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日蓮大聖人・池田大作

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福岡の記念勤行会 「信心即生活」の大道を

1983.12.7 「広布と人生を語る」第5巻

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1  観心本尊抄に「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」と仰せである。この御文の甚深の義については、日寛上人の文段に釈されているが、文に則って申し上げれば、天が晴れれば地は明らかとなる。と同じように、末法の法華経である三大秘法の御本尊を信受する人は、世法に通達することができると仰せなのである。
 つまり、ここには「信心即生活」「仏法即社会」のあり方を御教示くださっていると拝する。
 「信心即生活」「仏法即社会」ということは、よく教えられてきたし、よく使ってもきた。われわれにとっては常識化しているといってもよい。
 しかし、八万法蔵の経教をみるとき、爾前の経教にはこの理は説かれていない。
 それらの教義、修行のあり方は、灰身滅智であったり、架空の世界を求めたり、快楽に悟りがあるとするなど、ひじょうに偏頗なものとなっている。これに対して、生活と社会に連なった中道一実の法が末法の法華経なのである。
 末法の信心のあり方は、あくまでも「事」である。「理」ではない。すなわち私どもの信心は、ただ信心のための信心ではなく、人生と生活、現実の社会に深く根ざしたところにある。真実の生活法、長寿の法、社会に強く生きゆく蘇生の法なのである。
2  われわれの生命は一念三千であり、また生活も、社会も、すべて一念三千の法理につらぬかれている。ゆえに、事の一念三千の大法たる南無妙法蓮華経に南無しゆくとき、妙法の絶大なる力用によって、生活と社会に幸福という功徳の実証を広げていくことができる。
 しかし、信心したからといって、生活への努力、社会への努力を怠っていれば、そこには功徳の実証は表れない。仏法はあくまでも道理であるからである。
 生まれた子供も二十年たてば成人式を迎える。小学校は六年、中学・高校は三年間学んで卒業できる。学問にしても、野球にしても、芸術にしても、それなりのものを自分のものとするには、とうぜん年数がかかる。これがものごとの道理であり、信心においても、また同じである。
3  なにごとをなしゆく場合においても、姿勢が大事となる。とくに、信心においてはその姿勢が大切である。勤行・唱題を真剣にしない信心というものはありえない。御本尊を受持していても、深き信行の姿勢と実践がなければ、とうぜん大いなる功徳が涌現するわけがない。
 相撲にあっても、安直な練習では横綱、大関にはなれない。囲碁や将棋の世界においてもそうである。自己の成長への厳しき修行と錬磨の姿勢があってこそ、その道、その世界を究めていけるものである。
 いわんや、永遠なる幸福を築きゆく信仰の世界にあっては、真摯なる求道の姿勢がもっとも大切であることはいうまでもない。
 「信心即生活」を、生活に焦点をあてていえば、生活は、信心の一念の姿勢の具体的表れといえる。つまり、生活が乱れていることは、信心の一念の姿勢が誤りがあることを意味する。信心の姿勢が立派であれば、生活もまた向上し、福運をつみ、しだいに確立されていくものだ。それほど真実の仏法は、三千羅列の厳しき法なのである。
4  もっとも平凡にして、規則正しく運行し、全人類に多大な恩恵をもたらしているもの、それは太陽である。嵐の日にも、雪にあっても、曇天であっても、その正しき軌道を崩すことはない。
 われわれの日々の生活も、平凡といえばじつに平凡である。朝起きて勤行する。
 主婦は朝食の用意をし、夫や子供を送り出す。そのあとは、さまざまな家事がある。一家の主人も朝仕事に行き、夜家路につく。そして活動に励み、風呂に入り、勤行をして休む――この繰り返しである。
 しかし、この平凡にして、規則正しい生活が、社会でのもっとも大切にして、永続的なあり方である。このリズムを乱して、生活の充実も、社会での勝利もありえないことを知っていただきたい。
 日々の勤行・唱題は、生命の太陽を胸中に昇らせゆくことである。その燦々たる内なる自身の輝きをもって、日々の生活を楽しく、正しく、社会での活動もまた力強く、悠々となしゆくことができる。その繰り返しのなかに「信心即生活」の歩みがあるといってよい。
