Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

学生部夏季講習会 悩み避けず大道歩もう

1973.7.29 「池田大作講演集」第5巻

前後
1  第二章の第一回の夏季講習会、おめでとうございます。新学生部長のもと、学生部の中堅約八千人の皆さんと、こうしてお会いするのは、私の無上の喜びであります。(大拍手)
 きょうは、大きな会合ではありますが、一人ひとりと静かにヒザをつき合わせて語り合うような気持ちで、日ごろ皆さんが当面しているであろう諸問題について、話をさせていただきます。
2  青年の悩みに対する取り組み方
 青年時代、それはひとくちに“青春”ともいわれているように、人生一生のうちでもっともほほえましく、輝かしい時代、希望に燃え立つ時代であるといえる。時間的にも、構造的にも、もっとも可能性に富んでいる時代であります。
 それだけに、真摯な青年ほど、いろいろなことに思い悩む時代であるといっても過言ではない。
 もちろん、大人にも悩みはあるが、大人のそれと青年のそれとは大きな違いがある。大人の悩みは、主に過去にしばりつけられているところから発生して、当面する現実の、目先のことで悩んでいる場合が多い。
 青年の悩みは目先のことよりも、未来に関係した悩みのように思われる。人生を考え、社会を考え、自分や同胞の未来像を考え、理想と現実の落差に思い悩み、広く、多角的に、未来とのかかわりあいにおいて悩みをもつものである。
 この悩みに対して、とるべき態度は二つに分かれる。すなわち、その悩みを避けるか、その悩みに取り組むか、この二つしかない。最近の世間の傾向は、避ける態度のほうが、より多く流行しているようである。
 そのほうが、一面、賢明であるようにとらえられがちでもある。だが、避けてばかりいては、どこからも人生勝利の要因は出てこない。社会改革の可能性も出てこない。そのような人生の最後は、ずる賢い人間に終わるだろう。我々信仰に生きる人間は、断じて、悩みとの取り組みのなかから創造し、建設していくという大道を、一貫して進むべきであると、私は思います。たくましく現実のなかを生きぬいていく――それが諸君の未来であっていただきたい。
 科学者たちの対談集に、未来について、次のような発言があった。
 「完全無欠のユートピアはないだろうから、いつになっても、人類のなかに創造的アクティヴィティがなければ十分幸福とは感じないのではないか。よりよい世界へ近づく可能性が見えることが救いではないですか」(湯川秀樹編「科学と人間のゆくえ」)
 現代社会の諸困難を十分に見通し、見すえたうえでの発言であり、私はひじょうな重みを感じたわけであります。
 資源の有限性、人口増加と食糧生産の限界、そうした関連から、地球と人類の将来は灰色に見られている。では、それに対して、よりよい社会へ、世界へ近づく可能性を与え得るものは、いったいだれか。人類のなかに創造的アクティヴィティ(活動力)を維持していける階層はどの人たちであるか。いうまでもなく、それは青年層にしか求められない。地球の未来を左右する鍵、それは青年層の手中にある。この厳粛な事実に突き当たったとき、私は、妙法の健児諸君に心から成長と活動を願う以外にないのであります。
 確かに現在、思想は分裂し混乱もしている。経済はゆがみ、政治は異常化しているとさえ指摘されている。であればこそ、諸君が活躍する未来の舞台は広がり、そのなかにこそ生きがいもあり、人生も有意義であろう。ともかく、諸君の時代、すなわち二十世紀末から二十一世紀の初頭にかけての時代に、諸君の責任と力において、思想、経済、政治、文化全般を健全に担い、立っていただきたい。そのために私は、その基盤を今日までつくってきたつもりである。またこれからも、できうるかぎり青年諸君が活躍する基盤をつくっていきたい。
3  世法と仏法との関係
 白米一俵御書に次の御文がある。
 「まことの・みちは世間の事法にて候、金光明経には「若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり」ととかれ涅槃経には「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を・妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背いはいせず」との経文に引き合せて心をあらわされて候には・彼れ彼れの二経は深心の経経なれども彼の経経は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候
 有名な御書であるが、日蓮大聖人は、仏法と世法の関連性を明瞭にご教示されておられる。
