Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第1回静岡県本部長会 自身の胸中に”金の日記”を綴れ

1986.5.31 「広布と人生を語る」第8巻

前後
1  新鮮で魅力ある会合を
 座談会、協議会など創価学会の会合は、いうまでもなく、すべてが各人の信心向上と地域広布のための集いである。ともどもに御本尊を拝し、広宣流布に進みゆくための大切な集いである。このことは、永遠にわたる学会の伝統であるといってよい。
 しかし創意のない”十年一日”の会合のもち方では、みずみずしい信心の息吹を参加者に与えることはできない。つねに新鮮な指導がなければならないし、会員の皆さま方が心からホッと安心できるような集いでなくてはいけない。
 ましてや、命令的な口調で、出席者に怖い感じを与えるような会合は、時流を度外視した集いといわざるをえない。それでは、民衆をびきつけ、歓喜と発心の波を広げゆく信心の会合とはならない。
 私どもの信心の集いは、参加者に安心と勇気と希望、そして”参加してよかった”という深い生命の喜びを与えゆくものでありたい。
 広宣流布のリーダーは、この点を、よくよく銘記してほしい。また、そのために自分自身の不断の研鑽と精進を忘れないでいただきたい。
 民衆の心を豊かに開きゆく魅力ある会合が開催できるかどうかは、広宣流布のリーダーが会合のためにどれだけ心をくだき勉強し、深き自己錬磨で自らの境涯をいかに高めうるかにかかっているといえよう。
2  熱海の旧会館は予算的な事情もあり小さく質素な木造の建物であった。それだけに防災の点で、さまざまな危倶があったこともいなめない。
 それにくらべ、この新装なった文化会館は安全面など十分に考慮されており、まことに安心できる建物である。地域・近隣の方々にも喜ばれ、安心していただけると思う。その意義からも、清潔で安全な文化会館の建設が、地域に信頼と友好の輪を広げ、長い目でみたときに広範な弘教・折伏へとつながってゆくことを確信されたい。
 また、隣接する静岡研修道場も、かつては古い木造の、あたかもマッチ箱のような建物しかなかった。冬などは室内であってもたいへんに寒く、”研修”とはいっても、結果的に風邪をひきに来たような始末であった。(笑い)
 また、隣県の神奈川研修道場も、昔は暖房設備が不十分で、これまた寒いこときわまりなかったことを記憶している。厳寒期は、ねまきの下に新聞紙を重ねて、寒さをしのいだりしたものである。研修の友が草刈りに汗を流し、また、水も十分でなかったところからトイレも不衛生で、小田原まで水をもらいにいったこともあるほどだ。
 しかし、こうした苦難の歴史があって初めて、今日があることを知っていただきたいのだ。この間の苦闘は、まことに尊い労作業であり、同志の一人ひとりにとっては自己を錬磨しゆく信心の修行であった。ゆえに、その労苦の思い出は、管理・建設等にたずさわった全関係者の生涯の誇りとなっているのである。
 とくに若き後継のリーダーの万々は、現在の学会の堅固な建物が、すべて、そうした功労の方々の仏道修行の尊い結晶であることを、けっして忘れてはいけない。
3  如来寿量品の「寿量」の意義
 前の熱海文化会館の建物にも「寿命」があった。また、隣の研修道場も同様である。このように草木にも寿命がある。人間にもいっさいの動物にも寿命がある。また大は地球や火星、水星にも、小は細菌にいたるまで、森儲万象に「寿命」というものがある。
 つまり、宇宙のいっさいの万物は生老病死、成住壊空の理をまぬかれることはできない。大聖人は、「生」「老」「病」「死」を「金」「銀」「銅」「鉄」ととらえられ、「生」の人生は「金」であり、ゆえに光り輝く人生でなければならない、まして御本尊を信受した私どもは「真金の人」であると、仰せになっておられる。
4  「寿量」の「寿」という語は、ご衆知のようにおめでたい意味であり、結婚式などにも使われている。
 「寿」という言葉には、一般の辞典等によると、老人の寿命の長く久しい意で、いのち、とし、ことほぐ、といった意味があるようだ。
 また、寿量の「量」には、ふつうは、ほかる、みつもる、おしはかる、思案する、といった意味があるとされている。