5  御書に「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」と仰せである。
 今の社会には、一時的な虚しい快楽を追い求める風潮が強まっている。また売名や、華やかな世界へのあこがれの衝動も強い。しかし、それらの人生、生活が、ほんとうに幸せに結びついているか。深く、鋭く、みていくとき、それが、いかに「はかない」ものであるかを知ることができる。
 はかなきものを追い求める人生は、また、はかない結末を迎えることであろう。
 自分は自分らしく「信心即生活」の大道を歩みゆくことだ。平凡だが、堅実にしてリズム正しい人生と生活の永続――これほど強く、確かな大道はない。それが持続できるかどうかに信心の強弱があるといってもよい。
6  これまでも、相当の幹部になっていながら、行き詰まり、退転した人もいる。また怨嫉して離れていく人もいる。それらの人たちをみると、やはり根本の「信心即生活」という大地に足を踏みしめていなかった場合が多い。
 また、苦労を避け見栄をはり、背伸びをし、われ偉しと、売名に走る人はいわゆる“法への求道”ではない。“自己の慢心”が心をおおい、堅実なリズムある人生と生活と社会との図式を踏みはずした人といってよい。
 ともあれ、自分のためにうまく立ち回っていこうとする売名の人生は、うわずった人生となり、最後はむなしい。砂上の楼閣を求めゆく人は、いつしか崩れ落ち、敗北の人生となっていく。これは、いつの世も変わらない人生の厳しき実相である。
7  子供の育て方、親のあり方
 ここで、信心の世界での夫婦、子供の育て方、親のあり方について、少少、所感を述べておきたい。
 一家を支える男性には、経済的責任が重い。そして、どうしても仕事は多忙である。疲れもする。そのため、ともすると日々の勤行がおろそかになりがちである。
 そのとき妻がどう支えていくかが大事となる。
 勤行がおろそかになったことを、食事の時間などに、追及的に責めることは、それが正論であっても賢明なあり方だとはいえない。人間は、追及には反発をおぼえるものだし、ちょっとのところで長くみてあげれば支えられる場合があるからだ。
 夫婦にしても、励ましあいの場をよく考えていく、聡明な理解ある支えのご婦人であっていただきたい。
 家庭からの蒸発や、子供の非行が多い昨今だが、夫婦のいさかいにその原因がある場合が多々ある。信心によるいさかいだけはあってはならないと強く申し上げておきたい。そこには、なんの価値も生まれないからだ。
8  現在は、実力主義、学歴社会の影が色濃くおおっている。もちろん信心には学歴は関係ないが、子供の能力に応じて、また子供の個性、願望を満たしてあげるためには、どうしても大学進学を考えなければならない。とくに男の子供には、それを強く思う。
 そして男の子供は、正義の人に育てていくべきだと念願するし、信心の財産を残してあげることが大切となろう。ただ、高校を卒業して自分のもっとも好きな職業につきたい場合には、それなりのあたたかい理解をもってあげるべきであろう。それが、本人の長い将来にとっても励みであり、自信をもって人生を生きていける要因となるからだ。
 女の子供にとっていちばん大切なことは、福運であると思う。福運は幸せの土台である。そして、信心こそが最高の財産となることを、きちんと教えていくことが重要だといえよう。
 子供は、何も知らないようにみえて、父母の姿をじつによく見、感知している。
 父母のすがすがしきうるおいの姿は、子供の心にあたたかい人間性をしぜんのうちに培うものだ。反対に、つまらぬ家庭内の風波は幼い心に傷をつけてしまう。
 また、子供に対して、一個の大人の人格として接する姿勢をもっていないと、子供の心に影を落としたものが、年とともに芽ばえて、非行に走っていく場合があることを知ってほしい。
9  母親が子供に対して厳しいことはよいと思う。しかし、父親があまり厳しすぎると、子供は反発したり、内向的になってしまう場合がある。父親は友達のようであるか、または、あまりうるさく言わないが、子供にとって“こわい”と思われる存在であれば、それでよいと思う。成績などで、夫婦そろって責めることは、もっとも禁物である。母親が叱った場合は父親がかばう。たまに父親が叱った場合は母親がかばう、ということが大切ではあるまいか。
 とくに男の子供の場合、中学・高校の時代は、ひじょうにむずかしい時期である。この時期は、子供を尊重し理解してあげることだ。