 仏法と世法、つまり、仏法と経済、政治など文化一般は、確かに、一応は別個のもののようである。更に、政治や経済もそれぞれ別個のもののようにみえる。それらは、一本の糸のようにがっているものではないかもしれない。しかし、分かれているからこそ、全的な出会いをしているといってよい。では、どこで、どのように出会っているのかを探ってみると、個人の生活のなかで出会っていることが明瞭である。また、総合してみれば、社会機構のなかで出会っているのである。
 たんに、政治と経済だけを考えてみても、経済ぬきの政治とか、政治ぬきの経済というものは、現実として存在しない。人が握手したとき、お互いに相手の手を自分の手のなかにつつみ込み合っているように、政治と経済とは互いにつつみ込み合って存立している。
 政治、経済、更には文化一般を総合した世法と仏法との関係もまた同様である。世法といい、仏法といっても、もしも、お互いにつつみ合う相手をもたないとしたら、そのときはもはや、それ自体のなかには空虚しかないのであり、すでに存立意義を失っていることになってしまう。つまり、個人生活のサイドであれ、社会活動のサイドであれ、豊かにつつみ込むべき相手を失っては、なにも残らなくなってしまう。
 もともと、仏法は生活指導の根本原理を説き、生命の内容とあり方を説き示したものである。世法は、生命と生活の個別的あらわれであるから、世法と仏法は、根底において“体一”なのである。このように、両者の“体”は“別に即して一”である以上、我々の生活のうえにも、その原理を顕現していくべきなのであります。
 かつて恩師戸田前会長は「諸君のなかから百人の博士や百人の社長、百人の政治家など力ある一流の人物が出たら広宣流布は必ずできるし、理想の社会を実現できる」という意味のことをいわれたことがあります。
 この恩師の発言は、人類全体についての創造的活動力ということをふまえて味わうならば、いかに切実なる要望であり、卓見であるかが、ひしひしと思い知らされる。
 どうか、青年諸君は、その悩み多き青春のなかにおいて、このような大きな立場にわが身をおき直して、世間の法が、仏法の全体であると、活眼を開き、おのおのの志す分野への進路を堂々と切り開いていかれんことを、心より祈るものであります。(大拍手)
 英知の青年たちは、ヨコには世界と社会の現状を見渡しつつ、タテにはつねに広宣流布と自己の未来、すなわち人間革命とを予見しつつ、現在の課題に真っ向から取り組んでいくべきであると、私は訴えたい。
 多くの青年の世界にあって、諸君は、晴れの日に恵まれたならば嵐を予見し、もし、嵐のなかにあるならば、未来の晴天を見すえて、現在の瞬時の喜怒哀楽に一心を束縛されることなく、自由の境涯を築いていくよう希望する。
4  信心と学問のバランス
 諸君はいま、学生生活のさなかにあり、自分の境涯の建設を、学問という方法で行っている最中にある。信心は主として主観の体験の分野のものであり、学問は客観と知的活動の分野のものである。両者は、この意味で存在分野を異にするように考えられるが、御書に拝した世法、仏法の原理からみて、それは諸君の血肉のなかで一つに融合するはずである。
 学業とはひとくちにいうならば、物事を誤りなく知っていく作業であろう。“知る”というのは、体験的に知る実知と、研究的に知る理知の二つがあり、思考を欠く実知は盲目である。実知を欠いた思考は空虚であると、私はいいたい。
 信心と学業のバランスがとれている人は、このどちらにも陥らずに人間建設、人格完成ができていくわけである。また、当然のことながら、学問をして知った分野が大きければ大きいほど、知らざる分野の大きさにも思いをいたすわけである。この自覚に達したとき、学ぶ者は必ず謙虚な気持ちになります。学んだ知に漫じては、失敗であります。どうか諸君は、自分の学業に対しては、敬虔なる学徒としての姿勢を一貫していただきたい。
 信心が本因の修行であるごとく、勉学もまた、本因の姿勢に貫かれてこそ、実り豊かになることを私は確信したい。そこにこそ、学徒としての勝利が、また栄光があると、私は申し上げておきたい。
 三重秘伝抄に「爾前の華厳は死の法門であるが、法華の体内に入った華厳は活の法門であって、十分に一念三千を立証する力をもつ」という意味のことが説かれている。学問がただそれだけに終始するなら、それはまさに死の法門である。知識以上のものとはなりえない。
 諸君の勉学は、まさに身をもって、生涯をとおして、一念三千の原理を活動のうえに展開し、かつ立証していくべきものであり、それこそ肉化(インカネーション)された“活の法門”であることを、私は深く期待してやまないものであります。
 人、法の関係からして、法が生きるならば、所持の人も生きることが道理である。すなわち諸君の未来は、その法則のうえにのっとって、輝かしく保証されていく。ゆえに、悩みを生じたり、困難に出あったり、行き詰まったりしたときには、唱題に唱題を重ねて、断じてその障壁に立ち向かっていっていただきたい。
 題目は、無明断破の利剣であります。悩みをことごとく断破し、転回させていく利剣である。元品の無明といえども断破可能なる大利剣が題目である。したがって「困ったら百万遍の題目」――これを合言葉にして社会の五濁にひるむことなく、あらゆる中傷、批判に紛動されず、互いに励まし合い、団結しあって、青年諸君は永遠に勇気凛々と、学会の先駆を切っていただきたいことを心から願うしだいであります。(大拍手)
