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日蓮大聖人・池田大作

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第1回北陸功労者の集い 日蓮正宗法難の歴史

1982.9.10 「広布と人生を語る」第4巻

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1  北陸広布二十五周年を祝す記念行事の第二日にあたり、代表の功労者の方々とごいっしょに、勤行・唱題できたことを感謝申し上げる。
 なお、本来、多くの方々とお会いしたいところであるが、さまざまな用事や会合があり、それができないことをご了承願いたい。お会いできなかった同志の方々に、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。
 九月十二日は、竜の口御法難の意義ある日である。よって、皆さまもすでにご存じのことと思うが、大聖人御自身があわれた法難のかずかずは別にして、日蓮正宗の法難史について、概略であるが述べ、多くの誉れ高き殉教の先人たち、正法正義を守り広めた尊き方々を偲びたい。
2  熱原法難      
 正法信徒のあった法難のなかでも、もっとも有名なものは熱原法難である。皆さん方もよくご存じのことと思うが、大聖人御在世当時、現在の富士方面を舞台に起こったものである。
 そこに、天台宗の滝泉寺という大きな有名な寺があった。大聖人の身延御入山後、日興上人が大聖人の御指導のもと大折伏を展開なされた。そこで、龍泉寺の僧をはじめ多くの人々が改宗していった。それを見て驚きあわてた院主代・行智は、ありとあらゆる奸策をめぐらし、信心を妨害しようとした。
 それが事件の発端である。同時にまた、これまでの法難史をみるに、そこに共通する本質は、みな同じであるといってよい。それは今も昔も変わるものではない。
3  その本質、構図というものがわかれば、何も恐れることはないのである。
 しかし、正法信仰を退転させることがとうてい不可能であることを知った行智らは、ついに弘安二年(一二七九年)九月二十一日、稲刈りをしていた神四郎、弥五郎の兄弟等二十人を捕らえる暴挙に出た。取調べにあたったのは、かの平左衛門尉頼綱である。彼は、農民たちに信仰を捨てるよう迫ったが、神四郎等は頑としてきかず、死を覚悟のうえで最後まで不退の信仰を貫いたのである。
 こうして弘安二年(一二七九年)十月十五日、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人が斬罪に処せられた。誉れ高き殉教といってよい。その名は”熱原の三烈士”として、今に薫り、永遠に輝いていこう。
 折伏が進めば、かならずこのように他宗教が権力と結びつき、裏で陰謀をめぐらし、正法の興隆を妨げようとすることは、いつの時代も同じである。この法難の構図の歴史的教訓は、今日の私たちに深く何かを示唆してくれているような気がしてならない。
4  金沢法難     
 次に、ここ金沢で江戸時代に起こった金沢法難がある。加賀前田藩五代藩主・綱紀は、正宗に深い理解をもっていた。総本山大石寺第十七世日精上人が江戸に下向され、下谷・常在寺で御説法されたことがある。御説法を聴聞した前田藩の江戸藩邸の人が入信。青年藩主・綱紀も、側近の武士とともに常在寺に参詣し、御説法を拝聴したという。
5  世は六代藩主・吉徳の時代に移る。享保九年(一七二四年)、砲術師範・福原次郎左衛門の入信が表沙汰になったことを機縁に、弾圧への動きが強まる。二年後に金沢市内の慈雲寺(日蓮宗と思われる)の住僧・了妙が大石寺に改宗。これを機にいっきょに弾圧が表面化し、領内に大石寺の末寺がなく、幕府の宗教政策に反することを理由に、大石寺の信仰を禁止した。背後に身延派寺院の画策があったことはいうまでもない。大石寺第二十八世日詳上人のとき、末寺創建の願書が出されたが、藩はこれを拒否している。
6  強まりゆく迫害のなかで、ここにも不退の信仰を貫いた誉れの人がいる。その一人が金沢の信徒の中心的存在だった竹内八右衛門である。
