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日蓮大聖人・池田大作

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関東男子部総会 時代は”創造社会”を要請

1973.3.4 「池田大作講演集」第5巻

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1  自発の決意と能動の実践
 関東男子部総会、ほんとうにおめでとうございます。(拍手)
 正本堂ができあがって第二章と銘打った新しい段階の出発にあたりまして、男子部の諸君の敢闘を、まず最初に期待したい。これは、お願いするという意味のものではない。私も前会長のタイマツを受け継いで、自ら走るだけ走った。今日まで走りつづけました。広宣流布は人に頼まれてするのではなく、地涌の菩薩としての本人自身の自覚から、また自分自身のこの世に生まれてきた使命として、やむにやまれゆ久遠の生命の発動として、遂行するものだからであります。
 その自発の決意と能動の実践なき人は、もはや第二章の戦いを担う勇士ではない。真実の学会健児ではない。「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」という御金言があります。じつはこの第二章こそ、広宣流布の本格的な実践段階である。そしてまた、それにふさわしい実践者は本格派の信心の人でなければならない。臆病者ではもうできない。そういう時代背景に入ってきている。
 諸君が歌っている男子部の愛唱歌「友も半ばに倒るとも誓い忘るか誓い忘るか革命の」――この歌を決して忘れないで、高らかに歌いながら、力ある法戦の勇士になってほしい。どうか男子部諸君は、自発そして能動の自分自身の構築、革命、ならびに発現と、偉大なこの地球上にできあがった異体同心の組織のさらなる確立をめざして、きょうよりは再び私とともに、新たなる建設に邁進していっていただきたいのであります。(大拍手)
 ともかく、諸君の手によって、まだまだ矛盾をはらんでいるかもしれないこの全学会を立派に構築し、リードしていっていただきたい。本年を「教学の年」であるとともに、「青年の年」と名づけたのは、その願いからでもあり、第二章の学会をいっさい任せるから、万事よろしく頼むというのが、偽らざる私の心境であります。そして諸君の力によって、広宣流布のなんらかの確たる実証と歴史を、諸君が振り返ってみて、笑顔で満足できるものを、築き上げていっていただきたい。また、残していっていただきたいのであります。
2  青年部会の意義
 次に、諸君たちがいま、活動のなかでもっとも力をそそいでいる青年部会について一言しておきます。
 わが国には古来からその地域に根ざした伝統的な民族行事として、いわゆる“祭り”が行われてきた。いまではだいぶすたれてきているようでありますが、諸君も幼いころ、年に一度はそうした祭りが楽しみで、朝早くから響いてくる太鼓の音に、学校へ行っても落ち着かない思いをしたことがあるでありましょう。
 そうした祭りはもちろん、本来は宗教行事であったことは疑いない。神楽やその他の芸能は“神”を迎えるためのものであり、供えられる酒は神と人間が互いに酌み交わす酒であったといわれている。
 しかし、種々の年中行事の様式は、農耕社会における生産活動と密接な関係があり、村落共同体を中心として農作の祈り、連帯意識の強化を目的に、自然発生的に起こったものであると考えられる。したがって、宗教的行事ではありながら、地域社会の構築、親善、また娯楽が主たる目的となってきたといえる。
 日ごろ、労働に追われ、娯楽の機会の少ない庶民、農民が農閑期等を利用して祭りを行い、意思の疎通をはかり、地域社会の運営を円滑に行おうとした。その祭りを宗教的行事に昇華させることによって、連帯意識の強化をはかったものと考えられるのであります。
 こうした祭りにおいては、参加構成員の家柄、身分等は規定されない。全員が等しく“神”の前で語り合い、酒を酌み交わし、踊って楽しんだのであります。しかもそれは、全員参加が建て前である。村落に属する民族が、総出でその祭りを運営したのであります。
