Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第38回本部総会 人間共和と平和社会の創出

1975.11.9 「広布第二章の指針」第7巻

前後
1  一、健康・青春について
 木々の紅葉が映え、草木の実がことごとく成熟する晩秋のさわやかかなこの佳き日、第三十八回本部総会を、ますますご健勝な日達上人猊下のご臨席を仰ぎ、全国の代表幹部の皆さま方とともに、意気軒昂に開催できましたことを、心から喜びあいたいと思うものであります。
 また、ご来賓の皆さまには、ご多忙のなか、遠路ご参集いただき、厚く厚く御礼申し上げます。まことにありがとうございました。加えて、本日の晴れやかな総会の陰にあって、日夜、準備、運営にあたってこられた、広島の愛する同志の皆さんのご尽力に、重ねて心より感謝と敬意を表するものであります。本日はほんとうにありがとうございました。(拍手)
 今回の本部総会が、原爆投下の地、広島県下で開かれましたことは、戦後三十年という一つの節を迎えて、二度と再びあの人類の惨劇を繰り返してはならないという、私どもの重大なる決意をもって行われていることを、まず私ははっきり申し上げておきたいのであります。本日は、この決意のもとに今後の展望をふまえつつ、およそ一時間少々お話をさせていただきたいと思います。
 明年は「健康・青春の年」と銘打って進んでいくことが、すでに総務会議で決議されております。まことに健康と青春こそは、いかなるものにも代えがたい、人類共通の”生命の価値”といえましょう。最近、健康法や健康食品に強い関心が寄せられておりますが、これも現代人の健康に関する不安と願望のあらわれと考えられる。
 はつらつとした健康体でありたい、生涯にわたって、みずみずしい青春の息吹を持続させていきたい――いかなる人の心の底にも、この二つの願いが込められているからであります。とともに、明年を「健康・青春の年」と定めたのは、あまりにも病んだ社会にあって、私どもは希望に燃えて進んでいきたいからであります。また学会員一人ひとりの健康、青春の息吹こそ、社会を変革する力と信ずるからであります。
2  病の原因
 仏教は、とくに衆生の病ということを重視し、心身にわたる病の治癒を仏教の特質として一貫して強調しております。そこで「太田入道殿御返事」にもあげられている、天台摩訶止観の「病の六種の原因」について考えてみたい。
 「病の起る因縁を明すに六有り、一には四大順ならざる故に病む・二には飲食節ならざる故に病む・三には坐禅調わざる故に病む・四には鬼便りを得る・五には魔の所為・六には業の起るが故に病む」とあります。
 まず「四大不順」ということでありますが、東洋思想では、大自然それ自体も、また人間の身体を含めた宇宙万物も、地、水、火、風の四大によって構成されていると考えております。したがって、気候の不順など大自然の調和が乱れると、それが人間の身体に重大な影響をもたらし、各種の病気が発生するのであります。
 第二の「飲食不節」と第三の「坐禅不調」は、飲食と生活の不節制ということであります。生活のリズムが乱れ、その結果、食生活が不節制となり、また運動不足や睡眠の不足に陥ると、内臓や神経、筋肉系の病気につながってまいります。
 第四の「鬼便りを得る」の”鬼”とは、身体の外側から襲いかかる病因をとらえたものといえます。鬼には、細菌、ウイルスなどの病原性微生物もあれば、さまざまな精神的ストレスも含まれると考えられます。
 第五の「魔の所為一と第六の「業の起るが故に病む」は、人間生命の内部から起こる病気の原因であります。
 「魔の所為」とは、生命に内在する各種の衝動や欲求などが、心身の正常な働きを混乱させるものであると考えられる。
 最後の「業の起るが故に病む」とは、生命自体のもつゆがみ、傾向性が病気の原因になっている場合であります。仏法では、生命のゆがみの原因を「業」ととらえております。
 このように、病気の原因を六種にとらえておりますが、具体的な病気においては、これらのいくつかの原因が重なり合っているとも考えられるのであります。
 たとえば、カゼをとってみても、ウイルスがその原因でありますが、これは「鬼便りを得る」にあたると考えられます。しかし、この鬼が便りを得るには、気候の不順、つまり四大不順が引き金になったとか、飲食節ならざる生活が体力を弱めていたとかの機縁があったわけであります。さらに、そうしたカゼにかかったことの奥に、仏道修行を妨げようとする魔の働きがあったという場合もありましようし、人によっては、カゼにかかりやすい体質に生まれたという「業」を考慮しなければならない場合もある。
 こうした視点から、いわゆる健康法を探索してみますと、まず気候の不順に対処するには、大自然の変化に順応する生活態度が必要になってくる。衣服や住居などについて、自然のリズムに適応することであります。
 とともに「飲食節ならざる故に病む」ということについては、暴飲暴食をさけ、適度な運動を欠かさず、睡眠不足に陥らないような生活を持続することが肝要であります。規則正しい生活が、心身の抵抗力を強めるからであります。
 生活のリズムを整えながら、生命の適応力、抵抗力を強化するとき、医学も十分な効力を発揮できるでありましょう。
 一般的に「鬼」の働きを解明し、それに対処するのは医学の分野であります。しかし、生命の深いところに起源をもつ「魔」の場合には、医学の力だけでは不十分であります。さらに「業」が発動している場合ともなれば、仏法による以外にはありません。
 したがって、同じ病気であっても、たんに飲食不節ということがその根本の原因である場合には、当人の節制によって治すことができる。「鬼」が原因である場合は、医学の力によって治せます。しかし、そのもっとも深い原因が「魔」あるいは「業」にある場合は、どのように医学の力を尽くしても治すことはできない。このときは、医学によってできる範囲の治癒で、重なり合っている他の原因を除去しつつも、仏法の強い信心の力によって「魔」を打ち破り、「業」を転換する以外にないのであります。
3  健康・青春の本質
