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創価学会と未来を語る 生命の源から人間革命の大河を

1976.1.1 「広布第二章の指針」第8巻

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1  一、昭和五十一年の展望
 司会 本日は「健康・青春の年」の出発にあたり「創価学会と未来を語る」と題して、私どもの進むべき道を、さまざまな角度から語っていただきたい。
 創価学会は昨年十一月、創立四十五周年を迎え、五十周年へ勇躍旅立っています。いわば第二期の本格的スタートの年が、本年といえる。そこでまず「健康・青春の年」の展望からお願いします。
 福島 本年の意義は、昨年の第三十八回本部総会(50・11・9)の講演で明確に示されています。それは一つには、このあまりにも病んだ社会にあって、私どもはどこまでも希望に燃えて進んでいこう、ということであり、二つには学会員一人ひとりの健康と青春の息吹こそ、社会を変革していく力となる、ということです。
 北条 一人の生命の心身両面にわたる健康と青春の息吹は、それにとどまらず、大きく病める社会に復活力を与えていく。学会は今日まで、それぞれの年に活動のなかでもっとも主眼とすべきテーマを掲げて前進してきました。昨年は「教育・家庭の年」であり、一昨年は「社会の年」であった。それぞれの年に、その時代、社会にもっとも望まれている事柄を適切に先取りし、社会をリードしてきたと思う。本年は健康・青春という現在にもっとも求められているテーマを掲げて追求していく。
 和泉 それだけに人々は学会へ注目し、期待もしている。一人ひとりの健康・青春の息吹が、いよいよ大切になってきます。したがって本年の課題は、各人がどこまでも生命の革新をはかり、日々躍動感に満ちていけるかですね。
  そのためにはすがすがしい力強い勤行しかない。「大白蓮華」の巻頭言でも強調されているが、「健康・青春の年」は、まず勤行という根幹の作業から始まると決めて、日々朗々と祈りゆきたいものです。
 会長 そう。ともかく疲れきっていては、人はついてこない。あの人はすがすがしいな、さわやかだな――と感じさせるような生命の光波をしぜんのうちに及ぼしていける人でありたい。社会が不安と焦燥のなかにあり、不健康な様相を色濃く露呈させているからこそ、学会員一人ひとりの生き方、生活姿勢のいかんが大切である。
 私どもは人生究極の発見といえる胸中の仏界を顕現しゆく道を知っている。その実践が勤行である。ゆえにすがすがしい勤行の場から、健康・青春の清流がたゆみなく流れていくといってよい。
 秋谷 会長が一貫して最近、とくに強調しているのは、信仰の基本ということです。大事なことは勤行もそうだし、弘教、座談会、教学という基本を地道に実践しぬくことです。
 私は、なぜ会長が最近、とくに強調されているかを考えるにつけ、一つには学会の運動が多角的になればなるほど、より基本を見失ってはならない、との意味があると思う、もう一つは、学会の広布運動も急流から大河となり、いよいよ民衆の緑したたる平野を潤しゆく、息の長い戦いに入ったということだ。だからこそ基本を完壁にすべきだという指導であると痛感しています。
 会長「根露るれば枝枯れ源乾けば流竭く自然の道理なり」とあるように、創価学会の万代の繁栄のために、いま、基礎づくりが必要なのである。
2  二、四つの基本路線
 司会 創価学会の希望あふれる未来を語り、壮大な令法久住の方途を展望するとき、いよいよ重要になってくるのは、もっとも基本的なことである、という話が出ましたが、この点について、さらに詳しく話していただきたいと思います。それでは、勤行、座談会などの意義についてお願いします。
3  勤行――宇宙生命を呼吸
 北条 さきにも話が出ましたが「大白蓮華」一月号の年頭所感に、会長が「勤行」について書かれておりますが、一切の根本の行としての勤行を日々新たな心で続けるためにも、この論文をよく読んでいくことが大切なのではないでしょうか。
 「暁天を衝く朝の朗々たる勤行、唱題の声は、自身の生命の夜明けを告げるものといえる。一日の仕事を終えて御本尊に端然と向かう一念の発露は、寂光の覚月が胸中を青く照らしゆく崇高な作業なのである」とありますが、まさに朝夕の五座三座が、あるべき生活のリズムを生んでいくわけです。
 会長 勤行は、毅然たる姿勢で、日蓮大聖人の生命とわが生命が境智冥合していく久遠の儀式として臨むべきである。さわやかな力強い唱題の響きは、森羅三千の大宇宙の生命と、小宇宙ともいうべき自身の生命の波長を合わせていく。太陽も月も、私たち一人ひとりにわけ隔てなく恩恵を与えてくれている。すなわち、日天、月天の光の徳に、私たちは平等に浴しているともいえよう。これら日天、月天も御本尊のなかにおさめられている。
 この御本尊に対座し、勤行、唱題するということは、大宇宙につつまれた自身が、逆に大宇宙をつつみかえすことになる。御義口伝に「鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」とあるように、御本尊に向かって題目を唱えることは、自分自身の生命を鏡に浮かび上がらせることになる。まさしく勤行の座は、こうごうしい座であると銘記したい。
 一事を怠るものは万事を怠る、一事に欠けるものは万事に欠けるという。勤行こそ、まずその”一事”と決めたい。
 青木 近代生理学の父といわれるクロード・ベルナールは「生命法則の科学」を推し進め、人間の適応性ということについて「内奥の不変ということが自由な生命には一番大切である」と述べています。もちろん、彼は生理学上の立場で「内奥の不変」といっているのでありますが、この言葉を私たちの立場でいえば、その「内奥の不変」とは、日々の勤行、唱題であり、そこにほんとうに自由活発な生命活動が繰り広げられていくということです。
4  座談会――信頼と対話の場
 司会 人と人が啓発しあい、同志和合の場であり、人間錬磨の場である、芋会伝統の座談会についてはいかがでしょうか。
 会長 これもきわめて重要である。座談会についても、これまでにいろいろなところで述べてきたつもりですが、今回は「話し合いの場」であることがいかなる意義をもつか、という点から考えてみたい。
 現代の社会にとってなにが欠けているのか、これには種々の解答があるだろう。人間社会は、歳月の経過とともに進歩している面もあるが、退歩している点もある。文字がまだなかった時代は、互いに話すより意思の伝達方法はなかったのであるから、むしろ言葉そのものは生きいきと息づいていたといえる。
 ところが文字が発明され、しかも、文字による表現が豊かになってくると、はつらつとした会話というものが消えていった。どうしても文字というものは、その性格上、理性の深さなどを探るにはよいが、その裏に潜在している情念といったものを失ってしまうともいえよう。
 全体的に総括してみれば、現代は人間感性の豊かな会話ができなくなったと指摘されている。話し合う場である座談会は、この現代文明の危機を救い、求められている魂を入れるもの、と考えてよい。時代の方向性を鋭く模索している人がいるとすれば、まさしくここに文化の淵源があると気づくにちがいない。
