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日蓮大聖人・池田大作

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第33回本部総会 人開勝利の大文化めざして

1970.5.3 「池田大作講演集」第3巻

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1  十周年の意義
 薫風さわやかな本日、総本山より日達上人猊下のご臨席を仰ぎ、多数のご僧侶のご出席をたまわり、そしてまた法華講の方々、ご来賓の皆さまにあたたかく見守っていただくなか、全国の代表幹部一万五千の同志とともに、かくも盛大に第三十三回総会を開催できましたことは、私にとって感無量であり、ここに厚く御礼申し上げるしだいであります。
 私は、本日を日達上人猊下のご登座十周年の祝典の日とさせていただきたいのであります。私が会長就任十周年を迎えることができましたのも、ことごとく、日達上人猊下のご威徳のたまものであります。私どもは、日達上人猊下がますますお元気であられますうよう、お祈り申し上げるとともに、本日の佳き日を、全信徒を代表して心からお祝い申し上げようではありませんか。(拍手)
 更に、この十年間、皆さま方の真剣な努力、精神によって、広宣流布の輝かしい時代を見事に築き上げることができました。力なき私を誠意の限りを尽くし、不眠不休の活躍によて守ってくださった皆さま方に対し、私は、ただただ感謝の言葉もございません。
 ありふれた言葉ではありますが、この胸にたぎる万感の思いを込めて、私は、全学会員の皆さまにお礼申し上げたい。ほんとうにありがとうございました。(拍手) 
2  建設の時代から完成期へ
 初代牧口会長は七年間、二代戸田会長も七年間、会長職を務められましたが、私は若いゆえに十年間もの長きにわたり、会長職を務めさせていただきました。ここに築き上げた広宣流布の一切の基盤は、全学会員の皆さま方の努力の結晶であり、全部、皆さま方のものであることを、ここにはっきり宣言しておきたいのであります。
 思えば、恩師戸田城聖先生は、昭和二十六年の就任当時、約三千世帯であった学会を七年間に七十五万世帯にして逝去されました。不肖私が、昭和三十五年五月三日、恩師の偉業の跡をうけて第三代会長に就任したとき、約百三十万世帯であったと記憶しております。それが十年後の今日、七百五十万世帯を数えるまでになりました。すなわち、恩師が亡くなられてより、十三回忌の本年四月二日までに約十倍の規模にまで発展させることができたわけであります。
 恩師のあの草創期の苦難の偉業にはとうてい及びませんが、この成果に対しては、必ずや牧口先生、そして戸田先生もよくやったと称賛くださっていることと、私は深く確信いたすものであります。(拍手)
 まさしくこの十年間は、あらゆる面で仏法史上でも類例をみない偉大な建設をなし遂げた期間でありました。現代において、はたして、この十年でこれほどの躍進と発展を遂げた団体、勢力がいずこにあるでありましょうか。皆さんは、誇りをもって、これからも前進していってください。
 この事実、この実証こそ、わが学会が、民族の、そして人類の新しい時代の潮流であることを如実に示すものであると、私は心から叫びたいのであります。(拍手)
 時代はいよいよ広宣流布の正宗分に入ったと申し上げたい。戸田前会長は、広宣流布の一切の原理と言論を残し、完璧なレールを敷かれました。私どもの十年は、このレールの上をひたすら一瀉千里で進んでまいりました。そて激闘の結果、順縁広布の広大な沃野が眼前に開けるまでに、いさいの舞台は整ったと言明するものであります。
 本日をまた再出発の起点として、これからの十年は創業の時代、建設の時代を終えて、完成期、総仕上げの時に入ったと銘記していただきたいのであります。もはや教勢拡張のみに終始する時ではなく、一人ひとりの社会での成長が、もっとも望まれる時運となってきたと申し上げたいのであります。
 この間、宗門、創価学会の一大目標であった正本堂が、ついに完成する運びとなりました。あの富士の裾野の大宝塔の湧現こそ、私は、とりもなおさず、皆さん方一人ひとりの胸中に絶対の幸福の宝塔が湧現していく象徴であると確信していただきたいのであります。
 それは即、新しい人生、新しい社会、新しい文化の門出の暁鐘であります。私どもは、昭和四十七年十月十二日の完成の日を楽しみに、妙法の燦たる誇りに燃えた人生を満喫しながら、仲良く、堂々と、再び前進を開始していこうではありませんか。(拍手)
