Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「5・3」記念関西代表幹部会 この七年、吹雪を越え輝く太陽

1986.5.2 「広布と人生を語る」第8巻

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1  この七年間は、わが学会にとって、びじょうに深い歴史を築くことができた。この間、さまざまな画策や陰謀の嵐があった。吹雪もあった。しかし、現在は、さんさんと輝く太陽が昇っている。
 この間、雄々しく戦った人も多くいた。また、退転した人もいたし、卑劣な心で反逆していった人もいた。身は堕ちねども心は堕ちて、批判の心で真の信心の道を踏みはずし、学会精神をふみにじっていった人もいる。実にさまざまな姿があったが、いっさいは御本尊がお見通しであられる。また、因果の理法で、そうした善悪の現象は、だれよりも自分自身がいちばんよく知っていることである。
2  そのなかで、関西はよく戦ってこられたし、発展はいちじるしいものがあった。その大発展の因は、なんといっても上層部の幹部がひじょうに仲が良く、呼吸が合っていることだ。”関西の全同志のために、関西の未来広布のために、どうすれば一番よいのか”と、最高の目的観に立って心を一致させながら、真剣に語りあい、まじめに協議しながら実行に移している。その姿はまことに尊いし、それらの努力が今日の発展を築いてきたといってよい。
 本末究竟等で、上に立つリーダーの間に乱れがあれば、思うような前進もできない。また、あとに続く人々もいやな思いをすることになるし、かわいそうである。この方程式は、どのような団体、社会、国の発展にあっても同じである。
 日蓮大聖人は「異体を同心とし」と仰せであるが、まさに関西のすばらしき発展と前進のカギの一つは、この「異体同心」にあったといってよい。どうか、これからも永遠に、この広布の正しき道を歩みつづけていただきたいし、また、全国、さらに全世界の模範の関西であっていただきたい。
3  関西の方々はたいへんにめんどうみがよい。そして上下の差別なくなんでも語りあっている。いわば、人間対人間という次元で、あるいはまた、それぞれが個性豊かな人間味と人間味、人間性と人間性がたえず交流しあうなかで、仏法を語りあうという姿が見られる。
 それはほんとうにうるわしい姿であると私はつねづね実感してきたし、大事なことであると思っている。そうでないと、ともすれば権威主義的になったり、組織主義に陥りかねないからである。
 また、人と人とがふれあい、語りあううえで、関西の言葉ほどやわらかくなめらかで、つねに人をしてうるおいとロマンを感じさせる、えがたい響きをもった言葉はない。
4  関西の前進こそ、全国、いな全世界の前進を決定づける要因であり、それを象徴する一つの姿である。次の目標である創立六十周年へ向けて、自分も成長し、また後輩も成長させながら、全関西の同志が夢にみた、この世でこれ以上に盤石な広宣流布の基盤はできないという見事なる証明を示しきっていただきたい。
 と同時に、これ以上の大功徳はないという信心勝利の勲章を勝ち取り、功徳の宮殿を開いていっていただきたい。これが関西の同志への、私の念願である。
 ともかく五月三日を全学会員の信心と、また努力と忍耐で晴れやかに迎えることができた。まさしく歴史的な五月の三日である。
 次の五月三日、すなわち来年、再来年、また五年先、七年先の五月三日も、きょう集った方々は、どうか健康で長寿で、そして信心を一歩前進させながら晴ればれと迎えていただきたい。
 全国の同志の方々もまた同様であっていただきたいことをせつにお願いするしだいである。
5  尸毘王の説話に学ぶ不惜の実践
 日蓮大聖人は「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」と仰せである。また、恩師戸田先生は「愚人にはむらるるは智者の恥辱なり。大聖にはむらるるは、一生の名誉なり」と話されていた。つまり、真実の聖人、賢人であるか否かは、けなされ、非難されて初めてわかるものなのである。
 尸毘王は経論によれば釈尊の過去世における因位の修行の姿である。民を深く愛し、国を見事に治めた徳の高い王として、あらゆる人々から尊敬を集めていたという。
 その尸毘王の慈悲の深さを、あるとき、諸天善神の帝釈天と毘沙門天が、鷹と鳩に化身して試そうとした。
