のすねんが間のにくまれ・去年のふゆはかうとききしに・かへりて日日の御出仕の御とも・いかなる事ぞ、ひとへに天の御計い法華経の御力にあらずや、其の上円教房の来りて候いしが申し候は、えまの四郎殿の御出仕に御ともの・さふらい二十四・五其の中にしうはさてをきたてまつりぬ、ぬしのせいといひ・かをたましひ・むま下人までも中務のさえもんのじやう第一なり、あはれをとこや・をとこやと・かまくらわらはべは・つじちにて申しあひて候しとかたり候。

これに・つけてもあまりにあやしく候、孔子は九思一言・周公旦は浴する時は三度にぎり食する時は三度はかせ給う、古の賢人なり今の人のかがみなり、されば今度はことに身をつつしませ給うべし、よるはいかなる事ありとも一人そとへ出でさせ給うべからず、たとひ上の御めし有りともまづ下人をこそへ・つかわして、なひなひ一定を・ききさだめて・はらまきをきて・はちまきし、先後・左右に人をたてて出仕し御所のかたわらに・心よせの・やかたか又我がやかたかに・ぬぎをきて・まいらせ給うべし、家へかへらんにはさきに人を入れてとのわきはしのしたむまやのしり・たかどの一切くらきところを・みせて入るべし・せうまうには我が家よりも人の家よりもあれ・


たからを・をしみてあわてて火をけすところへ・づつとよるべからず、まして走り出る事なかれ、出仕より主の御ともして御かへりの時はみかどより馬より・をりて、いとまの・さしあうよし・はうくわんに申して・いそぎかへるべし、上のををせなりとも・よに入りて御ともして御所に・ひさしかるべからず、かへらむには第一・心にふかき・えうじんあるべし、ここをば・かならず・かたきの・うかがうところなり。

人のさけたばんと申すともあやしみて・あるひは言をいだし・あるひは用いることなかれ、又御をととどもには常はふびんのよしあるべし、つねにゆせにざうりのあたいなんど心あるべし、もしやの事のあらむには・かたきはゆるさじ、我がために・いのちをうしなはんずる者ぞかしと・をぼして、とがありとも・せうせうの失をば・しらぬやうにてあるべし、又女るひはいかなる失ありとも一向に御けうくんまでも・あるべからず、ましていさかうことなかれ、涅槃経に云く「罪極て重しと雖も女人に及ぼさず」等云云、文の心はいかなる失ありとも女のとがををこなはざれ、此れ賢人なり此れ仏弟子なりと申す文なり、此の文は阿闍世王・父を殺すのみならず母をあやまたむと・せし時・耆婆・月光の両臣がいさめたる経文なり、我が母心ぐるしくをもひて臨終までも心にかけし・いもうとどもなれば失を・めんじて不便というならば母の心やすみて孝養となるべしと・ふかくおぼすべし、他人をも不便というぞかし・いわうや・をとをとどもをや、もしやの事の有るには一所にて・いかにもなるべし、此等こそとどまりゐてなげかんずれば・をもひでにと・ふかくをぼすべし、かやう申すは他事はさてをきぬ、雙六は二ある石はかけられず、鳥の一の羽にてとぶことなし、将門さだたふがやうなりし・いふしやうも一人は叶わず、されば舎弟等を子とも郎等とも・うちたのみて・をはせば、もしや法華経もひろまらせ給いて世にもあらせ給わば一方のかたうどたるべし。

すでに・きやうのだいり院のごそかまくらの御所・並に御うしろみの御所・一年が内に二度・正月と十二月とに