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日蓮大聖人・池田大作

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第5回高等部総会 学会っ子の信念貫き社会に貢献

1972.8.6 「池田大作講演集」第4巻

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1  高等部の第5回総会、まことにおめでとうございます。(大拍手)
 高等部をはじめ中等部、少年部は、私自身ここ数年、もっとも力をそそいできた部であります。
 諸君が学会っ子として今後十年、二十年の創価学会を支え、人類のため、社会のため、信頼される指導者になっていく以外に広宣流布は達成できない。であればこそ、私は諸君を後継者と思い、将来の創価学会の一切を託して指導もし、激励もしてまいりました。
 諸君は、まず私のこの偽らざる心情をよく知っていただきたい。そして、人々の期待に応え、ほんとうに将来の大人材となってほしいのであります。
 しかし、いくら鳳雛であり、後継者であるといっても、それだけの力がなければ、結局、観念論に終わってしまう。私は諸君を学会のなかの甘えっ子にしたくない。社会の甘えっ子になってほしくない。ほんとうに成長していくためには、自分自身とも厳しく対決しなくてはならないのであります。
 青年時代、特に高校時代には、人の知らないところでも力をたくわえる努力をしなくてはならない。そのためには、当然勉強もしなくてはならない。また、学校で友だちと友情を深めていくことも大切でありましょう。
 こうした根本の信仰、学会っ子としての信念なくして、たとえ偉くなったとしても、それは自分自身の立身出世や名誉のためのものでしかありません。崇高なる目的を忘れた人は、決して広宣流布の人材ではないのであります。また、人類のため、社会のための真の指導者にもなれません。ゆえに、諸君は自分自身にあっては勉学に打ち込むとともに、仏法を求めるため、また学会精神を体得するために、信心の先輩との人間的交流を更に深め、信心を強盛にし、がんばっていってほしいというのが、第一のお願いであります。(拍手)
2  青春の苦悩と試練を成長のバネに
 次に青春時代とは、ある意味からいって、迷いや悩みの起伏が激しい時期であります。それは、いまだ精神がよごれず、純粋で、しかも未知の世界への関心が強いゆえんである、と私は思う。そのため、ささいなことで劣等感に陥ったり、小さなことで目的を見失ってしまうようなことも少なくありません。また友人との関係や異性との感情で悩むこともあるでありましょう。
 そこで、私が申し上げたいのは、どのような迷いや悩みがあったとしても、御本尊は絶対に放してはならないということであります。もし、御本尊から離れてしまえば、悩みの打開も迷いの解決もありえません。その悩みや迷いに翻弄されるだけの人生になってしまうからであります。
 一面からみれば、信仰ももたず、目的ももたない人生であれば、それなりに平凡で、安易で、諦観的でいいように思えることがあるかもしれない。創価学会の一員となって信心をし、大目的に生きるがゆえに、ふつうの人にはない苦しみや悩みをもつ場合も、当然あるでありましょう。しかし、そうした悩みや苦しみに負け、信心を捨てたり退転したりしたのでは、なんのために御本尊を持ったかわからなくなってしまう。したがって、諸君は悩みや苦しみ、悲しみなどを避けないで挑戦し、より大きな自身を構築する一里塚としてほしいのであります。
 御書のなかには「法華経の行者は久遠長寿の如来なり」とある。つまり、御本尊を持った私どもは、永遠に人々を救っていくべき生命の当体であるというのであります。したがって「修行の枝をきられ・まげられん事疑なかるべし」――私どもが修行し、大目的に生きる道程においては、理解されずにいやな思いをするときもある、という意味の御金言であります。
 富士山の白雪を考えていただきたい。富士に白雪があるのは、富士が日本一の高山であり、そのために厳しい自然の風雪をうけるからであります。しかし、富士はいつも悠然とその風雪を従えながら、山の王者として、高く、従容とそびえ立っております。
 私どもにも高き目的、崇高な人生を送らんとするために、さまざまな人知れぬ苦悩と試練がある。しかし、それに負けてはならない。それらの苦悩と試練を、さながら富士が白雪を自らの従者としてそびえているように、私どももそれに打ち勝ち、自らの人間をつくるための材料としていく一人ひとりでなければならない。
 諸君は、そういう広々とした人間王者になっていただきたい。そのための青春修行であることを忘れず、日々どのようにつらいことがあったとしても、胸を張って、誇り高く進んでいかれんことを、念願するものであります。(大拍手)
3  勉学に励み豊かな個性開発
 次に、諸君にとってもっとも大事な勉強について申し上げておきたい。