 彼は、強烈な弘教活動のため、獄中の身となった。しかし、その信心は、いささかもくじけるものではなかった。赦免後も藩へ諌言書を送り、再び入牢。ついに牢獄のなかで、その尊い生涯を終えている。
7  しかし、その弘法の松明は中村小兵衛らに受け継がれていった。このころ(天明年間)には、領内に、信徒一万二千を数えたとの説もある。彼は足軽の小頭であったが、肝のすわつた知恵のある人であったようだ。十数人の同志とともに牢に入れられたが、隠れた他の信徒名を明かすよう迫られた五度におよぶ尋問に対して、周到なる考慮で堂々と応じ、結局、彼一人が禁牢に処せられ、他の人はすべて微罪あるいは無罪を勝ちとった。彼も翌寛政三年(一七九一年)に赦免出牢し、この問題は解決している。
 この間の法難の歴史は、じつに七十年近くにおよんでいる。
 法難は、正法正義を弘めていくうえでの宿命といってよい。われわれは法難史を思うとき、そうした誉れ高き先達が、あるときは生命を捨てて正宗を守りぬいてきたことを忘れてはならないと思う。正法正義の信仰を貫くということは、それほど厳しいものだ。
8  讃岐法難      
 次に讃岐法難について。現在、香川県には讃岐本門寺という立派な正宗寺院がある。これは日興上人門下の大信者、秋山泰忠の寄進になるもので、日興上人の直弟子の一人、日華師、およびその弟子の日仙師によって、讃岐の地に妙法のくさびが打ちこまれたのである。
 江戸時代に入って、大石寺に参詣する讃岐本門寺の信徒が増えたことをねたみ、当時すでに独立分派していた北山本門寺が、讃岐本門寺を末寺にすることを画策してきた。
 正保四年(一六四七年)、北山の第十四代日優は、とつぜん「本門寺はわが末寺なり」と幕府の寺社奉行に公訴し、やがて悲法な判決のもと、強引に末寺にしてしまった。
 讃岐法難はじつに、この正宗復帰の運動から起きたものといえる。北山からの離脱が果たせないまま、宝暦三年(一七五三年)にいたったが、讃岐本門寺中之坊の第十三代、敬慎房日精師が、大聖人の正法は大石寺にありとし、大石寺復帰の熱烈な運動を始めた。信徒のなかの高瀬村の大庄屋真鍋三郎左衛門も敬慎房に心服し、正法のために戦った。
 しかし、宝暦七年(一七五七年)七月、二人は捕らえられて牢に入れられた。獄中において敬慎房は断食をし、朗々と唱題を続け、真鍋三郎左衛門とともに悠然として牢死したといわれる。
9  仙台法難    
 仙台法難は、明和元年(一七六四年)、大石寺第三十四世日真上人の弟子であった覚林房日如師が仙台に布教に赴き、やはり多くの人を折伏したことによって起きたものである。
 折伏が進み、いよいよ本道寺再建をはかろうとしたときに、他宗の者が藩に讒訴
 したために、覚林房日如師は、甚六、市郎兵衛、次三郎の信徒三人とともに、明和
 二年三月八日、入牢の身となった。
 そして評定の結果、日如師は仙台湾の綱地島(陸前長渡)に二十七年の遠島、いっしょに捕らえられた三人は一年奴となったほか、中沢三郎左衛門は他国追放、賀川権八は三郡追放に処せられたのであった。
10  伊那の法難     
 次に信州・伊那における法難について述べたい。伊那の小出郷の人々は曹洞宗の常輪寺、身延日蓮宗の深妙寺の二か寺のいずれかの檀家になっていた。農民の一人、茂左衛門は幼いころから日蓮宗の法門を学んだが、やがて法門に対する疑念をはらすため、各地の法華寺をまわり、また身延山久遠寺で学んだ。しかし、得心できる解答は得られなかった。
 彼は身延を去り、大石寺を訪れた。ここで日蓮大聖人の正法を知り、研鑽に励んだ茂左衛門は、天明元年(一七八一年)帰郷し、妙法山光寺という小堂を建て、折伏・弘教を始めたのである。
 天明四年(一七八四年)五月、富士派(正宗のこと)の勢いが増すのを恐れた常輪寺、深妙寺、そして光久寺(曹洞宗)の住職は連名をもって、代官の秋山五朗右衛門に訴えた。五郎右衛門はすぐさま寺社奉行に届け出た。翌日、茂左衛門をはじめ信徒の主だった人々は捕縛されてしまった。茂左衛門はいかなる取り調べにも臆せず、数日間の拷問にも朗々と題目を唱え、不動の信心を貫いたのである。
 天明六年(一七八六年)、茂左衛門夫妻、子供五人の一家は財産を没収され、追放されている。のち、茂左衛門は小出郷に帰り、伊那広布への活動を展開している。