 いうまでもなく、健康とは、ただたんに病気ではない、という状態をさすものではありません。また、身体が強健であることのみで健康であるとはいえない。心の健康ということをおろそかにすることはできません。心身ともに健全に、生きいきとした創造の営みを織りなしていくところにこそ、真の健康がある。どのような苦難をも乗り越え、最悪の環境条件さえも、かえって飛躍の原動力に変えていくところに、真実の健康像があると申し上げたい。
 したがって、一言にして健康の本質をいえば、それは、絶えざる生命の革新にほかならないと考えたい。この生命の革新を可能にする根源の当体を人間の内部に洞察して、”仏界”すなわち仏の生命と名づけ、現実に生命革新の道を開いた仏法こそ、人類の健康法をもっとも根源的に明かしたものであると私は信じますが、皆さんいかがでしようか。(大拍手)
 一方、青春の本質をなすものもまた生命の躍動であります。青春の特質は、たとえ未完成であっても、そこに偉大なる生命の燃焼があることであります。未知の世界への挑戦、はつらつたる革新のエネルギー、正義感、情熱等、青春をつらぬくものは、かぎりなく色彩感豊かであります。
 ところが、年をとり月をへるごとに、社会の汚濁に埋没し、その内から発するあふれんばかりの色彩感はあせ、老化していく。
 五濁悪世のなかにあって、青春の使命を生きぬくには、究極的には正義と勇気と慈悲の源泉である”仏界”に根ざした生き方を全うする以外にはなくなってきたと思う。青年期の信念を死のまぎわまで燃やしつづけるところに、真実の健康、青春が輝くといえるからであります。
 東洋の心に流れてきた仏法の歴史においても、変革者はつねに生涯青春の姿を示してまいりました。インド応誕の釈尊も、涅槃の直前まで、求める衆生に法を説きつづけたと仏典に記されております。
 日蓮大聖人は、なくなられる直前、つまり弘安五年(=天二年)にも、なお御書をしたため、弟子の指導に全力をかたむけられました。また、周知のように創価学会の歴史においても、牧口初代会長は獄中でなお仏法を説き、戸田前会長は逝去の寸前まで妙法流布の構想を練り、指揮をとりつづけられた。
 私たちは、こうした仏法を体現した先覚者の生き方に、宇宙生命と交流しつつ、輝ける青春を生涯つらぬいた、真に偉大な人間の理想像を思い描くことができるのであります。私どももまた、いつまでも若々しい健康美にあふれ、青春の息吹に満ち、生涯青年、生涯青春の生き方を全うしてまいりたいとぞんじますが、皆さんいかがでありましょうか。(大拍手)
4  大宇宙と人間生命の関連性
 「三世諸仏総勘文教相廃立」に、妙楽大師の弘決を引いて、次のように述べられております。
 「弘決の六に云く「此の身の中に具さに天地に倣うことを知る頭のまどかなるは天にかたどり足の方なるは地にかたどると知り・身の内の空種うつろなるは即ち是れ虚空なり腹のあたたかなるは春夏にのっとり背の剛きは秋冬に法とり・四体は四時に法とり大節の十二は十二月に法とり小節の三百六十は三百六十日に法とり、鼻の息の出入は山沢渓谷の中の風に法とり口の息の出入は虚空の中の風に法とり眼は日月に法とり開閉は昼夜に法とり髪は星辰に法とり眉は北斗に法とり脈は江河に法とり骨は玉石に法とり皮肉は地土に法とり毛は叢林に法とり」とあります。
 弘決の文を少しく引用しましたのは、東洋思想の生命観をわかりやすく説き示すためであります。東洋においては仏法でも、また古代中国の陰陽五行説でも、人間と大自然、大宇宙を相互に密接な関連あるものとしてとらえます。
 いかなる人間も、大自然と不可分に結びつき、宇宙の律動のなかに個々の生を営んでおります。いな、万物すべてが、大宇宙の絶妙なリズムに支えられて、生と死の流転を織りなしているのであります。しかも、宇宙森羅万象を生み出し、はぐくむ母なる自然そのものを宇宙生命と名づければ、そのなかで生死を営む人間生命に、宇宙の調和はそのまま集約され、凝縮しているといっても、けっして過言ではない。この大宇宙と人間生命を直視し、相互の関連性を説き示そうとしたのが、この弘決の文であります。
 むろん、この文章の背景にある陰陽五行説という中国思想については、現代科学の知識からすれば不十分な点もあり、また、いまだ未知の部分が多いことも事実であります。しかし、西洋近代の学問が、ともすれば分析的な方法に走るあまり、総合的見地を見失いがちであるのに対して、大宇宙との関連のうえから人間生命を総合的に解明しようとする東洋の思考法には、いまなお注目すべき洞察が含まれていると考えたい。妙楽大師も、仏法思想のうえから、中国の思想を活用し、人間生命を大宇宙のリズムのなかに位置づけたのでありましょう。
 弘決の文章のなかから、数例を取り出してみますと、たとえば、私たちの呼吸作用を、自然界の風に対比している。人間身体における息の出入りは、大宇宙の活動のなかでは、空気の動きに相当するというのであります。
 山沢渓谷を流れる静寂な風は、自然の息吹でありましょう。小宇宙としての人間にも、規則正しい呼吸の働きが息づいている。もし大空の風が暴風と化せば、あらゆる生物の営みも混迷の極に達してしまうはずであります。これは、人間の場合にたとえると、ぜんそく発作ともいえましょうか。
 また、自然界の江河の流れは、人間では血液の流れに相当すると記されております。江河を通っての水流の巧みな循環が、大地と生き物を育てると同様に、血液循環のリズムが人体の細胞、組織の新陳代謝を支えている。江河の氾濫すなわち洪水は、ちょうど人間生命における脳出血にも等しい障害をもたらすものであります。
 その他、大地というものは私たちの皮膚や筋肉に相当する。大地に育つ叢林は、人間身体の体の毛髪に等しい働きをなしているとも示されています。
 自然界は、江河や風や大地の多様な働きを織り込みつつ、四季を彩り、永劫の変転を重ねていく。自然もまた一個の巨大な生命的存在であるといわざるをえないようであります。
 このように、調和あるリズムを奏でつつ、変転を重ねる自然を動かす根源のリズムを南無妙法蓮華経であるととらえたのは、日蓮大聖人の仏法であります。この根源の一法は、同時に人間生命を支え動かす存在でもあります。