 諸君のなかには勉強が不得手で、成績も思うように向上しないという人もいるでありましょう。しかし、勉強が苦手だといっても、自分でそう決めてしまっている場合が少なくないようであると、私は思う。その意識が勉強に取り組む姿勢を弱くし、試験等の成績が悪いと更に自信を失って、ますます劣等意識の深みに陥ってしまうという悪循環を、繰り返しているのではないかと心配する。
 したがって、勉強が不得手な人に対しては、まず勉学に親しむことだと、私は申し上げたい。はじめのうちは苦しいかもしれない。途中で教科書や参考書を投げ出したくなることがあるかもしれいな。しかし、御書にも「強敵を伏して始て力士をしる」とあるように、不得手なものに挑戦し、それを克服してこそ自分の力を知ることができるのであり、それがまた、力をつけていく段階になるのであります。
 結局、勉学向上の決め手は、どれだけ勉学に親しんだか、歯をくいしばって努力したか、ということにあるといいたいのであります。
 また、数学は得意だが英語は不得手であるとか、逆に英語は得意だが数学が苦手であるという人もいるでありましょう。それが将来の進路を決めるときに、理科系へ進むとか、文化系を選ぶとかいった、判断の基準になっているようであります。もちろん、特技は特技として、個性は個性として伸ばしていくべきであります。現実の社会では、特技のない人はいわゆる使いものにならない場合が多く、損することも少なくない。
 しかがって、高校時代にその芽を育て、ある程度、方向性を決めておくことは大事であります。将来に対してなんの目標ももたずに進むのと、明確な目標に向かって自己をみがくのでは、おのずからそこに差がでてくるのは当然であります。
 しかし、高校時代にあっては、幅広い知識を身につけ、人間らしい人間として成長するための堅固な土台を築くことが、なによりも大切であると、私は強調しておきたいのであります。見る人の魂をなごませてくれる美しい花にも、無数の種類がある。個性、特性があります。だが、いかなる花も豊饒な大地に根ざしてこそ、爛漫と咲きかおることができる。と同じように、諸君の個性、特性、特技も、人間としての豊かな大地のうえに発揮されて、はじめて実を結ぶことを知っていただきたいのであります。
 その人間としての豊饒な大地の開拓、整地こそ、諸君の年代における最大の眼目であるがゆえに、いまこそ諸君は得手、不得手にかかわらず、学校で学ぶ一切の教科、学問に真剣に取り組むべきである。――こういわざるをえないのであります。こういっても、私はなにも勉強だけが大切だ、というのではない。勉強の不得手な人は人材になれない、というのでも決してありません。そこのところは誤解しないでほしい。
 人間としての土台をつくるといっても、ただ机にかじりついてばかりいなければならないというのではない。また、勉強が苦手だということは、高校生になったいまではそう簡単になおせるものではない、ということも知っております。したがって、そうした諸君に対しては勉学の面で努力することは当然として、自己の特技をおおいに発揮していくことも、高校時代におけるひじょうに大切なことであるといっておきたい。事実、学生時代にあまり勉強が得意でなかった人が、自己の特技をみがくことにより、やがて歴史を動かす大事業をするような人材に成長している例も少なくありません。
4  知識を吸収し社会に生かせ
 次に、いまの勉強がなにか試験のための勉強であるかのように思えて、勉学への意欲がわかない、という人がいるかもしれない。確かに現在の教育制度、教育方法には、矛盾や不合理な面が少なくないと、私も思う。試験のための勉強であるかのようにさえなっているということも、事実でありましょう。
 しかし、教育制度が悪いから勉強する気が起こらないというのは、環境に負けている姿であります。敗北主義に通ずるものではないかと心配する。たとえ試験のためのように思えても、学んだ知識それ自体は、他のだれのものでもない。自分自身の貴重な財産として残るのであります。しかも、それはたんる知識の死蔵ではない。妙法をたもち、本源的に知恵をみがいている諸君は、その知識を自分のためだけではなく、社会のため、人類のため等々に生かし、使いきっていくことができるのであります。したがって、諸君の場合は、試験のためのように思えるかもしれないが、根本的にはもっと大きな、高い目的のための勉強であることを自覚してほしい。
 次に、特に男子の諸君は、夜学でもよい、アルバイトをしながらでもよい、できうることなら、全員が大学に進学するほうが望ましい、と申し上げておきたい。それも無理なら、通信教育でもよいと、私は思っている。なぜなら、教育は人間をつくるものであり、信仰という根源の基盤のうえに学問を身につけることは、良識ある社会人、教養人となるための重要な要素であるからであります。
 また、特にこれからは、若い時代に最大限の学問的知識を吸収しておくことが、社会に有為な人材と育つための大いなる力となるからであります。ただし、諸君のなかにはいろいろな境遇の人がいるであろうし、それぞれの生き方というものもある。それは、それでよいと思う。信学しないから人材になれないなどということはないし、自分らしい人生コースを歩むほうがむしろよい場合もある――ということは付言しておきたい。