 秋谷 人類学者にレヴィストロースという人がいます。その人は「文字はすでに権力の牙城だ」という趣旨のことを述べている。ある面からいえば、文字というものは対話を抹殺していく性質をもっています。文字に生命が失われつつあるということは事実です。そこに”生命”を吹きこんでいくものは、同じく”生命”をもってするしかない。
 さらに、テレビ文化というか、映像文化の普及、発達によって、一般視聴者は、チャンネルをひねるだけで、次から次へと押し寄せる映像情報を黙って見ることによって、ただ一方的に受けるだけで、ますます対話というものはなくなってしまう。こういう状況を打ち破る意味でも、いま会長が述べられたように、赤裸々な人間同士の心が触れ合う場である座談会は、今後、時代が推移するとともにいよいよ大きな役割を担っていくといってよい。
  ある識者が、不信がうず巻く現代社会で人間性を回復する条件として、次のような三点をあげています。①家庭的なくつろいだふんいき②気軽に内心を吐露できる機会③人生に希望を見いだす啓発作用――これは、三つとも座談会にかなっています。
 福島 過日、国土庁がこれからの首都圏づくりを検討し、現代から未来への一都三県の地域生活のあり方をまとめ、発表していましたが”つきあい社会”の必要性を訴え、各地に「現代の井戸端」を設けることを主張しています。
 経済変動によって、これからは「定着生活」「高齢化」時代を迎えるという分析をし、これを前提にして、未来は「小さいコミュニティーを大切にし、隣近所とのつきあいの場をつくり出すソフトな面重点の整備が必要だ」というものです。人間生活の孤立感を解消するためには「つきあいの場づくり」が必要で、モデルケースとして「現代の井戸端」として、小さな広場を地域ごとにつくっていくことを提唱しているわけです。
 学会の座談会は、この点から光をあてても、まさしく時代をしぜんのうちに先取りしているものであることが証明されるわけです。
 会長 小単位の世界を大切にしていくことが大事です。もちろん大きな会合もそれなりに意味をもつものであるが、より以上に心を砕くべきことは小さなディスカッションであるといってよい。御書にも諸所で「心ざしあらん人人は寄合て御覧じ料簡候て心なぐさませ給へ」と、相集って互いに学び、発言していくことの重要さを指南されています。
 座談会という小さな対話の蓄積が、やがて時代の大きな潮流を築いていくことを確信することです。いまの社会は”利害の共有性”はあっても”理念の共有性”がない、ここに問題があるという認識も展開されています。さらにいえば”精神の共有性”に欠けているといいたい。座談会運動の広がりと深まりは、人間と人間のつながりを生み、精神の共通基盤を築いていくにちがいない。
 ゆえに、ここに集う、名もなき市井の庶民が尊いのです。地位とか、名誉とか、財産の有無など、仏法ではまったく関係ありません。町や村の座談会に集ってくる一人ひとりの庶民が、時代社会を切り開く一切の原動力である。じっさい創価学会の歴史も、これらの無冠の庶民によって支えられ、築かれてきた。それであるがゆえに、学会はいかなる烈風、疾風のなかでも前進の歩をとめなかったと断言しても過言ではない。ほんとうに、これまで学会を支え、また、いま支え、そして未来へと引き継ごうとする多くの学会員の方々がいるからこそ、未曽有の仏法運動の発展があったのです。
 幹部は、この人々をどのようなことがあっても守らなければなりません。座談会に集ってくる人々を迎える心は、まさに立って仏を迎えるようにすべきである。この心が失われたときには、学会の未来はない。
 青木 座談会は弘教の場であり、そこに大聖人の生命が流れゆく源泉がありますね。
5  弘教――最大の慈悲の行為
 会長 仏教を広めるということは、人間としての共通の悩みをともに分かちあい、それを語り合いながら、人間としての生き方にめざめていくこと、すなわち、自他ともの人間精神の覚醒運動です。人と人の魂の触れ合いをとおして、互いを錬磨していく。
 澤瀉久敬博士が、その著「医の倫理」で「医療には人間に対する道徳的誠実さとともに、生命に対する宗教的敬凄さが望まれる。『診てあげよう』ではなく、『診せていただきます』という言葉はここに生まれる」と述べていますが、人を救っていく慈悲の行為である折伏にあってはなおさらのこと、この姿勢が必要になってくる。
 北条 折伏といっても、他に法を説くということは当然ですが、まず自分自身の心を折伏するということも肝要です。法華経の結経である普賢経には「心根は猿猴の如くにして暫くも停まる時あることなし若し折伏せんと欲せば当に勤めて大乗を誦し仏の大覚身 力無畏の所成を念じたてまつるべし」(妙法蓮華経並関結710㌻)とありますが、まず、自身の心を折伏せよ、それには題目をあげることであると説かれているわけです。
 結局、折伏とは他人を救う行為であるとともに、自分の宿命転換、人間革命になる。そして、師子王の精神でゆうゆうと進むことです。梵音声御書にも「師子の筋を琴の絃にかけて・これを弾けば余の一切の獣の筋の絃皆きらざるに・やぶる、仏の説法をば師子吼と申す乃至法華経は師子吼の第一なり」とある。折伏こそ最大の慈悲の行為であり、勇気ある言動であると確信して励みたい。
6  教学――次代導く英知の視座
 会長 弘教とともに、教学を推進することは絶対的に必要なことです。ソクラテスは「学は光なり、無学は闇なり」といっていますが、宇宙の無始無終に遍満するところの実在である大聖人の仏法を、学び、そしてかつ実践するということはたいへんなことです。
 戸田前会長は「理は信を生み、信は理を求め、求めたる理は信を高め、高めたる信は理を深からしむ」といわれたが、まさにそのとおりであり、教学即実践とこころえていくことです。経文の一句一章でも、現代にどう生かすかと、鋭敏に心を働かせ、自身の生命に刻み込むように学ぶことです。
 和泉 戸田前会長は、御書を読む姿勢について、次のようにいわれています。
 「私が大聖人様の御書を拝読したてまつるにさいしては、大聖人様のおことばの語句をわかろうとするよりは、御仏の偉大なるご慈悲、偉大なる確信、熱烈なる大衆救護のご精神、ひたぶるな広宣流布への尊厳なる意気にふれんことをねがうものである。私の胸には御書を拝読するたびに、真夏の昼の太陽のごとき赫々たるお心がつきさされてくるのである。熱鉄の巨大なる鉄丸が胸いっぱいに押しつめられた感じであり、ときには、熱湯のふき上がる思いをなし、大漫布が地をもゆるがして、自分の身の上にふりそそがれる思いもするのである――」
 会長 何回もいうようであるが、御書は末法の経文である。御書を経文として実践している団体は、日蓮正宗創価学会のみである。また、この一書が、私たちの宝典であるばかりではなく、現代という時代にとって、未来を開く生命の視座といえる。
 ゆえに大聖人の仏法を勇んで語り継いでいく説得力と確信とを身につける必要がある。今後ますます東洋の英知の光に、人々の願望が向けられることは絶対なり、と信ずる。この一書のもつ重みを、まず私たちが身にしみて感じていかなければならない。
 閉じた宗教は閉じた魂しか形成しない。開かれた宗教は開かれた魂を築いていく。全宇宙を達観した日蓮仏法の哲理は、あらゆる人々の魂を揺さぶらずにおかないであろう。