3  広宣流布の本義
 私は、ここで広宣流布ということについて一言しておきたい。広宣流布とは決してゴールインを意味するものではない。なにか特別な終着点のように考えるのは、仏法の根本義からしても正しくないと思う.大聖人の仏法は本因妙の仏法であり、つねに未来に広がっていく正法でもあります。大聖人は鎌倉時代当時をさしても広宣流布の時であると断言されておりました。
 それは、大御本尊という全民衆の信仰すべき法体を確立されて、そこから広々と、妙法の源流が流れていくことを確信せられていたがゆえに、たとえ一国謗法の時であっても、因果倶時で広宣流布の時であるとされていたと思うのであります。
 しかも大聖人が「末法万年尽未来際」と叫ばれたのは、それ自体、広宣流布の流れは、悠久にとどまるところがないことを示されたものであります。広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、生きた仏法の、社会への脈動なのであります。
 正本堂建立は、これで終着点なのではなく、新しい広宣流布、すなわち、世界へ向けての妙法流布の開幕を意味するものであることは当然であります。
 いままで私どもは、本尊流布に全力をそそいでまいりました。その結果、学会の盤石な基礎を固めることができました。また、日蓮大聖人のご威光は全世界に輝き渡り、時代の要望してやまぬ新しき世界宗教の威容を整えつつあるといっても過言ではありません。
 これこそ、日蓮大聖人以来の法体の広宣流布が果実を結んだというべきであり、即、世界への化儀の広宣流布の始まりでもあると確信したいのであります。
 私は、この壮挙が再び因となり、末法万年にわたる、より広大な、より深い流れが滔々と万人の胸中に伝播していくことを信じてやまぬものであります。
 法体の広宣流布が土台であれば、化儀の広宣流布は、その土台の上に築く建物にたとえられます。すなわち法体の広宣流布が、社会の底流を築く戦いであるのに対して、化儀の広宣流布は現実社会の姿のうえに妙法が反映され、みずみずしい生命の泉が万人を潤していくことにほかならない。
 所詮、宗教は文化の土台であり、人間性の土壌であります。健全な宗教を失ったとき、文化は退廃し、人間性のなかに大きな空洞ができてしまうといえましょう。
 あとに述べるように、現代の文明、文化がかかえる病根は、まさしくそこにあると思うのであります。この時にあたり、新しい文化を築き、社会を蘇生させていくことこそ、私どもの使命ではないでしょうか。
 私どもも、この本義にもどつき、人間生活にもっとも直接に響く政治に重大な関心をはらってまいりました。しかし、公明党も誕生し、政界に新しい気風を送ったことで、一つの結果をもたらしたといえましょう。
 もちろん、政治が社会のすべてではない。宗教は、もとより、文化全体の根本問題にかかわるものであります。私は、学会員の一人ひとりが社会のなかで人間的に成長し、価値を生んでいくことが、本格的な広宣流布の展開であると意義づけたい。
 すなわち、めざめた民衆が万人をリードし、新しい社会、新しい文化を建設していく時代が化儀の広宣流布であるといえるのであります。
 私はこの意味から、広宣流布とはまさしく、“妙法の大地に展開する大文化運動”であると定義づけておきたいのであります。
 もはや、私どもは社会と遊離した存在であっては絶対にならない。一人ひとりが社会で活躍し、社会の人々の依怙依託となっていかねば化儀の広宣流布とはもはやいえない。
 すなわち、信心しているいないにかかわらず、一切の人々を包容し、一切の人々と協調しつつ、民衆の幸福と勝利のための雄大な文化建設をなしゆく、その使命と実践の団体がわが創価学会であると、ここに再確認したいのであります。
 そして、私どもは「社会に信頼され親しまれる創価学会」をモットーに、再びさっそうと、忍耐強く進んでいきたいと思いますが、いかがでありましょうか。(拍手)
4  言論・出版問題
 次に言論・出版問題について、私の心境を申し上げます。
 今度の問題は「正しく理解してほしい」という、きわめて単純な動機から発したものであり、個人の熱情からの交渉であったと思う。ゆえに言論妨害というような陰険な意図はまったくなかったのでありますが、結果として、これらの言動がすべて言論妨害と受け取られ、関係者の方に圧力を感じさせ、世間にも迷惑をおかけしてしまったことは、まことに申しわけなく、残念でなりません。
 確かにこれは、それ自体として法律に抵触するものではなかったと思う。しかし私は、法に触れないからかまわない、というような独善的な姿勢ですまされる問題ではなく、まさに道義的に考えなければならない、もっとも大切な問題だと思うのであります。
