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第2回明治大学会総会 わが信念の道をどこまでも

1977.12.17 「広布第二章の指針」第11巻

前後
1  戸田前会長は、逝去される二、三年前”若い人が社会の力ある人材へと育っていくことが広布の伸展につながる”との話を、よくされていた。また、一方では”平凡な庶民でいい”ともいっておられた。
 これらは一見、矛盾するように思う人があるかもしれないが、しかし、二つとも真実であり、このいずれをも自覚しながら進んでいくところに、最高の人生が開かれていくのである。
 すなわち社会で信頼をかちえ、力ある存在となることは、そのこと自体、諸法実相の原理のうえからいって、妙法の偉大さの一つの証明になっていく。とともに、仏法の同志、民衆を忘れてしまうようなことがあれば、それは、自分のためだけのもの、つまり世間の名聞名利と変わらなくなってしまう。
 われわれが志向するのはそうではなく、あくまで庶民の法友とつながりながら進んでいくのである。それが仏法の世界であり、広布の歩みであり、そのなかで社会の力ある存在となっていく人が、真実の広布の人材なのである。
2  仏法の世界では、いうまでもなく信心が根本である。信心とは、一切の知恵の発露、確固たる信念、主義主張の源泉となるものであり、人生における信念の極致ともいってよい。
 先日、ある外国の著名人が語っていた。”私の親友、生涯の同志は、十何年間も、牢獄に入っている。自分の正義を世に出すこともできず死んでいくかもしれない”と。
 私は、その話を聞きながら沈痛な思いにかられたが、その人の結論として”みずからの信念、主義主張のために囚われの身となった以上は、たとえ歴史に名が残らなくても本来の活動ができなくてもいいではないか。死をもってでも主義主張を貫いてみせる。
 その姿そのものが、未来の人類へのおおいなる指標になるのではないか”という話となった。
 私は、ここに、ある種の共感をいだいた。主義主張に生きることは、人間としての生き方である。信念なき人は、人間の真実の光がない。
 ゆえに諸君は、どのような障魔の嵐が競ってこようとも、けっして負けることなく、青春時代に選んだ、この妙法の信念の一本の道を、嵐の日も、晴天の日も、まっすぐに、歩み続けていく仏法者、学会っ子に成長していただきたい。
3  ともかく、仏法は、社会を離れてはありえない。したがって、信心をしているからといって、近隣の友や、職場の友と疎遠になっていいということはない。
 信仰という峻厳な世界においては、もちろん安易な妥協や迎合はありえないが、それ以外の、世間的な次元では、包容、寛大、慈愛、友情を、人間性の発露として大切にすることが肝要である。仏法を根本としながら、社会のあらゆる人々との協調関係があってこそ、広布の大河はつくられ、支えられ、推進されていくとの方程式を、いま一度、確認しあっておきたい。(要旨)

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