5  一般社会と学会の主義主張の違い
 次に、少々趣を変えまして、最近、私がうけた質問を資料として、二、三の課題を話してみたいと思う。
 その第一は、比較論上、我々の主張と一般社会のもろもろの主義主張とは、どこがどう違うのか、という問いである。考えてみれば、これはいろいろな内容を含む問題であり、大変に微妙な問題でもあるが、あえて簡潔に論ずれば、両者は次の点で決定的に違っていると思う。
 まず、一般社会の主義主張は、必ず限定的な性質をもっているということである。たとえば、自由主義というときは、すでにそのなかに“社会化”と対立し、相いれない限定性の主張が内在している。社会主義、共産主義という主張の場合も同じである。唯物論といえば唯心論を排除し、唯心論は、その逆を排除する。芸術分野の主義主張といえども、この限定性、排除性はつきまとう。結果として人や社会を、自己の主張する型へはめこもうとする要素がある。
 世間の主義主張には、どうしてもこの“型にはめる”という働きがともなう。仏法にもとづく我々の主張は、この定型化ということには重きをおかない。時代と状況の実質把握のほうに重点をおき、そこからどうあるべきかを観察していくのである。
 これは順応主義とは根本的に異なり、中道をいくということであり、それは個人や社会をなにか特定の形に縛りつけて、みがきあげようという行き方ではない。
 桜梅桃李――桜は桜、梅は梅、桃は桃として、おのおのの当体のまま、妙法による自体顕照の成果をあげようというのが、仏法の目標である。したがって、個人であれ、社会の各分野であれ、おのおのの特質を伸ばすように働きかけ、指導性を発揮させ、広く用いていくのが、我々の主張と行動の原則となる。
 ゆえに、AB相反している場合でも、AのなかにもBのなかにも入り込んでみがきあげていく――これが我々の特徴であろう。そしてこれは、決して無原則主義とは根本的に違う次元の方程式である。
 いかなる立場の人も、人間として幸せになるべきであり、いかなる国も、いかなる社会の各分野も、それぞれの退廃と堕落と困窮から脱出して、それぞれに活気と創造力と、より健全な未来とを勝ち取れるように願う以上、いまいったように、生命哲理にもとづく主義主張にならざるをえないのである。
 革命に対する見地も同様である。いかに望ましい革命といえども、生命尊重の一線は、断じて守りぬかなければならない。この一線を踏みにじる革命は、もはや革命の名に値しない、ただの暴挙である。
 社会が行き詰まって、不満がいきわたれば革命は必至であろう。しかし、革命のための革命はあってはならない。よりよく生きられる社会をめざすことが革命であり、それは人間全体への奉仕の手段であるゆえ、この本末を転倒してはならないと思う。我々がめざしている総体革命は、この路線を踏みゆく平和革命であります。
6  我々の運動の方向性
 このことにつながるが「我々の運動は将来どうなるのか」という質問があった。それに対する答えも、いま述べたとおり、おのずから明らかである。つまり、総体革命である以上、まず大前提として社会の各分野で諸君が活躍する必要がある。社会の特定分野や、ある階層のなかへ偏在してしまったならば、総体を揺り動かす原動力にはなりえない。
 線から面へ、面から立体へと広く行き渡ることこそ、まず必要であると思う。そのうえで、行き渡った諸君が、それぞれの舞台でどう働くか、自分の分野で妙法の活力、そして生命力をどこまで発揮できるか、全体としてどう団結の力を発揮していけるか――すべてはそれによって決まるでありましょう。
 すなわち、問題は“どうなるのか”ではなくして、諸君が“どうするか”にかかっていることを熟知していただきたい。実際の革命の実践面は、すべて社会へ展開した諸君の手にゆだねられ、諸君の智恵と情熱とが、局面を左右するのであります。どうか、このことを深く自覚していただきたい。
 「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」という有名な一句がある。浅い、深いというのは境智の二法でみれば、境をさしている。丈夫の心とは、我々凡夫においては、信行学である。法華経の迹門の十妙のなかに“境智行位”の四妙があるが、広宣流布によって、よりよき社会をつくりだそうとする我々は、勇気ある信心をもつならば、すべからく他人が困難と感じる分野へも決然と踏みこんで、そこへわが身をおくべきであると、私は思う。
 このことは組織を担当するにあたっても、また将来、諸君が職業を選択するさいにも、通ずる一つの原則ではないかと思う。人生の目的と職業の目的といった問題や信仰と組織と社会の関係というような問題も、浅きを去って深きにつこう、という発心さえあれば、すなわち、この一念の強い姿勢さえあれば、しぜんに実践的に解決してくると訴えたい。
