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葛飾区記念支部長会 妙法薫る人華の光彩を

1985.3.8 「広布と人生を語る」第7巻

前後
1  日夜、地域の広宣流布を願い、奮闘されている支部長、支部婦人部長である幹部の方々に、心からご苦労さまと申し上げたい。どうか、健康に十分留意されて、ぞんぶんに長寿の人生を全うしていただきたい。これが、私の心からの念願である。
 葛飾は、井上区本部長を中心に人材群が見事にそろっており、東京全体の広布の証明、また広布の縮図ともなりゆく責務をもつ地域といえる。
 この崇高な使命に挺身するなかで、皆さま方が、無量の福徳を積んでいくことはまちがいない。また、三世にわたる永遠の生命の思い出をきざみゆくことも確実である。唱題をし、妙法の実践に励んだ行動のみが、永遠にわたる金の思い出として、生命にきざまれゆくことを知っていただきたい。
2  「葛飾」という地名は古く『万葉集』にもいくつか歌われている。古文書には二世紀半ばのころのこととして、すでにその名がみられる。
 『万葉集』では「勝鹿」「勝牡鹿」等と表記されているようであるが、その語源は「葛繁」の意味で、この地域が武蔵野に連なる原野で、つる草である葛が繁茂していたところから生まれたというのが有力な説のようである。
 また、当時の「葛飾」は、今日でいえば、隣接の江戸川区全域、さらに墨田、江東、足立の各区の一部をふくみ、千葉県西部、埼玉県東部、また茨城県の一部にまで広がる広範囲な地域を総称したとされている。
 このことからみると葛飾は関東全体の一方の原点といえる。ゆえに「葛飾」の地名を伝えているこの国土には深い意味があるし、原点としての使命があることを自覚していただきたい。
3  葛飾は東京のなかにおいても一番若々しく、希望に燃えて前進していることを痛感する。妙法の生命の輝きをもった「人華」がいよいよ果てしなく広く拡大していく時代にはいったのである。その自覚と誇りをもちながら、どこまでも朗らかに進んでいってほしい。
 「信心の力」こそすべてに勝ち、すべてを開きゆく根本の力であるが、「智は力なり」で、世間の事象に通達していくこともまた大事である。
4  全二十巻、四千五百首の和歌を収めた『万葉集』の、「万葉」とは「万」の「葉」つまり「よろずの言葉」、すなわち「歌」を集めたものという意味ともいわれる。『万葉集』の作者は、天皇をはじめ、読み人知らずの庶民にまで及び、民主的に、平等に歌が収められている。これはたいへんに重要なことであり、まことにすばらしいことであると、私は思っている。
 一方、『古今和歌集』は全二十巻で一千百十一首の歌を収録しているが、収められているのは上層階級の人たちのものであり、歌も技巧的になっているし、また難解な面がある。
 それに対し『万葉集』は、素朴で力強い。人間讃歌であり、人間の鼓動であり、さらに人間性の昇華、人間の清明の発露ともいえよう。その意味で、私は、『万葉集』に歌われたこの「葛飾」の皆さんに対し、後世のために『広布葛飾万葉集』を編纂してはどうかと提案したい。
 もちろん、歌をよむにさいしては、技巧にとらわれる必要はまったくない。気どる必要もない。たとえば、夫婦ともども長寿で、多くの子供たちに囲まれて何不自由しない境涯になった喜びなどを、自由に伸びのびと歌っていただければよいのである。
 そして『万葉集』と『古今和歌集』の中間をとって約三千首を、壮年部・婦人部・青年部・指導部等と各部ごとに収めて、明年の佳き日を選んで発刊してはどうだろうか。
 ここ数年間、多少、教学への取り組みが弱い感じがしている。その一つの理由として、元教学部長の増上慢と退転等の影響があったにちがいない。信心なき教学の恐ろしさを痛感し、根本的信心の深化をめざして、私は昨年より正しき信心のうえに立った教学を振興しはじめた。
 月に一ぺんは「三重秘伝抄」の講義をと思って念願してきたが、なかなか繁多で、それが実行できなかった。そこで、いくつかの地で、立派な信心、優秀な青年部の人材を軸として、堅実にその波をつくっている。私自身も全魂をかたむけて応援し、正確な、そして本格的な研究をと励んでいるつもりである。後世のまちがいなき教学の道を築いておきたいのである。