 寿量品は申すまでもなく、私どもが日々読誦している経文である。それは私どもの仏法の、基本中の基本であり、根本中の根本であるから、その意義について学んでおきたい。
5  寿量品得意抄には「されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」、「所詮しょせん寿量品の肝心南無妙法蓮華経こそ十方三世の諸仏の母にて御坐し候へ」と仰せである。これは寿量品が釈尊一代の説法の眼目であることを説かれている。
 その寿量品の「寿量」とは、如来の功徳を量ることをいう。
 御義口伝下の第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事には「文句の九に云く如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり別しては本地三仏の別号なり、寿量とは詮量なり、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す故に寿量品と云うと」と御教示されている。
 つまり、法華経の文上においては、まさしく本地三仏の功徳を詮量することが寿量品の意である、との仰せである。そして、釈尊が爾前、迹門と説いてきたインド応誕の始成正覚の迹をはらい、本果妙、本因妙、本国土妙を合わせ説いた三妙合論のうえに、久遠実成を顕したことが、釈尊の出世の本懐にほかならない。ゆえに、久遠実成五百塵点劫成道の法身仏、報身仏、応身仏の功徳を詮量することが、文上における至極の義となるのである。
 文底下種仏汝からみれば、五百塵点劫成道の三仏といえども、迹中化他・有為無常の仏身となり、久遠元初の無作三身如来が本地三仏となるのである。
 久遠実戊の釈迦如来は垂迹化他本果第一番成道の仏身であるから、いまだ常住の体そのものではない。そこに文上と文底の義の根本的な違いがある。大聖人のみが文底を説き明かされたのである。
 その文底から寿量品を拝するならば、そこで説かれた如来とは、久遠元初の自受用報身如来、すなわち御本仏日蓮大聖人の御事であり、その所有の法こそ三大秘法の南無妙法蓮華経である。ゆえに、寿量品の「寿量」とは、その如来の功徳を顕すことであり、久遠元初以来、無姶無終の仏であられる大聖人の永遠にわたる南無妙法蓮華経の法カ、そして功徳を説き顕されたのが寿量品の意義なのである。
6  御義口伝には「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の儘なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成まことにひらけたり無作と開けたるなり云云」と仰せである。
 久遠元初以来、宇宙とともに本有常住の実在である「無作三身如来」こそ、末法の御本仏日蓮大聖人の御生命即南無妙法蓮華経であり、寿量品の深義は、この大聖人の無作本有常住の生命を説き明かしたところにある。
 「源遠ければ流れ長し」との言がある。もしも「源」が近く浅い宗教・思想であれば、人々をうるおしていく「流れ」もまた短いのが道理である。
 その意味において、久遠元初という深遠の「源」に発する日蓮大聖人の仏法の「流れ」こそ、もっとも長く、永遠に人類をうるおしていく法である。その「久遠の法」をたもつ人もまた、永劫にして最高に豊かな功徳に洛していける人なのである。
 観心本尊抄に「仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なり」との有名な一節がある。久遠の「本仏」は、すでに過去に滅することなく、未来にも生ずることのない常住不滅の仏であり、仏の化導を受ける衆生も仏と一体であり、本有常住であるとの仰せである。
 すなわち、久遠元初の自受用報身如来であられる日蓮大聖人の仏法を修行する門下は、大宇宙のリズムに合致した不滅の幸福境涯に常住し遊戯しゆくことができるのである。これが、私どもの立場から拝した「寿量品」の重大な意義なのである。
7  「本有常住」と「常楽我浄」の人生
