Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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長野県記念幹部会 歴史を創る民衆の力

1984.7.30 「広布と人生を語る」第6巻

前後
1  猛暑のなかの記念幹部会となってしまいましたが、この席をお借りして、全国の会員の同志のためにも、少々、留めさせていただきたいこともあり、懇談的に話をさせていただきたい。
 まず、長野にあっては、斎間県長を中心に、立派な信心を貫き通し、折伏にあっても、座談会にあても、教学にあっても、また個人指導にあっても、全国模範の圏を築いてこられたことを、私は心からたたえたいのである。
 このように暑い時には、何を聞いても入らないものである。(笑い)しかし、ありがたいことに日蓮大聖人の仏法の究極であられる御本尊に題目を唱え奉れば、すべての指導を忘れても、功徳を受けることができる。またそれがすべてなのであり、まことにありがたき仏法なのである。
 その法理は、題目を唱えきっていくならば、自己と宇宙を貫きゆく仏界という永遠なる「法」に生きゆく、最極の「我」となっていけるからである。
 仏の眼からみるならば、世間の実相のなかに十界がある。
 そのなかにあって、つねに勇敢に南無妙法蓮華経と唱えゆく人は、いかなる状況にあったとしても、「法の力」「信の力」によって仏界をあらわし、常楽我浄という宇宙の大リズムに則っていけるのである。私どもは、そのための仏道修行をしているわけでしる。それ以外に、崩れざる幸福境涯には到達できないのである。
2  御書こそ信心と人生の“一書”
 つねに私どもは「障魔に負けるな」「退転するな」と励ましあっているが、その生命の軌道を外させないための激励なのである。その根本的御教示は、いっさい、日蓮大聖人の御書におしたためになっている。この信心と人生の根本ともいうべき“一書”を心から拝し実践していくことが肝要である。
 ある年の総本山での夏季講習会のときのことであった。次代を担いゆく青年たちに、戸田先生は「低次元な本にとらわれるな」、また「若き君たちは真剣に御書を拝さなくてはいけない」、さらに「古典を読むべきである。古今東西の名作に親しんでいくべきである。それを裂けて、興味本位な、底の浅い教養なき人間には絶対になるな」と指導された。
 この人生のいかに深く生きぬくか――これが人生の最大の課題である。つねに人間として自分自身を磨きながら、深く正しく生きゆくところに、人生の価値があることを知らねばならない。
 また戸田先生は「御書を根本とすることによって、勝れた文学等も、いちだんと高い境涯から楽しく読めるようになり、また文学を通して、さらに御書を深く拝していけるのである」といわれた。私も、そのとおりであると思う。
3  ともあれ、大聖人の御書は、いっさいの基軸であり、究極である。私も、かつて、弘法や親鸞、法然、道元等の他宗教の教祖の書も読んだことがある。しかし、それらに比べて、大聖人の御書は、とうぜんのことながら、その完璧なる生命論の展開、人生への正確なる御洞察、大慈大悲の御境界等々、天地雲泥の差があることを明確に知った。
 ここで、今夜は文学の話をさせていただきたい。有名な大文豪の詳説のなかで古今の最高傑作の一つは、トルストイの『戦争と平和』であろう。この作品は、トルストイが三十六歳から四十二歳の六年間かけ、全力をあげて取り組んだ有名な小説である。
 十九世紀初頭、ナポレオン軍がオーストリアへ攻め入り、さらにロシア侵入によるアウステルリッツおよびロジノの大会戦、フランス軍のモスクワ占領と、そこからの退却が作品の時代背景となっており、壮大なる叙事詩ともいうべき名作である。
4  この『戦争と平和』には皇帝から農民にいたるまで五百人以上の人物が登場しているが、ここでトルストイが提起しているのは“戦争とはいったい何か”“平和とはいったい何か”“人生とは”“死とは”“結婚とは”“幸福とは”“社会とは”という根本問題であり、それらを通して、自身の生命観、歴史観、社会観、戦争・平和観をつづっておきたかったのであろうと思う。
 彼以外にも当時のロシアは、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、ゴーリキーなど多くの文豪を輩出した。もしこれらの人々が日蓮大聖人の仏法に巡りあっていたならばどうであった、との思いを禁じえない。トルストイもあれほど優れた魂の光を放ちつづけながら、最後は不幸であった。ナポレオンにしても、もし大聖人の仏法が支えとなっていたならば、時代は大きく変わっていたであろう。