5  現在、埼玉の青年部の代表で「三重秘伝抄」の研鑽をしているのをはじめ、愛知では「開目抄」の研鑽、京都では「当体義抄」の研鑽に力をそそいでいる。さらに神奈川の代表は「観心本尊抄」に取り組んでいる。
 これは、あくまでも広宣流布を願い、日蓮大聖人の正法正義を世界に宣揚するためのものであり、見事なる成果を期待したい。さらに、日寛上人の御指南、そして御法主上人の御指南を拝し、あくまでも日蓮正宗の伝統法義にのっとった正確なる探究と研鑽を進めていきたいと思っている。私もできうるかぎり監修をして、後世に残せる研究としていきたい。
 葛飾区の青年部の代表も、今までは「開目抄」の研鑽をしてきたが、今度は本格的に「時抄」の研鑽グループを発足していただきたい。
6  学会の歴史の前進とともに指導部となる方が多くなっている。そこで大きな課題となるのが、指導部の方々と後継の若き幹部との連係、協調ということである。団結は力であり、団結と協調のあるところ、全体の発展の力は、五倍、十倍にもなっていくことを知らねばならない。
 各部の方々には、それぞれの特色と力がある。指導部の方々は、永年の信心による不動の確信がある。人生経験も豊かで、いぶし銀のごとき輝きがあり、社会的信用も厚い。一人の力のもつ波動性は若い人にはるかに勝るものがある。その意味で、指導部の方々の健在は、学会の健在に通じるといってよい。反面、ともすれば昔の経験に固執するあまり、かたくなな考え方におちいる傾向もある。
 一方、若い人たちには、経験は浅いが行動力がある。また、考え方に、柔軟性、創造性がある。
 ゆえに両者の見事なる連係、協調は、永遠に流れゆく広布の前進に、絶対に欠くことができないし、時代の要請であることを深く自覚していただきたい。
7  広布は後継の人材の流れのなかで推進されていくわけである。後輩が先輩の後を継ぎ、広布の舞台の最前線で指揮をとり、活躍していく。いかなる社会にあっても、それが必然の流れなのである。
 その意味で、指導部の方々は後輩の活躍を支え、あたたかく成長を見守り、大きな広い心で応援をお願いしたい。指導部の方々にとっても、自分の活躍してきた地域が後輩たちによって、さらにみずみずしく発展していくことほど喜びはないと思うし、その根本の功を築いた指導部の方々の功徳は、いやまして大きいと思うのである。
 また、後輩の方々は、先輩の指導部の方々を大切にしていかねばならない。信心の喜びのなか、これまでの経験と薫陶を生かしての貴重な力が十分、発揮できるような配慮も忘れてはならないと申し上げておきたい。
 ともに広布に生きる同志として、たがいに尊敬しあい、力を出しあっての日々の活躍、精進であられんことをお願いしたい。葛飾こそ、その意味でも、模範の地であってほしいと念願してやまない。
8  御書には「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」と仰せである。信心していても、謗法をおかすこと、不信の心をもつことは、せっかくの功徳を消してしまうことになる。
 戸田先生は、木の害虫という卑近な例をたとえに、よく教えてくださったことがある。それは、御本尊を信受したということは、生命に成仏への下種、つまり種を植えたことである。時とともに、それが大木へと成長していくわけである。しかし、御本尊への疑いを起こしたり、縁に紛動されることは、木の中に害虫が入るようなものだ。不信の一念を起こすごとに虫が入り、木をむ。だから葉を茂らすこともできないし、花を咲かすこともできない、と信心の基本を指導されていた。
 これは心すべきひじょうに大切な点だと思う。
9  信心は即智慧を輝かしていくことでもある。ものごとの本質を見ぬいていく智慧が鋭い破折にも通ずるわけである。また悪知識に親近する道をふさぎ、不信の心を晴らす力ともなる。
 永年の間、功徳の因を刻んできた大事な尊い成仏の大木を、悪縁と不信によってけっしてませてはならない。深き強き信心で、一生成仏と功徳の花を爛漫と咲かせゆく生涯であっていただきたい。

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