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京都広布30周年記念勤行会 民衆こそ”大知識の人”

1986.6.15 「広布と人生を語る」第9巻

前後
1  かつて、この京都の地に、平安寺を私の発願で建立し、当時の総本山第六十六世日達上人に御寄進申し上げた。
 そのさい日達上人は「京都は弘教ができますかね。広宣流布は、日本中で一番最後の地になりそうですね」とユーモアをまじえながらいわれていた。私は「仏教界の中心である京都に、弘教の道を開くことは、ひじょうに大きな意義があることです」と申し上げたことがある。
 それから二十三年、京都の創価学会の前進、今日の発展は、まさに奇跡的な出来事であったし、広布史上、じつに大きな意味をもっているといわざるをえない。これも御本尊の御カであることはもとより、皆さま方の強い信力、行カのたまものであり、また県長を中心とする見事なる異体同心の結晶である。日蓮大聖人もかならずや御称讃のことと思う。このようなもっとも旧習の深いなかで、よくぞこれほどの広布の道を開いてくださった。その功徳は深く永遠に皆さま方の人生に輝いていくにちがいないと、心から讃嘆申し上げたい。
2  京都には広布の壮大なる基盤ができあがった。人材の流れも続いている。すばらしいことである。三十年前には、このような京都広布の大発展と黄金の基盤が築かれることを、だれが予測したであろうか。
 当時、初代支部長は宮下芳郎さんで、初代婦人部長は丸鈴子さんであった。お二人とも今は尊い生涯を終えられたが、京都広布の今日の隆盛は、このお二人を軸として、京都の天地を東奔西走された先達の方々の偉大なる功績であり、それが「因」となり、今日の大発展の「果」が実っているわけである。この地に未来に洋々と開けゆくすばらしい広布の舞台が築かれたことを、私は心からたたえたい。
 環境が人をはぐくむというか、宮下さんは、京都らしい”公達”のようなふぜいがあった。丸さんも、十二単衣がよく似あうような大宮人を思わせる方であったし、京都にふさわしい草創のリーダーであった。また、現在の若きリーダーである上田京都長は、どこか”義経”を思わせる(笑い)、将来を期待されるリーダーである。これからも上田京都長を中心に、
 二十一世紀の新舞台をめざして、大いなる前進をしてゆかれんことを願ってやまない。
3  『新・平家物語』にみる人生観と幸福
 先日、私は、東京でも吉川英治作『新・平家物語』の最終シーンについて語ったが、ある京都の方から「もっとくわしく、その物語について聞きたい」との手紙をいただいた。また、論じたいテーマもいくつかふくまれているようでもあり、ここで再び『新・平家物語』を引用しながら話を進めていきたい。
 私は、小さいころから新聞記者や編集の仕事を希望していた。その願いどおり、戸田先生のつくられた日本正学館で雑誌の編集者となった。そのときに、多くの著名人に会えた。
 詩人の西条八十氏や『徳川家康』の山岡荘八氏、またユーモア小説の作家として知られた佐々木邦氏などの作家と会い、種々語りあえたことは、若き日の私にとって大きな喜びであった。
 吉川英治氏にも、ぜひとも一度お会いしたいと思っていたが、残念なことに、とうとうその機会がなかった。
 私が会長に就任した二年後の昭和三十七年に氏は逝去された。私のゆきつけの学会員である理髪師から聞いたことだが、吉川氏も慶応病院に入院中、その理髪店を利用しており、そのさい創価学会に深い関心をもっている旨、話されていたという。学会の出版物を読んでいたようでもあり、友人からも学会の話を聞いていたような口ぶりであったそうだ。一度、話をする機会があれば、いかなる語らいとなったか――。知遇をえなかったことは、今も残念でならない。
 氏は『親鸞』という作品を著している。そのはか、氏の多くの著作の根底には仏教思想に通ずる考え方があったようだ。
 それはそれとして、『新・平家物語』には、人生や幸福などについての、吉川氏の鋭い考え方があざやかに描かれているし、「人間」こそ、その物語を貫く最大のテーマといってよい。
4  戸田先生は、よく私たち青年に、訓練として小説を読ませたものである。それも、すぐれた一級の小説、名作を読んでいかなければならないとの信念であられた。私も戸田先生の指導のもとで真剣に読書をしたことが、若き日の忘れられない思い出となっている。