 今回の問題をめぐって幾多の新聞、雑誌にフランスのボルテールの次の言葉が引用されておりました。それは「私は、お前のいうことに反対だ。だが、お前がそれをいう権利を、私は命にかけて守る」という有名な言葉であります。私は、これこそ言論の自由の根本だと思う。
 かくも言論の自由が尊重されるゆえんは、それが人間の権利の欠くべからざる要素であり、あらゆる人が自己の主義主張をなんら拘束されることなく、表現できることが、民主主義の基盤であるからであります。
 その点からいえば、今回の問題は、あまりにも配慮が足りなかったと思う。また、名誉を守るためとはいえ、これまでは批判に対して、あまりにも神経過敏になりすぎた体質があり、それが寛容さを欠き、わざわざ社会と断絶をつくってしまったことも認めなければならない。今後は、二度と、同じ轍を踏んではならぬと、猛省したのであります。
 私は、私の良心として、いかなる理由やいいぶんがあったにせよ、関係者をはじめ、国民の皆さんに多大のご迷惑をおかけしたことを率直におわび申し上げるものであります。もしできうれば、いつの日か関係者の方におわびしたい気持ちでもあります。
 また、この問題には、学会幹部も何人か関係していますが、全般の学会員の皆さん方には、なんら責任もないことであります。その皆さん方に種々ご心配をおかけしまして、私としては申しわけない気持ちでいっぱいであります。
 私自身、小説も書いております。随筆も書いてきました。いろいろな論文も書いております。これからも書いてまいります。近代社会の言論の自由の恩恵に浴している一人であります。もし今の社会の言論の自由がなかったならば、自分の思うことも書けないでありましょうし、こうして話していることもできなかったかもしれません。総じては、学会の発展も、こんな急展開できなかったでありましょう。
 言論の自由が、幾多、先人の流血の戦いによって勝ち取られたものであり、人間の権利を保障する尊い遺産であることも、よくわきまえているつもりであります。
 これを侵すことは民衆の権利への侵害であることを明確に再確認し、言論の自由を守りぬくことを私どもの総意として確認したいと思いますが、いかがでしょうか。(拍手)
5  本門戒壇の意義 
 次に、一部に、いまなお「国立戒壇」ということに関しての批判がありますが、この点について言及しておきたい。
 元来、日蓮大聖人の御書には国立戒壇という表現はまったくない。
 ではいつごろ戒壇に国立という言葉が使われるようになったかを調べてみましたところ、明治に入って国家意識が強くなってから、一般的にいわれるようになったようであります。
 日蓮正宗においては、一貫して本門戒壇、あるいは事の戒壇というのが正式の呼称でありましたが、一時期に一般の呼び名にならって、国立戒壇という表現を使ってきたことも事実であります。戦後においても、国立戒壇という表現は、そのまま問題にされず、今日までまいりました。
 恩師戸田前会長も、また私たちも、決して、その表現にこだわらず、本門戒壇は、たんに日蓮正宗のためのものでも、創価学会のためのものでもない。日本一国の繁栄、全世界の平和を願う、その本来の精神を端的にあらわすものとして、国立戒壇という言葉を用いてきました。
 しかし、その言葉が、そのまま国教化をめざすものであるという誤解を生じてはならないので、戸田前会長も私たちも、明確に国立戒壇イコール国教化ということは、最初から否定してまいりました。
 だが、どうしても人は「国立」という言葉からくるイメージで、国家権力によって戒壇を立てるのではないか、そして国教化、一宗専制をめざし、他教を権力によって弾圧するのではないか、という誤解をいだいてしまうのもやむをえないかもしれない。
 そこで私は猊下におうかがいしたうえで、国立戒壇という表現をつかわないことにし、かつこれまで使ったことがあるけれども、その真実の内容は、民衆立であるということを何回となく申し述べてまいりました。
 しかし、それでも一部になお疑惑がもたれ、学会の政治進出の目的は、国立戒壇にあるのではないか、したがって、それは憲法違反ではないか、更に現在は民衆立でも、やがて国会で三分の二の多数を占めて、国立にするのではないか等と、さまざまに心配されてまいりました。
 確かに、かつそれに近い表現もあったことも事実であります。しかし、もとより大聖人はの御書には、戒壇建立の本義は明かされても、具体的なプロセスについては、後世の人に託しておられます。また先哲も、あらかじめ形を定めることは後難を招く恐れありとして、その社会、時代に応ずべきことを明言しております。
