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日蓮大聖人・池田大作

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第一回栃木県支部長会 妙法こそ宿命転換の原理

1986.9.15 「広布と人生を語る」第10巻

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1  広布四十周年を迎えた栃木の第一回の県支部長会を心から祝賀申し上げたい。また、本日は「敬老の日」でもあり、先ほどの勤行のさい、妙法受持の高齢者の方々をはじめ日本、世界の高齢の方たちの、ますますのご長寿とご健勝を深くご祈念させていただいた。
 八月上旬、栃木地方を襲った水害では、皆さまもひじょうにご苦労をされたことと思う。被害を受けられた同志の方たちも力強く立ち上がっておられることをうかがい、私も心からうれしく思っている。今回の水害について、御法主上人もたいへんにご心配くださったことを、かさねてここにご報告申し上げる。
 ところで、皆さまのもとで酒井県長が就任して三年。彼は誠実な人で、気取ったり威張ったりしない人柄である。広布のこと、信心のこと、そして皆さま方のことを真剣に考え、真心をこめてこの地で活動してきた。その彼の真心と誠実の行動は、皆さま方もよくご理解くださっていることと思う。どうか、酒井県長を中心に、心さわやかに、異体同心の信心の一念を強くもって、栃木広布に進んでいただきたいと念願してやまない。
2  『同志の人びと』にみる丈夫の心
 栃木県出身の著名人は数多いが、そのなかの一人に作家の山本有三がいる。
 終戦後の昭和二十一年、私は昭文堂という印刷会社に勤めた。そこにいた私の先輩が山本有三の愛読者で、その勧めもあり、そのころ何編かの作品を読んだ。
 山本有三は、『真実一路』『路傍の石』『生命の冠』『生きとし生けるもの』などの小説、また『同志の人びと』等の戯曲を書いたことで有名だが、彼の作品は一貫して人間の尊厳を訴えている。
 代表作の一つ『同志の人びと』は、関東大震災の起こった大正十二年(1923年)の五月に発表された。彼が三十五歳のときの作品である。
 舞台は幕末の文久二年。寺田屋事件に加わり捕らえられた八人の薩摩藩士が、京都から鹿児島への帰国を命ぜられた。物語はその小さな護送船の中のことである。極刑に処せられるかもしれない――死の恐怖におびえた極限状況のなかに、志士たちはおかれていた。
 八日目のこと――同志として加わっていた公卿の臣下を殺害すれば、藩士は軽い刑で許される、との話に、八人の心は動揺する。そして、維新回天を誓いあった同志の殺害が、徐々に正当化されていく……。人間の”心”の移ろいを、作者は鮮やかに活写する。
 こうして公卿の臣下は、同志の手により危められることになる。
 そのとき彼は、最後まで同志の信義を信頼し、「本当の悲壮なことに出あわれるのは、むしろこれからですぞ……これからは貴殿たちの時代です。どうかしっかりやってください」と述べる。そして維新の成就を信じ、同志を鼓舞し、後事を託しっつ、死んでいく――。
 次元は異なるが、広宣流布の活動も、多くの同志とともに歩みゆく道程である。その途次にあって、挫折や裏切りもあるかもしれない。しかし、広布達成の大願を、けっして忘れてはならない。この尊極の目的に向かって、これからも、いかなることにも揺るがぬ丈夫の心で前進されんことを、心からお願いしたいのである。
3  大聖人御在世中に起こった「熱原の法難」は、皆さまもよくご存じのように、弟子門下にとっても大変な大難であった。大聖人も、身延の地から、この法難の舞台となった駿河の門下の方々に対し、それこそくり返しくり返し励ましておられる。
 たとえば、浄蓮房という方に与えられたお手紙の追伸のなかでは「返す返すするが駿河の人人みな同じ御心と申させ給い候へ」と仰せになっている。
 どんな障魔にも断じて屈してはいけない。同じ心でいきなさい。この尊い護法の信心を貫き通すのだ。人を裏切ってはいけない。いわんや同志を、妙法を裏切ってはならない。――このように大聖人は激励されていると私は拝したい。
 また、領主であるという立場から、とかく幕府を意識して大聖人から遠ざかりがちであった駿河の信徒・三沢小次郎に対しても、おたがいのために励ましあっていきなさい、異体同心で難を乗り越えていきなさい、と激励しておられる。
