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創価大学第3回卒業式――記念講演 永遠に民衆と歩む指導者たれ

1977.3.18 「広布第二章の指針」第10巻

前後
1  陽光燦たる本日、晴れの卒業式を迎えた若き英才諸君の前途に対し、満控の期待を寄せつつ、心よりお祝い申し上げます。ほんとうにおめでとうございました。(大拍手)
 また、青春時代の四年間というかけがえのない期間を、学問の面、あるいは人間教育の面で、あたたかくも厳しく薫陶してくださった高松学長をはじめ諸先生方に対し、諸君を代表し創立者として衷心より御礼申し上げるものであります。ありがとうございました。(大拍手)
 諸君は、創立してまだ日の浅い創価大学に学び、建学の労を諸先生方とともに分けあい、よき未来の発条となる伝統を築いてくださった。私は、その諸君の労をけっして忘れませんし、皆さんもこの事実を、最大の誇りとしていっていただきたいのであります。
 確かなる伝統というものは、目に見えない力となり、やがて後に続く人々の最大の感謝と賛辞を集めることでありましょう。ほんとうに四年間、ありがとう。また、ご苦労さまと心から御礼を申し上げるものであります。
2  学理の世界と実社会との相違
 さて、諸君の大部分は、本日を期して、なんらかの職業に就き、実社会に巣立っていくわけでありますが、そのさい、程度の差こそあれ、まず突き当たる問題は、学理の世界と実社会とのギャップということであります。自分の修めた学問が直接職業に生かされないという、直裁的な悩みをはじめとして、学理と実社会の動きというもののズレ等等、いろいろなケースが考えられる。
 とくに現代は、激動期であり、諸君を待ちうけている試練も、それ相応に大きいにちがいない。ところが、一般の風潮では、ともすれば脊年たちが、こうした試練を避けて通ろうとする傾向が強いように聞いております。なかには、在学中から学問への情熱を失い、単位の修得のみにきゅうきゅうとしている人もいるという。日本の将来を思うにつけ、悲しむべき事実であります。
 どうか諸君は、うまく泳ごうとする、こうした風潮に流されることたく、専門課程、一般教養を問わず自らの青春期に得たものを、遥かなる道程にどのように生かしていこうかという、若々しい情熱だけは失わないでいただきたい。
 私の知人であるジャーナリストは「青春とは年齢をいうのではない。精神の若さをいうのである」と述べておりましたが、それが生涯青春ということであります。
 とはいっても、いちがいに青年ばかりに要求するのも片手落ちでありましょう。実際、青年たちから、みずみずしい若さと向学心を奪っていく要因は、学問の世界を含む社会のほうにある。
 したがって諸君は、学問と社会との関係を厳正に見極めていく鋭い目をもっていただきたいのであります。
 ここで最近、ある新聞で読んだ興味深い論調を紹介しておきたいと思います。諸君もすでに知っているかもしれない。著名な経済学者でありますが、その人がいうには「学問は常に現実を”単眼の論理”ではねく”複眼の論理”で把握していかなければならない」というのであります。
 「単眼の論理」とは、自らの論理体系を金科玉条とするあまり、多彩かつ流動的な現実の姿を、硬直化した論理の枠にあてはめてみようとしてしまう。そのために、その論理からはみ出た部分は無視されてしまうのであります。
 たとえば、近代の経済学の流れを追ってみれば、アダム・スミスから始まってマルクス、マーシャルにいたるまで、経済社会を支配する原理は、市場の論理であることが自明の前提とされてきたというのであります。市場という一つの場で、高いか安いか、売れるか売れないか、もうかるかもうからないか、との基準が根本であった。そのうえに、あらゆる理論が組み立てられてきたのであります。
 ところが、現代社会の変動は、こうした単純な「単眼の論理」を許さなくなってきている。公害問題ひとつ取り上げてみても、このことは明らかであります。売れる、もうかるを、唯一の価値基準として、有害な廃棄物をたれ流しつつ生産を続ければ、なるほど製品はできるかもしれないが、自然環境の破壊はとどまるところをしらない。当然、そういう勝手は許されないのが、現代社会の実情であります。