 西洋におけるバイブルの一書は、二千年の文化の源流となった。この二十世紀後半における御書に対する真剣な研鑽は、深く遠き流れとなって万代にわたる地下水脈を形成していく。私がもっとも教学に力を注ぎ、いかに活動が多角的にねっても、御書という根本に照らした創価運動を主張するのも、ここにある。
 そうした精神を知って、本年から始まる”教学の日”を軌道にのせてもらいたい。
7  三、広布後継と人材
 青木 その意味で、これからの時代は「信・行・学」の基本と学会精神に貫かれた本格派の台頭が必要ですね。また、そこから社会総体にわたる指導者も出現しなければならない。また、各部ともに、それぞれの特色を発揮しながら人材の輩出に力を入れていくことが大切となる。
 会長 指導者ということで一言すれば、指導者はどこまでいっても民衆の代表でなけれはならないはずだ。しかし不思議なことに、いったん指導者の立場になると、たちまちのうちに民衆のためにという精神は衰え、崩壊していく。この宿命ともいうべき人間の業に光をあてるならば、指導者になればなるほど、庶民を支えるという立場に自らをおかなければならない。地球の重みを支えるような思いで、民衆を支えゆく指導者像こそ現代の要請である。
 その指導者を育てていくことは、至難中の至難であろうが、私はなんとしても、その土壌をつくっていきたい。私がときになぜ厳しく激励していくかというと、率直にいってその心境からなのです。いま大切なことは識見、勇気、展望、明朗、慈愛の指導者の出現です。
 壮年部の人たちに一言すれば、幹が大事だ、ということです。冬の木枯らしが吹いて、すべて葉が散ってしまっても、幹さえ厳然としていれば、やがて春の爛漫たる開花を迎えることができよう。厳として揺るがぬ信心の確立、だれびとも安心してこの人ならばと頼られ、慕われる存在――これが壮年部の眼目であると、私は思う。信頼は無限の財産です。
 また、婦人部の力は、その日常性における洞察眼、分析能力、細かい発見力、あたたかい思いやり、やさしさ、粘り強さ等という面で、きわだって卓抜しているといってよい。それは女性の水の流れるがごとき特質である。じつに”広布の母”は偉大なりと思う。今日にいたる学会を築き上げた大地も、婦人部であった。この輝かしい足跡は、かならずや子らの胸に鋭敏に映っているにちがいない。
 婦人部の広布未来における役割は、令法久住にあると考える。激変の時代、社会にあって、広布の道程もまた険しいのは、御聖訓に照らして必然である。そのなかにあって、悠久の大河のごとき広布の流れを築いていく女性の使命は、あまりにも大きい。その強靱な信仰の基礎をつくる女子部の存在もまた、創価世界の希望の星である。
 青年部に対しては、すでに恩師戸田前会長が「青年訓」のなかで「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」と述べられている。この一節は、青年部への、いわば遺言であった。前会長は遥か二十一世紀までを眺望して、青年に一切の後事を託されていたのです。
 私もまた、それを継承した。それと同じく、その私の心を引き継いでいくのも、青年部の諸君であるといいたい。青年の燃えるがごとき情熱と行動なくして、なにがなされようか。力なくして、いかなる開拓ができるであろうかと、私は思う。私は未来広布の本格派を待望してやまない。「正法をひろむる事は必ず智人によるべし」と御書にある。人間としての賢さ、賢明な行動があって広布は伸展する。ともかく一人の必死の人間は、万人、万軍に勝るのです。
 「日蓮が法華経の肝心たる題目を日本国に弘通し候は諸天・世間の眼にあらずや、眼には五あり所謂・肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり、此の五眼は法華経より出生せさせ給う故に普賢経に云く「此の方等経ほうどうきょうは是れ諸仏の眼なり諸仏是れに因て五眼を具する事を得給う」等云云
 これは、人間と社会と時代とを見通す目は、仏法によって養われていくということです。また、仏法をたもった人は、それだけの責任ある立場を鋭く自覚しなければならない。
8  良き伝統を習慣化
 司会 牧口常三郎初代会長、戸田城聖二代会長、そして現三代会長へと続く学会の歴史をわかちもち、そこから学会精神を無限にくみとり、未来のバネとしていくことは、いまなさなければならない課題です。歴史は現在を生きる人々に共有されてこそ、時代を動かす力となるからです。そこから私たちは、学会魂に満ちた人材の重畳たる山脈を築き上げていかなければならない。次にそれらの点についてふれていただきたいと思います。
 会長 現在の学会、広布の伸展があるのは、ひとえに牧口先生、戸田先生がおられたからだ。ここに原点がある。そして草創から今日まで学会を支えてくれた無冠の庶民がいたことを忘れてはなるまい。第一線で黙々と戦う群像のなかにこそ、真に偉い人がいるのだ。その人たちが地の塩となって学会を支え、担ってくださった、その人たちのために、私は生涯を賭けたい。その人たちがいて、私も戦えるのです。私には、もっとも大切なのは学会員である、この地涌の友の行進があるかぎり、広宣流布は「大地を的とするなるべし」との御金言どおりとなることを確信する。
 北条 あらゆる組織には官僚主義や形式主義が生まれやすいものだが、第一線の人たちのことを思えば、つねに自己を点検し戒めていく、私たち幹部でなければならない。
 たった一人のためにも全力をあげて戦いぬくというのは、学会の伝統であり、歴代会長の精神にほかならない。
  この一人のために――ということは、たんに学会内にとどまらず、社会への働きかけともしていかなければならないだろう。会長が外国を訪問するさいにいわれたことだが、民衆のなかのたった一人であっても、会って話をすることが唯一の願いであり、目的だ、といわれた。利他といっても、この”一人のために”から実践は始まる……。
 会長 これからの歴史の動向は、一人ひとりのなかに、なにが息づいているかによって決まる。民衆一人ひとりのなかに、希望があるのか、不安が充満しているのか、喜びにあふれているのか、恐怖におののいているのか、その心の奥を見極め、民衆の大地に立つか否かで、一切の命運は決まる。
 日蓮大聖人の仏法が、真に民衆仏法であるゆえんは、一人ひとりに信仰という次元の光を与えたことだ。誰であろうと一切の差別なく、自己の生命変革をなしていける方途を、大御本尊の建立をもって明確に示されている。民衆という大勢を対象としたのではなく、あくまで民衆の一人ひとりを対告衆としている。一人ひとりの心のなかになにがあるのか、なにを欲しているのかを見極めていく。この仏法本来の精神をふまえた、運動の”ホシ”というものを忘れてはならない。
 青木 学会の秋霜の歩みも半世紀に近づき、学会二世、三世が多くなってきています。今後の大きな課題は、若い世代に学会精神をいかに継承していくかということであり、広布を担う人材の育成にあると思いますが……。
 会長 学会の未来万代への布石は、完壁に整いつつあるといえる。若い優秀な人材も、いわゆる”学会二世、三世”といわれる層も含めて、陸続と輩出されつつある。また、学会が日本の社会を担うにふさわしい人材の宝庫となっていかなければならない。社会の、心ある人々の期待も想像以上に大きい。
