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各部代表者合同研修会 広布の後継者を陸続と

1986.8.13 「広布と人生を語る」第10巻

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1  きょう皆さま方はここに到着されたばかりで、旅の疲れもあると思う。本来ならゆっくり休み、疲れをいやしていただきたいところだが、ここは研修道場である。信心を錬磨し、より深く、より強き生命を築きゆくための研修を行うことが目的である。成長の階段を一段、一段上りゆくように、自己を磨き、鍛えていかなければ、ここに来た意義はない。また、全国の広布の前進のためにも、ここに集った一人ひとりが大いなる成長を遂げ、全国の推進力にならなければならない。そうした意味から何点か、信心の指導をしておきたい。
 過日の台風10号の影響から、茨城県では小貝川の決壊など、関東、東北地方を中心に甚大な被害があった。同志のなかにも被災された方がおられると思う。どうか、信心根本に現在の苦境から立ち上がり、変毒為薬の実証を示しながら、人生の栄冠へと元気に進んでいかれるよう、心から念願したい。
 また、御法主日顕上人も各地の同志の状況を深くご心配くださっていたことを、ここに謹んでご報告させていただく。
2  この長野研修道場に来るとき、列車の中で休んでいる人たちもいたが、なにげなしに周囲を見ると、青木副会長が一人、きちんとした姿勢で読書していた。青木副会長は人一倍の勉強家として有名である。それで”さすが青木さんだな”と思い、何の本を読んでいるのか、聞いてみると「仕事の能率を良くする本」だという。最近、こうした内容の本がよく読まれているようだ。多くの人々を指導する立場にある人は、そのような本も読まなくては、時代に遅れてしまう場合もあろう。
 しかし、結論からいうなら、そうした本の内容の根本になっている原理は、大なり小なり仏法のなかに包含されている。また、これまでの学会の指導のなかに、表現こそ違え、ほとんど含まれているといってよい。専門分野は専門分野として深いものはあろうが、一般論からいうならば仏法のなかにほとんど網羅されているものだ。
3  終戦後のことであるが、有名な小説『徳川家康』を読んだある実業家が「自分も徳川家康のような経営者になりたい」といった。これに対して、ある評論家は「それは作家の山岡荘八氏が描いた徳川家康像であって、それを応用すれば皆がうまくいくというわけにはいかない」という批評をしたことを覚えている。要は家康のマネだけしても仕方がない。知識を自分のものとすることができる自分自身であるかどうかが大切だということである。
 とうぜん、知識は大切である。とくに若い人々はたくさんの本を読むべきである。そうでなければ、成長もないし、時代に遅れてしまうからである。この世は競争である。また広くいえば、人生も競争、社会も競争である。その意味で、幅広くまた深く知識を吸収して、すべてにわたって、人に負けないカをつけていただきたい。しかし、その根本となり、すべてを生かしきる根源は題目であり、御書であることもまた、けっして忘れてはならない。
4  戸田先生から私たちは何回も厳しい指導をいただいた。私の三十九年にわたる信仰生活をふり返ったとき、戸田先生の指導原理をそのまま実践した場合は、すべて成功している。ほんとうに戸田先生は不思議な指導者であった。私は過去にも未来においても、戸田先生ほどの指導者は世界にいないと思っている。このことは私の師匠だから大げさにいうのではない。
 冷静に厳しくみての判断である。
5  勤行は仏界湧現の最極の儀式
 退転していった人に共通して見られることは、それ以前から勤行の姿勢がなおざりであったという点である。そのくせ自ら大聖人のつもりや、教祖のつもりになって、さも御書を知ったようなふりをしても、「信」「行」なき教学は、もはや「法」を盗んで御書をもて遊んでいるようなものである。大切なのは「信」と「行」の実践であり、「信」「行」のための「教学」であることを忘れてはならない。