 戸田先生は、いっしょに小説を読みあうなかで、「ここは、十界論でいえば、修羅界の状況を描いている。ここは、天上界だ」といったように、仏法のうえからの見方を具体的な場面を通して、一つ一つ私たちに教えてくださった。
 また、仏法の眼で名作を読んだことが、大聖人の御書を拝したときに生かされ、いっそう深く仏法の世界に入っていくことができる。とともに、御書を拝して、さらに小説を読んでいくと、幅広いものの見方に立って、何が根本で、何が枝葉で、何が花かをきちっと見極めながら、味わっていける。その関連性が大事だ――との指導もよくうかがった。
5  吉川氏の『新・平家物語』では、とうぜん、その主人公は、平清盛とか源義経とか頼朝といった歴史上の人物になるわけであるが、作者自身、「この小説には、小説的約束の主人公はない。しいていうならば主人公は”時の流れ”である」と書いているように、一歩深くみると、その一貫して変わらぬ歴史観を織りなしているものは、”時の流れ”を生きぬく”庶民”であり、庶民の哀歓が物語に息づいている。そこに氏の大衆文学者としての偉大さがあったといってよい。
 人間はこう生きるべきだ、人間の真実の幸福からみれば、限られた一生における栄枯盛衰などは、一陣の風の前の塵にすぎない――との吉川氏の一貫した主張が著作に脈打っているように、私には思えてならないのである。
6  この小説の有名なラスト・シーンには、麻烏と蓬の老夫妻が、美しい吉野山の桜を眺めている姿を描いて、波乱万丈の長きドラマを終わっている。清盛の青年期から義経、頼朝の死にいたるまでの半世紀を生きぬき、すべてを見届けた一組の夫婦。この無名のふたりを小説の真実の主人公とし、ふたりの”幸”の姿を描いて全編を終わっているというところに、吉
 川氏は自分の人生観をたくしていると私は思う。”自分はこのように生きてきた。これが本当の人間の生き方である”という著者自身の信念が根底にあるにちがいない。
 麻鳥は、上皇の水守として人生を出発したが、やがて人々のためにとの思いから独学で医学の勉強を始める。彼の願いは”町の片すみに住み、貧者の友になりながら、生涯、凡々と暮らしてゆきたい”ということである。これが彼の人生観であった。
 私も、彼の願いのような人生を送りたいと思っていた。使命のゆえに、また立場上、願いどおりにはならなかったけれども――。平凡に見える着実な歩みのなかに、生活のなかに、また社会のなかに、偉大なる”人間”としての光を放っていく。この歩みの尊さを彼は自らに言いきかせながら、そうした生き方に徹したにちがいない。
 麻鳥はやがて、医者としての自分を磨き、病に若しむ貧しい友を救っていく。また義経に軍医として従軍したこともあった。そのさいには、負傷者が平家方であろうが、源氏方であろうが区別なく、懸命に治療し、救っている。彼の振る舞いは、現在でいえば「赤十字」の精神といえようか。
 さらに根底においては、菩薩道ともいうべき行動と私には思える。
7  ある幹部の子供が、交通事故に遭った。その幹部は、どちらかというと傲慢なタイプであり、私が心をくだいていた一人でもあった。そのとき、多くの学会員が親類以上に心配し、駆けずりまわって、さまざまな世話をしてくれた。そのことに感動した彼は、それ以来、謙虚になり、「これほどまで面倒をみていただいた」と涙しながら体験発表していたという。
 こうした尊い例は、創価学会の世界では枚挙にいとまない。学会の世界における、友を、そして人々を心から大切にし、守りあっていく姿勢は、皆さまのご存じのとおりである。
8  麻鳥は、戦乱のため京の町にふえる捨て子たちを、何十人も面倒をみている。また、無類のお人よしでもあった。
 一方、妻の蓬は、義経の母である常磐御前に仕えていた、ごく平凡な女性であった。お人よしの夫に対して、ロやかましく文句をいったりしている。妻というのは、昔から、またニューヨークでも、東京でも、みなそうした傾向があるようだ。(爆笑)この京都や関西のご婦人方は違うと思うが。(笑い)
 しかし、その妻が、最後には「よくよく、わたしは倖せ者だったのだ。これまで、世に見て来たどんな栄花の中のお人よりも。……また、どんなに気高く生まれついた御容貌きりょうよしの女子たちより」と幸福と感謝をかみしめるのである。
 また、蓬は、ほんとうの人情、人間の美しさについても、次のように語っている。
