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日蓮大聖人・池田大作

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第三東京男子部勤行会 人間革命こそ時代の主潮

1977.2.21 「広布第二章の指針」第9巻

前後
1  世間には、たくさんの会、教団、サークル等がある。そうしたなかで、若くして、諸君が創価学会の一員になったということは、仏法上から考えるならば、久遠元初以来の信心の血脈が連綿とつながっていたからであり、地涌の菩薩であったからであるといえよう。ともかく、宿縁深厚の同志の集いであることは間違いない。
2  「創価学会」の本義
 「創価学会」という名称は、考えれば考えるほど、じつに深い意味をもった名前であると私は思っている。
 既成宗教には、もはや躍動する人間宗教の息吹、社会に挑戦しゆくみずみずしい生命力といったものが枯渇してしまっている。過去の遺産に堕してしまっているといっても過言ではない。現代社会にはびこっている新興宗教などの教団も、企業的な要素を多分に含みつつ存続しているといってもよい。
 それに対し、わが創価学会のみが生きいきと、仏法の生命を躍動させている。「創価」の二文字には、哲学、経済、文化、教育、仏法、人間性等、すべてが包み込まれているのである。それらをともどもに「学ぶ会」が、創価学会の謂であり、本義であるといっておきたい。
 「学ぶ会」との名称には、真の平等性、民主的意義が込められているということを銘記してほしい。既成宗教にはかならず教祖というものがいる。そして信者は、往々にして奴隷にも等しい献身を要求される。
 しかし、わが学会には、教祖というものは存在しない。あえていえば日蓮大聖人お一人がそのお立場である。そのもとに、われらは皆、平等なのである。もちろん、学会の創始者は先師牧口会長であるが、教祖などという存在は、わが学会のなかにはないのである。われらの間に、いわゆる位階といったものはない。手段としての組織は、現代社会にあってはとうぜん必要になってくる。しかし、それは人間を手段、部品とするものではない。その組織上の役職の相違はあるが、これは先輩、後輩の同志関係である。
 「御本尊」と「御書」を根本に、互いに切瑳琢磨しつつ、日蓮大聖人の仏法の真髄とは何かを学び、文化と平和に根源的な寄与をしゆくのが、わが創価学会の本義である。そして、それは法理に照らして御本仏大聖人のご精神に直結していることを知っていただきたい。われらが皆、久遠からの兄弟であると確信するのも、このゆえからにほかならない。
3  神秘性をまとい、民衆を幻惑してきたのが、これまでの多くの宗教の歴史過程であったといってよい。深遠にして高邁なるものをそなえているように見せかけて民衆を従属させ、民衆を思うがままに操ってきた、これまでの宗教のあり方は、まさに”宗教悪”といってもよいだろう。
 われわれは、どこまでも権威主義を排して「御本尊」と「御書」を根本にしていくのである。御本尊はすべて同じであり、平等大慧の功力を等しく顕現できる根本の対境である。御書は、万人が等しく考究、身読していくことのできる根源の一書である。そこに帰着した実践には、一点の矛盾もない。これが、真実の人間宗教のあり方であり、大聖人の志向された本道である。そこにこそ、人間本然の振る舞いのままに進みゆく”本有無作”の元初の境地も開けていくのである。
4  先師牧口初代会長ならびに恩師戸田前会長は、こうした真の民衆教団である創価学会の本格的な発展軌道をつくってくださった。われらは、それゆえにこそ、正しい信行学の実践方軌、すなわち「生活即信心」「信心即生活」の極理を学ぶことが可能となったわけである。
 とうぜんのことながら、学会といえども凡夫の集まりであり、さまざまな喜怒哀楽の起伏を経験することはあろう。しかし、そうしたなかでともどもに学び合い、激励しあっていくのが、一大和合僧団たる学会のいき方であることを忘れないでほしい。
 ともかくも信仰に、広布に腹を決めて、自身の未来のために、それぞれの部署、分野で、盤石の礎をいちだんと墜固に築き上げていっていただきたい。
5  創価運動の本義
 革命とは語源的には「天命があらたまる」の意味であるが、われわれの立場で読めば「命を革める」ことに、本来の意味がある。しかしながら、歴史上、繰り広げられてきた従来の革命運動は、いずれも思想的な大義名分はあるものの、それがあまりにも急進的、反動的な性格のゆえに、往々にして運動家をはじめ多くの民衆の生活、人生を破壊させてしまうという矛盾をはらんでいたことは、過去の革命史が如実に物語っているところである。