 また、勤行を実践していても、ともどもに正法の信仰に励み、広宣流布に向かって進む異体同心の心を忘れているとすれば、これも正しい信心の姿勢とはいえないのである。
 勤行の姿勢について戸田第二代会長は、「御本尊の前で勤行するときは、日蓮大聖人の御前にいると同じことなのである。かりにも、だらしのない態度であってはならない。居眠りしたり、欠伸をしたりするような勤行ではけっしてならない」と述べられている。
 大聖人の御前にいるとの厳粛なる思いで御本尊を拝し、祈念しなければならない、との指導である。
 勤行は、私ども凡夫が日常生活、現実の社会のなかにあって、仏界を湧現する厳粛な儀式である。仏界を湧現するには勤行の実践しかない。そして私どもがひとたび現実の行動に移れば、それはぜんぶ九界である。厳粛な勤行によって仏界の生命を湧現する。そして、この仏界から、複姓で厳しい九界の現実世界に突入し、また御本尊の前にもどり唱題するという、循環のリズムになるわけである。
 ゆえに勤行は、心豊かに朗々たる音声で励まなければならないし、純粋無垢な心で行わなければならない。
 とくに将の将としての指導者、幹部の方々は、後輩の同志を力強く御本尊の方へ導いていく立場にあるわけであるから、その勤行の姿勢はまことに大切である。なんとなく重苦しいリズムであったり、姿勢がかたむいていたり、ましてや居眠りしたりするようなことは絶対にあってはならない。多くの後輩が見ていることを先輩幹部はけっして忘れず、人生にとって最極の厳粛な修行として臨んでいただきたい。
 また、勤行のさいの声の大小について具体的にいうならば、アパートなど周囲の環境に気を配って小さな声で勤行する場合もあろう。つねに朗々たる勤行をしたいものだが、だからといって非常識に時も場所もわきまえずに、ただ大きな声であればいいというものではない。(笑い)あくまでも良識ある行動であっていただきたい。
6  人材の配置は適材適所で
 次に、広布の”将の将”として心すべきことを申し上げておきたい。
 戸田先生は「”適材適所”をまちがえてはならない」と厳しくいわれていた。また「人というものは、使う場所をまちがうと一軍の大敗をまねく」とも教えてくださった。
 私もかつては戸田先生のもとで、適材適所の人材の配置に一生懸命取り組んだ。現在は、秋谷会長をはじめ副会長、また各県、各地方の最高幹部に、人材の配置、登用等はすべてお任せしている。
 ”適材適所”をまちがえたときには、その組織は大変なことになってしまう。個人の感情などによって、かんたんに決めてしまうようなことがあっては断じてならない。どこまでも実情を正しく見、大勢の意見をよく聞き、よく協議したうえで、人材の配置や登用を決めていただきたい。
 いずれにしても”適材適所”の人材の配置は、全社会、全世界において、まことに重要な命題である。広布の指導者であり、幹部である皆さま方も、この点は十分に気をつけていただきたい。
 人材の配置において大切なことは、その人がいちばん活躍しやすい立場を考えていくことである。
 戸田先生は「外交の下手な者に外交をやらせたり、実務の下手な者を庶務にしたり、庶務の上手なものに他の仕事をさせるのは、下手な使い方である。人を使うということは、びじょうに重大なことである」と指摘されている。
 ゆえに、その人に合った働き場所を、いろいろな角度から考えて与えていこうという努力をお願いしたい。
7  謙虚な姿勢で後輩育成
 幹部のあり方についても、戸田先生は「指導する立場に立つと、さも自分が偉くなったように思うものがあるが、それは慢心を起こすもとであるから気をつけなくてはならぬ」と厳しく戒められていた。
 役職の上下といったことは、組織上の役割でしかない。指導のあり方にしても、教学にしても、すべて先輩方から教わったのだという謙虚な姿勢を忘れてはならない。それをまるで自分が初めから悟っていたかのような態度であれば、「慢心」というほかはない。どんなに頭がいい、教学ができるといっても、大聖人からみれば豆粒のような存在である。