 「栄花や権勢は、うわべだけの物でしかない。九重の内(殿上)に住む人びとと、貧しいちまたに生きている人びとをくらべれば、かえって、ほんとの人情や、人間の美しさは、公卿の社会より、貧者の町の底にあると。……それは、つくづく本当だと思いました」
 私も、そのとおりであると思う。私はこれまで多くの大統領や識者とも会ってきたし、多くの無名の庶民の方々とも語りあってきた。たしかに、社会的な立場が、そのまま幸せを意味するとはかざらない。立派なビルディングを持っていても、また名門の出であっても、政治家になったとしても、それじたい、けっして真の幸せとはならないことを、私は仏法者として知悉している。
9  麻鳥は「(身分は低いが一生懸命働く職人は)院の殿上(宮中)などで、よくない企みに日を倫んでいる公卿方よりは、なんばう、ましな人間であるかしれぬ」と語っている。まさに、真実を見極めた言葉であると思う。
 さらに「人おのおのの天分と、それの一生が世間で果す、職やら使命の違いはどうも是非がない。が、その職に成り切っている者は、すべて立派だ。なんの、人間として変りがあろう」と述べている。
 「社会」というものは、さまざまな職業の人がいて成り立つものである。みなが教師であっても、みなが豆腐店を経営しても、またみなが政治家であっても成り立たない。その意味で、職業の差異はあるが、貴賊はない。どの仕事だから偉いとか、どの仕事だから偉くない、という考えもまちがいである。
 いわんや仏法の平等大慧の法理からみるならば、職業で人間を推し量るようなことがあっては絶対にならない。自己の使命に徹しきった人こそ偉いのである。
 人の世の姿は、仏法の三世永遠、本有常住のうえからみれば、はかなくうつろいゆく波のようなものである。また、京都というこの古の美しい都にしても、「九識心王真如の都」という生命究極の境地からみるならば、はるかにはかないものかもしれない。
 本有常住の永遠の都は、自身の肉団の胸中にしかないし、唱題に励むなかにしかないことを知っていただきたい。
10  大切な真心の激励
 きょうは「父の日」である。このなかにも、父のいない方もおられるかもしれない。そうした方についても、生き方の参考になる話が、この『新・平家物語』にはある。
 仏法は、すべての人を対象としたものであり、私もつねにさまざまな立場の人のことを考えている。ことに、貧しく経済的に恵まれない人や、悩みをかかえて苦しんでいる人のことを、いちばん念頭におくように心がけている。そうした姿勢のなかに生きた仏法があり、日蓮大聖人がお示しになった大慈大悲の教えがあると確信している。また、それが学会精神でもあると思う。
 青年たちのなかにも、経済的に恵まれ、華やかな結婚式をあげて、新たな人生のスタートをきる人もいる。一方、父親がなく、お金をかけずに数人の友人を招いてささやかな挙式をし、新出発を期す人もいる。私はむしろ、貧しくも苦労しながら、けなげに人生を生きようとしている人たちに最大の励ましをおくりたい。いな、そうしなければならないのが、仏法者の責務と思っているからである。
11  平清盛には、出生の秘密があった。白河上皇の落胤とも、悪僧の不義の子ともいわれるが、真相は定かでない。若き日の清盛は、そのことで深刻に悩んだようだ。この世に生を享けた一人の人間として、とうぜんの悩みであったろう。
 そのとき、古くからの家臣で、清盛のいわば”おじじ”の存在である木工助が、清盛にこう言う――「たとえ、兵の父御が、たれであろうと、和子様だけは、まちがいなく、一個の男の児ではおわさぬか。(中略)こころを大々と、おもちなされい。天地を父母とお思いなされや」と。
 なんと心あたたかく、また力強い激励の言葉であることか。
 これは、恵まれた環境に育った有識者の忠告ではない。また目上の人からのアドバイスでもない。家僕、それも一介の庶民による、率直な言葉にすぎない。しかし、その一言が清盛を奮起させ、天下への道を歩ましめたのである。庶民の真心の激励がいかに大切であるか。また、いざというときに、庶民こそ真に頼りがいのある存在であることを痛感せざるをえない。
 学会にあっても例外ではない。たとえば「言論問題」の嵐の渦中、幹部にも動揺がみられたなかで、第一線のある婦人が、私に確信に満ちた言葉でつづった励ましの手紙を送ってくださったことがある。――このくらいのことで私たちは微動だにしません。どうか先生、安心してさらに広布の指揮をとってください、と。