 日本においても、いわゆる日蓮系仏法をはじめ、諸団体が教条的、あるいは玉砕的、企業的な形態に陥り、民衆からまったく遊離してしまったのは、ひとえに教祖の独善的な仏法の解釈と時代に盲目的な結果といわざるをえない。
 たとえば、七百年前の時代にのみ通用した時代性をおびた論理を、今日もまったく形態的にも同じにしなければならないとすれば、われわれは、いまだに”わらじ”をはいて生活しなくてはならないことになる。また、日蓮大聖人の仏法は「一閻浮提」という世界の民衆に対して説かれた本源の哲理であるにもかかわらず、これを「国教にせよ」という教条的論理がまかり通るとするならば、御本仏の意に反することはとうぜんのこととして、世界の民衆を冒漬することに通じよう。
 こうした歴史的事実と比較してみても、創価学会の運動が、いかに御仏意にかなった仏法民主の大道を歩んでいるか明瞭であろう。
 わが創価運動の根本は、あくまでも「人間革命」であり、確固たる人間変革の土壌のうえに、真の平和の樹立をめざしていくのである。「人間革命」を根本とする創価運動、すなわち広宣流布の活動は、時代に即応したもっとも近代的な形態をとりつつも、人間主義に貫かれたその哲学的論理の原点は、いささかも変わることはない。
 われらの革命運動、すなわち広宣流布の活動とは具体的にどういうことか。
 それは、けっして架空的なもの、急進的なものをめざすのではない。諸君が勤務する職揚において、実力をみがき、だれからも慕われる人間勝利の存在となれば、それ自体が職揚の広布なのである。家庭にあっても、それぞれの地域においても、諸君の姿をとおして「学会の青年部は、たしかにすばらしい」という認識を深めさせ、信頼と尊敬の人間関係を築き上げていくこと、それ自体が広宣流布の縮図である、ということを知っていただきたい。
 したがって真実の革命とは、上から圧するものではなく、もっとも身近な民衆次元からの盛り上がりのなかにある、ということである。病弱な体を健康にしたという事実も生命の広布であり、五座三座の勤行がリズム正しく励行できるようになったこと、それ自体も人間革命への立派な広宣流布なのである。このもっとも地道にして着実な運動こそが、時代の本源的な要請であることを確信して、明るく、さっそうと前進していってほしい。
6  自己に挑戦し、成長
 日々の信仰活動にあっては、良き先華に進んで指導を求め、また訓練を受けきっていく求道第一の丈夫であってほしい。求道なき人生は墜落であり、空転であるからだ。
 かつて、ある物語を読んだことを思い出す。それは明治時代において一級の指導者となった人物の青年時代を描いたものであった。
 青年時代、その指導者は酒に酔い、一人の市夫から厳しい戒めを受ける。最初は大ゲンカとなったが、車夫から「日本の国を救うのは、君たち青年ではないか」との真心を込めた叱咤激励に、青年も心から反省し発奮する。「この人は自分の父親に代わって叱ってくれているんだ。よし偉くなり、社会のために尽くす人間になるぞ!」と。こうしてその青年は、悪夢からさめ、社会貢献の大道を進むという物証なのである。
 この物語は諸君にも深い示唆を与えよう。時には先輩から厳しく指導されることもあるだろう。しかし、それは全部、自分のためを思って訓練してくれている兄友と受け止め、自己成長への善知識としていっていただきたい。
7  日々の勤行の実践については、諸君も真剣に自己に挑戦しながら臨んでいることと思う。苦しい時もあろうが、五座三座の勤行だけは、自分自身の一生を飾る基礎となり、根本土壌であるから、粘り強くあせらず挑戦してほしい。この実践を繰り返すうちに、ゆうゆうたる人間革命の境涯に入っていけるのである。
 「仏法は体、世間は影」と御書にも説かれているが、この「体」とは、五座三座の勤行とも拝せよう。勤行を根本とする姿勢が、生活、社会を変革しゆく根源のリズムとなっていく――この確たる充実感を、諸君は今後の人生により深く体験し、光り輝く人間革命の当体となっていただきたい。
 今日の世界的な創価学会を築いたのは、諸君の父母であり、いまは亡き多くの先輩同志であった。諸君に望みたいことは、先師、恩師とともに、そうした広布の諸先輩がいわれなき批判と中傷の嵐を越え、いかなる苦難にも微動だにせず、前進してきた信念の姿勢を立派に継承してほしい、ということである。
 「難を、活動の発条にせよ!」という覚悟の姿勢が、「本末究尭等」の原理で、正法を守り、全会員を守りぬくことに通じるのである。このことを深く銘記し、各分野で、なくてはならない一級実力の人材に成長していくよう、心から念顧してやまない。(要旨)

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