 すなわち、祭りの意義は、一つの地域社会において、その構成員が身分の隔てなく、全員参加の精神でその地域の連帯を深めていく行事であり、それを季節ごとにリズミカルに設けていったと考えられるのであります。
 歴史を経るにしたがって、この祭りの本義は変容した。そして、やがては国家権力によって全国的に規定されたり、あるいは都市化して、一種のショーとしての祭りが現出するにいたりましたが、本来は地域社会における人間同士の心の触れ合いの場であったということを、決して忘れてはならないと、私は思うのであります。
 砂をかむよううな人間関係が、その進展の度合いをますますはやめる現代にあって、私どもはそうした祭りのもつ役割を、あらためて見直さなければならないと思う。宗教的祭祀としてではなく、人間の連帯の場として、古来からの祭りの意義を高く評価したいのであります。そこで、青年部会も地域の青年たちの祭りと考え、更にこれに力を入れていくべきである。また、入れていってはどうかと提案しておきたい。
 ただし、諸君が主催する祭りである以上、お祭り騒ぎの場ではなく、そこに教学を基調にした、青年らしい相互研鑽の息吹がみなぎっているものであってほしい。そうした青年部会のなかに、古来からの良き伝統である祭りの、現代における見事な蘇生があると思うからであります。
 地域、青年、教学――この三つは、第二章の学会の三本の柱であります。青年部会の推進のなかにこそ、第二の十年の基調である「地域の年」の遂行もあり、地域、青年、教学の三本の柱が、一体のものとして展開されるにちがいないと信ずるものであります。
3  一生成仏と広宣流布
 次に、私どもの信心の究極の目的である、一生成仏と広宣流布ということについて申し上げておきたい。
 いうまでもなく、一生成仏とは個人における理想、目標であり、広宣流布は社会全体のうえに設定された目標であります。このように二つは別々の概念でありますが、それをめざして実践する自分は一つであり、その具体的行動は決してバラバラであるわけはない。その関係を、自転と公転の関係にたとえて、二つであるけれども一つに結びついていることを、私もこれまで何回も申し上げてきたし、諸君もよくごぞんじのとおりであります。
 ゆえに、広宣流布、一生成仏が目的であるとはいっても、その具体的内容がいかなるものであるかを知らなければ、そのために自分はどう行動し、生きるべきかの判断は生まれてこない。いわゆる言葉だけが先行し、現実は空転してしまうことになっていくのであります。
 そこで、では成仏とはいったいどういうことなのか、まずこの点から考えてみたい。一般に成仏というと、死ぬことのようにしか、仏教を知らない現代人は考えていない。しかし、そのような仏教への無認識からくる誤解は、いまの我々の場合、問題にする必要はないと思う。
 それに対し、ある程度、仏教を学んでいる人は、いわゆる釈の爾前経に説かれているような、凡人には想像もつかない神秘的な力をそなえ、神々しい姿をもつ特別な存在になることだと考えるでありましょう。
 たとえば三十二相八十種好というような特質が、仏の姿として説かれております。だが、これもその詳細を知ると、現代の我々凡夫は、仏になりたいなどとあこがれる気持ちは起こらないにちがいない。というのは、腕が長くて膝の下まで届くとか、手の指のあいだに蛙の水きのように膜があるとか――おそらく諸君は、そんなふうになるのが仏であると考えたならば、ああ仏にだけは絶対なりたくないと思うでありましょう。(笑い)
 また、爾前権教の代表格ともいえる阿弥陀経では、西方極楽浄土に往生して仏にると説いている。その極楽浄土というものは、悩み、苦しみのない幸福世界だという。そして、そこにいるのはすべて男性ばかりで、女性は一人もいないとされている。きょうのこの男子部の総会みたいであります。しかし、総会は二、三時間で終わるかもしれないが、ずーっとそういう世界であるとしたら、いくら悩みがないといっても、味気がなしさすぎると諸君は思いませんか。(笑い)おそらくそうした世界にあこがれる人は、まずいないと思う。極端な例をあげましだか、大なり小なり、成仏を、なにかこの現実の生命とは変わったもののように考えている人は、これと同じ錯覚に陥っている人であるといってよいと、私は考えるであります。
