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日蓮大聖人・池田大作

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第1回農村・団地部勤行会 仏法下種の灯台たれ

1977.2.17 「広布第二章の指針」第9巻

前後
1  私が会長に就任したその年(昭和三十五年)の七月、千葉の銚子で青年部の人材育成機関の一つであった「水滸会」の野外訓練が開催された。
 そのさい私は、わが同志に対し、「一人ひとりが社会の、日本の、そして世界の”灯台”になっていかねばならない」との心境を語ったことがある。
 日蓮大聖人の仏法は、いうまでもなく下種仏法である。したがって、その仏法に生ききる私どもは、とうぜん、妙法の当体として活動の一切が下種の振る舞いとなっていく。すなわち、私どもの日常活動における姿、行動等のすべてが妙法の種子を植えていく作業である、ということを確信していただきたい。ゆえに、信心していない人に対しても、また現在は信心に反対している状況下におかれている人であっても、私どもの姿が、そのまま順逆の縁となっていることを銘記していただきたい。
 都会にあってはもはや、美しい木々の緑も、すがすがしい空気も汚され、極致に達した近代文明は”人間不在の都会”をつくり出してしまった感がある。この意味においても私は、地道たがらも、静かな、そして豊かな自然につつまれた農村生活をうらやましく思っている一人である。
 農村部の皆さん方は、恵まれた環境で生活し、妙法を宣揚する活動ができること自体に最大の誇りをもち、また確たる信念の人生を歩んでいってほしい。
 農村地域が、やがて大いなる脚光を浴びていくことは、時代の要請であるともいってよい。ゆえに、盤石なる一家を築き上げ、その地域の確固たる灯台になっていくことが大事である。人数、勢力のいかんではない。何十年、何百年先の展望のうえからも、妙法下種の”当体”であり”灯台”としての使命を果たしていくとき、それは壮大にして根源的な広布の礎となっていくのである。こうした観点から、私は”下種の灯台””地域の灯台””学会の灯台”たれ、と申し上げておきたい。
 日々の仕事には、御本尊を根本とした限りない随縁真如の智を輝かせていってほしい。そして、一人ひとりが福運を満々とたたえて、とくに、雅量と包容力に富んだ自身を築き上げていくことを最大の目標とされたい。また、日常活動は随方毘尼の原理にのっとり、人間関係をよりよく深めることに留意し、社会を最大限に大切にしていっていただきたい。
 「謗法禁断」の指針を守るのは、御本仏のご遺命からいってもとうぜんのことである。それ以外のことについては、すべておおらかに人々を包容しきっていってほしい。けっして偏狭な生き方であってはならない。原点をふまえたうえでの寛大な振る舞いで、どうか魅力あふれる農村のリーダーに成長していってほしい。
2  次に団地部に関してお話をしたい。都市化が進んでいる現代社会にあっては、団地という住宅様式は都市学的にも、社会学的見地から考えても、時代を先取りした一つの結晶とみることができる。この傾向性はもはや、日本のみならず世界的なものとなっており、一つの都市としての機能をもつにいたっているのも事実であろう。
 この団地を船舶にたとえるならば、皆さん方は、その地域の繁栄を担いゆく船長、機関長という重要な使命をおびた存在であることを強調しておきたい。したがって団地部の皆さん方は、幸福という人生行路の目的地へ向け、その地域の住民と協調し、信頼を通わせつつリードし、けっしてあせらず、明るく、朗らかに前進していくようお願いしたい。
3  直達正観
 日蓮大聖人の仏法は「直達正観」といって、大聖人の御生命である御本尊を受持し、題目を唱えることによって即身成仏できる宇宙根源の法則である。深遠な生命哲理を裏づけとして、実践的にはきわめて平易な原理のなかに、一生成仏への真髄を結品させた大聖人の仏法は、まことに近代的、未来的で、唯一の合理的実践法則といわざるをえない。
 釈迦の仏法ならびに天台の法円を、テレビにたとえていうならば、釈迦の爾前経は、テレビの機能を果たす一つ一つの部分の説明であり、法華経は、それを全体的につくりあげる原理といえる。さらにいつでも機械が使えるように機械を組み立てる方法を理論的に体系づけたのが天台の法門ということができる。日蓮大聖人の仏法は、たとえればテレビそれ自体といえる。
 極端な次元の話になるかもしれないが、これを私どもの仏道修行にあてはめるならば、テレビのチャンネルを合わせることが信心であり、御本尊への唱題に通じる。チャンネルを合わせるまでの振る舞いが「行」となり、それによって即座に希望の画像を楽しむことができる――これが「直達正観」の原理であり、この、人間として心からの満足感を享受できるテレビという機能、すなわち「御本尊」という当体そのものを、日蓮大聖人は私どものために残されたわけである。
 したがって、テレビそのものの原理は知らなくとも、また、釈迦、天台の哲理を理解していなくても、私どもは御本尊に唱題することによって、一生成仏という人間革命の大道を進んでいくことができるという、まことにありがたい世界に住しているわけである。 
 御本尊に唱題する。そして幸せになっていくという「直達正観」の原理とは、具体的にどういうことか。それは結論して、なにがあっても、まず題目を唱える――という一念が定まった実践の謂といってよい。それはまた、一切の方法論に流されぬ生き方といってもよいであろう。
4  現実の苦悩に直面すると、どうしても方法論が先立って題目が従になるという姿勢に陥りがちだが、けっしてそうであってはならない。たとえば病気になったとする。どうして病気になったのかということをうんぬんするより、一にも二にも、まず勤行して唱題する。この根本の姿勢を確立したうえで最善の方法論を生み出し、また遂行していく――これが直達正観の信仰の直道であることを知っていただきたいのである。
 現実の生活、活動を推進していくにあたっては、聡明であってほしい。また思うぞんぶん実力を発揮しゆく社会の勝利者となってもらいたい。
 「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」とのご聖訓もあるとおり、愚かな振る舞いは法を下げてしまうことを、よくよく銘記されたい。
 末法は「闘諍言訟」と経文にもあるとおり、あらゆる策略と矯慢がうずまいている時代でもある。だからこそ、日々絶えまない唱題で無限の知恵を湧現し、あらゆる方法論を講じ、最善を尽くして、仏法は勝負なり一の証を樹立していただきたい。
 ともかく、御本尊に題目を唱えぬくこと自体が、「直達正観」であるとともに、そこにはすでに「正了縁の仏性」という、仏果を証する三種の仏種が薫発されているのである。長い人生の遠征途上には、苦しいことも多々あろうが、皆さん方は、そうした現象を超越して、御本尊第一という信仰の根本義に立脚した人生を生きぬいてほしい。
 「依報正報・常に妙経を宣ぶ」「一身一念法界に遍し」ともあるとおり、この宇宙の生成、依正の関係はことごとく妙法によって成り立っている。たとえ一時的に行き詰まっても「妙とは蘇生の義なり」で、そこからまた、題目によって新たな生命力、新たな福運の泉を湧現していけるのである。この繰り返しが人生であることを忘れずに、明るくさっそうと前進していってください。(要旨)

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