 では、それですべてが盤石であるかというと、そうではない。そこに私は、伝統の継承という問題があると思う。いくら広宣流布の未来構想と路線が明確になっていたとしても、それを創造的に開き、発展させていくのは、あくまで”人”であるという一点を忘れてはならない。その”人”に魂を入れ、学会の路線を誤りなく展開していく根源の力は、草創期以来、幾重にも積み重ねられてきた伝統の精神遺産以外にない。
 その輝かしい精神遺産を、いかにして新しい世代、学会後継の青年たちに伝えきっていくか。広宣流布の第二段階に躍り出た今、そのことを真剣に構想していく必要がある。
 北条 昨年末に発表された学会の公式な伝統行事も、その一環としてとらえることが大切だ。歴史をめくり、その日を迎えるたびに、そこに息づく広宣流布への烈々たる熱情というものを、あらためて学び、胸中の奥深くに焼きつけていく。それは、先達から後進の人々への、使命共有の呼びかけでもある。
 それと同時に、現在における新しい価値ある試みを、伝統化、習慣化していくこともおろそかにしてはいけない。日常の基本的なものの積み上げのあるところにこそ、弾力性に富んだ組織の土壌が形成されていくからです。「県の日」の定着化も、その一つの好例といえるでしょう。
 それと、ここでいうところの”伝統”というのは、けっして形式のみを意味するのではない。形式にとらわれて、その奥にあるものを見失ったならば、やがては伝統の名のもとに形骸化し、かえって柔軟な発想と行動の展開を妨げてしまう。あくまで人々のなかに生きいきと脈動している精神の伝統化でなければならない。
 和泉 私が感銘を深くしたのは、各地に建設されている初代会長、二代会長の記念碑や記念公園です。そこに立つと、思わず初代会長、前会長のありし日の振る舞いや指導等々が胸をよぎる。”現当”に生きる私たちを、学会の元初に引き戻してくれるのです。
 これは、たんなる懐古ではなく、現在と未来への発心を、わが身にうながす偉大な触発です。
 そして、そこで思ったのは、結局、伝統の精神、学会精神といっても、せんじつめれば、代々の会長の精神にほかならないということだ。歴代会長の行動の軌跡、理念、指導というものが醸成されて、はじめて伝統の核が形づくられていく。そこにこそ学会の血脈があるといってよい。
 このポイントをはずしては、いくら伝統をうんぬんしても、画竜点晴を欠くことになる。記念碑や記念公園は、そのことをも教えてくれますね。
  たしかにそのとおりだ。昨年、牧口先生、戸田先生を語る座談会のさいにも、皆さん方と話し合ったのですが、牧口先生のことをいちばんよくご存知だったのは戸田先生であるし、戸田先生のことをいちばんよく承知していたのは池田会長である。このことは衆目の一致するところです。
 あるとき、会長が「私は体のどこを突いても戸田先生の指導があふれ出てくる」し述懐されたことがありますが、ほんとうに味わい深い言葉として心に残っています。
 そして、そこに一貫して流れている精神――それは、昨年の本部総会での会長講演にもあるように「創価学会の根本目標としてどこまでも忘れてはならないことは、日蓮大聖人の三大秘法の仏法を広宣流布すること」にある。さらには「『諸法実相抄』の『剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし』との大聖人の仰せ、また『未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事』の第二祖日興上人の御遺誠を、私どもは永劫に変わらぬ学会精神の原点として進んでいく」との総会講演に明白です。
 秋谷 学会創設の歴史をひもとくと、牧口先生、戸田先生によって学会が誕生して以来、まさに満身を創痩にしての、休むことなき広布への激闘の旅であったことがわかる。
 代々の会長は、宗祖大聖人の御聖訓を実現するために、また、人のため、平和のため、社会のために一切をなげうち、生涯を挺身されてきた。これが学会の精神である。今日の宗門の隆昌、学会の発展それ自体が、学会が大聖人に連なる重要な使命をおびた団体であることの証左である。
 北条 先日、牧口先生、戸田先生に関する貴重な資料に接する機会があった。それは、牧口先生が校長職にあったときの白金尋常小学校の学校日誌等です。大正十五年当時のものですから、ご両人とも入信以前なのですが、何か所かに「戸田城外氏来校」というのがある。不思議な出会いを感じます。
 私たちも前会長、現会長との出会いがあったからこそ、学会の真髄にふれ、現在のそれぞれの人生がある。この生命の触発と交流のなかにこそ学会精神は誤りなく伝播され、大聖人の仏法の生きた応用と展開がはじめてなされるのです。
 会長 ともかく牧口先生、戸田先生なくして、現在の学会はないし、牧口先生、戸田先生を離れて、未来の学会もない。日蓮大聖人の仏法を民衆の生活の指導原理として確立したのは創価学会であり、それはまさしく混沌の現代にあって、日蓮仏法の新たなる夜明けを告げたものである。さらにこの仏法を真実の反戦と平和の思想的基盤として運動を進めたのも、牧口先生であり、戸田先生であり、そこから発する創価学会です。
 いまはなによりも、良き伝統を習慣化し、学会精神を一人ひとりのものとして、進まなければならない。牧口先生、戸田先生に発する宗教革命の流れを、今度は多くの私たちが担うのです。
9  学会の社会的使命
 司会 次に、今後私たちの進むべき方向について、ふれていただきたいと思います。
 福島 現代は、ともかくめまぐるしい時代です。国際的にみても国内的にみても、十年、二十年先どころか、二、三年先さえも見通すことができないといわれている。あたかも、羅針盤を失った船のようなもので、社会の激動の波間に翻弄され続けているというのが、現状でしょう。学会が、これだけ世界的に大きくなったのだから、その社会的責任のうえからも、今後の文明の進路について、確たる指針を示していく使命があります。
  先日、ある経済の専門家と会ったのですが、不況対策などにしても、第三次、第四次と手が打たれていっても、これでいいという確信はまったくもてない。事実、めぼしい効果もあがっていない。当面は、試行錯誤を繰り返しながら、社会のあるべき方向性を探っていかなければならないだろう、と述べていました。そして、そのさいもっとも注意すべきことは、危機にあたって、国民の精神的基盤が、激しく揺れ動くことだと。
 秋谷 結局、現代の危機の根の深さというものも、そこにあるわけでしょう。現実問題としてはたしかに、経済危機や食糧、資源、人口、環境破壊、あるいは核兵罷の間題など数多くの難問が山積している。それを解決していくためには、どうしても人類的規模で英知を結集していかなければならない。どうすればそれが可能か――この一点で、人類は途方に暮れています。
 北条 われわれが、欲望の拡大を基調とした物質至上主義から、人間生命に光をあてた生命至上主義へと時流を転換させていかなければならないと叫び続けている理由も、そこにある。