 私の四十五年の人生を振り返ってみても、私は思索や思考にすがりついて、今日まで戦いぬいてきたのでは決してありません。思索や思考も当然必要であったが、より必要であったことは「深きにつこう」「丈夫の心でいこう」という決意のほうであった。わが身を、まずそのようにおき定めることが、万事の原点であると、私は思う。深きにつくということは、人生、社会に対する、そしてまた人々に尽くす偉大な姿勢でもあるし、自分自身の人間革命の原点の思想ともいえる。
 すなわち、そのように「深きにつこう」という“境”があれば、仏法という最高の法がある以上、そこで創造的活力は発揮される。つまり対境との対決において“智”と“行”とを発揮せざるをえなくなるともいえる。御本尊に祈り、しぜんのうちに自分自身の勝利を得たときには、同じく、しぜんのうちに、社会における自分の“位”というものも決まっていくものであります。
 世間一般ならば、まず適当な位を見定めて、それを目標に進むといういき方もあるが、我々はその方法の根底にある名聞名利を目標としているのではない。仏法の教え、正義の行動にしたがい、実践にしたがって、自利、利他のために深きにつき、境智行位の理法にしたがって、わが人生を展開していくのであります。
 俗に“七転び八起き”などといいますが、人生は成功の連続で貫き通せるものでは絶対にない。失敗もあり、転ぶ場合もある。だが、確たる信心さえあれば、立派に変毒為薬できる。失敗で費やしたエネルギーは、次の成功のエネルギーとして必ずや生きてくる。「妙とは蘇生の義」というのは、信心している万人の体験に照らして真実である。若き皆さんは、どうか広く心を開いて、諸君の未来、社会の未来、学会の未来を開拓していただきたい。(大拍手)
7  「総勘文抄」を学ぶ意義
 最後に、この講習会で学習する「総勘文抄」についてひとこと所感を述べてみたい。この御書には、私自身ひじょうに思い出深いものをもっています。それはちょうど、私が諸君ぐらいの年齢のときのことであります。昭和二十六年といえば、恩師戸田先生が第二代会長に就任され、青年部が結成され、折伏の展開が始まった年であります。その二十六年の夏の一夜、戸田前会長のご自宅において、この「総勘文抄」を習った思い出があります。
 メンバーは十人内外であったでしょう。当時の私は佐渡以降の御書のなかでは「総勘文抄」はまことに異色な感じをうけていた。当時は、学会の教学も草創期であったが、戸田先生はなんと思われたか、一、二週間の予告期間をおいて、この「総勘文抄」を教材に取り上げられたのでした。
 講義といっても、全文を逐条的に講義されたのではない。交代で読んで、文段ごとに戸田先生が我々に鋭い質問をされ、メンバーがそれに答えた。皆十分に勉強しておりませんから、緊張して答えた記憶があります。(笑い)
 そして、大事なところについて、所感を戸田先生が述べてくださるという勉強会です。その所感的な講義は、じつに先生の深い体験と、生命の奥深くからしぜんに水が湧きいずるがごとき、明暢な思想に裏づけられておりました。私はそれに接して、いまだに忘れえない大きな感動をおぼえております。
 その講義は、頭に入ったというよりも、心臓へしみ入ってきた、という感じであります。仏法の学問は、このように真髄を授受していくということが、ひじょうに大切ではないか、このことも感じました。
 法華の十妙の一つに、感応妙があげられているが、師弟相対の感応を通じてこそ、信解も知解も成り立つものであると、そのときしみじみ思ったしだいであります。この講習会で「総勘文抄」を学習するにあたって、私の体験を、なんらかの参考にしていただければと思って、申し上げたしだいであります。
 この御書についてひとことつけ加えると、この御抄では三世の諸仏が一致した哲理が展開され、生命の一大革命について宣言されている書であるといえる。歴史的にみるならば、三世の諸仏の一大会議というものがあったわけでも、これからあるわけでもない。しかし、時代を異にして出現される諸仏は、生命の哲理に関しては、一人として、いささかの相異もありえないと示されているのである。
 諸仏の教説が、それぞれいかに特色づけられようとも、そのさし示している内容は、化他方便から自行真実へと向かい、衆生の一念の無明の闇を破って一心法界、心中の常住不変なる総の三諦、つまり衆生法有の妙法蓮華経の開覚をうながし、導き出すものである。この意味において、「総勘文抄」は、まさしく生命革命の御書ともいえるのであります。
 最後、結句の段にいわく「三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し障り無く開悟す可し」と。我々はこの一句に万鈞の重みを感じ、生涯肝に銘じて、名誉ある広宣流布の大道を進んでいかなければならないと思うしだいであります。
 終わりに、諸君の限りなき成長とご健康とを祈って、この一時の対話を終わらせていただきます。(大拍手)

1
1