11  尾張法難        
 また、尾張地方(今の名古屋方面)にも法難の嵐があった。これは文政、天保、嘉永、安政まで三十有余年にもおよんでいる。迫害の過酷さ、捕縛された人々の数、期間の長さにおいて、金沢、仙台、讃岐等の法難に勝るとも劣らない。
 その法難の起因は、永瀬清十郎の尾張地方への果敢な折伏・弘教であった。その弘教で文政五年(一八二二年)高崎たよ等が入信、講をつくるまでになる。このほか、舟橋儀左衛門、平松増右衛門、岩田利蔵、木全右京など、後の信者たちが入信している。
 弘教の火が広がるにつれ、各地で他宗教による迫害が、寺社奉行などの力を借りて、しだいに強くなった。そのさい、御陰尊であられた総本山第四十八世の日量上人からも、激励の御指南をたまわっている。
 文政年間には、暴徒の襲撃、御本尊強奪事件も起こっている。そして天保年間には寺社奉行所に呼ばれては吟味を受け、改宗を迫られるという迫害が相次いだ。
 弾圧がもっとも過酷だったのは、嘉永年間であった。士族、町民に対する正宗信仰の禁制の布達、信徒の捕縛、そして入牢拷問。半死半生の責めが続き、岩田利蔵は”そろばん責め”と呼ばれる拷問で死の重傷を受ける。利蔵はじめ同志らは、息も絶えだえになりながらも、信心を貫き通している。
 こうした法難を思うにつけ、いよいよ御法主上人猊下を一致団結してお守り申し上げ、もって御法主上人猊下の御慈悲にお応えしていかねばならない。また、われわれ地涌の友人が集い信行に励むこの学会を、絶対に守り、支えていかねばならないと訴えておきたい。
12  八戸法難          
 青森には八戸法難がある。八戸では、仙台・仏眼寺の住僧であった玄妙房日成師の教化により、阿部喜七と姉婿の豊作が入信している。天保三年(一八三二年)のことであった。以後、玄妙房は喜七、豊作とともに布教に力をそそぎ、多くの同志が生まれるにいたった。
 折伏・弘教の前進は、また、障魔の嵐を呼ぶこととなる。盟約書を交わしての法戦。正宗の発展を喜ばない身延派は妨害策を練り、喜七らの信仰はキリシタン類似の信仰であると、藩主に讒訴、中心者の喜七をはじめ七人の同志が捕らえられ、獄につながれた。喜七らは厳しい取り調べにも屈せず毅然たる信仰の姿勢を貫いた。
 もとより無実の身であり、ほどなく赦免されている。また、信徒たちを指導していた玄妙房日成師は、この弾圧で所払いとなり、領外追放された。
 後のことになるが、代もかわり藩主が入信し、この地には正宗寺院・玄中寺が誕生している。
13  創価学会の法難 
 近年においては、創価学会の法難がある。明治以降の神道復興、そして東条内閣が出現し、戦時体制強化にともなう当局による弾圧であった。すなわち、宗教各派の合同方針が取られ、文部省が軍部権力を背景に日蓮宗の各教団も単称日蓮宗(身延)へ合同しなければならないと強要してきたのである。
 この謀略に対して、宗門の小笠原慈聞は水魚会の一員となって策謀の一端を担い、神本仏迹論なる邪義を唱えて軍部権力に迎合するにいたった。
 しかし、総本山大石寺は、この合同に断固反対し、七百年にわたる正法の清流を厳護しぬき、昭和十六年三月三十日、単独で宗制許可を取った。ゆえに今日があるわけである。
 当時、こうした背景のなかで牧口初代会長、戸田理事長(第二代会長)以下、多くの学会の幹部が治安維持法違反、不敬罪の罪で逮捕された。
 そして、戦後になって、出獄されたここ石川県出身の戸田先生が学会再建の第一歩を踏みだし、正宗の興隆へ広宣流布の法戦を展開され、今日にいたっているのである。
14  現代も、さまざまな奸計、画策によって、宗門そして学会も広布のために大変な時代をおくっている。しかし、御法主上人猊下の御慈悲によってすみやかに僧俗和合と令法久住、広宣流布の基盤ができあがったことを、感謝申し上げるものである。
 私どもは、いやまして日蓮正宗を厳護し、また、たがいに励まし合い、みずからの信仰を遂行しゆくための組織である学会を守りあいながら、前進していかねばならないと思う。
 皆さまのご長寿と、いよいよのご多幸を祈って、私の話を終わりたい。

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