 また戸田先生は「指導している相手の人に対して、威張り散らしたり、抑えつけたりすることは、絶対に禁物である。ただ、この世に生まれて、一言でも法を説けることを、御本尊にも感謝して、慎み深くあらねばならぬ」とも指導されている。
 大聖人の仏法を人の幸せのために説いていける、大事な人生のあり方を教えていける――そのことに対する深い感謝の念とともに、慎み深い態度をけっして忘れてはならない。
8  先はどこの研修道場の遊歩道を秋谷会長らと散歩していたところ、一人の青年と出会った。いろいろ話をきいてみると、年は二十五歳、たいへんさわやかな学生部員であった。こうした将来を担う青年を育てられるということは幸せである。今や広布の後継者が陸続と誕生していると実感する。
 かつて青年部員だった皆さまも今は四十代、五十代となっている。未来をよくよく見極め、青年部や学生部や未来部の友が伸びのびと成長していけるよう、その方途と指導体制を懸命に確立し、その努力を続けていただきたい。そうでなければ、五十年先の広布の未来が危ういものとなってしまうからである。
 人間は四十代にもなると、どうしても記憶力、行動力が鈍くなってしまう。だが、皆さまは境涯だけはいつまでも若々しくあっていただきたい。
 エゴに生きる人は、若々しさを失う。それに対し、人々のため責任を果たしていこうとしている人は若さを失わないものだ。未来のため、広布の若木を育てようと努力する人の心は、清らかであり、いつまでも若い。どうか、ともどもに青年の気概で、後継の友の育成をお願いしたい。
9  戸田先生は「キリスト教があれほど広まったのは、青年の力によったのである。心の問題にたちかえったイエスの教えに共鳴した青年たちによって、あれほど盛んになったのである」といわれていた。外道であるキリスト教も、まさに青年のカによって広まったのである。明治維新にしても、世の改革に立ち上がった青年たちのカで達成されている。
 さらに戸田先生は次のようにも述べられている。
 「釈尊が、バラモンの教えを打ち破って、仏法を建立したとき、その闘争に参加したのも、みな青年である。青年の意気とカとは、じつに世界の歴史を変えていくのである」と。
 世界の歴史を変えるのは、政治家でもなければ、少数の指導者でもない。青年のカこそ、その原動力なのである。
 これは永遠不変の真理といってよい。学会が今日の広布の大地を広げたのも青年のカであった。
 年配になっていくと、人はどうしても保守的になり、自分のことしか考えなくなる傾向性があるようだ。しかし、肉体は年をとっても、心はいつまでもみずみずしい青年のごとき気概でいきたいものだ。そして自身の「一生成仏」のため、未来の広布のため、若き後輩たちを指導し、立派に育成していきたいものである。
10  人間完成めざし”厳冬の鍛え”を
 一流の人物の言葉は、その人物が偉大であればあるほど、仏法の精神に通じていくものである。
 オーストリア出身のユダヤ系作家・ツゲァイクはこういっている。「われわれの現在はより高い完成への段階にすぎず、はるかに完全な生命の過程への準備にすぎない」と。
 これは彼が人類の未来に対する”希望”を述べた言葉であるが、私どもの立場からみれば、彼のいう「より高い完成」「はるかに完全な生命」とは「仏界」のことであり、三世永遠に崩れざる絶対的幸福の「我」の確立のことであるといえよう。
 すなわち、この人生は、「仏界」という、最高にして完全な生命の「我」の覚知をめざして進んでいる途中の「段階」であり、「準備」の修行の存在であるといってよい。
11  彼はさらにこう述べている。「人類の人倫的な進歩に寄せるこの希望の力を、或る新しい理想によって信仰に変えるすべを心得ている者は、その世代の指導者となる」と。
 つまり、希望とは、「新しい理想」の実践によって、生活に根ざした「信仰」とならねばならない。そうなってこそ、はじめて現実に、人々をより高く、より幸福な生命の段階へと導いていけるというのである。