 子供があまり話してくれないからといって、しつこく聞きだそうとすると反発をまねいてしまう。精神的に独り立ちしようとする時期だけに、やかましく言うことは人格を破壊してしまうこともある。
 こうした聡明さを親がもっているかどうかが、子供の生涯に消しがたい影響を及ぼすことを、よく知っておく必要がある。誤りなく子供を成長させるうえでのポイントだけを、親はきちんと言っておくことを心がけていくべきだろう。盲愛、溺愛のみでは、けっしてその子の将来の幸せにつながらないことをよくよく銘記していくべきであろう。
 ともかく、平凡のようだが、まじめな家庭、御本尊に照らされた和楽の家庭を築いていってほしい。きらびやかなもの、華やかなものにとらわれ、足もとを崩すようなことが絶対にあってはいけない。
 社会は想像以上に厳しく、残酷でさえある。愛する妻、愛する夫を守りあっていくことは、とうぜんの理である。また、かけがえのないわが子を愛し守っていくことも、とうぜんのことである。
 妙法は人生の絶対の幸福をつかみきれる大法である。ゆえに御本尊への不動の信心を培っていくことこそ、人生の骨髄であることを知っていただきたい。
10  「水の信心」を忘れずに 
 時代は高齢化社会に入っている。また、いまは若き青年であっても、いつかは年配者となっていく。つまり、人生にあって“老後”を、どう生活設計するかは、避けては通れない問題である。
 妙法の友にとっての老後は、御本尊に照らされての老後である。ゆえに、福運に輝き、安穏につつまれた後生への旅立ちであることはまちがいない。悔いなき信心をして、老後のために、各自が生活設計をしていくことも必要となろう。人生という長い目でみれば、それが「信心即生活」となるからだ。
 ともかくに、信心は「水の信心」でなければならない。一時は激しく燃えても、いつしか御本尊への祈りが消えてしまう「火の信心」であってはならない。
 多忙なとき、疲れたときなど五座三座の勤行をすることが、おっくうになることもあろう。しかし、方便・自我偈だけでも、ある場合は唱題だけでもと、御本尊に南無していく絶え間なき「水の信心」だけはけっして忘れてはならない。
 日蓮正宗では、七百年間、御開山日興上人から御当代の御法主上人に至るまで、また未来にわたって、全人類のため、世界平和のために、法灯連綿と丑寅勤行をなされてきた。まことに荘厳であり、すばらしい総本山であられる。このような教団は他にないと信ずる。教義のうえからも、また、この事相のうえからも、いかに日正宗の仏法が偉大であり、日蓮正宗の御本尊が正しいかということが、明瞭であると申し上げたい。
11  よく学会は排他的、独善的であるとの批判があった。しかしほんとうにそうであれば、こんなに広まるはずがない。
 妥協と寛容を混同して説く教団もある。だが妥協と寛容は違う。仏法の教義、信仰の信念というものには妥協はありえない。自己の信ずる信仰のほかに、別の宗教を信仰してもよいという考え方では、もはや信仰とはいえない。それでは信仰という名のみの遊戯にすぎない。
 とうぜん、日蓮正宗創価学会は、謗法厳禁である。とともに“正しき生活を”“よき社会人に”“よき常識人に”という信仰即生活と社会への指導をしてきた。
 そのだれ人もが納得しゆくまちがいなき指導と行動があったがゆえに、多くの友の心を開き、社会と時代を開きゆく一大勢力となったのである。
 仏法は「体」であり、世法は「影」である。「影」である世法の無認識の言に、「体」を紛動させられることは愚かである。
 真実の仏法である日蓮正宗の教義、実践は、われわれがいちばんよく知っている。われわれこそ、教えていく立場なのである。売らんかなの無責任な言など、歯牙にもかけず、広布と信心の大道を進みゆきたい。そこにこそ正法を信ずる者としての人間の精髄が輝いているからである。
12  私も三十六年の信心となった。弱い弱い体が、ただの一度も入院することなく、冥益を受けている。
 また、ためにする讒言も多々あった。私は、ぜんぶそれらを悠々と乗り越えてきた。私は御聖訓を信じて生きぬいてきたつもりである。皆さんのなかには、三十六年間信心を続けてきた人はいないと思う。ゆえに、先輩として確信をもって、日蓮正宗の仏法は正しいと申し上げられる。文句のある方は、三十六年間、信行学をやりきったうえで、言ってください。(大笑い)
 九州も広布三十周年の坂を越えた。これからも、団結と和楽の前進をお願いしたい。皆さまのご多幸とご健勝を心から祈りつつ、話を終わらせていただく。

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