 さきほど羅針盤を失った船という話が出たが、船や飛行機で、よく復原力ということをいうでしょう。バランスを失って傾いたときに、もとの位置へと戻す力――。創価学会の立場を端的にいえば、人間社会に、真実の生命の復原力をもたらすものであるということができると思う。
 会長 そう。いまのたとえでいえば、復原力であると同時に羅針盤なのです。羅針盤だけあっても、復原力がないと、風波に遭遇して転覆してしまう。逆に復原力があっても羅針盤がなければ、一歩も航海することができない。両者を兼ね備えた方向をわれわれはめざしたい。とくに現代のように、歴史の振幅が激しい時代にあっては、もっとも地道な、もっとも身近なところから腰を据えて進んでいくことが大切であろう。
 ともあれ、大聖人の仏法は、生命に根ざした変革の哲理である。しかし仏教一般をみると、どちらかというと、保守的な感じを与えてきた。事実、数百年来の仏教のあり方をみると、そう思われてもやむをえないような事例が数多くあった。江戸時代に「出家、侍、犬、畜生」と庶民からうらまれたように、権力者に取り入ったり、権威のうえにあぐらをかいたり……。ゆえに、大聖人の仏法が、そうした既成の概念を、根本から打ち破る、革命的宗教であるということは、どんなに強調しても、しすぎることはない。
 和泉 私たちの立場は、いかなる人であれその内奥には、仏界という光り輝く生命の当体が存在しているのだという大確信をもって、徹底して人間に迫っていく、現実に迫っていく――。
 会長 そうした大確信に燃えた、一人立つ、まことの仏法者が、どれだけ輩出できるかということが、創価主義が今後、社会に定着していくうえでの鍵を握っている。それが即、社会全体に、真実の復原力をもたせることにも通じていく。
 私が広布第二章の出発にあたって「学会のなかに皆さんがある、というのではなく、皆さんのなかに学会がある」と述べたのも、その意味です。したがって、真実は身近にあることを忘れてはならない。まず、自身の胸中の制覇にある。その人間革命の波動が、着実に社会に浸透していくとき、広宣流布という未聞の原野は、力強く切り開かれていくのである。けっしてあせってはならない。
 北条 会長が、過日の第三十八回本部総会での講演のなかで「人間革命を標榜する創価学会は、社会の安定にとって、今後ますますその存在価値を高めていくでありましょう」と述べているのも、社会をなんらかのかたちで現状維持させていくというようなものとは、次元を異にしているわけですね。
 いわば、一人ひとりの胸中に宿る生命というかけがえのない”宝”を、人類の共有財産にしていく労作業であるといってよい。ゆえにわれわれは、日蓮仏法を、二十一世紀を照らす優れて人類的宗教であると、主張しているわけです。
10  四、平和と文化の創出
 ”信”――人間真実の強さ
 秋谷 さきほど、どんな人間にも仏界という尊極の生命が存在するのだという大確信に立つという話が出ましたが、平和文化といっても、その”信”を根底にして、はじめて現実のものとすることができる。無形の一念の有形化、具体化といってもよい。
 その具体的方法としては、徹底して生命の対話を貫いていくことです。信頼と対話などというと、どこかの政治家がいいだしそうなことですが、そのような偽善的なものではなく、あくまで相手の”眠れる魂”を覚ますのだという、生命をゆさぶり動かすように、一人の人間に迫っていく。これが、われわれの行動の基調となっていくのではないでしょうか。
 会長 ”信”は希望であり、建設、創造です。逆に”不信”は絶望であり、破壊へと通じていく。現代社会が、不信の暗雲に覆われているためか、信ということが、ともすれば甘い感傷的なものに誤解されがちだが、真実の信ほど強いものはない。
 また真実の対話を貫いていくためには、想像を絶するほどの勇気を必要とするものだ。人間を信ずることができないから、武力や権力によって、相手を屈服させようとする。現代の政治至上主義や権力主義横行の根は、そこにある。したがって信の一字は、迷える現代文明を転換させる”要石”であるといえよう。その信の力を湧現させるための仏法です。
 人間のもつほんとうの強さは「信ずる」ことにあるのではないだろうか。猜疑心は人間の正しい批判力のあらわれではなく、やましい心のあらわれである。厳正公平な目とともに、根底を信ずるという姿勢が必要です。「水の底なる石に火のあるが如く百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる」とある。だれびとの生命の奥底にも仏界ありと信じていくのが、大聖人の仏法の根本である。
 福島 ドイツの哲学者・ヤスパースは、釈迦やキリスト、ソクラテス、孔子などが出現した紀元前数百年を、人類史の”第一の枢軸時代”とし、現代を”第二の枢軸時代”と位置づけています。
 第一の枢軸時代に特徴的なことは、インドやギリシャ、中国などでずいぶん様相を異にしていますが、いずれもなんらかの高等宗教や哲学などの理念が文明をリードし、そのあり方を規定していったことである。
 そしてその根底には、理念を共有する者の信頼と対話ということが基調をなしています。釈迦やキリスト、ソクラテスなどにしても、自らペンをとろうとせず、まず民衆のなかにとびこんでいって、生きた対話を行っていったという事実は、興味深いことです。
 会長 歴史の流れを大局からみていくならば、大転換期には、かならず英知の人々による集いと語らいがあるものだ。たとえ最初は、とるに足らぬほどの少数であっても、その語らいのなかに息づいている理念の力というものは、やがては歴史を大きく変えていくだけの巨大な力を秘めている。その目に見えぬ力の確たる存在を信じ、要は、民衆の心を、どれだけ深くつかむかということだ。
 ヤスパースが現代を”第二の枢軸時代”と呼ぶのも、荒廃せる物質文明を転換させ、リードしゆくなんらかの理念を待望する、哲学者の良心の叫びであると、私は思う。
  たしかに”第一の枢軸時代”と現代とを比べてみると、人類がどれだけ進歩したのか疑問に思われる点が、多々ありますね。”外”へと向かう文明の拡大と延長は、これほどの発展をみたにもかかわらず”内”なる精神の世界は、どれだけ進歩したのか。
 もちろん、人権意識の向上など、みるべき点も多いのですが、もう一歩立ち入って人人が、まさに生きているという生の充実感、生命感覚の問題にまで目を向けると、五濁悪世という御金言を痛感させられる場合が多い。早い話が、人間の生死という問題にしても、人々がどれだけ痛切に感じとろうとしているのか――。
 和泉 子捨て、子殺しなどが騒がれているのも、その一例でしょう。そのような痛ましい事例は、以前からよくあった。しかしその捨て方、殺し方――どうも言葉がよくないが――が、ずいぶん違うという。
 たとえば昔は、自分の子供を捨てる場合、なけなしの金をはたいて買った一張羅に包んで、金持ちの家の前かなんかにそっと置いておく。ところがいまは買い物袋に入れてコインロッカー。これは極端な例で、昔も相当ひどいことがあったにはちがいないし、いまだって、自分の腹を痛めた子供を殺したり、捨てたりすることの痛みは当然あるであろう。
 しかし、保育所などの施設が、まだまだ不完全だとはいえ、昔からみれば、大幅に整備されてきたにもかかわらず、肝心の一個の生命に対する感覚が、どれほど進歩したのかということは、たしかに疑問です。