 「そのすべを心得ている者は、その世代の指導者となる」とは、これこそ、皆さま方、広布の指導者のことである。この意義を自覚していただきたい。
 このように一流の人物が教えていることは、仏法の序分、流通分となり、正義に対する側面からの大切な証明となっていくのである。
 ツヴァイク自身は残念ながら、妙法を知らなかったし、最後は現実の壁に敗れ、自殺している。ユダヤ民族は、迫害に耐え、悪戦苦闘の歴史を刻んできたゆえであろうか、苦難と戦う実践のなかから生まれた、結晶ともいうべき珠玉の哲理を生んだ多くの人材を輩出している。
12  なにごとも一時的、表面的な見方では、わからないものだ。かつて世界に覇を唱え、この上なく繁栄した国々も、時とともに、そのカと輝きを失っている。栄枯盛衰は世の常である。この厳しき法則は、個人においても、一家、組織、国家においても、同様に免れえない。
 すべては”変化”していくものだ。その変化の根源にあって常住している法が妙法なのである。妙法を根本にしたとき、いっさいを良き方向へ、良き方向へと”変化”させていけるのである。ゆえに皆さま方は”仏法は勝負なり”を胸に、どこまでも朗らかに悠々と前進していただきたい。
13  この長野研修道場には、多くの人々の真心の作業によって、たくさんの美しい花が咲いている。夏の季節に、これだけの種類の花が咲きかおっているところはこの地では少ないと思う。私が研修道場を訪れたときも、婦人部の方々が花の手入れをしておられた。その姿はまことに美しかった。
 指導者となる皆さまは、どうか、そうした細かなことに心を配る人であってほしいし、陰の方々の労をつねにねぎらってあげられる豊かな心の持ち主であっていただきたい。いくら大きなことを言っても、そうしたことのできない人は、その人自身の心が貧しいといわざるをえない。
14  この研修道場は、冬は厳しい寒さにつつまれる。その厳しい冬を経て、春を迎え、夏となる。夏は短く、またたくまに秋となり、再び厳冬を迎える。春夏秋冬の織りなす四季とともに、この研修道場から多くの人材が成長し、広布の舞台へと羽ばたいていっている。
 中国の思想家・韓非は、周公の言葉として次のようにいっている。
 「冬日の閉凍や団からざれは、則ち春夏の草木を長ずるや茂からず」と。
 これは、冬の日に大地を固くとじ凍らせる厳寒がないと、春から夏にかけて草木が勢い盛んに茂るにはいたらない、という意味である。
 人生もまた同じである。艱難辛苦を経なければ、ほんとうの人生の繁栄も、真実の人間の完成と偉大な勝利も得ることはできないのである。
15  人生には、さまざまな困難や労苦があるものだ。それを思うとき、青春時代から享楽的な、満ち足りた生活のみを送っていて、苦難にあったときに、はたしてそれを乗り越えていく力をもてるのかと、心配に思う。やはり若き日にさまざまな試練、苦難を経てこそ、総仕上げの人生を飾り、勝利の栄冠を得ることができるのである。ゆえに、青春時代の苦難や試練を絶対に避けてはならないと申し上げたい。
 いまや社会には、いたるところで”快楽”がはびこっている。快楽を求めることのみにきゅうきゅうとしている人が多い。しかし、人生は厳しいし、どんな宿命が待ちうけているかわからない。また、だれ人たりとも死んでいくときは自分一人である。だれも助けてくれるものではない。人生の最終章を、心から”安楽”で悔いなく飾っていけるかどうか、それは若き日の”厳冬の鍛え”によって決まるといっても過言ではない。年配になってから鍛えようとしても容易ではない。皆さまはそのような、悔いを残す人生であってはならない。
 ”安逸にみちたぬるま湯のような社会”であったとしても、そのなかで自分自身を磨き鍛えて、成長への”中道の人生”を歩みゆく人にこそ、真実の幸福が輝いていくのである。

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