 つまり、大宇宙と人間生命をともにつらぬき、支え、生み出す根源の一法こそ、南無妙法蓮華経であり、仏法では、この一法を、仏の生命と称するのであります。
 したがって、この仏界の生命が弱くなり、全体のリズムに狂いを生じた場合は、大自然も人間も、ともに生ける生命体としての力を消失し、崩壊へと向かわざるをえないのであります。
 大宇宙の混乱、崩壊は、そのまま人間生命の破壊につながっていくのであり、逆にいえば、人間生命のなかに強い仏界の力が湧現してくれ一は、心身は躍動し、ひいては大自然の生の色彩を鮮やかに光輝せしむるにいたるのであります。
 このように東洋思想の伝統的な考え方は、大宇宙のリズムに合わせた生き方を教えたものであります。大聖人の仏法はたんなる消極的な生き方に終始するのではなく、そこからさらに、この人間生命の躍動が大宇宙へと波及し、変革するエネルギーとなることを指し示したところに偉大さがあります。まさに仏法が、社会、国土に生きいきと光彩を放つことであり、宗教の本質的意義はそこにある。
 私どもの仏法実践は、大聖人の本義の実践であります。真に健康と青春の人生を送れることの保証もまちがいありません。要は確かなる実践であります。
 一人の生命の心身両面にわたる健康と青春の息吹は、たんなる一個の人間革命にとどまらず、大きくは病める社会、国土の蘇生にもつながっていくことを確信し、どうか皆さん方は健康に留意され「年は・わかうなり福はかさなり候べし」の御文のごとく、いついつまでもお元気で、この時代を衆生所遊楽して生きぬいてください。そして社会の希望の太陽となっていただきたい、それか私の最大の願いであります。
5  二、創価学会の基本精神
 さて本年は、昭和五年十一月十八日に創価教育学会として学会が誕生してから、満四十五年を迎えたわけであります。また戸田前会長によって、戦後の再建の第一歩が踏み出されてより、ちょうど三十年目にもあたります。私が第三代会長に就任して、満十五年でもあります。
 あらゆる点で、今年は、一つの大きな節を刻む年であったといえる。もとよりそうした私どもを取り巻く状況の新展開ということについては、これまでも幾度となく申し上げてきましたし、広宣流布の第二章という展望も、すでに思考し、具体的に実践に踏み出しているところであります。
 だが、それゆえにこそ、あえてここで私は皆さんに訴えておきたい。それは創価学会の原点、基本精神の再確認ということであります。以前にも申し上げたように、広宣流布の新段階というものは、線から面への展開になります。それは、今後ますます多角化し、重層化して、面からさらに立体へと広がっていくことでありましょう。
 しかし、そこで、創価学会の根本目標としてどこまでも忘れてはならないことは、日蓮大聖人の三大秘法の仏法を広宣流布することであります。「諸法実相抄」の「剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」との大聖人の仰せ、また「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」の第二祖日興上人のご遺誡を、私どもは永劫に変わらぬ学会精神の原点として進んでいくということであります。
 この広宣流布実現への個人個人の活動は、いうまでもなく着実な折伏弘教の推進であります。そこにこそ、末法仏道修行の真髄があり、御本仏大聖人の弟子、地涌の菩薩としての本領がある。この根本精神は、今後いかなる時代になっても、また一人ひとりの活動の場がどのように多岐にわたろうと、絶対に保ちつづけるべきであると申し上げておきたい。
 この広宣流布、仏法拡大の運動それ自体、現実社会において、もっとも本源的な人間復興、生命尊厳確立の戦いであることはいうまでもありません。
 そこからさらに一歩、仏法をたもった社会人の集団としての社会における責任、主な目標はどこにあるかといえば、生命の尊厳を基調とした文化の興隆にあるといえるのであります。
 また、学会員個々人としての社会貢献のあり方を申し上げれば、人間共和の地域社会現出、また人間性あふれる職場社会の創出にあります。
 これまでも、創価学会は、総体としてさまざまな文化的活動を展開してきました。また、平和の問題について社会に向かってアピールし、行動もしてきました。今後も、創価学会の社会に占める比重が大きくかるにつれて、ますます信頼と理解をいただけるような仏法者としての活動を持続してまいりたいと思うのであります。
 この広宣流布という目標と、文化という目標とは、一切衆生の救済という仏法の精神において結びつくのであり、むしろ本来一つのものの異なったあらわれとさえいえると思うのであります。なぜなら、広宣流布、折伏弘教は、人間個々の内面から変革の力を与え救済していくものであり、一方、生命の尊厳を基調とした文化の興隆ということは、文化的、社会的環境という外からの救済の道を開くものであるからであります。
 とくに、環境的側面からの救済の道ということに関していえば、「立正安国論」にも「国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝すべからく一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」との仰せがあります。世界恒久平和の実現こそ、われわれのめざすべき大道なのであります。
6  三、核問題への提唱
 その意味から、日本および世界の現状、そして創価学会が社会にいかなる役割を果たしていくかについて、少々考えを述べておきたい。
 生命の尊厳を守るために取り組まねばならない、現代世界における最大の問題は、いうまでもなく「核」の問題であります。一九四五年七月十六日、アメリカが史上初の原爆実験を行い、そして忘れもしない八月六日、この広島の地に原爆が投下されて以来、今年は三十年であります。