 この言葉に、どれほど勇気づけられたことか。私はしみじみとこのとき、広布の第一線は盤石であると実感した。こうした真心あふれる同志の方々を守りぬき、庶民の幸福への大道を開きゆくことが、私の目的である。今後もその大目的のためにいちだんと奔走していく所存である。
12  権威に屈せぬ信念の生き方
 若き日の清盛の友人が「陽あたりのわるい堂上(殿上)では、ややもすると、物の怪だとか、壕れだとか、やれ舌端の凶兆のと、のべつ他愛ないおびえの中で暮しているが、おれたち、陽あたりのいい土壌の若者には、そんな迷信など、とるにも足らん」と語っているくだりがある。
 いかに人間の執着というものが他愛ないものであるかを看破している言葉として、印象に残っている一節である。つねに人気にふりまわされて生きている人たち、あるいは人にお世辞を使って生きなければならない人たちは、表向きがどんなに華やかに立派そうに見えても、その内は”人気がなくなったらどうしよう”とか”見破られるのではないか”と、つねにお
 びえながら体裁をつくろっているものである。これこそまさに「陽あたりのわるい堂上」で迷信にふりまわされて生きている殿上人を思い起こさせよう。
 それに対して、私どもは、虚栄も何もない、赤裸々なありのままの人間である。日蓮正宗の信徒として、また地涌の菩薩の眷属として日々活動している広宣流布の闘士である。いうなれば、「陽あたりのいい土壌の若者」であるといってよい。ゆえに、信念に生きる私どもにとって、世間がとやかくいおうと、とるに足らないことである。そうしたことに紛動されて信念を曲げることほど愚かなことはないのである。
13  同じく『新・平家物語』に「人間とは、困った生き物ではないか。(中略)釈尊にいわせると、人間とは、一日中に、何百遍も、菩薩となり悪魔となり、たえまなく変化している善心悪心両面のあぶなっかしいものだとある。それが貴族から乞食まで、食い余る者、食えない者、寄り合い世帯の世の中だ。ひとつまちがえば、血をながすのはむりもない」「けれど、人間にとって、なによりの毒は、権力だよ。権力の魅力というものほど、摩訶不思議な毒はない。この毒を舐めた人間が、乱を起こす。あるいは、乱を仕向けられる」とある。
 まことに人間の心は移ろいやすいものだ。今まである人に好意を感じていても、次の瞬間には、嫌悪感にとらわれてしまうことさえある。たえず変化していくのが人間の心である。
 なかでも、もっとも恐るべきは、人間の心に巣くう権力の魔性である。正しきものを踏みにじり、宗教を弾圧し、人々を苦しめてきたのも権力である。それが、歴史の教える、人生と社会と国家というものの実態である。権力によって骨抜きにされた宗教も少なくない。そうなっては断じてならない。権力、権威に屈しては、信仰を失い、仏法の骨格を失ってしまうからだ。
 その意味からも、私どもは正邪の本質を鋭く見極めながら、同時に何ものをもおそれぬ”人間共和の世界”を築いていかなければならないと訴えておきたい。
14  人生における「難」と「信」
 さらに、人生における「難」ということについて吉川氏は、こう書いている。「人間には、だれの身にも、生涯の大難といったような場合が、一度や二度は、無くてはすまないものかも知れない」と。
 たとえ仏法を信じていても、信じていなくても、人生には大なり小なり「難」は避けられないものだ。この厳粛なる事実への、平生からの透徹した覚悟が大切になってくるわけである。
 また、氏は「人間のほんとの成長とは、たれも気のつかないうちに、土中で育っているものである」と書いている。しかし「人がいいはやすのは、地表の茎や花でしかない」と。
 ある意味からいえば、土中とは、わが生命の肉団であり、人間としての内なる境涯といえる。世間というものは表面に現れた目に見える茎や花、すなわち一時の外見の姿のみで、艮いとか悪いしか、身勝手に論じるものだ。しかし、たとえば商売の成功と失敗等の、人生の浮き沈みと、人間としての偉さとは、別問題である。要は虚飾をはぎとった、赤裸々な人間、生命としての成長と完成をどう実現していくかであり、ここに正しき信心による修行が必要になってくる重要な意義がある。
15  人間にとっては何らかの「信」というものが、どうしても不可欠である。そのことを、この小説では、次のように述べている――。