 これからも、大聖人の仏法を、世界のあらゆる人々に一刻も早くしらせていかねばならないと痛感する昨今である。世界の人々にこの仏法を知らせていけることは、御仏智であるが、私どもの懸命な布教活動によっていま、このように進展しつつあることはなんという誇りであり、なんという名誉なことであろうか。
 この私どもの広宣流布運動は、いまは小さいようにみえるかもしれないが、将来の人類にとって無限の“平和”と“幸福”への作業となっていることはまちがいなのである。
5  民衆の連帯を幾重にも
 ところで、『戦争と平和』を貫いているテーマは「歴史というものは民衆がつくるものであって、一人の英雄がつくるものではない」との、深くして鋭い洞察である。
 いま、われわれは妙法を受持した新しき民衆の未来へ向かっての活力ある集まりなのである。われわれは、いわゆる権力者たちに左右されるのではなく、”大法”のもとに連なりゆく民衆群像といってよい。これ以上、確かなるすばらしき民衆の前進は歴史上ないのである。
 そこで私が申し上げたいのは、広布に向かう民衆と民衆との連帯の前進を止めたならば、将来の人類にとって、これ以上の不幸はない、ということである。世間的な地位、名声、財産、風評などは、浮かんでは消え、消えては浮かんでくる泡沫のようなものである。それらに左右されるのではなく、世界に広がりゆく妙法の民衆の連帯を幾重にも幾次元にも築いていかなければならない。
 ともかく”だれかがやるだろう”といった時代は終わり、”民衆こそ、私どもこそ歴史創出の主役である”という時代に入っていることを知っていただきたい。
6  時の流れというものは、巨大な力を持っている。ナポレオン戦争にしても、砲兵も歩兵も、大部分の人は、戦争などしたくなかったにちがいない。にもかかわらず、時代は戦争の方向へ流されていってしまった。その結果、何十万の人が生命を失った。二十世紀に入っての第一次大戦、第二次大戦もそうであった。そして、もし第三次大戦が起これば、人類は絶滅する以外にないであろう。
 それを防ぐのは、賢明なる民衆の力しかないのである。いつまでたっても民衆が無自覚で権力者に動かされていては、自分たちの”幸福”と”平和”と”勝利”は、いつになっても到来しないであろう。
 『戦争と平和』には、何人かの主要人物が登場している。かのアンドレイ、ピエール、ナターシャ、マリア、ニコライ、プラトン・カラターエフなどであり、いわば、青年が主役になっている作品である。そしてトルストイは、戦争と平和の彼方に、これらの青年たちを幸福にさせたいとの念願で結論づけていったと思える。
 つまり先覚の人としてのトルストイの真情も、観念的とはいえ、”仏”の志向する、人々をして、現実的にかならずや”幸福”にさせたいという意志に相通じていくような気がしてならないのである。
 しかし、小説の世界はともかく、現実の人生においては、瞬間的、相対的な幸せはあるが、絶対的、崩れざる幸せというものはなかなかつかめない。これは究極的には大聖人の仏法によるはかない。
 トルストイの家出については、昔からさまざまに論議されているが、自殺とも、衰弱死ともいわれる大文豪の終末は、絶対的幸福というものがいかに至難な業であるかを示してあまりあるといえよう。
7  大空のように澄んだ境涯で
 さて、作品中、主人公のアンドレイが戦争で銃弾に倒れてじっと空を見上げる光景がある。
 「彼の頭上には、空のほかは、――灰色の雲がゆるやかにわたっている、明るくはないが、やはり無限に深い、高い空のほかは、もう何も見えなかった。『なんというしずけさだろう、なんという平和だろう、なんという荘厳さだろう、おれが走っていたときとは、なんという相違だろう』とアンドレイ公爵は考えた。……フランス兵とロシア砲兵が恐怖と憎悪に顔をゆがめて洗粁せんかんの奪い合いをしていたときとは、なんという相違だ、――あのときはこの無限に高い空をこんなふうに雲がわたってはいなかった。どうしておれはこれまでこの高い大空に気がつかなかったのか? やっとこの大空に気がついて、おれはなんという幸福だろう。そうだ! この無限の大空のほかは、すべてが空虚だ、すべてが欺瞞だ。この大空以外は、何もない、何ひとつ存在しないのだ。だが、それすらも存在しない、しずけさと平和以外は、何もない」とつぶやいた。
8  ここで、私は、宇宙根源の法を御国顕あそばされた御本尊を拝することの深義に思いをはせざるをえない。空よりも高く宇宙それじたいの大法を知ったということは、静かに考えてみると、何物にも代えがたい人生の最大の幸福境涯であろう。