 したがって、企業としても、公害規制の方法に意をくばり、そのコストを換算していかなければなりません。すなわち、市場での売り買いという単一の尺度から、はみ出した部分を考慮する必要が生ずるわけであります。
 このように一つの尺度からだけでは、割り切れない新しい現実の動向に、学問は敏感に反応していかなければならない。こうした立場を、この経済学者は「単眼の論理」に対し「複眼の論理」と呼んでいるのであります。
 私は、この指摘には深い見識が含まれているように思えてなりません。およそ一切の学問は、現実を対象として生まれ育ったものであります。
 ゆえに、この現実という母なる大地から、つねに謙虚に学んでいこうとする姿勢こそ、学問が生きいきと躍動していけるかどうかの鍵をにぎっていると、私は考えるのであります。
3  現実から謙虚に学ぶ生き方
 学問にかぎらず、ごく日常の知識やものの考え方においても、このことは同じであると思うのであります。俗に、意見の対立とか、世代の断絶と呼ばれている現象にしても、対立や断絶である以前に、既成の知識への執着心が必要以上の反目を呼び起こしている場合が、往々にしてあります。
 母なる大地から謙虚に学ぶ「智慧」さえあれば、互いに協力し、よりよい未来を創造していく活力を得ることができる。私はこれが、真実の「智慧」であると思うのであります。
 学問といい、知識といっても、この「智慧」に裏づけられてこそ、人類社会に価値をもたらしていくものであります。
 仏法には「有作」と「無作」という考え方があります。「有作」とは直接的には、自然のままの姿でなく、そこになんらかの作為やとりつくろいがあることを指しますが、敷衍させていえば、自然現象や社会現象を含む一切の現象面を意味しております。
 これに対し「無作」とは、あらゆる作為を排した自然そのものの姿、広くいえば現象面の奥底に位置する見えざる「生命の実在」ということであります。そしてこの「無作」というものが根底に位置してはじめて、あらゆる「有作」が正しい創造、発展に寄与していくことができると説くのであります。いうなれば、学問や知識は、この「有作」の範疇に属するといえる。それに対し、絶えざる価値創造の原動力としての智慧は「無作」であります。
 どうか、諸君は少々の困難や試練に挫折したり、不平不満だけの灰色の人生ではなく、生涯たくましい智慧を発動しつつ、見事な価値創造の人生を送っていただきたいのであります。
 ところで現実から謙虚に学ぶとは、いったい具体的にいうと何を意味するか。それは私は、つねに民衆のなかに入り、民衆とともに歩むという姿勢が、それにあたると思うのであります。現実といっても、固定したなにかがあるわけではけっしてありません。
 民衆一人ひとりの喜びも悲しみもすべてを内に含みつつ、流動してやまぬものであります。学問や知識も、もとはといえばこの土壌から養分を吸い上げ、育っていったものです。もし、この民衆という大地を忘れたならば、ひからびた、色あせた体系と化してしまうことは必定です。
 ですから、諸君は学歴や知識の高みにひとり安住し、人々を、民衆を睥睨していくような傲慢なエリートだけにはけっしてなってほしくない。
 かのゲーテの格言集に次のようにある。「あたらしく世のなかに出たわか者たちが、自分を一かどの人間とおもい、すべての長所を持ちうると考え、あらゆる可能性を信じるのは、大へん結構なことだ。しかし、かれの教養がある段階まですすむと、かえって自己を周囲の平凡人のなかに埋没すること、他人のために生き、自分を義務と実践のなか忘却することを学ばねばならぬ。そうして、初めてかれは自己を知ることができ
 る。なぜなら、人生の行為が、ほんとうに自己と他者とをくらべて見せるからである」
 ――こう結んでいる。文豪ゲーテにしてこの言あり、の感を深くするものであります。
 諸君は、若いのでありますから、自信をもつことも結構でしょう。夢なき世代にあって大いなる希望をもつことも尊いことであります。しかし、そうした自信や希望や使命が、真実に自分自身のものとして血肉化されるためには、民衆という海のなかで忍耐強い実践を続けることが、欠かせない重要なポイントとなってくるのであります。
 私の所感の一端を申し上げ、”複雑きわまりなき実社会に凛々しくスタートしゆく諸君よ、断じて負けるな!”と願って、私の送別の言葉とさせていただきます。(大拍手)

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