 会長 その生命感覚の荒廃をもたらしたもっとも大きな原因は、”一人”という視点の欠落に求めることができるのではないでしょうか。近代文明が形成されるにあたって、民主主義が叫ばれ、民衆が主体となっていかなければならないというスローガンも掲げられてきた。しかしその民衆も、不特定多数の”数”として扱われ、民衆一人ひとりに、どう光をあてていくかという視点が欠落していた。少なくとも非常に弱かった。
 だから、一人の人間の生命は地球よりも重いといわれても、どこかうつろな響きをもって、受け止められてしまうのです。そのような荒廃した精神の土壌に、確かなる進歩の足跡をしるすためには、まず生命の尊厳という理念を基盤としなければならない。
 今日にいたるまで、民衆は、つねに分断されてきた。この分断こそが、不幸の原因であった。日蓮大聖人も、頭破作七分(精神の分裂)が、最大の不幸の事態であると指摘されていた。この民衆の分断が、平和への方向の逆行であることはいうまでもない。
 この民衆の”分断”を”連結”にかえ、民衆一人ひとりの平和への意志を結束させ、世界市民的連帯にまで高めていくところに、創価学会の使命がある。
11  盤石な平和勢力に
 青木 新たな文化の創造も、そうした生命の尊厳にめざめた一人ひとりの人間が、生命という共通財産をどう具体化し、現実の形あるものへと築き上げていくかということではないでしょうか。小説「人間革命」(第七巻)のなかに、文化に関する戸田前会長の話が出てきます。
 「――結論を先にいってしまえば、文化とは――知恵を知識化することだ、といったらどうかな。知恵を形式化するというか、とにかく形として、人に用いられるようにすることだろう。たとえば、赤ん坊のおしめなんか、立派な文化です。おしめだからといって、低い文化ということはできない。あれを発明した人は、たいした知恵者ではないだろうか」と。
 ともかく、おしめにかぎらず、人間社会にとって価値あるものを創造していく、それを共有の財産、基盤として人々の生活が形づくられ、また新たな価値創造への踏み台となっていく。その創造性の不断の発露が、文化運動であると思う。
  それから自分たちで知恵をしぼり合って作り出したものは、人間であれば、だれでも大切にするものです。
 水戸黄門が諸国漫遊の途中、茶屋の脇に積んであった米俵に腰かけて、そこのお婆さんに、火吹き竹かなんかでどやされる話があるでしょう。農民が汗水たらして作った労苦の結晶を、尻の下に敷くとはなにごとか、と。水戸黄門は、そこでひどく恐縮して謝るわけですが、このように、物に生命を感じていくというみずみずしい感覚こそ、文化を創造していく源泉である。
 にもかかわらず、現代の消費社会にあって、失われつつあるのも、この生命感覚にほかならない。最近はオイルショックの大波をかぶって、節約ムードも出てきましたが、まだ”夢よ、もう一度”と願っている人も多い。文明の欠陥に気づいている人も、どこに突破口を求めるかという点になると、途方に暮れているのが、いつわらざる実態です。
 福島 平和の問題も、同じ観点から論ずることができます。もし人々が、自分たちの作りあげた価値ある物に、生命を感じているならば、戦争などを引き起こして、破壊してしまうわけがない。じっさい、文化を創造することの労苦や喜びを知らない人間にかぎって、自己の欲望の奴隷になって、平気で物を壊したり、人命を殺傷したりする。横暴な権力者は、つねにそうです。
 だから、平和創造の原点も、あくまで庶民の生活感覚の場に求められなければならない。その意味では、世界史というものも、庶民、民衆の立場に立って、書き換えられなければならない時代にさえ直面していると思う。
 会長 文化といい、平和といっても、創造の原点は身近な生活の場にあるということ――これは重要な視点です。われわれが、まず一人の人間に光をあて、次いで地域というものを重視するのも、そのためです。
 と同時に、もう一つの重要な視点は、理念の普遍性ということです。ヨコに人類、宇宙をも包含し、タテに末法万年を望む、三世十方にわたる生命の視座がなくてはならない。両者が相まってはじめて、試練に立つ現代文明の進むべき根本の軌道も、明らかとなってくるのです。
 御書に「虚空の遠きと・まつげの近きと人みなみる事なきなり」と示されているように”身近”という視点と”普遍性”という視点とを、どう調和、融合させていくかが、最大の課題であるといってよい。
 和泉 世間では、両方とも欠落していて、中間でウロウロしている。(笑い)
 青木 これだけ国際化、世界化の著しい時代ですから、たしかに身近な地域を大切にするとはいっても、世界の動きと無関係に生きていくことはできない。
 さきほどの水戸黄門と米俵の話にしても、自分の作った米、あるいは”おらが村”でできた米であれば、米に生命を感ずることも比較的容易ですが、現代のように、いくつもの流通経路を経て、米屋さんから配られるのでは、なかなか困難です。しかも、どこのだれが作ったのかわからない米を食べなければ生きていけない。このことは、衣食住すべてにいえるでしょう。
 ゆえに、どこのだれであっても、人類の一員としての同胞意識を感じとるだけの基盤が不可欠です。そこに、普遍的な生命の尊厳観が絶対の要請となってくる必然性があります。
 北条 われわれが、どのような屡望に立って、平和、文化を推進していくのかということが、一段と明らかになってきたように思う。
 最後に、いわゆる「舎衛の三億」の原理について、若干ふれておきたい。
 広宣流布への指標として、信心している人が三分の一、信心していないが、理解をもっている人が三分の一、残りの人が三分の一という原理ですが、これは、古代インドにおける一往の平和社会実現の事例としてあげられたものです。
 ですから、おのおの三分の一という数だけが、第一義的な目標とされるのではなく、元意は、信心している人も、そうでない人も、共通の基盤に立って平和への橋頭堡を築いていくことにあるといってよい。その崩れざる世界平和への精神的基盤を構築することが「舎衛の三億」の原理の現代的意義であり、二十一世紀へ向けての最大の課題といっても過言ではない。
 会長 レーニンが「二十世紀は、戦争と革命の時代である」といったのは、よく知られているが、不幸にしてこの予言は的中してしまった。当時、すでにその萌芽があったからにちがいない。
 人類は、二度にわたる世界大戦を経験したにもかかわらず、いまだ戦争の悪夢から覚めたとはいいがたい。それどころか、人類を壊滅させかねない第三次世界大戦という大地震の、初期微動ともいうべき現象は、いたるところに転がっている。
 私は、この不幸への予兆が現実化しないことを祈る。佐渡御書にも「是は華報なるべし実果の成ぜん時いかがなげかはしからんずらん」とある。私は暗雲の上にはかならず太陽のあることを信じている。そのためにも第三次世界大戦だけは、絶対阻止しなければならないと、祈願にも似た気持ちで訴えたい。
 ゆえに、まずわれわれが、真実の平和勢力として、人類の精神的な地下水脈を、着実に掘り起こしていかなければならない。この人類と人間を”友”とした労作業を、誇りをもって推進していきたい。
12  五、仏法を時代精神に