 広島に次いで長崎、そしてビキニ環礁と「核」のツメ跡は重ねて日本民族に襲いかかった。戦後「三たび許すまじ原爆を」の歌声は、この広島の地より巻き起こり、全国津津浦々にまで響き渡っていきました。その結果、朝鮮戦争において、中東紛争において、さらにベトナム戦争においても、何回となく核戦争の瀬戸際に立たされましたが、かろうじて人類が核を使う誘惑をしりぞけることができたのも、まさしく広島の地よりわき起こった平和への熱願によるものといえましょう。その意味で広島は、世界の核戦争を防止する平和の原点であり、聖地であるといってよい。
 また核兵器の恐ろしさをもっともよく知っているのは日本人であり、私ども日本人こそ、それを全世界に訴える資格と権利と責任をもっていると申し上げたい。
 いわゆる「核」の問題に関しては、私は昨年の第三十七回本部総会において核兵器絶滅への姿勢と、いくつかの具体的な提案を申し上げました。また今年の一月には、わが青年部有志が中心となって集められた核兵器反対の一千百万人の署名簿を、国連のワルトハイム事務総長に手渡しました。
 そこで、この歴史的な広島の地における不日の総会において、さらに「核」問題について二、三述べさせていただきます。
7  製造・実験・貯蔵・使用の禁止
 その第一に、いかなる国の核兵器の製造、実験、貯蔵、使用をも禁止すること、そしてこの地上から一切の核兵器を絶滅する日まで、われわれは最大の努力をかたむけることを、ここに改めて宣言し、再度確認しておきたい。このことは、すでに昨年の総会でも発表し、私も何回となく機会あるごとに主張してきました。というのも、われわれ、生命の尊厳を守る仏法者としての立場からいえば、核兵器こそ、奪命者である”魔”の本質をもつものであるからであります。
 しかもいまや、この地上の一切の生命的存在を絶滅してなお余りあるほどの量の核兵器が保持されているのであります。そして、この恐るべき核兵器は、タテには量的に、またヨコには地域的に、拡散の一途をたどっている。このとめどない拡散の状況に歯止めをかけ、実験を禁止させ、さらには核兵器の絶滅に向かわせるためには、私は、核抑止理論の無意味を強調するだけではたりないと思う。より深く本質的な次元から「核兵器は悪魔の産物であり、それを使用する者も悪魔でありサタンの行為である」という戸田前会長の洞察を、ひろく全世界に広めていくことが、もっとも根底的な核絶滅への底流を形成することになるものと考えたい。
 そこで私は、昨年の総会において「平和波動の年」と定めた第二のステップの出発にあたり、とくに期待する青年部、学生部の諸君が、この広島の地において核兵器反対の誓いも新たに、より幅広く、より大きな平和へのうねりを高めていくよう希望するものであります。
8  民間レベルの研究・討議の推進
 第二に、いま申し上げた核兵器反対への潮流をふまえて、では現実的に何をなすべきか。核兵器全廃への具体的なプロセスについて、いくつかのことを考えてみたい。
 まず私は、核軍縮に対する民間レベルの研究、討議、提案が必要だと考えます。現在、国連の軍縮委員会では、日本も五年前からメンバーに加わって軍縮討議が行われていますが、いっこうに進展の気配はみられない。その理由については種々の要因があげられると思いますが、根本的には、核絶滅を願う国際世論の高まりが、そこに反映されていないからであるといえます。あるいはまた、その主張に説得力がたりないとすれば、それは核の脅威に対する誌識と調査が欠如しているところに原因があると考えざるをえない。
 そこで大事なことは、核の実態、その人間生命に与える影響性、恐ろしさを、正しく調査研究することであります。その調査研究機関を、この広島または長崎に早急に設置すべき必要があると思うのであります。
 また核兵器全廃のための全世界首脳会議を開催すべきであるというのが、私のかねてからの主張であり、念願でもありますが、いきなりこうした首脳会議を行うことは、なかなか実現困難であることも、よく承知しております。そこで、そのワンステップとして、核保有国たると非保有国たるとを問わず、核の恐ろしさを知り、核兵器の全廃をめざす専門家、科学者、思想家などの民間代表が集うことを提唱したい。そして、その場で核のもつ恐ろしさを徹底的に調査、研究、討議もし、核軍縮への具体的なプロセスについて、結論が出るまで会議を続行してはどうかと思う。
 その内容としては、核兵器の全廃が当然の課題でありますが、全体のコンセンサスとして、私は次の二つの決議が優先的に採決されるよう希望したい。
 その一つは、いかなる核保有国も自ら先に核を使用しないことを宣言すること。第二に、非核保有国に対しては、現在から未来にわたって絶対に核を投下しないこと――以上の二つでことたれりとするわけではありませんが、現実的に合意しやすい決議であり、しかも、これを行うことが、核兵器全廃のためにもつメリットは少なくない。そして、こうした警世の人々の叫びが国際世論となり、その土台のうえに、全世界首脳会議が開かれるべきであります。
 私が、このように提案するのは、各国の利害、自国の安全のみが優先した首脳会議から、全人類の運命を担う核絶滅への首脳会議にしなければ、無意味に等しいと信ずるからであります。そして、この第一段階の国際平和会議を、平和の原点の地である広島において開催すべきことを提唱したいと思いますが、皆さんいかがでしょうか。(大拍手)
 このような提案に対して、あるいは理想的にすぎるという反論があるかもしれない。それは戦後三十年さまざまな核軍縮への提案や試みがなされてまいりましたが、現実にはただの一発も自発的に核兵器は廃棄されず、むしろ増える一方であったという事情がある。しかし、いままで核兵器の開発に費やされてきた膨大な軍事費を人類の平和と繁栄のためにふり向けるならば、すなわち戦争経済の仕組みから、平和産業の経済構造へと変えていくならば、核軍縮から全廃への方向は現実性をおびてくることになる。
 なるほど、このような抜本的な発想の転換には、たいへんな勇気ある決断を必要とするでありましよう。しかし、その勇気ある決断によって、二十一世紀への人類の未来が切り開かれるならば、やがて後世の史家は、その試みが人類の命運をも転換したものとして、絶賛の評価を与えることはまちがいないと思うのであります。
9  核の平和利用への厳重監視
 第三の問題は、これまで「核の平和利用」の名のもとに進められてきた、いわゆる原子力発電等の安全性についてであります。
