Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一回大田区総会 信心の王者の大道を貫け

1983.4.29 「広布と人生を語る」第4巻

前後
1  日蓮大聖人のもとに六老僧といわれる弟子がおられた。大聖人をお守りしながら、活躍してこられた高僧の方々である。なかでも日朗は、大聖人の佐渡御流罪のさいには、入牢の難にあうなど苦労している。しかし、大聖人の御入滅後には、血脈相承を受けられた第二祖日興上人に違背し、大聖人の正義から離れてしまった。
 怨嫉のためか、臆病のゆえか、あるいは大聖人の仏法の深義が信解できなかったゆえか、日興上人以外の五老僧は退転してしまったのである。
 ここには後世への戒めとなる、ひじょうに重大な意味がこめられていると、つねづね感じていた。仏法は厳しいものである。一生涯にわたって正しく深き信心を貫き通していかなければ、最後は根本的に狂いを生じてしまうのである。
2  純粋にして、強盛なる信心には功徳があり、成仏への道を歩める。しかし、信心を失い、謗法におちいれば、どんなにこれまでの功労があっても地獄である。
 皆さま方は、信心の功をつんでこられた。功徳もうけてこられた。しかし、大事なときに信心の変節があってはいけない。そうであれば自分のみでなく、子孫末代まで悔いを残すことになる。
 学会の世界は、日々、躍動し、前進している。しかし、日々、つねに人間対人間のつながりがあるところから、いつしかなれあいとなり、”信心とはこんなものか“との心が入り込む。そこから慢心が始まるのである。
 「日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人びゃくにん等が……」との御聖訓に仰せのように、大聖人の御尊容を拝しつつ仏道修行に励めた当時であっても、慢心、退転の徒は出た。ましてや現在は、時も人心も荒廃の度を深めており、信心退転への姿もひどくなっている。
3  大田は、広布の先駆の区であり、信心歴の長い人も多い。だが、信心が長くなれば、よどみがでてくる場合がある。信心がよどめば、歓喜がなくなる。広布への潔い目標も失われ、信心の功徳もうすらいでくる。幹部になればなるほど、また信心の年数が長くなればなるほど、日々、新たなる発心で、潔い信心であっていただきたい。五老僧の道を、正信会の悪侶や学会反逆の徒と同じ道を、けっして歩んではならない。
 また、大聖人は「智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし」と仰せである。我義すなわち大聖人の仏法の正義は絶対である。
 ゆえに、われわれの信心の立場からこの御文を拝するならば、いかなる苦難があっても、信心を破られてはいけないということである。大聖人の仏法の真髄は「信心」にあり、信心さえやぶられなければ、すべてに勝っていけるのである。われわれは、大聖人の門下である。仏子である。ゆえに、”われわれこそ信心の王者なり“との気概をわすれず、堂々と広布と信心に邁進していただきたい。
4  「光陰矢の如し」で、人生、あっというまに老いてしまう。また、死の訪れも早いものだ。ゆえに、やるべきことを一生懸命やりながら、悔いなき人生を生きてほしい。
 大切なことは、みずからの生命をかけた目標、使命の場所を明確に定めることだ。それが定まっていない人生は、結局、中途半端でおわってしまう。
 われらの生涯は、御本尊の御元で生きぬくことだ。日蓮正宗創価学会は、大聖人の仏法を永遠に広宣流布しゆく教団である。学会の世界にあって、われわれは御本尊とともに「九識心王真如の都」へと生命の旅路を歩みゆくのである。
 ともあれ、私ども信仰者は、信心だけは、自分自身の建設のために、すっきりと潔く、生きいきと進んでいきたい。

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