 「本有常住」の本義について申し上げれば、「本有」とは、本来ありのままに存在しているという意味がある。私どもの生命は、だれかがあとからつくったものではない。また今世において初めて生命が誕生したというものでもない。もともと大宇宙とともに厳然と「有」った。これが「本有」ということである。
 また「常住」とは、無常に対する言葉である。生命は、この無始無終の大宇宙とともに永遠に続いている。途中で消えることもない。断続的に続くのでもない。つねに宇宙に実在し、三世に連続しているのである。
 こうした「本有」にして「常住」の真実の仏の姿を説き明かしたのが、法華経なかんずく寿量品であり、その文底秘沈の大法が、日蓮大聖人の仏法なのである。
 「久遠の法」に立脚していない幸福は、しょせん”夢のなかの栄え””夢のなかの幸福”であり、無常をまぬかれえない。つまり、一時は美しくみえても、つねに変転と流転がつきまとうものである。とうてい三世永遠に栄えていくことができるものではない。
 日蓮大聖人の「久遠の妙法」を信受し、修行していったとき初めて”めざめた人生””めざめた幸福境涯”に住することができる。すなわち、「事の一念三千」「十界互具」「本有の尊形」「因果倶時」等の法理にのっとって、宇宙の仏界と融合していくことができる。それは生死ともに無上の幸福境涯であり、鳥のさえずりにも自然の妙音を聴き、天の名曲を聴きながら悠々と楽しんでいけるような境涯なのである。
8  「寿量品とは十界の衆生の本命なり、此の品を本門と云う事は本に入る門と云う事なり、凡夫の血肉の色心を本有と談ずるが故に本門とは云うなり」との御文を拝し申し上げたい。
 「本命」とは生命の本体ということで、仏の生命が永遠であるとともに、十界のすべての衆生の生命も永遠である。寿量品を「本門」というのは、「本に入る門」との意味である。つまり、凡夫の血肉から成るこの生命が、「色心」ともに「本有」、すなわち久遠から常住のものであることを明かした教えであるゆえに「本門」というのである。
 生死は流転する。しかし生命は永遠である。この現世の一生において、不惜身命の信心を貫き通していくところに一生成仏があり、生々世々、永遠に崩れざる仏界の「我」を築いていくことができるのである。
 生命は三千羅列で、その因果は厳しい。ゆえに自行化他にわたり信心を貫き通しなさいというのが、日蓮正宗創価学会の根幹の教えであり、指導であり、実践である。
 「本に入る門」と仰せのごとく、われわれが求め入るべき「門」は、迹の門ではない。邪宗の門でもない。永遠に崩れざる生命の宮殿に入る門なのである。そのための、われわれの日々の仏道修行なのである。
 信じがたいことかもしれないが、われわれの色心が無始無終であり、本有常住なのである。これが生命の本来の姿であり、それを覚知し、自らの生命そのものを顕現していくのが「本門」の信心なのである。
9  また、御書には「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり」と仰せである。
 とうぜん、日蓮大聖人こそ寿量品の本主、すなわち寿量文底の御本仏であられる。しかし総じていえば、南無妙法蓮華経と唱える大聖人の門下も、また、寿量品の本主とあらわれると仰せくださっているのである。まことにありがたい御言葉である。自行化他にわたって南無妙法蓮華経と唱えていくとき、生死の流転をくり返しながらも、永遠に成仏の境界で生きぬいていけると仰せなのである。
 この御教示の依文となるのが法華経法師品の「当に知るべし是の如き人は 生ぜんと欲する所に自在なれば 能く此の悪世に於いて 広く無上の法を説くなり」との文である。
 この御文は仏の境界について述べられたものではあるが、総じていえば、成仏の境界を生命に築ききった人は、まさに、生まれたい国や時代など、すべて自ら欲するところに自在に生まれてくることができるとの経文である。
 その法理からみるならば大聖人の門下であるわれわれは、久遠元初にも御本仏とともに活躍させていただいたともいえる。また大聖人の御在世当時にも出現していたかもしれない。そして今日、願ってこの悪世末法に、妙法を弘めるために生まれてきたと考えたい。そのように自覚していくのが、地涌の勇者の自覚なのである。