 日蓮大聖人の教えられている成仏とは、そんなものでは絶対にない。十界互具であり、九界即仏界、仏界即九界であります。すなわち仏界といっても、九界のこの悩み、喜び、悲しみ、怒りの人生を離れて別のところにあるのではない。九界の生命の奥底に厳然と実在する生命の真実相、それを覚知するのを仏といい、それを知らず、ただ九界の流転のなかに迷うのを凡夫というのであります。
 では、その生命の奥底の真実相とは何か。これを大聖人は南無妙法蓮華経であると示され、御本尊として顕された。御本尊に題目を唱え、自己の生命が即南無妙法蓮華経であると悟れば、それはすでに仏界の境地に入っているわけであります。いいかえると刹成道であり、九界の凡夫の身のそのままで仏界を湧現するでありますから、即身成仏になる。これが大聖人の仏法の極理であります。
 しかし、ここで次の問題がでてくる。というのは、もし御本尊に題目を唱えることが成仏であるならば、一遍唱えれば仏で、目的を達成したのだから、あとは勤行も、題目を問えることも必要ないのではないかと、だれしも考えていくのではないかと思う。残念ながらそうはいかない。(笑い)
 勤行、唱題を終えて、生活のなかに戻れば、再び生命は九界に帰るのであります。したがって、この意味での成仏とは題目を唱えているとき、刹那のことである。ただ、日々欠かさず勤行し、唱題をつづけていくことによって、生命の奥底に仏界の生命が確固と樹立されていくのであります。
 更に、この勤行、唱題という仏界顕現の作業を繰り返し、生涯つづけていくことによって、わが生命の仏界は、あたかも双葉から大樹に育つように、堅忍不抜の存在となっていくのであります。これがまた道理であります。
4  勤行、唱題で仏界を定義化
 いわゆる宿業に定業と不定業とがありますが、その定業を形成する要因の一つに慣習性がある。仏界を湧現する御本尊への勤行、唱題も、これを毎日、真剣に、生涯くり返していくことによって、わが生命に仏界という宿業を定業化することになるのであります。こうして定業としてわが生命に刻みこみ、築き上げられたとき、生死を越えて、未来永遠に幸福の境地という世界に住していくことができるわけであります。
 また、昨年の夏季講習会でも「観心本尊抄」をとおして学んだように、十界互具の原理によっても、このことは明らかであります。瞬間瞬間、生命は変わっていく。停滞することをしらない。仏界という生命も、御本尊を受持し、唱題している状態から離れれば、すぐに冥伏して消えてしまうのであります。永年、信心強盛で大幹部になったとしても、この御本尊から離れ、唱題をとだえさせてしまうならば、電流のスイッチを切るのと同じように、仏界は冥伏してしまう。もうなんの力もなくなってしまう。
 だが、これを生涯実践しぬくことよって、自己の生命の基調を仏界にしていくことができる。千里の道も一歩よりで、刹成道、即身成仏の瞬間瞬間の積み重ねによって、汝自身の生涯を貫く基調として仏界を確立しきっていくことが、一生成仏という原理になると、私は思う。
 法師品の「当に知るべし、是の如き人は生ぜんと欲する所に自在なり」との御文について日蓮大聖人は「此の文は我等が一念の妄心の外に仏心無し九界の生死が真如なれば即ち自在なり所謂南無妙法蓮華経と唱え奉る即ち自在なり」と述べられております。「一念の妄心」とは申すまでもなく九界の迷いである。この九界の生命を離れて仏心すなわち法性はない。悟りはない。「九界の生死が真如なれば即ち自在なり」とは、九界の生命でありながら、それが御本尊に照らされて、なにものにも束縛されることのない自由自在の生命活動を営んでいくという意味であります。
 ではなにゆえに、変転してやまない九界の生命でありながら、自在になっていくのかといえば、仏界という確たる基調に立脚することにより、九界に支配され、翻弄されるのではなく、主体的に九界の生命を動かしていくことができるからであります。そこに現れた九界は、もはや迷妄の九界ではなく、大宇宙の法則に合致した妙法の光によって顕現された、清浄な生命の輝きを放っていくのであります。
 それだけの偉大な生命が、私どもの胸中には具わっている。それを開き、顕していくことが南無妙法蓮華経と唱える目的なのであります。
 大聖人はさまざまな御書において、成仏ということを明かしておりますが、一貫して仰せになっていることは、自分自身の胸中の宮殿を開き、仏界という至極の生命を顕現していくことが成仏の本義である、ということであります。決してどこかよそに、理想の姿を求めるものではない。この現実の人生を生ききる自分自身のなかにあるのであり、それを覚知したのが仏であり、これを知らず、つねによそに、未来を求めていくのが凡夫であるともいわれております。