 最近、日本でも翻訳された「原爆は誰でも作れる――という本が、アメリカで衝撃的な反響を呼んだそうでありますが、いまや原子力産業の急激な発展によって、そこで作られる核物質を用いるならば、いとも簡単に原爆が作られる時代になった。また、今日では小型の戦術核兵器の管理が大きな問題になっており、昨年の総会で警告したように、”核ジャック”という事態が仮にも起きたとすると、たちまちにしで、パニック状態を現出しないともかぎらない。
 日本でも推進されている原子力発電は、その副産物として核分裂生成物を生み出し、その結果、長崎型以爆の原料となったプルトニウムを溜め込むことになります。日本が現在すでに潜在的核保有国であるといわれるのは、そのためでありましょう。それは微量でもきわめて毒性の強いものとされており、このように危陳な核物質が多量に生み出されつつある現況というものを、私どもとしても、まず深く認識する必要があると申し上げたい。
 もとより私は、原子力問題の専門家ではありません。また二十一世紀へのエネルギー源としで、原子力産業が主力を占めるべきものかどうか、専門の科学者のあいだでも議論の分かれるところであります、しかし、この「核」の問題に関しては、それがあらゆる生命的存在を抹殺し、人類の生存にとって重大な脅威となりうるものである以上、その安全性について巌重な監視を怠ってはならないと思うのであります。
10  四、人類の前途と宗教
 イギリスのある学者は、さきごろ「オブザーバー」誌に”第七の敵”という論文を発表し、大要次のように述べております。
 すなわち、人類はいま、六つの大きな脅威に庭面している。
 第一に人口爆発、第二に食糧不足、第三に資源枯渇、第四に環境破壊、第五に核の誤用、そして第六に野放しにされた技術である。しかもこれらの問題は、それぞれ深く結びついており、あちら立てればこちら立たずで、個別的次元からのアプローチ、あるいは、一国家の枠にとらわれた発想では、解決不可能である点に、事態の深刻さ、があるというのであります。
 そこで、打開の方途を見いだすためには、ヨコに人類的視野を望み、タテに二十一世紀をも展望する総合的視座に立って、英知を結集していく以外にない。それができないのは、どこに、原因があるのか。彼はその障害の要因には、第一に人類の道徳的迷妄、第二に国内的国際的政治機構の通弊という、二つの側面があることを指摘し、それを総じて”第七の敵”と名づけているのであります。
 人類の道徳的迷妄とは、人間の”内”なる脅威であり、政治機構の通弊ということは”外”なる脅威であるといえますが、ともに人間自身の問題であることはいうまでもない。これを歴史的にみれば、近代文明の流れというものは、人間から社会へ、そして自然へというふうに、欲望充足のための素材を求めて、たえず外へ外へと向けてきた。しかし、近代物質文明の黄昏時を迎えている現在、人類の”外なる脅威”の由来をたどった結果、ようやくその”内なる脅威”に目を向けざるをえなくなってきているのであります。しかも、その”内なる脅威”の実態把握もままならず、不安と混迷の濃霧のなかにさまよっているというのが、現状でありましょう。
 私はここにこそ、宗教というもののひときわ未来へと光芒を放つであろう最大の存在理由があると思うのであります。とくに日蓮大聖人の仏法は、この”内なる脅威”の本源を人間生命の根本の迷いにあるとして、これを”元品の無明”と呼び、それを断破しゆく方法を万人に明確にした、優れて人類的宗教であります。
 この生命変革の哲理をもった私どもが、とりわけ重視するのは教育であります。よく「教育とは、隠れた能力を引き出すことである」といわれているように、教育の本質は、潜在的なものを引き出すことにあります。つまり、人々の生命に内在している可能性、創造性を、どう顕在化させていくかにある。とくに大切なことは、己れ自身の教育ということであります。自己教育という一点を忘却した教育は、しょせんは権威主義的な押しつけとなり、教育本来の目的とは逆のものをもたらしてしまうでありましょう。
 人類最大の教師の一人といわれるソクラテスが、自らを”シビレエイ” (魚のエイの一種)になぞらえて「シビレエイは、自分がしびれているからこそ、他人もしびれさせることができるのだ」と述べているのも、当然のことなのであります。
 したがって、私どもが、まず自分自身の人間革命を第一義としているのも、教育という側面からいって、もっとも教育の本義に立っているのであります。また、私どもの対話そのものが、教育であります。めざめたる生命の一対一の触発作業という波動が、やがて人類の生き方にまでかかわってくることでありましょう。その意味で、創価学会は、いわば生命覚醒の教育社会の縮図ともいえる。
 この人間革命から教育革命へと向かう波動が、万波と起こっていくとき、政治革命、経済革命といった”外なる脅威”の打開策も、人類の英知の発展のなかに確たる位置を与えられるでありましょう。私どもはここにこそ、人間生命というもを忘れて外へ外へと暴走しつづけた近代文明を、根本的に転換しゆく鍵があることを、ともに主張しつづけてまいりたいと思いますが、よろしくお願い申し上げます。(拍手)
 創価学会の存在をかけた、この大仏法を基調とした創価文化主義ともいうべき根本軌道のうえに立って、平和、文化の推進の輪を幾重にも幾次元にも広げていきたい。重ねてよろしくお願い申し上げます。(拍手)
11  五、経済危機に対する所感
 ところで日本が現在直面しているもっとも厳しい問題は、私たちの日々の暮らしと密接につながっている経済の動向であります。とくに中小企業や零細部門にたずさわっている人々が、この不況の波をもろにうけ、失業や倒産といった思わぬ暗礁に乗り上げていることに対しては、私も深く胸の痛む思いであります。
 今日の経済危機は、過去の一時的、循環的な危機現象と異なり、現存の国内的、国際的経済構造そのもの、さらにいえば人間の生き方それ自体が問われなければならないことは、すでに専門の経済学者等によって指摘されているとおりであります。