 女子の皆さんは、福運のある聡明な女性になっていただきたい。これから先、進む道はおのおの異なるでありましょうが、いかなるところにあっても、健康で、明るく、だれからも愛され、信頼される朝日のような存在として、激動の社会に輝いていってほしい。そのために悔いのない、実り豊かな高校時代を送ってほしいというのが、可愛い娘ともいうべき皆さん方に対する父としての心からのお願いであります。
 次に、現代は親子、夫婦、教師と生徒等といった人間関係のあいだに、断絶が広がっている。諸君たちのなかにも、おそらく両親に対する不信感、あるいは学校の先生に対する不信を念等をいだいている人がいるでありましょう。また、そうした人間関係で思い悩んでいる人も、少なくないでありましょう。あまりにも激しく揺れ動く社会、時代であります。変動、激動の時代には、それもある程度やむをえない。しかし、諸君たちにはこれからの長い人生があることを、決して忘れないでもらいたい。
 結局は、諸君が立派に成長することが、一切の問題を解決していく鍵なのであります。法華経の妙荘厳王品という経典に、浄蔵、浄眼の二人が、父親である妙荘厳王を正法にめざめさせたという有名な話がある。頑固な父親を正法に帰依させたのは、二人の神通力によってであったというように、経文では説かれております。神通力というと、今日では、なにか特別な人の異様な力のように思われるかもしれませんが、その経文が意味するところのものは、その二人の子供が立派な成長の姿を示して、妙荘厳王を敬服させたということであります。
 この話は、人間関係において、諸君の姿勢がどうあるべきか、ということを示唆していると考えられる。問題は、だれがどうということではなく、ほかならぬ自分自身がどうかということであります。複雑な人間関係のなかにあって、そこで悩み、苦しむうちに、自分自身が鍛えられていくのであります。
 むしろ、そうした悩みの経験がなければ、他の人の悩みもわからないし、立派な指導者に育つことはできない、と考えていただきたい。また、別の意味から大事なことは、そうした不信感の渦巻きのなかに巻き込まれてはならない、ということであります。巻き込まれるのではなく、超然とし、毅然として、わが道を進んでいくという決意だけはもっていてほしい。
 諸君は、過去に生きるひとではない。現在にのみ埋没すべき人でもない。未来をつくり、未来に生きる人たちである。したがって、諸君の成長こそすべてに対するもっとも強い無言の革命であり、不毛の人間関係のなかに新しいみずみずしい力、息吹を与えていくものであることを知っていただきたいのであります。
5  未来に備え頑健な身体を
 最後に、健康のことについて申し上げておきたい。長い人生の道程にあって、健康であることはきわめて重要であります。体が頑健でなければ、自己の能力を最大限に発揮することもできない。また、社会や人類のために力強い貢献をすることも不可能となる。いかに優秀な才能に恵まれていたとしても、その力を埋没させてしまったのでは、諸君の勉学も貴重な体験も、すべてが空しいものとなってしまう。
 歴史に偉大な足跡を残している先人のなかには、病苦と戦いつつ、それを成長の糧とさえして人類に貢献した人も、いるにはいる。しかし、それらの人のなかには、数々の業績を残しながらも苦死にしたり、苦悶のまま一生を終えた人も少なくありません。また、体が虚弱な人は、そのゆえに性格にゆがみを生じたり、考え方が偏頗なものになりがちであります。
 「健全なる精神は健全なる身体に宿る」との有名な言葉がある。一応、至言であると私も思う。はつらつと生命力旺盛な身体を基盤にして、はじめて自由闊達な精神の働きも生まれるという意味であります。健全な肉体をもとに偉大な精神の光を投げかけた人々は、枚挙にいとまがありません。
 アフリカに一生を捧げたあのシュバイツァーも頑健な身体の持ち主であったといわれる。そして、科学の世界では二大巨人とされるニュートンやアインシュタインも、ともに天寿を全うしている。トインビー博士が、高齢の身でありながら、いまなお創造的な仕事を成し遂げられているのも、青年と時代に健康をつちかっておいたゆえと思う。
 仏法では、色心連持と説いております。健全な肉体と精神がともに躍動し、輝き、生の歓喜をうたいあげてこそ、青年らしい希望の人生といえるのであります。人間の精神的な成長には、年齢の限界はない。当人の努力しだいで、死ぬまで成長しつづけることができるといわれている。また、そうであってこそ真に偉大な人間ということができるでありましょう。
 その人間の一生のなかでも、一五、六歳から二十歳前後にいたる青春時代が、もっとも大切な時期であります。人間の成長年代からいっても、たくましい肉体をつくりあげる最後の時期とさえいわれている。ともに、大きくは人生の基盤の完成期であることは間違いない。この間に築きえたものが、その人の一生を決定するといっても過言ではありません。
 どうか若い肉体をスポーツなどを通じて自ら鍛え、生涯の風雪に耐えぬけるだけの頑健な生命を諸君のものにしていただきたい、ということを心から切望して、私の話を終わります。(大拍手)

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