 この精神は、現在も未来も、永遠に変わってはならない。私も尊い仏子である会員の方々には、日夜、全魂の激励を続けている。皆さま方も会員の幸せを願って激励に力をつくされている。そうした、多くの人々を”同心”へと導く誉れある立場を、自ら放棄していくような愚かなことだけはけっしてあってはならない。
4  『真実一路』にみる人生の意味
 山本有三の作品は数多くあるが、なかでも『真実一路』という小説は力作といわれている。昭和九年の秋ごろから執筆にとりかかり、十一年に完成している。
 その間、昭和十年七月ごろ有三はめまいを起こす。彼は、若いころから胃腸が弱く、また不眠症に悩まされていた。執筆活動を続けられない状態が続くこともしばしばであったようである。昭和十一年には眼底出血で失明の恐れを生じた。ハンカチを目に当てながらの状態で、執筆も困難であったが、特別に大きなマス目の原稿用紙を作らせ、大きな字で書いた。それほどの努力家であった。
 なにごとも一流の仕事を成している人というのはみな努力家である。歴史に名を残した、いわゆる偉人や有名人にしても、さまざまな障害との格闘をのりこえて事業をなしとげていることは論をまたない。華やかな有名の陰には、病気の悩みもあれば、家庭不和の悩みもある。すべて十界三千の生命からのがれることはできない。かえって、常人以上の深刻な悩み、苦しみを味わい、努力を重ねているものである。
5  『真実一路』は、ある会社の実直な一会計課長の物語である。彼の名前は守川義平。”真実”がモットーで、生涯、ひとすじに誠実を貫いて生きた人物であった。
 義平は、恩のある社長の娘と結婚する。しかし、そのとき娘は、病死した別の男性の子供を胎内に宿していた。彼はそれを承知のうえで結婚し、誕生した娘を自分の子供として、実の親にもまさる愛情で育てるのである。しかし妻は、義平が真実を尽くせば尽くすほど、感謝するどころか彼に冷たく当たった。やがて義平の子供を懐妊したとき、妻はとうとう離婚を求める。義平の子供を産みたくないからというのである。この後、義平は子供を生むことを条件に離婚を認め、二人の子供を自分で立派に育てあげる――。この小説は、こうした暗く悲しいストーリーを基調にしている。
6  さて、この義平が死を前にして何を思ったか。妻にさえ理解されなかった人生であった。しかし仕事のうえでも、実生活のうえでも、「まちがったこと、曲がったことは一度もしたことがないという自負を、心ひそかに持って」いた。それにもかかわらず、彼は娘にあてた遺書のなかで、わが生涯を省み、ざんげして、自分の人生は失敗だったと次のように書くのである。
 「自分の一生をほんとうに生きなかったことを、今さらのごとくにあさましく思うのであります」と。
 自分らしく、自分に忠実に、伸びのびと、自らのいのちに生きることができなかった。世間の義理やしがらみに縛られ、自らの心を偽って、うその生活をした。今、死に直面して、そのことを心底から後悔している、というのである。
 また「いわば、小生の一生は金銭登録機のようなものでした」「その日、その日の帳あいは合っていても、私はもっと大きな帳あいを知らずに過ごしてきたのです」とも書いている。
 一日一日の仕事には忠実に暮らしてきた。しかし計算をまちがえないだけなら機械でもできる。自分は人生の根本をまちがえてしまった。血肉をもった一個の”人間”としてぞんぶんに生きることができなかった。ゆえに、どんなに日々の帳尻が合ったとしても、一生という帳簿では誤ってしまった。しかし、生涯の”総決算”に臨んでそれを発見しても、時すでに遅いというのである。
7  義平の人生に対し、私どもは信仰という、人生の根本問題を解決するカギをもっている。また「広宣流布」という偉大な目的がある。義平のいう「もっとも大きな帳あい」をもちながら、法のため、人のために、最高に充実した尊き人生を生きぬいていけるのである。さらに日々の小さな努力の「帳あい」を合わせ、すべてを最大に生かし、輝かせていくことができるのである。これほどの悔いなき人生の道はない。
8  次の義平の言葉は有名である。
 「人間が人間として生きなかったということぐらい、恥ずかしいことはありますまい。松の木は必ず松の木としてのびてゆきます。ライオンは一生ライオンの声を失いません。しかるに、人間が人間らしく生きなかったということは(中略)人間として、これ以上の恥辱はないと思います。私は今になってやっとそのことに気がついたのです」
