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青年医学者・学術者の合同会議 仏法は人の振る舞いのをかに

1985.8.24 「広布と人生を語る」第7巻

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1  本日は私の入信記念日であるとともに「壮年部の日」とも意義づけられているところから、信心の基本姿勢について述べておきたい。
 一生涯、信心を貫いていくことが真実の信仰のあり方である。十年間、信心を続けたからもうよいというものではない。二十年、三十年と貫いてきた、その過程は立派な姿であったが、最後は退転したというのでは真実の信仰ではない。途中でやめるのと、究極にまで到達するのとでは大きな違いがある。
 御書に「鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき」と仰せである。
 一生涯、水の流れるがごとく信心を退せず貫いていくところに、一生成仏の大聖人の仏法の真髄がある。それが正しき信仰の大道であることを、ここに再び確認しておきたい。
2  「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」との御文を拝しても、色相荘厳の釈尊も真の姿は、荘厳された仏像などにあるのではなく、「人の振舞」のなかにあると大聖人は教えられている。
 ここに仏法の重要な意義があることを知らなくてはいけない。つまり人としての振る舞いに仏法があり、仏の所作がある。そこに現実の人生と社会へとつながっていく仏法の深さがあるのである。
 大聖人も御遷化されるまで、広宣流布と弟子の訓育に力をそそがれ、釈尊もまた病を患いながらも最後まで人々の苦悩を救わんとした布教の生涯であった。
 われわれにとっても、人間社会のなかで、広布に休みなく生きぬいていくところに人間としての尊い姿がある。命あるかぎり、人々に社会に何らかの価値を与えていくことが、大切な生き方ではないかと思う。
3  釈尊の時代の難は、大聖人の大難からみれば小難であったといえる。
 しかし、その釈尊も民衆のなかで生きぬいていった。
 釈尊は、舎衛国の属国の出身である。そこから出発し、人間を「生老病死」という本源的苦縛から解き放つため、「蔵通別円」という教法の次第をふまえながら法を展開した。
 そこで釈尊の九横の大難の一つとされる「瑠璃の殺釈」については、さまざまな説があるが、舎衛国の王である波瑠璃王によって釈迦族が滅ぼされたことは事実のようである。
 波瑠璃王の母は、釈迦族の出身で身分の卑しいとされる女性であった。
 このことによって侮辱をうけた王は、それを恨み釈迦族への復讐を誓ったといわれる。まことに些細な、取るに足らない理由であったといえるだろう。釈尊は王を三度までくい止めたが、ついに四回目は流れにまかせざるをえなかったようである。この殺戮は残虐を極め、一説によれば七万七千人もの人が殺された。かろうじて生き残った五百人の男子も、首まで埋められ、頭を叩き殺された。また五百人の女人は、舎衛国に連れ去られたという。
 ともかく、釈迦族が全滅に近い状態になったことはまちがいない。まさに目をおおいたくなるような悲劇であったろう。御文にも「無量の釈子は波瑠璃王に殺され千万の眷属けんぞくは酔象にふまれ」とある。
 仏である釈尊がなぜこのような悲劇にあわなければならなかったかとの疑難を、皆さんはもつかもしれない。
 しかし、仏だからといって現実社会から離れて存在するものではない。仏界所具の九界として、かずかずの悩みの姿もあれば、弘教による大難もある。しょせん、この世界は仏と第六天の魔王との戦いである。ゆえに、まったく苦悩のない夢のような理想社会が建設されるわけではないし、不幸と思われる苦しみの出来事に出あわないとは限らない。仏法は、そうした現実を超越、遊離した観念論ではない。
 釈尊にあっても、一族の殺戮等のかずかずの大難にあったが、そのなかで、苦縛からの解放を教え、成仏の境地へと人々を導いていったのである。そして、仏教は、釈尊の弘教への強い一念によって、インドへ、中国へと広まり、世界宗教となっていったのである。
4  涅槃経には「悪象の為に殺されては三趣に至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」との経文がある。
 それは、現実の社会で生きている以上、さまざまな苦難もある。しかし、悪象に象徴される不慮の出来事等で死亡したとしても、三悪道には堕ちない。だが、悪知識に紛動され、退転してしまえば、かならず三悪道に堕ちるのである。
 御書を拝しても、大聖人が強く仰せのことは、悪縁に紛動されて信心を捨ててはならないということである。大事なことは、どのような苦難のなかにあっても、仏界へと向かいゆく生命の「我」を固め、確立していくことである。
 学会は大聖人の御遺命である広宣流布に邁進してきた仏意仏勅の団体である。ゆえに、これまでもかずかずの大難を乗り越えて発展してきたし、これからも、種々の難はあっても、かならずや時とともに発展し、妙法広布が進んでいくことはまちがいない。
 ともあれ、魔というものは、残酷でありながら、強い魅力をもって、思わぬところに、その働きを現すものである。学会の知性でもあり、力あるリーダーでもある皆さんは、それらの魔の働きを鋭く見破りながら、一年ごとに成長をしていただきたい。そして、広宣流布の重要な存在として大成していただきたいのである。

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