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山口文化会館開館記念勤行会 信仰はまず20年を節に

1977.5.20 「広布第二章の指針」第10巻

前後
1  二十年前の山口においては、拠点となる会館は一つもなかった。各地に点在する会員も合計して二百世帯くらいであったろう。しかも、みんな貧しかった。
 しかし、二十年後の今日、山口創価学会は盤石な態勢ができあがっている。この事実をとおして、皆さん方も、二十年という歳月のもつ意味をあらためて痛感されていよう。
 戸田先生もよく”二十年間、その道一筋に歩んだ人は信用できる”といわれていたが、信仰も二十年間の精進が大事であると申し上げておきたい。
 ともかく”なにがあっても二十年”――これを一つの合言葉として、わが友は二十一世紀をめざして勇敢に進んでいこう。
 ただ、ここでいう二十年とは、幼少のころからの信仰年数を含めるものではない。仏法即社会、信心即生活という現実に入り、社会人として、また信仰者として本格的にその実証を示しゆく段階における二十年である、ということを知っていただきたい。
2  山口県の都市構成を、他県と比べていえることは、特別に大きな都市がない、つまり平均的都市が並列した国土世間であるといえよう。これは、民族性や風土性などの観点からいっても特殊な地域といえる。
 したがって、他県はどうあれ、山口は山口ならではという、こうした地域性を考慮し、その地域の繁栄のために活躍する会員が、いちだんと深く社会に根を張り、独創性を発揮していけるよう尽力していただきたい。その地域主義に徹した堅実な育成の作業を続けるならば、それじたいが、やがて時とともに、十倍、百倍の広布推進のエネルギー源となっていくであろう。
 平均的であるがゆえに、均衡が保たれている。平面的であるがゆえに、地域に深く根を張ればはるほど、組織は盤石となるのである。
 この意味からも、それぞれの地域で、粘り強く人材を育てていってほしい。二十一世紀にはそのなかから、大福運につつまれた偉大なる勝利者が、陸続と輩出されゆくことを心から念願している。
3  日々の仏道修行は、あくまでも、五座三座の勤行を根本とし、生命に充実感が残るさわやかな持続であってほしい。そして学会活動だけは、福運を積む仏道修行の真髄であるから、自分のためにも、子孫のためにも、地味な持続の人であっていただきたい。
 商売に従事されている方は、賢明に工夫し、各人の生活のうえに信仰の英知を結晶させていってほしい。資産家がかならずしも幸せとはいえない。たとえ質素な家に住んでいようとも、正しく生きぬいている家庭は幸せである。
 家族全員が健康で無事故、しかも胸中には満々たる信仰の喜びが満ちている、生きることじたいが楽しいといえる境涯であるならば、その人は、もはやこの世の人生の勝利者である。この人生最高の満足のうえに、生活のあらゆる面に福運がにじみでてくるのが、ほんとうの幸福といえる。
4  二十年前の”山口指導”に参加した人々は、私にとっては生涯忘れることのできない友である。貧しいなかにも仏法を求めぬく、そのひたぶるな求道と、真剣一途な行動の姿を思うにつけ、いまなお胸が熱くなるような思いがする。
 しかし、今日においては、当時の人々も福運に満ちた家庭を築き、人生の立派な勝利者となっていることは、まことに慶賀にたえない。
 すべては仏法のために行動した信仰の実証である。仏法はけっして観念論ではない。行動すればしただけの実証を、一生のあいだに、さらには三世の生命のうえで示していくことができるのである。
 私はここで、こうした功労の友の勝利の実証を後世に残すため、佳き日をえらんで「記念の碑」を建設したいと考えていることを申し上げておきたい。
5  修行の根本は行動
 「乙御前母御書」に次のような一節がある。
 「釈迦如来の御弟子あまた・をわしし・なかに十大弟子とて十人ましまししが・なかに目犍連尊者と申せし人は神通第一にてをはしき、四天下と申して日月のめぐり給うところをかみすぢ一すぢらざるにめぐり給いき、これは・いかなるゆへぞと・たづぬれば・せんしやう先生に千里ありしところを・かよいて仏法を聴聞せしゆへなり、又天台大師の御弟子に章安と申せし人は万里をわけて法華経をきかせ給へり、伝教大師は二千里をすぎて止観をならい・玄奘三蔵は二十万里をゆきて般若経を得給へり
 釈迦の十大弟子の一人である目健連尊者が、日月がめぐりめぐる四天下とは当時の全インドの意味であるが、そこを、悠々たる自在の境涯で仏法を流布しながら旅行できた。その原因は、過去世に仏法の法理を聴くため千里の道を通ったからである。また、章安、伝教等にしても、仏法を求めるための行動を惜しまなかったというのである。
 この御書の法理に照らして、広宣流布のための日々、活動に励む私どもの立場を考えるならば、これらの声聞や、迹化、他方の菩薩に対して、われらのそれは、本覚の如来の菩薩の行である。ゆえに私どもの実践活動は、そのまま”如来の行”であり、その功徳も無量無辺なのである。
 人それぞれに宿命があるように、一生成仏をめざすうえにおいても、それ相応の過程があり、リズムがあることは当然である。しかし、どんな境遇であっても「煩悩即菩提」の原理を確信し、持続の信仰を貫いていくことが大切である。
 信仰をもつことは、人間としての自己建設であり、最高の生きがいの道といってよい。逆に信仰をもたない場合は、自らの人生を不幸の習性へと追い込んでしまう危険性を、つねにはらんでいるといえるのである。ここに信仰をもつ本義があり、御本尊をすべての人に受持せしめんとする創価学会の重大な存在意義があるのである。
 きょうお集まりの皆さん方は、そして全山口の同志は、どこまでも長寿を全うし、二十年後のきょうをめざして、衆生所遊楽の人生を歩んでいかれるよう、心から念願してやまない。(要旨)

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