 松は松らしく、松の生命を生きぬいている。ライオンは生涯、ライオンの生命の叫びを発しつづけている。人間も人間として生まれた以上、かけがえのないこの人間の生命を、最大限に生き、伸ばし、発揮して生きなければ、これほどの恥辱はないというのである。
9  この義平の指摘は、仏法の正しさを鋭く示唆していると思う。すなわち、南無妙法蓮華経は、宇宙の根本の法であり、一切衆生の生命本然の大音声である。「南無妙法蓮華経は師子吼の如し」と仰せのごとく、私どもは生涯、この無上道の妙法を師子吼しながら、自分らしく生きていけばよいのである。そこにのみ自らの生命に忠実に、自らの個性を光り輝かせながら、限りなき福徳の境涯を開き、成長していく方途がある。さらに、縁ある人々をも包容し、救っていけるわけである。
 これ以上の意義深き大満足の人生はない。私どもは、文字どおり「無上道の人生」を歩んでいるのである。このことを深く自覚していただきたい。
10  「油断」戒め賢明なる前進
 山本有三の随筆のなかにたいへん感銘を受けた一節があった。それは、一刀流の開祖とされる伊藤一刀斉と、その弟子で、のちに一刀流を大成し世に弘めた小野二郎右衛門を題材にした内容である。
 二郎右衛門が一刀斎に従って、全国を武者修行して歩いていたときのこと。ある日、二郎右衛門は師匠に「剣道の極意」を尋ねる。そのとき、一刀斎は、こう答える。
 「べつに極意というほどのものはない。ただ油断をしないのが第一だ」――と。
 平凡のようではあるが、まことに真理をついたすばらしい言葉であると思う。
 有三は、さらにこうつづっている。
 「油断というのは、心のうつろになることではない、心が一方にとらわれることを言うのだ。とかく人は、刀を手にすると、刀に心を奪われる。学問をすると、学問に心を奪われる。ほめられると、ほめられたことでいい気になる。それが油断である」と。
11  また、皆さまの郷土・栃木の源平時代の武士である那須余一が、屋島の合戦で舟の上の扇の的を見事、射落とす話は、あまりにも有名である。
 『新・平家物語』には、そのとき余一は”ほんとうの的は、小舟の上にあるのではなく、自分の心の中にある”と気づいた、とある。これもまた、先の一刀斎の話と相通ずるものといえよう。
 信仰者においてもまったく同じである。”信心をしているから大丈夫”という安易な考え、火災や交通事故にも注意しなくてもよいといった甘い考えがあるとするなら、それはもはや油断であり、たいへんな誤りである。信心しているからこそ、細心の注意と配慮が必要なのである。まして、広布の責任ある立場にあっては、断じて「油断」してはならない。私もまた、その心構えで今日まで広宣流布に挺身してきたつもりである。
12  今から三十三年前に、戸田先生とともにこの栃木の日光方面を旅行したことがあった。栃木広布四十周年ということで、昨夜は、私の師であり、父とも思う戸田先生とともに旅したその日のことが、たいへん懐かしく思い出された。
 今や、日光方面にも多くの同志が活躍するにいたっている。ホテルの副支配人の立場で頑張っている方もいるとの謡もうかがった。そこで昨夜は、栃木池田平和会館に到着し、皆さまのご多幸と無事安穏を御本尊に御祈念申し上げたあと、戸田先生をしのびながら、またわが同志への激励の意味をこめて、日光方面の地域を回らせていただいたことをご報告しておきたい。
13  戸田先生は土井晩翠の詩「星落秋風五丈原」の歌がたいへんお好きであった。この歌は、昭和二十八年の新年宴会の折に、戸田先生にご披露したのである。先生が涙を流して聴いておられたことが今もって忘れられない。
 詩に歌われている諸葛孔明は、重い病で明日をも知れぬ命になっていた。「五丈原」の歌は孔明の使命の挫折を歌っており、戸田先生は苦心孤忠の孔明の心に深い思いを寄せられたのであろう。
 「味方の軍勢は負け戦の最中だ。このような瀬戸際に立ったとき、人はなにをどう考えるか。悔恨などという生やさしいものではない。まして、諦めることができるものではない」といわれた。この孔明の心情を思うと、あまりにもかわいそうであり、不覚にも涙を流してしまうのだ、ともいっておられた。
14  孔明は、志を達しないで死んでしまう。「五丈原」は悲しいことに使命の挫折を歌った歌になっている。孔明の名は、たしかに千載の後まで残るには残ったが、挫折は挫折である。現実は厳しい。どんな立派なことをいっても、最後に挫折しては負けである。”仏法は勝負”である。この厳しい原理を私どもも知らなければならない。
