Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

香川県記念支部長会 誉れ高き仏道修行を

1985.4.18 「広布と人生を語る」第7巻

前後
1  きょうは、人生の目的は何か、ということについて少々考えてみたい。
 人生の目的は、いうまでもなく“幸福になる”ことである。ここでいう幸福とは“相対的幸福”ではなく“絶対的幸福”である。“絶対的幸福”とは何ものにも崩されぬ成仏の境界に他ならない。
 たとえば、剣道であっても、音楽であっても、華道であっても、人間は本能のままに生きる動物とちがって、何かを目標とし、少しでも進歩向上しようとするものであり、またそれができるのが人間といえる。
 目的も向上心も失った場合には、人生というものはひじょうにわびしく、またさびしいものとなり、何のために生きたかわからなくなってしまう。向上心を失い目的を忘れ、人々に迷惑をかけながら、何のために人間として生まれてきたのかという、最大の疑問詞をなげかけなければならないような人生になることは、まことに残念なことである。
2  日蓮大聖人の甚深の仏法を学び、不幸な人に幸の道を教え、悩みの人を励まし指導している皆さん方は、じつはたいへんな境涯の人であり、またたいへんな価値ある運動をしているのであり、また、たいへんな学問を身につけているということを自負すべきである。
 それに対し、社会は低俗で外見に流される浅薄な世相を呈している。うわべは立派そうに見えても、人生の本質論となるとまったくの無知といえる人が意外と多いものである。無定見で売れればよしとする一部商業主義の姿を見ても、日本の将来がどうなっていくのか、ほんとうに不安を覚えざるをえない。
 しかし、人間というものはともすれば、そうした堕落や虚栄というものに同調し、あこがれ、落ち込みやすいものである。そうしたものに紛動された場合は、ひじょうにさびしく低次元の人生となってしまうのであろう。
3  人生の究極の「修行」は何かを真剣に考え、人生の証としての極善、最高の生き方を願うのが本来の人間性である。その尊極、最高の生き方は、誉れ高き仏道修行にある。
 その「修行」にしても、学問も芸道も、剣道にしても、柔道にしても、また会社で働くとしても、一人前になるまでには、また第一人者になるまでには、たいへんな苦労があるし、時には人の何倍も何十倍も努力しなければならないものである。
 まして小さくは自身の成仏のため、大きくは広宣流布という大目的に生きる修行に、少々の苦労はとうぜん覚悟しなければならないが、広宣流布というこの壮大なロマンに生きられるということは、じつはたいへんな喜びであり、幸せでもある。
 修行の精神がない場合は、グチと批判とをくり返すばかりでなんの価値も生まれない。どうか一人ひとりが壮大なロマンである広宣流布めざし生涯誉れ高き仏道修行に徹していただきたい。
4  「縦ひ頸をば鋸にて引き切り・どうをばひしほこ稜鉾を以て・つつき・足にはほだしを打つてきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死にしぬるならば釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山会上にして御契約なれば須臾の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へ・はしり給はば二聖・二天・十羅刹女は受持の者を擁護し諸天・善神は天蓋を指しはたを上げて我等を守護してたしかに寂光の宝刹へ送り給うべきなり」との御金言を拝し申し上げたい。
 信心のゆえに、所領の没収、入牢等になった多くの弟子、門下たちをふびんに思われながらも、なぜ、大聖人はこの御文のごとく、命のあるかぎり題目を唱え、広宣流布に進めと仰せなのか――といえば、それは、信心による成仏こそが、人生の最高の目的であり、永遠に崩れざる最極の幸福境涯を築くことになるからである。
 そして純粋にして強盛なる信心によって、わが生命の「我」を、仏界の生命で染めぬき、常楽我浄の仏界そのものの境界となりゆくとき、自由自在、自在無礙の境地に遊戯する生命となり、けっして三悪道、四悪趣におかされることのない境涯となれるのである。
 ゆえに、永遠からみれば短いこの人生にあって、難があればあるほど、信心を深めていってこそ、生命の「我」は仏界の生命に強く彩られていくことを確信し、信心と広布の大道を生きぬいていってほしい。
5  “名聞名利”“野心”を排した純粋な信心こそ、仏道修行の真髄である。
 戸田先生はかつて、水滸会の席上、青年部に強く言われていた。
 「名聞名利や野心からの仏道修行など、絶対にありえない。幹部になりたいとか、学会を利用しようとか、そんな不純な心の仏道修行はない。信心は、どこまでも純粋でなくてはならない。純粋でないと魔に勝てない。それはみずからの生命にも魔の生命があり、名聞名利の心や野心は、その魔の生命と同調し、妥協してしまうからだ。ゆえに純粋、無垢にして強い信心でなければ、難に勝てないし、幸福の境涯へと進んでいくことはできない」と厳しく指導されたことが忘れられない。
 現代のわれわれの世界は、いつ、大戦争が勃発し、地球が滅びるかもしれない社会だ。極悪非道の人も多い。こうした世には、正法にはたえず非難、中傷が浴びせられ、広布を阻まんとする魔の働きが競うのが、法理のうえからいってもとうぜんである。
 われわれは、この末法濁世の舞台での妙法流布をこいねがい、生まれてきたのである。大聖人は、「三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退く」と仰せであるが、信心ゆえに難が起きるということはとうぜんのことであり、御書を信心で拝するならば、むしろ生命の喜びとなっていくものだ。
6  この現実社会での折伏弘教の意義について、仏法の「願兼於業」の法理を通しお話ししたい。
 「願兼於業」とは「願、業を兼ね」と読み、仏・菩薩が、苦悩の人々を救うために、みずから誓願して悪業をつくることをいう。
 いうまでもなく仏とは、別しては日蓮大聖人であられ、大聖人の御立場から拝するならば「願兼於業」とは、民衆の一切苦を引き受けられた大慈悲の御姿であられる。
 この法理を、地涌の眷属というわれらの立場に敷延して考えれば、われわれの信心の目的は成仏にある。だが、成仏をして、自分だけが幸福境涯に遊戯していればよいというものではない。
 この地球上には、さまざまな不幸の衆生がいる。その衆生を幸福にするために働くこともわれわれの使命である。そのために、本来ならば信心によって幸福境涯を満喫できる立場にありながら、たとえば「貧乏のなかで、その苦しみを知り、転換していこう」「病気になっても、それを治しながら、病気の人を救っていこう」、また「短命であっても立派な成仏の相で周囲に、また同じ境涯の人に勇気と希望を与え、妙法を証明していこう」等々、あらゆる願兼於業の姿を見せながら、この地球という娑婆世界の舞台で活躍していくのである。
7  どうかこの無始無終という永遠の生命観のうえから、一生のさまざまな現象も悠悠と見おろしていっていただきたい。どんな苦労があっても、ぜんぶ自身の成仏と福運のためである。たとえ何があろうとも、広布に精進する大切な仏子を、御本仏日蓮大聖人は絶対に大慈悲をもってつつんでくださることを確信して、朗らかな前進をお願いしたい。
 創価学会は日蓮大聖人の仰せどおりに、諸難を乗り越えながら不惜身命で広布に邁進している仏意仏勅の団体である。御本尊のもと、大聖人の門下として、何ものも恐れず、どこまでも堂々と信念の道を生きぬいていっていただきたい。

1
1