10  留難こそ前進の飛躍台
 日蓮大聖人が「此経難持」、また「難来るを以て安楽と意得可きなり」、「あへて臆病にては叶うべからず候」等と仰せのように、正法の弘通に難があることは必定である。それは、法華経の予言でもあり、絶対に避けることはできない。
 末法万年にわたる土台を築いていくためには、いくつもの難を乗り越えながら進んでいく以外にないのである。基礎を盤石に固めつつ、着実に構築していったものは、長く壊れないのが道理だからである。いかに私たちが注意しても、万全を期しても、さまざまな迫害や批判があるのは仏法の法理からみてやむをえないことである。
 大聖人御自身の御留難も、門下に永遠に崩れぬ仏の生命を確立するための大慈大悲であったと受けとめるべきなのである。ともあれ、難に挑戦し、波浪に崩れない巌のごとき信心の宮殿をつくり、広宣流布の土台を築いていく以外にない。
 学会がこれまで、なにがあっても崩れず、強く、広布の大きな伸展を遂げたのも、つねに苦しくも忍耐強く難に挑戦し、勇敢に戦いぬいてきたからにはかならない。
11  ユダヤ人にみる宗教の社会性
 戸田先生は、ユダヤ民族の歴史について話してくださった。それは、日本ならびに世界の広宣流布をしていくうえにおいての、一つの覚悟と一つの方途とを、そこから見いだしていくべきであるという示唆に富んだ話であった。
 ユダヤ人は、紀元前六世紀にユダ王国が滅亡し、「バビロン捕囚」以来、移住と迫害の連続であった。が、なぜ、厳しい弾圧に耐え、もっとも高度な民族の連帯を維持できたのか。
 戸田先生は、ユダヤ民族が、幾多の大打撃を耐えぬいて結束し、民族性を維持してきたのは、「シナゴーグ」という組織があるからだといわれた。
 このシナゴーグというのは、集会を意味するギリシャ語に由来しており、ユダヤ教の礼拝の場所のことである。ユダヤ教徒は、このシナゴーグに集まり、礼拝を行い、戒律を学んできた。つまり、それは”祈りの家””学びの家”であり、さらに中世では、旅人の宿泊所としても使われ、外部世界との交流の場でもあった。
 このシナゴーグには、老いも若きも、富める者も貧しい者も、学問のある者もない者もともに、少なくとも週一回は集い寄ったという。
 人々は、真剣に学びあった。学んでカをつければ、社会や世界を動かせると励ましあった。また、断じて生きぬこう、自分たちの同志を守りぬこうという結束を固めていった。シナゴーグは、ユダヤ人社会のシンボルであり、現在も、全世界に一万三千以上のシナゴーグが存在するといわれている。
 フランスの著名な社会学者デュルケムは、人々をダイナミックに一つの共同体に凝集させていく社会的統合の働きが、宗教の本質的機能である、といっている。つまり彼は、社会性こそ、宗教にとって原初的、根源的なものであると考えているわけである。まさに学会の行動は、真の宗教の歩み方であると、確信してよいだろう。
 ユダヤ人のなかには、多くの実業家や富豪、またノーベル賞を受賞した大学者といった実力者が、世界中にいる。そうした有力者をはじめ、全員が強い民族意識を共有しており、ユダヤ民族ほど連帯感の強い民族は、歴史上、存在しないといわれている。私どもの仏法と、宗教の内容は違うとはいえ、その執念と団結の歴史はまことにすぼらしく評価できると私は思う。
12  私どもは、仏法の真髄である「本門寿量品」の文底の大法を信受し、三世永遠をつらぬく尊極の妙法を奉じている。ゆえに、久遠元初以来、尽未来際にわたる妙法の広宣流布という至高の大目的のために、このうえなく広範にしてうるわしい団結の姿で前進していくことが何より肝要である。
 この点を銘記し、これからも、一生涯すばらしき地域広布と世界広布への大道を歩み、自身の胸中に幸の歴史にいろどられた”金の日記文書”をつづっていっていただきたい。
 本日の集いを記念して、次の歌を、壮年部、婦人部、青年部の代表に贈らせていただく。
  熱原の 烈士につづかむ 静岡の
    勇者の名字は 諸仏も見つめん
  
  御書のまま 拝し動かむ 清らかに
    三世の幸の 今日の修行と
  
  東海の 旭の昇る 聖地にて
    仏の命と 君もかがやけ

1
1