 司会 広宣流布とは、仏法の精神を時代精神、世界精神にまで高めていくことだといえる。仏法はタテに永遠性を、ヨコに普遍性をはらみつつ、世界宗教としての流れをいよいよ増幅していくと思います。事実、世界八十二か国に仏法は渡り、メンバーの活躍がいちだんと目立ってきていますが……。
  アメリカ人であろうと、フランス人であろうと、日本人であろうと、人間であるとの共通項は厳然とあるわけです。仏法の人間観は、人間存在の根源への問いかけ、洞察から出発している。もともと仏法は世界性、普遍性をもっていたといえますね。
 和泉 仏法で説く一念三千にしても、地獄界から仏界までの生命の変化相は、アメリカ人であろうと、日本人であろうと、すべてが有しているわけで、アメリカ人だから修羅界がないとか、フランス人だからといって餓鬼界がないなんていうことはない。(笑い)
 その他、大乗仏法の精髄が説く理念は、色心不二にせよ、依正不二にせよ、ことごとく世界宗教として広がりゆく肥沃な哲理の原野といってよい。
 秋谷 インドに発祥した仏教は、このように理念的には普遍性をもともと有しています。ところがその仏教に二つの流れがあった。一つは小乗仏教で東南アジアヘ、かなり土着性を吸収しつつ広がり、いまも残っている。
 一方で大乗仏教は普遍性を表にして中国そして朝鮮半島を経て、日本へも伝播した。
 これはやがて力を失い、形骸化し、日蓮大聖人の出現によって新たな生命を得て、世界へと旅立っている。このこと自体、仏教三千年の歴史で未曽有のことです。
 また仏教伝播の経緯からいえることは、土着性と普遍性という二つの相関が大切ではないかと思います。土着的なもの、いわばその地方の伝統的な思考とか風習を、ことごとく無視しては、仏法の精神は広がり得ないし、反対に、土着性に偏重すると、仏法の精神が歪められることもありますし……。
 会長 そう。大事な点だ。仏法には随方随時毘尼という方軌がある。随方というのは、仏法の根本義さえたがえなければ、その地方、社会の風習にしたがって仏法を展開、応用していってよいということであり、随時というのは、時代状況をさすわけです。
 いうまでもなく日蓮大聖人の仏法は、その地、その国の民衆の幸福と繁栄のためにある。仏法の世界観は、あらゆる国を対象とし、あらゆる国の民衆のために、という一点に貫かれているといってよい。したがって文化の形態、歴史感覚は当然、国によって異なろうが、人間としての共感を基盤にして仏法は広がっていくとみたい。
 青木 仏教の歴史をみても、仏教伝播にともなって、伝播した国がインドの属国になったという例はありません。逆に人間に、その国民に、活力を与え、みずみずしい精神の力を与えた仏教が、文化を興隆する素地をつくった。世界の各地に文化の花を咲かせ、その文化がまた伝播のエネルギーとなっていったんですね。
 北条 会長のいう人間としての共感ですが、私はこれが現代の殺伐とした世に、もっとも欠けている一つではないかと思う。互いに喜怒哀楽のなかを生きている同じ人間であることを、真に知るとき、利害やイデオロギーを越えたところで、人間としての連帯がしっかりと芽生えていくといえる。
 会長が世界を回る発想の起点も、いずこの国であれ、社会であれ、そこには人間がいる、限りなく尊い人間が生を営んでいるとの、人間としての共感を確認しあうことにあると思う。
 和泉 世界の各地を回ってみて思うことは、ともかくそれぞれの国のメンバーたちが催す会合には、その国の伝統なり文化の大地をさらに発履させていく生命の高まりがあるということです。
 ペルーで、あるいはブラジルで文化祭を行った。来賓の人々は、文句なしに、そこにみなぎる精神の躍動に目を見張っていました。それは人間の心に直接に訴え、共感を呼んでいくのです。
  私たちの運動は、それぞれの国の風習なり、時代の状況に適応し、なおかつリードしつつ、普遍的に受け入れられていくのですね。
 秋谷 さきに平和論のところで”信”と”対話”が強調されましたが、この人間としての共感ともいうべきものが異体同心の前提となるものだと、私は考えています。平和へ向かう共通の民衆の意思を共感のうちに結集させていく。ここから異体同心という世界家族としての第一歩が始まる……。
 グアム島で行われた第一回世界平和会議(50・1・26)で会長が、異体同心ということを平和という視点からとらえれば、人類が異体を同心として進んだときにこそ平和は実現するとの意である、といわれた。これは平和論の核となるべきものであると思います。
 福島 異体同心の新展開ですね。異体というのは、あらゆる国、あらゆる地域の相違を包含していく立場です。異体であって、しかも人間としての共通基盤に立っていくということが同心ということですね。
 御書に「南無妙法蓮華経と唱え奉るは有差を置くなり」とありますが、大宇宙の本源から無限の活力を得ていく勤行という人間平等の会座が、異体同心に真の意味を与えている。そこから平和への強い意志が共有されていくと考える。
 会長 大聖人は末法の戒律はただ一つ、金剛宝器戒といわれた。つまり妙法を受持すること。だれびとも壊すことのできない、しかもだれびとも得ることのできるこの金剛宝器戒の存在こそが、この仏法が世界のすべての民衆のために”開かれた”哲理であることの証明といえよう。
 ああすべきだ、これをしてはならないといった細かな戒律というのはなにもなく、ただ一つ受持即観心という原理は、あらゆる土着性と融合しつつ、しかもそれを乗り越えて広がりゆく可能性を、厳然とそなえているといえよう。
13  内なる変革に焦点
 司会 最後に、これまでも話がありましたが、創価学会の運動を一言にしていうならば、現在も、そして未来に向かっても”人間革命運動”であるといえます。個々人の人間革命をとおして社会のあらゆる分野に変革の波を起こしていくのであり、総体革命も人間革命という基本土壌のうえに開花していきます。この人間革命ということは、個々人のどういう姿、形にあらわれてくるのかを話し合っていただきたいと思います。
 福島 いうまでもなく人間は理性と同時に感情を有しております。いな、その奥には無限の生命の大海が広がっている。もし理性のみに、あるいは感情のみに人間把握の光をあてるならば、それは誤った人間理解をもたらし、人間諸事象のよってきたる本源というものも解明されない。日蓮大聖人の生命哲理は、トータルな人間把握から生命を抽出し、そこから蘇生の光と無限の力をくみ出したものですね。
 会長 私は、人間革命の姿は、宿命打開なり、生き方の変革、社会的姿勢の変革に、事実としてあらわれてこなければならないと思っている。そこにこれからの課題もあるし、百万言を尽くすよりも、その人間の事実の姿に勝るものはない――といいたい。
 まず宿命の打開だが、これまでの人類の歩みは、人間の幸福を求めて変革の視線をつねに外界へと向けてきた。産業革命といい、科学技術の革命といい、すべて目を外界へ向けてきた。いわば自然の征服とか、社会の束縛の打開にのみ、人間の英知を集中してきたわけです。これに対し仏法の英知は、宿命打開という、人間内部の縛の打開に目を向けています。