 こうした問題については、私は経済の専門家ではありませんし、短時間で論じ尽くせることでもない。ただひとこと所感を申し上げれば、この危機に対処する政府のとるべき道は、弱者救済をこそ最優先すべきであるということであります。そして長期的には、日本は「経済大国」の夢を追うのでなく、文化をもって世界人類に貢献する「文化の宝庫」とすべきであります。日本には、それだけの独自の豊かで深い文化の伝統があり、源泉がある。この文化立国こそが、ひいては日本の生きていく安全保障の道であり、積極的に世界に貢献していく最大の方途であると確信するものであります。
 さて今後の企業自身の生き方についていえば、もっとも大事なことは、それぞれの企業が、その製品について創造性と他にない特色をもつことでありましょう。とくに、このことは、国際市場のなかで日本の企業が生きるための最重要の課題であります。
 これまでの日本の企業は、外国のアイデアをとって量産化し金をもうけていると悪評をかってきたようであります。これからはそうであってはならない。デザイン一つとってみても、日本には日本独自の伝統美があり、それは世界の人々を魅了するにたりるものであります。たとえ低成長であっても、また小規模であっても、他にかけがえのない独自なものを築き、堅持していくことが、これからの時代に生きる道であると考えるのであります。
 このことは、たんに企業が生きるために必要な道であるというのにとどまらない。それぞれの国と国のゆき方、文化のあり方そのものも同じであります。そしてもっとも根本的には、それこそ広い意味での人間の生き方の理想であり、そうした自己の特質を明確にし発現する道が「自体顕照」という仏法の教える理想に通ずると申し上げたい。
12  六、創価学会の社会的役割
 現在のわが国では”戦争を知らない世代”が、すでに過半数を占めております。しかも進行しつづけているインフレや不況による社会不安が、放置しておけば戦争という破局的段階に進むであろうことは歴史の教訓であります。第二次大戦の前夜、一年一年の少しずつの積み重ねが、やがて坂道をころげるように国民を不幸と悲惨の極致にいたらしめたあの愚を、断じて繰り返してはならない。
 戦後三十年のいまも、世界戦争への恐るべき底流は、けっしてなくなったわけではない。厳しくいえば、現状は火山の上で踊り狂っているようなものであります。
 いま、私どもは、このように時代の動向の底流にあるものに対して、危倶の念をいだき、それを転換しなければならぬことを強く訴えておりますが、これを相愛にすぎず、いたずらに不安をあおるものとする声も、一部にはあるようであります。しかし、ものごとは、それに直面してしまってからでは、対処の仕方が制約され、結局、押し流されてしまうことは必然の成り行きであります。
 「富木殿御書」には「夫れ賢人は安きに居て危きを歎き佞人ねいじんは危きに居て安きを歎く」と述べられております。一見、安泰のようにみえる社会にあっても、たえずその未来に対して思いをはせ、その社会にきざす崩壊への危険性を、いちはやく察知していく人こそ、賢人であるとの仰せであります。これに対して、佞人、すなわちその場かぎりのことしか考えない口先だけの人は、社会の崩壊の真っただなかにありながらも、それに気づかず、見せかけの安穏に身を浸しているということであります。
 社会に責任をもつ人は、けっして佞人のゆき方をしてはならないと、現代の指導者たちに対し申し上げておきたい。
 もとより、戦争の鍵そのものは少数の指導者の手に握られていることは事実であります。しかし、その指導者を勇気づけ、平和への方向に動機づけるためにも、より多くの人々が平和を叫びつづけることが大切であります。ゆえに私どもは、現代に生きるものの責任において、平和勢力として、いっそうの活動を展開してまいりたいと思います。
 御書に「涅槃経に云く「善男子是の大涅槃微妙の経典流布せらるる処は当に知るべし其の地は即ち是れ金剛なり此の中の諸人も亦金剛の如し」」とあります。
 すなわち、大仏法の流布し、その精神の息づく社会というものは、いかなる時代の荒波にも損われることのない、金剛不壊なる力によって潤されているのであり、その社会に生活する人々もまた同様である、とのご聖訓なのであります。このご聖訓に照らし、私どもはそれだけの襟度と責任感を自覚すべきであります。 
 時代は刻々と動いていく。天候の推移と同じように、晴れのときもあれば曇りのときもある。これからも、あるときは、暴風雨に遭遇するような場合もあるでありましょう。要はそうした変転に一喜一憂することなく、たえず原点を凝視しつつ正常な軌道へと引き戻していく力が、人々に備わっているかどうかであります。それは、生命のバネ、バイタリティーであるといってよく、そうした本源的な力を、民衆一人ひとりの心田に植えつけていくところにこそ、宗教のもっとも本質的な使命がある。
 創価学会の社会的役割、使命は、暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を犯しつづける”力”に対する、内なる生命の深みより発する”精神々の戦いであると位置づけておきたい。またこれが、ファシズムを阻止する戦いの原点ではないかと思うのであります。その意味で、人間革命を標榜する創価学会は、社会の安定にとって、今後ますますその存在価値を高めていくでありましよう。
 たしかに、民衆一人ひとりに肉薄していく作業は、一見地味であり、地道な忍耐強い戦いが求められます。しかし、偉大な仕事をするには時間がかかる。人間対人間の触発をとおして、自他の生命をみがきあげるという開拓作業が、一朝一夕に成就しうるものではありません、だからこそ、結果としてもたらされるものは、いかなる風雪にも朽ちることのない金剛不壊なる生命の輝きなのであります。
 もはや未来の時代に対しては、こうした地道な努力しか方法はない。もしこれを冷笑するようでは、その人はいったい人類社会の今後にいかなる方法をもって臨むのかと、私は反問したい。