 「この無限の大空のほかは、すべてが空虚だ、すべてが欺瞞だ」というアンドレイの言葉は、世間の名聞名利のはかなさを、赤裸々なまでにえぐりだしている。
 余談になるが、大空といえば、昨日訪れた菅平の青空は、じつに美しかった。当地の人々の信心も、その大空のごとく澄みきっていた。とくに私が感動したのは、同志が互いに励ましあい、仲良く、ひとつも怨族がないということである。
 また、アンドレイが倒れているところに、ナポレオンが通りかかる場面がある。アンドレイにとってナポレオンはあこがれの英雄であった。
 「しかしいまは、自分の魂と、はるかに流れる雲を浮べたこの高い無限の蒼穹とのあいだに生れたものに比べて、ナポレオンがあまりにも小さい、無に等しい人間に思われたのだった」
 アンドレイがナポレオンに託した心情は、アンドレイ自身の栄誉栄達をねらう心であったかもしれない。そして今、生死という一大体験に見舞われたとき、アンドレイのそうした心は、微塵と砕け散ってしまったのである。
9  私も三十七年の信仰体験を通して、退転したり、裏切っていった人を知っている。そうした人々の軌跡を振り返ってみると、かならず、名利を追い、栄誉栄達を願う心に翻弄されている姿が浮かび上がってくる。所詮は、みずからの心に敗れているのである。
 どうか皆さま方は、低次元の風波に流されることなく、堂々とみずからの信念に生き、題目を唱え、広宣流布という、自己の幸福と世界の平和と社会のために通じゆくこの道を、まっすぐに歩みゆかれんことをお願いしたいのである。
10  広布に生きゆく大感情を
 さらにアンドレイと部下とのやりとりのなかに「成功が陣地によっても、武器によっても、兵の数によってすら決せられたことは、過去にも一度もなかったし、これからもないだろう。なかでも陣地などもっとも小さな要因さ」「では、何によって決せられるのです?」「ぼくの内にある、彼の内にある感情だよ……一人一人の兵士の内にある感情だよ」とある。
 ここにいう感情、パッション(情熱)とは、私どもの立場でいえば、信心の一念といえよう。つまり広宣流布という法戦においても、最終的に勝敗を決するものは、一人また一人の胸の奥に刻み込まれた、金剛にして不壊なる一念という大感情であることをけっして忘れてはならない。
 ”正”と”邪”、”善”と”悪”、”幸”と”不幸”、”仏”と”魔”との戦いであり、仏が、正法が、善が勝たねばならないのである。
11  またアンドレイは、こうも語っている。「戦いは、勝つとかたく決意したほうが勝つのだ」「『わが陣地は、左翼が弱く、右翼は長く伸びすぎている、ときみは言うが』と彼は話しっづけた。『そんなことはつまらんことさ、そんなことはどうでもよいのだ。では、明日われわれを待ち受けているものは何か? それは何億という多種多彩な偶然だよ、そしてそれらは、逃げだすのは敵か、味方か、殺されるのはあっちか、こっちか、ということによって一瞬に決せられるのさ』」
 「ぼくにとっては明日はこういう日だよ、つまり十万のロシア軍と十万のフランス軍が決戦のために相対する、そしてそこから生れる事実は、この二十万の軍勢がぶつかりあい、そしてより猛然と戦い、より自分を惜しまぬほうが、勝つ、ということだよ」「明日は、どんなことになろうと、われわれは決戦に勝つ!」――こうして民衆の心の奥にある感情のカによって、ロシア軍は、最後にナポレオン軍を撃退するのである。これが『戦争と平和』 の一つの問題提起ともなっているようである。
12  たしかに企画も作戦も計算も大事であろう。しかし計算できない心の奥に、いかなる一念の ”強さ”があるかにかかっているというのである。
 今日までの未曾有の広宣流布の大興隆にも、皆さま方にこの信心の一念の強さがあったことは論をまたない。
 最後に、本日の記念幹部会で、斎間県長から発表があったように、長野県では旧盆にあたる八月十一日から十六日まで「家庭の日」とすることになった。この期間は、次の前進のための休養、余裕の時期としていただきたい。
 他の県においても、同じようにそれぞれの本部や支部で十分に協議して、毎月一日か二日間の「家庭の日」を設けてはどうかと、この席を借りて提案させていただきたい。
 社会構造も日ましに変化してきている。あらゆる点で私どもも長期的視野に立って、一つひとつを再検討しながら余裕のある信心活動と生活を両立させていくことが大切であると思うからである。
 かさねて皆さま方のご健勝と、ご多幸、そしてご長寿を心より念願し、私の話を終わらせていただく。

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