 秋谷 つまり変革の本源的支点を人間内部におき、人間の”業”なり、不可避とさえいわれる生命の習性を打開していくわけですね。人はだれしも、自分がどうしてこういう行動をとるのかと、自己を嫌悪しつつも、どうしても乗り越えられない部分があります。人間英知の第一歩は、たしかにこの内部の縛を乗り越えるところから出発しますね。
 北条 この宿命打開のために、生涯欠かさず持続していく人間革命のための作業が、仏界の湧現です。人間の生命は本来、醜悪な面も美しい面もともに持ち合わせている。貪瞋癡という貪、瞋、癡な側面もあれば、他人をあたたかく慈しむという一面もあります。
 機にふれ、縁に出あって、さまざまな生命の働きが瞬間瞬間に噴出します。人間革命とは、仏界というエゴを超克した慈悲の境涯の現出が根本になります。
 会長 そう。宿命打開、仏界の湧現は、これは不断になされゆくものでなければならない。いわば人間革命のための肥沃な土壌、栄養源を提供していく。そしてそこから生き方の変革、社会的姿勢の変革が、人間革命の厳たる結果として日々の生活、行動のうえに顕現されていくのです。ちょうど、人間革命の大河が目につかない生命という源から奥深く発して、人々の眼前をハッキリ流れゆく段階となる……。
 秋谷 人間の生命内面の変革というものが、人間の喜怒哀楽の日常に反映され、生きていくこと自体に、喜びを、力を、勇気を、希望を与え、生き方の姿勢に顕現されなければ、それは観念といわざるをえない。
 会長 六波羅蜜とは、もともと菩薩が悟りを得るための六種の修行をいうが、この内容は人間としての生き方へ基本的な指標を与えたものと考えられる。
 福島 檀那波羅蜜、尸羅しら波羅蜜、孱提せんだい波羅蜜、毘梨耶びりや波羅蜜、禅那波羅蜜、般若波羅蜜の六つで、それぞれ布施、持戒、忍辱、精進、静慮、知恵の意ですね。
 会長 大聖人の仏法は「六波羅蜜皆悉具足」である。釈迦仏法のような修行はまったく必要ない。しかし、絶待妙の立場から、御本尊を持った人の姿のうえに、しぜんに顕現されていかなければならない。
 その意味から私たちの実践でいえば、布施とはものを施すというより、法施が大事である。根本的には折伏弘教であるが、思いやりとか人間としての誠意も含まれる。持戒とは生活をコントロールしていくことであり、忍辱とは強き忍耐の人、いかなる試練にも打ち勝っていくことであろう。
 また精進とはたえず人間として成長していることであり、静慮とは自分を知り、思索し、そこから行動を起こしていく主体性である。知恵は人生を豊かにし未来を切り開いていく賢明さである。このように六波羅蜜も、人間性の財宝ともいうべき要素を指標として打ち立てたと考えられる。明朗さ、誠実さ、賢明さ、人間としての大きさ、深さといった生き方のうえに人間変革の姿はあらわれなければならないし、それが社会へと波及していく。
  日蓮大聖人は阿仏房へ「聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝」を教えていますが、これも人間としてあるべき姿を説かれたものですね。
 会長 そう。外なる宝ではない。内なる宝を輝かしていくことです。この七つの宝も人間としての証にほかならない。
 仏法とは人間の生き方の哲学である。正論を正論として聞ける(聞)ということも、信ずることの尊さ(信)も、生活を律する力(戒)も、自らを支える精神の基盤があるということ(定)も、たえずはつらつと向上していく息吹(進)も、人々のために尽くすということ(捨)も、自ら人生を省み次への発展を期すこと(漸)も、どれ一つとつても、人間としての輝きをもっている。人間存在とは、かくあるべきもの、またかくあらねばならないものなのです。いわば”七宝”とは、人間革命の照準でもある。その人間革命が、生命の奥深くから発するとするのが仏法の発想です。口でいかに人間らしい行動を唱えようとも、それは根無し草のようなものであって、仏界という生命の淵源から発するものでなければならないとするのが、仏法の考え方だ。
 たとえば仏法で説く”魔”という存在も、じつは生命の働きを表現したものだが、この魔のなかに「慈悲魔」というのがある。つまり表面的には慈悲の装いをもっていても、じつはエゴのかたちを変えた生命の働きをさす。
 このように人間生命の変化相は、慈悲さえも変質させうる要素をもつほど不安定で複雑です。これを仏界の湧現によって絶えず、いい方へ、いい方へと復元させていくことこそ肝要だ。じつにこの仏界の湧現という、私どもの生命を最高度に力強く回転させることが、人間革命への究極のエネルギーです。これが勤行というかたちで、つねに存在するところに、創価学会の強さがある。
 秋谷 いま「慈悲魔」について話がありましたが、逆境に苦しみあえぐ人に安易ななぐさめや、諦観を教えることは、かえって”悪”になります。
 また、慈悲の仮面を装いつつ、その下にエゴが隠されているのも「慈悲魔」である。徳川の五代将軍・綱吉の「生類憐みの令」で、動物と人間の立場がときに逆転した例や、極楽寺良観が生き草もとらないとして、一方で慈善事業をしつつも、漁民や農民を苦しめ、そのうえに君臨していたという姿もある。
 会長 そのとおりだ。売名で言葉のみを尽くして平和を語り、幸福を約束しても、自らの内に貪瞋をいだいている指導者は、まさに偽りの慈悲といえるだろう。
 北条 結局は、生命内面の変革という源が深くあってはじめて、人間革命の流れは、人間として生きる姿勢、そして、社会的姿勢への変革へと長く確実に及んでいくのですね。
 会長がローマクラブのアウレリオ・ペッチェイ氏と対話したおりに、ペッチェイ氏が述べていたことも、危機の現代にあっては人間行動の様式が問われているのであり、それを変えゆく以外にない。そのためには人間性の変革、さらに究極的には人間革命に帰着するという内容であったとうかがいました。
 会長 人間革命の姿は、人間のうえににじみでなければならないから、人間革命は即人間性革命へと発展していく。ペッチェイ氏は人間性革命から人間革命を志向しておられた。われわれは人間革命から人間性革命をつつんでいく。
 ともかく学会員一人ひとりのみずみずしい生命が、健康・青春の息吹に満ちて、未来社会創出の動力源となり、個々の人間革命を起点とした新しい社会建設のエネルギーが生み出されていくのである。この最小にして最大の人間革命という変革作業が、未聞の革命であることはいうまでもない。
 「創価学会と未来を語る」の座談会も、結局は一人ひとりの人間革命に帰着したようだ。歴史をつくるものは人間である、ということではあるまいか。
 たとえ、時代がどう動こうが、批判、中傷が盛んになろうが、われらはわれらの定めた道を進んでいこう。それが人間としての、もつとも崇高な道であることを知っているからである。「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」とある。私たちは、ほんとうの平和な社会を打ち立てるために、心血を注いでいく以外に大聖人の弟子の道はない。現在から未来へと確実な橋をつくり、やがて子らがその橋を渡り、新しい舞台の主役となって活躍する日を夢みつつ、私たちは殉教の精神で戦っていこう。
 司会 長時間、たいへんにありがとうございました。

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