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婦人部結成35周年、第15回滝山祭の記… ”小さを人生観”より”大きを人生観”を

1986.6.10 「広布と人生を語る」第9巻

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1  本日は結成三十五周年にあたる「婦人部の日」である。ただいま、三大秘法の御本尊に、日本いな全世界のお母さん方、また地涌の友として日夜、広布に活躍しておられる大切な婦人部の方々の、ご健勝とご多幸とご長寿を深くご祈念させていただいた。さらに、創価大学に学ぶ諸君の人生が順調で幸福な歩みであるようお願い申し上げるとともに、七月に開催される滝山祭の大成功を心からご祈念させていただいた。
2  仏は、衆生を救わんとして、衆生の横根に応じて出現される。ゆえに衆生を救おうとしない仏はいない。
 われわれは御本仏日蓮大聖人の門下として、この世界に幸福な楽土を築きゆく広宣流布をわが誓願としている。多くの人々の幸福を願うことは、仏法者、信仰者としてのとうぜんの責任であり、義務である。つまり、悩める人々のために、どのようにつくしていくか、この一点に、われわれの日々の活動の目的があるわけである。
 この尊い労作業には多くの苦労と苦難がともなうのはとうぜんである。体も疲れるだろうし、ときには健康を害すこともあるかもしれない。しかし、だからといって、信仰者としての使命と責任を果たしきっていけないような弱いリーダーであってはならない。
3  学生部の皆さん方は、お父さん、お母さんを心から大切にしていただきたい。
 まず女子学生のメンバーに申し上げたいことは、一般に母親と娘とは、同性のせいもあってか、たがいを見る目がきびしくなりがちなため、かならずしも仲が良いとはいえない傾向がある。これは人間の本性に根ざしたもので、いたしかたない面もあるかもしれない。しかし、そうした傾向に負けているとすれば、それは人間としてわびしい姿であると私は思う。
 若き学徒として、立派に教養と学問を積み、人格を高めていくべき立場にある皆さま方は、家庭にあっても一個の自立する人間としてお母さんを心から大切にし、励まし、また包容していってほしいと思う。良き娘として、お母さんの心のひだまでくみとろうと努めながら、仲良く生きていくべきであり、それがたがいにもっとも幸福であると私は信ずる。このことは、お母さんが信心されていても、されていなくても同様である。
 母親と娘の関係とは逆に、父親と娘というのは通常、たいへん情愛がこまやかなものがあるといえよう。
 法華経では「竜女」の成仏が説かれているが、これは「竜」は父、「女」は娘を意味して父娘同時の成仏を表し、父と娘の一体性を象徴している。
 社会においても、父娘は概して仲が良いものだ。ゆえに、とくに娘が嫁いでいくときの父親などは、どんなに表面はつくろっていても、かげで、また心で泣いているものである。それはもう寂しくて寂しくて、耐えがたいというのが真情であろう。こうした娘へのせつないまでの思いが、父親の本質的な性なのである。
 一方、娘の方では、いったん恋愛におぼれてしまうと、そうした父親の心情を思いやるゆとりもなくなり、有頂天になって、自分を中心に世界が回っているような錯覚にさえ、とらわれがちになるものである。父親の心配や悲しみをよそに自分を見失っていく。それは、いつの世でも父親が順番に経験する”宿命”といえるかもしれない。しかし、皆さん方は、聡明な心やさしき娘として、こうした父親の心を深く理解してあげられる人であっていただきたい。
 息子の方はといえば、母親にはなつくが、成長とともに父親とは心が疎遠になっていく傾向がある。
 ともあれ、宿縁深き父母に対しては、最大限に愛し、包容し、大切にしていくべきであると私は思う。将来は、立派な社会人となって、両親には十分に楽をさせてあげたい、また世界中を旅行させてあげよう、日本中のおいしい料理を食べさせてあげよう、というぐらいの広々とした心があってよい。とくに母親というのは、そうした子供の気持ちだけで喜び、幸せを感ずるものである。
 母親というものはまことにありがたいものである。古今東西、共通して”父親が無くとも、母親がいれば子は育つ”とさえいわれるほどである。
 その意味において、一家の”太陽”としての母親の存在は、このうえなく貴重なものである。そのうえ、わが婦人部の皆さま方は、日夜けなげに広宣流布の活動に励んでおられる。この世にこれ以上、尊い姿はない。
 私は、全婦人部の嘗さまのご多幸を、先ほども御本尊にご祈念させていただいたし、また、日々、深くご祈念させていただいている。
4  次に、創価大学の学生、とくに男子学生に申し上げておきたい。
 学生部の諸君のなかには、広布への活動と学問の研鎖の両立がむずかしいと、悩んでいる人も多いようだ。これは学生部にとってひとつの大きな課題ともいえる。
 ここに同席している篠原副会長、岡安副会長をはじめ、亡くなられた飛田総務、また青木副会長、森田副会長、谷川学生部長、石渡高等部長、林副学生部長等々、東大卒の幹部を何十人、何百人と私は知っている。彼らはみな、学問と信心を立派に両立させてきた。これが勝利者の姿である。苦労して自分を磨きに磨いたがゆえに、広布の指導者、力あるリーダーとなっているのである。
 そのメンバーに共通しているのは、”ハラのすわった”生き方を貫いていることだ。”ハラのすわった”人は、なにごとにつけても強い。同じ人生行路、同じ苦難の旅路にあっても、性根のすわった人は、身も心も軽く、目的の地まで歩みゆけるものだ。反対に”ハラのすわらない”人は、どこか弱々しく、みえっぼりであることが多い。小さなことに紛動され、目先
 の価値観にふりまわされてしまう。要するに、強靭なる自分がないのである。
 ゆえに強き「一念」に支えられた”ハラのすわった”生き方が大切である。では、いかなる指標に、自らの「一念」を定めていくべきか。
 真理を探究する学問も、たしかに正しい指標には相違ない。しかし、最極の生き方を指し示した指標は妙法以外にはない。ゆえに妙法広布に「一念」を定めることが、最高の自分を構築し、尊き覚悟の人生を生きゆくことになるのである。
5  ”小さな幸福””小さな人生観”に自ら満足してはならない。あくまで”大きな幸福””大きな人生観”に生きぬいていくべきである。つまり、狭く小さな境涯では意義ある人生は築けないし、広大なる境涯こそ人生を最高に意義深くすることを知っていただきたい。
 そして、最高の幸福、人生、境涯を築きゆくことのできる妙法の信仰に”ハラをすえ”て取り組んでいただきたいのである。
 日蓮大聖人の仏法には、宇宙がある。世界がある。そして現実があり、生活がある。さらに永遠があり、社会がある。また、一人ひとりを救済する人間がいる。自分自身を向上させる源泉でもある。
 ゆえに、この仏法に生きぬき、最大の人生と境涯を築いていっていただきたいのである。
 諸君は、後世の無上の宝となりゆく、大切な方々である。私は、全員が将来の大人材へと成長しゆくことを確信し、また日々、御本尊にご祈念させていただいている。どうか、信心と学問を立派に両立させながら、悔いなき栄光の青春時代を過ごしていかれんことを強く念願している。

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