 戸田先生はさらに「孔明には挫折も許されるかもしれない。しかし、私には挫折は許されない」といわれた。戸田先生の後を継ぎ広布の責任を担った私もまた、挫折は許されないのである。
 広布の大業が挫折したら、人類の前途は真っ暗闇になってしまう。世界の恒久平和の達成、そしてこの世のいっさいの不幸の宿命を払い、人類の幸福を築かんとする広宣流布の運動は、政治や経済などの他の次元とは根本的に異なる大偉業であるからだ。
15  戸田先生は私に言われた。「幾百年かかっても広宣流布は絶対に成し遂げなければならない。革命には弾圧も非難もつきものである。何があっても恐れてはならない。命をかければ何も怖いものはない」と。
 また、先生はこうも話された。「今、私は矢面に立っている。君たちには傷をつけたくない。激しい疲労の連続であるが私は毅然として時をかせぐ。君たちは今のうちに勉強し力を養い、次の時代に敢然と躍り出て、広宣流布の実現をはかってもらいたい。戦いは長い。すべて君たちにたくす以外にはない」と。
 私はこの戸田先生の言葉を胸中深く秘めて戦ってきた。また今、私もこの戸田先生の心とまったく同じ心境で、次代の後継者育成に全力をあげている。
16  次に戸田先生の開目抄講義の一節を通して申し上げたい。言葉は平易であるが、私どもの信心の要ともいうべき点を教えられている。
 「われわれの人生が過去世の罪業および善根によって運命が定まっているということは、信じると信じないとにかかわらず真実なことである。宿命が定まっているならば、どうしようもないということになれば、それはあきらめの人生であり、またかく数えることはあきらめの仏法である。このあきらめの人生では、不幸の人はどうすることもできないことになる」
 これこそ人生の根本問題である。人生は今世だけではない。三世にわたる生命観に立って見ていかなくてはいけないとの指摘である。とともに、宿命をどう乗り越えていくか――そこに大聖人の仏法がある。
 そこで戸田先生は「ここにおいて日蓮大聖人は、過去世に悪業を積んで現世に不幸な人をどうして運命を転換させて救おうかと思惟なされて、ここにわれら不幸の衆生に三大秘法の南無妙法蓮華経をお授けあそばされたのである」と述べられ、「されば、文底秘沈の南無妙法蓮華経こそ、われらの宿命転換の尊き教えである」と結論されている。
 大聖人の仏法をおいて宿命転換の法はないのである。ゆえに、われらの苦悩の宿命を転換せしめんと、一生涯をかけられた大慈大悲の大聖人に深く感謝し、その教えのとおり行じてこそ、厳然たる功徳もある。――これこそ戸田先生の精神であった。私どももこの精神で永遠に進んでいかねばならない。
17  先日も『三国志』を通してお話ししたが、しばしば思い起こすのは、「髀肉ひにくの嘆」といって、玄徳が心ならずも劉表のもとで食客となっていたときに、ふとわが身をふり返って嘆いていった言葉である。
 玄徳はいう。「ふとわが身をかえりみると、久しく美衣美食に馴れたせいでしょう、ももの肉が肥えふくれて参りました。――かつては、常に身を馬上におき、艱苦辛酸を日常としていた自分が――ああ、いつのまにこんな贅肉を生じさせたろうか。日月の去るは水の流るる如く、かくて自分もまた、なすこともなく空しく老いて行くのか……」と。
 のちに玄徳は荊州を治めるが、荊州を奪い取ろうとする呉の計略によって呉の国王・孫権の妹との縁談が進む。それは玄徳を油断させ、婚礼の前後に機を計って彼を刺し殺そうという策略であった。
 ところが、呉国の元老ともいうべき喬国老は、油断を戒めて孫権と母公に「年齢の少い者にも老人があるし、年はとっても壮年をしのぐ若さの人もある。劉皇叔(玄徳)は、当代の英雄、その気宇はまだ青春です。凡人なみに、年の数で彼を律することは当りません」といって、玄徳殺害の非を指摘するとともに、五十路に達した玄徳に娘を嫁がせることに反対する孫権の母を説得したのである。
 こうした賢明なる側近に恵まれていたがゆえに、呉国は長く命脈をたもつことができたのである。
 本日は、「敬老の日」の意義も含めて話をさせていただいた。以上をもって、お祝いのスピーチとさせていただく。

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