 ともかく日々、月々、年々と激動しゆく社会であり、時代であります。きょうのことは、あす忘れさられるという情報化社会でもあります。こういうときこそ大切なことは、人々があくまでじっくりと謙虚に思索し、語り合うことであろうと、私は思う。たんにきょう、あすの問題を片づければよいという姿勢だけではなく、”文明とは何か””豊かさとは何か””生きがいとは何か”といった問題を、より長期的視野に立って模索すべきであります。現代社会の構造的危機は、まさしくそのことを要請しているといってよい。
 一般に「行き詰まったときは原点に帰れ」といわれますが、人間にとって永遠の原点とは”人間らしさ””人間の尊厳性とは何か”ということ以外にはありえない。その意味から私は、人間を表とした民衆中心主義こそ、きたるべき世紀への道標でなくてはならないと考えている一人であります。私どもは、その視点から、だれびととも話し合っていきたい。すなわち、現在もっとも根本的に要求されているテーマについて、対立抗争に陥りがちな政治主義の立場からではなく、腰をすえた未来展望の対話を進めたい。
 権力主義、政治主義が横行し、武力を背景とした恐喝が国際政治の舞台に公然と登場する一方、人間主義、文化主義に根ざした対話が影をひそめている現代の状況をみるとき、私は西洋の王・ミリンダと、仏教者・ナーガセーナのあいだに行われた有名な対話を思い起こすのであります。
 これはご承知のとおり「ミリンダ王の問い」と呼ばれておりますが、ミリンダ王は西暦前二世紀にインドを支配したギリシャ人の王様であります。王はプラトン、アリストテレスの流れをくんだ明断な頭脳の持ち主であり、一流の合理的、分析的発想を駆使して、当時のインドの哲学者をことごとく論破したという。この圧倒的な権力と理論の壁に向かって単身乗り込んだのが、青年僧・ナーガセーナでありました。青年僧は王にまず対話の姿勢について宣言するのであります。
 「大王よ、もしもあなたが賢者の論をもって対論なさるのであるならば、わたしはあなたと対論するでしょう。しかし、もしもあなたが王者の論をもって対論なさるのであるならば、わたしはあなたと対論しないでしょう」と述べた。ここでいう「王者の論」とは、権力主義的発想であります。意に従わない者に対して武力を行使しようとする考え方を「王者の論」としてその非を指弾し、いかなる解明、解説、批判、修正、区別も平等の立場で展開される「賢者の論」をもって対話しようとしたのであります。「賢者の論」とは、まさしく等しく真理を探究し、幸福を追求する人間同士の対話の謂であり、教育、文化といった一歩高次元の立場での議論であります。
 リンダ王はナーガセーナのその言葉に、真理を探究する一人の人間として、以後三日間にわたって、真塾に腹蔵なく語り合いました。その問答は、王のギリシャ的合理主義にもとづいた知識と、ナーガセーナの含蓄深い仏法を基とした知恵との、きわめて興味深い応酬として記録されている。この記録を知り、私は現代の危機の克服は、このような人間と人間との真剣な対話によってのみ可能であり、いまもっとも求められているのは人間原点に立った対話であると主張するものであります。
13  七、その他の諸問題
 なお、関連した話になりますが、創価学会はよくわからない、という意見の人がおられる。これは、一つには、仏法に対する理解が深まれば、わかってくださる問題が少なからずあると申し上げさせていただきたいのであります。
 もう一つには、私どものほうでも、過去幾多の弾圧があり、必要以上に垣根を高くしてきたきらいがあった。また、布教や建設、開拓等に急なあまり、その垣根を取り払うゆとりがなかった面もあります。こうした垣根は、われわれの努力で取り払っていきたい。
 また創価学会も、伝統が浅いためか、まだまだ未熟な面も多々あります。反省すべき点は反省もしていかねばならない。よき意見を謙虚に聞き入れ、さらに皆さんが安心して信頼できる方向をめざしていきたいと深く念願しているしだいであります。また、社会の人々も、おおいに胸襟を開いて語り合っていただきたいと思っております。わかってもらえれば、特別のことはまったくない、きわめて常識の世界であります。一致点を見いだすことも有意義であり、不一致点を見いだすこともまた有意義であります。ともかく、思慮深い判断と先見性が要求される時代にあって、徹底して人類の根本的な原点に立った対話を進めていきたいものであります。
 少なくとも、五年、十年という単位でみなければ、社会の趨勢をみることも、つくることもできない。せっかちな目先の現象で、分裂抗争を繰り返すのは、最大の愚であります。
 ここで、この十月、八十六歳の偉大な生涯を閉じられたアーノルド・トインビー博士との対談が懐かしく思い出される。博土は「やりましょう! 二十一世紀の人類のために語り継ぎましょう」と決然とした表情で語っておられた。その強い語感と厳しい表情が忘れられない。博士は、対話のなかで、文明の生気の根源が宗教であることを何回となく強調しておりました。まさしく、新しい文明のはつらつたる生気を復活させるものは、偉大な宗教であると、私は確信している。
 ひるがえって人類文化の発祥といっても、知られているのは、たかだか数千年であり、それ以前は、ほとんど空白といってよい。ダーウィンの「種の起原」で動物から人間への進化をたどったとしても、無限の奥行きをもつ生命の一断面をとらえた程度であります。また生命の起源、宇宙の生成発展ということも、科学において一応、仮説的にとらえたとしても、ほんの仏法の窓口に立ったにすぎません。
 仏法は、無始無終の生命観に立って、その久遠元初の本質観から一切を見通していく哲学であります。
 私どもは、この東洋の風土に長く流れきたった大乗仏法の真髄を、今日にいたるまで、実践をとおして掘り下げてまいりました。いまここに、明確に、この仏法の理念に、現代からの光線をあてるとき、国家や民族や言語の壁を越えて、人類の価値ある共同の財産とするにたるものであると申し上げることができる。この尊き仏法を胸中の誇りとして、人類に普遍化していくことこそ、私どもの務めであると思いますが、皆さんいかがでしょうか。(大拍手)