 毘沙門天の化身した鳩は、帝釈の鷹に追われるふりをしながら、尸毘王の脇の下に隠れ救いを求める。すべての生き物の済度・救済を誓願していた尸毘王は、鳩を鷹から守ろうとする。それに対し鷹は「私も生き物だ。その鳩がなくては、命をながらえることはできない」と責めた。尸毘王は、鷹にも深い慈悲の心をいだき、自らの腿の肉をさいて鷹に与える。
 多くの肉を失って苦しむ王に、鷹が「そんな苦しい思いをしてまで鳩をかばう必要はないではないか」と責めると、王は「地獄での責め苦にくらべれば、こんな苦しみは小さいものだ。私は自分で一切の済度を誓ったのだから」と答えた。また「そのように苦しんでも後悔はないのか」との問いにも、「全身が仏の慈悲につつまれ、深い喜びの心しかない。なんで悔いることがあろうか」と語ったという。
 これを聞いて、帝釈も”尸毘王は、評判どおり、ほんとうに慈悲深く、すばらしい王である”と深く感じ、王を元の姿に戻したとの話である。
 全民衆の救済のためにわが身命を惜しまず、誓願を果たさんとした尸毘王の姿は、真実の成遠を説ききった仏法のうえからみて、最高の人生道といってよい。すなわち、未法に生まれあわせた私どもにとっては、御本仏日蓮大聖人の仏法を弘め、生涯を広宣流布に生ききっていくことが最極の価値の人生となることを、よくよく銘記していただきたい。
 この尸毘王の説話からは、このほかにも、人によりさまざまな示唆を得られると思う。それぞれの道で広布の活動に全力で邁進するなか、自分なりによく思索し、自らの境涯をさらに深めていってほしい。
6  末法弘通に偉大な功徳
 報恩抄に「極楽百年の修行は穢土えどの一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか」と仰せである。
 まことに有名な御金言であり、「極楽百年」云々とは、いわゆる極楽浄土での楽な修行と、「穢土」すなわち、この煩悩で汚れた現実世界での修行とを比較相対して論じられたものである。
 それをふまえたうえで、この現実世界での人生の生き方についての重要な御教示とも拝することができると思う。すなわち、この一生において、深き価値創造へのなんの苦労も努力もなく、楽な環境で、気楽に、優雅に暮らしていこうという生き方もある。これは、ある意味では「極楽」で楽に過ごしていきたいとの志向性に通ずるともいえよう。
 すなわち、苦労をいとい、避けながら、楽をして幸福を得んとする生き方といってよい。目先の欲望にとらわれて、名声や名利を求め、見栄をはりつつ、人生を小手先で生き、華やかに表面を飾っていく――。
 しかし、そうしたエゴと売名の人生が、どんなに幸福そうに見え、楽しそうに見えたとしても、そこには真実の生命の充実がない。価値創造の喜びがない。社会に貢献し、人々に偉大な価値を与えゆくこともできないであろう。
 それに対し私どもは、このかけがえのない人生を自己と戦い、生活と戦いながら、その根本に広宣流布をめざしての苦労と苦闘を重ね、挑戦している。この強き信心を根本に生きゆく人の功徳は、ただ「一日」であっても、表面のみの幸福を追って「百年」間暮らした人生の功徳よりも大きいのである。
 すなわち、大聖人は「穢土の一日の功徳」のいかに甚大であるかを強調されている。まして広宣流布のため、大法のため、人々の幸福のために現実と戦い、生涯、生きぬいていった人生の意義と功徳が、どれほど深く、大きいものであるかを確信きれたい。
7  また「正像二千年の弘道は末法の一時に劣るか」との御文は、正法・像法の二千年にわたって、多くの仏弟子が釈尊の仏法を弘通してきた偉大なる功徳よりも、この末法における一時を広布に励みゆく人の功徳が大きいと大聖人は仰せである。”今日”という日を、勤行に励み、弘教や指導、激励に励み、妙法広布の前進に真剣に戦っておられる皆さま方の功徳のほうが、正俊二千年における功徳よりも、此較にならないほど絶大なのである。
 こうした仰せを拝するにつけ、仏意仏勅をこうむり、「大法弘通」の道程で苦労を重ね、働いている私どもの人生が、世界の人々のさまざまな人生のなかにあって「無上道の人生」であることを深く自覚していただきたいと思う。
 この広布の大道での歩みそれじたいが、黄金の人生となっているのである。このことを銘記しつつ、これからの人生を、またこれからの仏道修行を、どうか最高に晴れがましく歩みぬいていっていただきたい。

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