 つまり、わが生命の宮殿を開き、現在あるがままの自分を向上させ、可能性を最大限に発揮していく――これが信仰の究極の目的なのであります。したがって、ここにはっきりと認識しておかなければならないことは、成仏とは、ある一定の段階に達した結果をいうのではないということであります。
 瞬間瞬間、仏界の生命を基調としながら、この苦悩の現実社会において、自在に九界の生命を発動させていく、そのこと自体を成仏というのではないかと、私は考える。諸君は若いがゆえに、いろいろな希望があると思う。そしてまた、理想を未来にいだいていることでありましょう。現実のこのあるがままの姿のなかに、厳然と仏界が存在するということは、現実のなかに諦観、つまり諦めをもって没入するといことをさすのでは決してない。
 この仏法の極理から学ばなければならないことは、未来の理想といっても、現実を離れ、現実に背を向けたところにあるのではないということであります。現実をありのままに凝視し、真剣にそれと取り組みつつ、主体的に変革していく――そのたえざる変革と創造のなかにおのずと希望の未来が開ける。諸君のたちのいっさいが、そこに財産と変わっていく。広く社会、文明の変革と創造にあたっても、また個人の宿命、人間革命の戦いについても、この原理を決して忘れないでいただきたいと願うものであります。
 更にいえば、仏法この原理は、永久に行き詰まりのない革命の原理であるということであります。たえざる挑戦をしていく主体的生命のなかにこそ、最高の幸福と充実感があるということも、忘れてはならないと思うのであります。
 人間は理想を求め、その理想が実現されれば、そこに幸せがあると思いがちであります。諸君のなかにもそう思っている人が多いかもしれない。だが、ひとたび理想を達成してみると、そこにはむなしい虚脱感と失望しかなかったというのが、人生の真相といえるような気がするのであります。どうか、この仏法の偉大な原理を確信し、一日一日をたくましく生き、そして開ききっていただきたいのであります。
5  仏界とは“価値創造の根源力”
 さて、それでは仏界とはいかなる生命であるかということが問題になります。これは難問中の難問でありますが、それは仏界の生命それ自体は、生のかたちでは現れないゆえであると思う。地獄界、畜生界、修羅界のように日常の生活のなかで、つねに現れるものであれば理解は簡単でありますが、仏界はそうはいかない。そこで、さきに九界の根底にあって、それを自在に発動させていくのが仏界であると申し上げましたが、私は、大胆かもしれませんが、これを一言で“価値創造していく根源力”と定義しておきたいと思う。
 日寛上人が「三重秘伝抄」に「華厳は死の法門、法華は活の法門」といったんは述べられ、再往、その華厳経といえども「若し会入の後は猶蘇生の如し、故に活の法門と云うなり」と結論されているのは、法華経がいっさいを活かしきる哲理であることを端的に表現しておられるように思うのであります。自己の生命も、他の生命も、いっさいを創造的に生かしていくことに仏法の本義があります。
 更に「法華経題目抄」(御書全集940㌻)には“妙の三義”が述べられておりますが、その一つに「蘇生の義」とあるのも、妙法によってたくましい創造力を発現せしめていくがゆえに、人間それ自体の蘇生がなされるものと考えるのであります。
 創価学会の設立は昭和五年でありますが、そもそもその目的が価値創造にあったことは、諸君もよく知ってるとおりであります。牧口初代会長がさまざまな思想遍歴の末、それを求めて大聖人の仏法の門をたたいたこともごぞんじであると思う。すなわち創価学会の原点は、あくまでも個人における価値創造をいかに実現していくかにあるのであり、大聖人の仏法の究極もまた、そこにあるのであります。
 ひるがえって、科学文明の重圧に人間性が押しつぶされようとしている現代社会にあって、もっとも求められているものは何か。いろいろと表現はできるでありましょうが、私は一言でいえば、この人間としての創造力であると思う。
 「人間を変る」(守部昭夫著)という本のなかに次のような一節がある。