 なお、いわゆる「十年協定」につきましては、本年八月二十日、壮年部代表者集会での私の話、すなわち「これによってなんらかの具体的行動が成立するというものではなく、人類的視野に立って両者が合意できる点を確認したのである」ここに盛られた緊張緩和(デタント)の精神がどれだけ深化されていくかを、十年間にわたって試みていく考えである」「宗教と社会主義との共存ということは、まぎれもなく文明論的な課題である。双方、忍耐強く長い時間をかけて努力をつづけていくべきものである」――こうした趣旨の話に一切尽きておりますのでご了承ください。(拍手)
14  日中平和友好条約の締結
 なお、日中平和条約について、ひとこと申し上げたい。今年は、私が、第十一回学生部総会において日中国交正常化への提言を行ってから七年、小説「人間革命」で日中平和友好条約の締結を強調してから六年目にあたります。これは私の、平和への熱願と、戦争の禍根を未来世代へ残してはならないという、偽らざる真情の吐露でありました。
 周知のように、日中平和友好条約の締結は、いま一歩の段階を迎えていますが、現時点における最大のネックは、いわゆる”覇権間題”にあります。この問題に関して、すでに私は明確な見解を表明していますが、日中両国はもとより、アジア全体の平和のためにも、あえて再び強調しておくものであります。
 それは一九七二年九月に調印された日中共同声明において、両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」とうたった精神を、一歩も後退させることなく堅持して、その精神を明確に盛り込んだ日中平和友好条約が結ばれることを、私は重ねて主張したい。
 ご承知のとおり、日本と中国との国交回復以後三年、創価学会としても、民間レベルの文化交流を通じて善隣友好の役目を果たしてまいりました。私もおよばずながら過去三回の訪中を果たし、たくさんの友人をえて、教育、文化、平和の次元で交流を重ねてまいりました。こうした日中友好の波動をさらに高め、子々孫々にわたる人間交流の絆をより強固にしていくためにも、願わくは一日も早く日中平和友好条約が締結されることを、私は強く訴えたいと思いますが、いかがでしょうか。(大拍手)
15  一人ひとりが創価学会の実体
 次に「梵音声御書」の一節を拝したい。「此の法華経の一字の功徳は釈迦・多宝・十方の諸仏の御功徳を一字におさめ給う、たとへば如意宝珠の如し一珠も百珠も同じき事なり一珠も無量の宝を雨す百珠も又無尽の宝あり、たとへば百草を抹りて一丸乃至百丸となせり一丸も百丸も共に病を治する事これをなじ、譬へば大海の一たいも衆流を備へ一海も万流の味を・もてるが如し」と。
 この御文は、妙の一字の功徳について述べられたものであり、御本尊には釈迦・多宝・十方の諸仏の功徳を包含した偉大な功徳があることを教えられております。しかしいま、この御文を、日々組織の先端で活動する私どもの実践の姿勢にあてはめてみるならば、百珠の如意宝珠、百丸の薬、また大海とは日蓮正宗創価学会であり、一珠の宝、一丸の薬、大海の一滞は皆さん方一人ひとりの働きであると拝することができましょう。大海といっても究極するところ一滞の集積にほかならないし、その一滞に大海の一切が含まれているのであります。たった一つの如意宝珠であっても、一切の宝を生み出す無限の価値があり、一丸の薬に万病を癒す効能がある。どうか皆さん方一人ひとりが創価学会そのものであり、そのほかには絶対に創価学会の実体はありえないと確信していただきたい。また、一人ひとりにそれだけの使命と資格があると説いているのが、日蓮大聖人の仏法であります。
 あるフランス文学者が、フランスの名もない一人の市民の生き方について感銘した、という一つのエピソードを紹介しておりましたが、人の生き方についていろいろと考えさせるものを含んでおります。
 パリの東部にある墓地の一角に小さい白い大理石のお墓が立っている。その墓石には次のような一言葉が簡素に刻み込まれているという。
 「ここにオーギュスト・シャルル・コリニョンねむる。……この人は善行を愛し、善行をなそうと努め、モンテーニュの『エッセー』とラ・フォンテーヌの『寓話詩』のモラアルと教訓とをできる限り実践しようと努めながら、おだやかにも幸福な一生を送った」
 コリニョンという人は、ごく平凡な市民の一人であったようであります。しかし、この墓碑銘を読んで感激した人々は”コンコードの哲人”とたたえられたアメリカのエマーソンなど数多いという。このフランス文学者も、名もないフランスの一市民、一農民が、モンテーニュを範とし、デカルトの生き方にも通じるような一生涯を、自分自身の行動と努力によって築き上げたということに、たとえようもなく感動させられる、といっております。
 私たち創価学会の運動は、無名の庶民の手によって行われています。市井の人々が、深遠な仏法哲理を自らの意志にもとづいて学び、実践している事実は、偉大なことであります。パリの一角に眠る墓石の主人公は、モンテーニュやデカルトの哲学を範として生涯を終えたわけでありますが、創価運動の担い手である名もなき多くの庶民は、御書を範とし、深遠な仏法哲理を体現する一生涯を、自分自身の行動と努力によって築き上げようではありませんか。(大拍手)
 私は、皆さん方が縦横無尽に戦えるよう、心より応援してまいりますし、そのための道も切り開いてまいります。ますます深刻化する社会の暗雲のなかにあって、どうか、皆さん方一人ひとりが、功徳に満ちみちた希望の存在となっていただきたい。そして金剛不壊の団結をもって、社会に絢欄たる福運の大樹を育てていきたいものであります。
 私は来年もまた、国内、国外ともに皆さま方の激励のために行かせていただきますので、よろしくお願いいたします。(大拍手)
 最後に、この十五年間、私を支え、守り、学会の発展に寄与してくださった会員の皆さま方に対し、私は、ただ”感謝”の二字しかありません。ただ、御本仏日蓮大聖人の照覧は、明鏡に照らして絶対であり、釈迦多宝の二仏、十方の諸仏の証明も必然であります。
 この私どもの福運と功徳は、久しく子々孫々、末代までも語り継がれることでありましょう。偉大なる地涌の友に栄光あれと念じつつ、あわせて皆さま方のいっそうのご健康を心よりお祈り申し上げまして、私の話とさせていただきます。長時間ありがとうございました。

1
1