 「人間は人間である以上、無意識にも、何かにすがって、生きている」
 「――いや、おれは依存を持たない。おれはおれだけで割りきって生きている。――という唯物主義者も、唯物の信徒にはかならない者だし、唯物も唯心も、愚として冷笑する虚無主義者も、虚無という独信のうつろに、あぐらを組んでひとり悦に入っている婆羅門の行者と、どこか、似かよっている」と。
 そして、人間にとって最後は何が大切であるかの結論を著者は述べる。「衆生は、理念には、悩まない。かれらはただ生きあえぐ本心の底から、ただこの世の『美』と『信』とを持ちたいだけのことだった」と。
 人の「心」の奥底の願いを洞察した言葉として、味わうべき一節ではないか。
16  大衆は賢明な存在
 明治・大正・昭和の三代にわたって活躍したジャーナリストであり、朝日新聞の「天声人語」の執筆者でもあった長谷川如是閑氏と、吉川英治氏との対談で、「大衆」がいかに賢明な存在であるかについてふれているところがある。
 この対談のなかで、吉川氏が語っている。「大衆っていうものは、ぼくら作家として見ると、大衆は実に大知識と思うしかありませんね」と。
 大衆ほど豊富な知識をもった存在はない。まことに賢明である。たとえばテレビで政治家の政見放送を見ていても、”この政治家は口はうまくても心が黒い”とか、表面的にはどんなに美貌で華やかでも”心根が卑しく貧しい”というように、大衆はじつに鋭く相対する人物の心を射ている。
 このように真実を見通す知恵と判断力をもった大衆は、別の意味からいえば、まことに恐ろしい存在と知るべきなのである。
 大衆はまた、すべてが赤裸々であり、そこには何の虚飾もない。学会が永遠に民衆の味方としての運動をくり広げている根拠もここにあるわけであり、これがまた、私の一貫して変わらぬ生き方でもある。
 吉川氏がつねに「大衆という大知識を対象にして筆を執っている」のに対して、長谷川氏も対談のなかで「それはそうなんだ。道徳でも宗教でも、大衆の採るものが一番正しいんですよ」と述べている。さらに吉川氏が「それを胡麻化したり、テクニックだけで維持することは出来ませんね。(中略)大衆は欺かれたりするものでないんです」と言えば、長谷川氏は「大衆が一番かしこいんでね。(中略)社会的生活が大衆によって保たれているということで、大衆が崩れちゃえは社会が崩れちゃう。インテリが死のうと生きようと関係はない」とまで断言している。
 そのゆえに吉川氏は「その大衆を相手にしているんだと思うと、こわくなっちゃうんですよ。厳粛にならざるを得ないですよ。自分の身を削らずにいられなくなっちゃうんです」と結論している。
 いうまでもなく私どもの広宣流布の運動は、民衆運動にはかならない。日本の未来、さらに世界の将来を明るくしていくためにも、私どもはこのことをいちだんと自覚していきたいものである。
17  「朝の来ない夜はない」を銘記
 未来を担いゆく若きリーダーに申し上げておきたいことは、吉川氏がいうように「朝の来ない夜はない」ということである。
 これは、頼朝が旗揚げをして一度敗れたときの模様を描いた一節である。
 「『――何しろ放けた』
 顧朝は、自分へむかっていいきかせる。(中略)
 『こういう目に遭ったのもよいことだったと、後にはいえるかもしれぬ。落命しては、おしまいだが、一命だけは、とりとめた。みろ、わしはまだ生きている』(中略)
 敗軍、破滅。当然あらゆるものは失った。けれどなお、この生命、三十四歳の若い五体。まだ、それがあると気づいたとき、惨たる不運のすべてが、ほのぼのとした、よろこびに変わっていたのだ」と。
 私も、この精神で、これまで進んできた。とくに若いリーダーの方々は、長い人生にあってさまざまなことがあるにちがいない。人生に挫折することも、また、大切な勝負に負けるなど、苦悩の波浪にあうこともあるだろう。しかし、どのような状況におかれたとしても「朝の来ない夜はない」との決意を心に刻んで、勇気をもって生きぬいていただきたい。
 最後に、京都広布三十五周年、そして四十周年の福徳が、皆さま方の生命と生活のうえに朝日のごとく輝きゆくことを心から祈りたい。本日お会いできなかった京都の各地域の方々に、よろしくお伝えいただきたい。

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