 「現代の日本は、ゆがめられて抑圧されている能力を個々人が内部に蓄積し、大きな爆発を起こす機会を持っている“心の鎖国状態”であるのかも知れない。そして、その“爆発”とは、低開発国にみられるような政治的、軍事的革命のことではなく、大衆が自分のもっている能力を創造的に表現しようとする“人間革命”のことなのだ。この“爆発”が起これば、そこには他人指向型の性格から脱皮したスケール大きな人間が出現するだろう。人間の生き甲斐、価値とはニイチェが“駱駝の精神”と名づけたような、安住・安定を好む生き方ではない……創造、未知への挑戦なのである」――この引用のなかで“大衆が自分のもっている能力を創造的に表現しようとする人間革命を、現代の日本は待っている”という点に、私は注目したい。
 こうした論調は、表面的には、いまは少数意見であるかもしれない。しかし、たとえ口には出さなくとも、心ある人であれば、だれしもこうした思いではないかと思う。それ以外に、現代社会を蘇生させる道はないということに気づいているはずであります。そして、その志向するものこそ、私は結論していうならば、妙法の哲学であり、具体的には大御本尊にほかならないと主張せざるをえないのであります。
6  広布の社会とは“創造社会”
 さて、個人の信仰の目的が、一瞬一瞬の価値創造にあるとするならば、私どものめざす社会、すなわち広宣流布の社会とは、いかなるものであるのかということになります。この点につきましては、いままでも種々申し上げ、これからも具体的にはさまざまな角度から明確化していくようになると思いますが、私はそれを端的にいうならば“創造社会”と呼んでおきたい。
 それは、人間が人間であるための社会ともいえるし、一人ひとりがつねに向上してやまい社会といってもよい。こうしたいい方は、あるいは、漠然としているように思えるかもしれない。しかし、私どものめざすものは、決して無味乾燥な定型化された社会ではない。無限に創造性を開発していける社会であり、私は、それこそ広宣流布の実像の姿であると確信するのであります。
 かつて、理想社会――ユートピアを未来に描き、それをめざした時代もあった。いまでも、そのためには現在を犠牲にしてもよいとして、そうしたものを追い求めている人もいる。そうしたユートピア思想は、確かに虐げられた民衆にとっては救いであったでありましょう。
 すでに述べたように、仏法の説いている理想社会とはそういうものではないし、人間が求めているものも、そうした定型化された理想社会でないことは明らかであります。むしろ、そうした定型化のもとでは、いかに深刻に、強力に生命が虐げられるものか。その人間性の苦難を象徴しているのが、現代だともいえるのではないでしょうか。過度に管理された文明社会にあって与えられたいっさいのものを排除し、原始の状態を憧憬するヒッピーの姿は、まさしくそうした安定社会に対する告発以外のなにものでもない、と考えるのであります。大事なことは、一人ひとりの人間がどう生かされ、創造性を発揮していけるかということであります。
 以上を要約していえば、個人において成仏とは何か――豊かな、たえざる創造力の根源こそ仏界であり、それを内に開き、外に顕していくのが、私どもの実践行動にほかならないのであります。
 そして広宣流布とは――依正不二の原理にしたがえば、この宗教運動の基盤のうえに、正報たる生命の創造力を最大限に発揮させていく環境づくりをしていくことである、と申し上げておきたい。すなわち、社会全般に開かれていくことであるといってよい。
 したがって、成仏といい、広宣流布といっても、終わりのない革命であり、妙法という本源的な生命の泉をみつつ、永久に持続していく人間と社会と文化のたえざる革命であると、私はいわざるをえないのであります。
 どうか、諸君たちもそのつもりで、日々の仏道修行、広宣流布、いわゆる創価学会の活動に励んでいっていただきたいのであります。「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」――我々の究極の人生観ともいうべきこの御金言を胸中深くいだき、わが同志がますます強盛にして柔軟なる敢闘をされんことを祈って、私の話を終わります。(大拍手)

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