 私は猊下のご説法にもとづき、また総務会、理事会等の了承を得たうえで、ここに、現代における戒壇論をめぐる諸問題を明確にしておきたい。
 私がこう申し上げるのも、後世のために、現在の責任者として、すべての路線を明確にしておく必要があることを痛感し、皆さん方に確認しておきたいからであります。
 まず第一に、本門戒壇は国立である必要はない。国立戒壇という表現は、大聖人の御書にもなく、また誤解を招く恐れもあり、将来ともに使わないと決定しておきたいと思いますが、いかがでありましょうか。(全員拍手)
 第二に、国教化は、一閻浮提という世界宗教の意義からはずれ、その宗教の力なきことを意味するものであり、かねてからこれを否定してきた私どもの意思を、更に高らかに宣揚したいと思いますが、その点もいかがでしょうか。(全員拍手)
 第三に、将来、国会の決議によって国立にするのではないかという疑惑に対しても、本門戒壇は、どこまでも、純真な信心を貫く民衆の力によって築かれ、意義づけられることを明らかにしておきたい。戸田前会長も私も、国会の議決ということを民衆の要望をあらわすものとして、真剣に考えたこともあります。しかし、それは、憲法の精神からいって不適当であり、私どもとしても、はるか以前にこの考えを捨ててしまっております。
 私は、歴史上、尊い試練を経て確立された信教の自由、そして、それを定めた憲法をどこまでも遵守していきたいのであります。
 また、国立でないからといって、いささかも戒壇建立の本義を曲げるものではなく、むしろ、どこまでも純真な信徒の総意によって推進されていくことのほうがはるかに大きい意義がある。ゆえに、絶対に国会の議決等にはよらぬことを明言しておきたいと思いますが、いかがでしょうか。(全員挙手)
 第四に、したがって政治進出は戒壇建立のための手段では絶対にない。あくまでも大衆福祉を目的とするものであって、宗門、学会の諸活動とは無関係であることを、再度、確認しておきたい。よろしいでしょうか。(全員挙手)
 以上の四点は猊下のご同意も得たうえで、総務会等の決定にもとづき、発表するものであり、未来においてもこの決定は変わらないことを明確にしておきたいのであります。
6  大聖人の仏法は“世界の大白法”
 およそ、大聖人の仏法は、あくまでも民衆の生活のなかに躍動する文化の大海でなくてはならない。個人の内面の変革をとおして時代をリードするものであり、全人類の生命にひそむ魔性に挑戦し、悲惨と苦悩を絶滅することが仏法の本意であります。
 立正安国論にいわく「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方はことごとく宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん」と。
 日寛上人は、この御文を引き「文はただ日本および現在にあり、意は閻浮および未来に通ずべし」云云と。
 この御聖訓および日寛上人の解釈に明らかなごとく、横には全世界、全人類の崩れざる平和、縦には未来永遠にわたる生きいきとした幸福の確立こそ、日蓮大聖人の終極の目的なのであります。
 そのための三大秘法の仏法であり、決して一時期の、そして、限られた人々のためのものでないことは、あまりにも明白なのであります。
 されば大御本尊は、一閻浮提総与と相伝あり、大聖人の仏法が世界の大白法であることも、諸御書に厳然と説かれているところであります。
 三大秘法抄にいわく「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇なり」と。
 すなわち、本文の戒壇は、日本、中国、インド、更に全世界の人々の懺悔滅罪の道場であるのみならず、世界のあらゆる指導者も、平和のためにここにつどいくるであろうとの断言であり、予言書であります。
 戒壇の戒とは、元来、防非止悪、すなわち非を防ぎ、悪をとどめるの義であります。今、末法事の戒は全人類の悲惨の根源に迫り、生命に内在する非道と根本悪を防止することにあります。したがって、本門戒壇の本義は「全人類の恒久平和と幸福を祈願する大殿堂」という点にあることを、明確に熟知していきたいと思うのであります。
7  学会と公明党の関係 
 今度の言論問題を通じて、さまざまな問題が浮かび上がってきましたが、ここに将来のためにも、はっきりさせておかねばならないのは、創価学会と公明党の関係であります。
 私としては、公明党結成のことを発表した昭和三十九年の本部総会の講演でも、創価学会は宗教団体であり、公明党は政治団体である、とはっきり政教分離の出発を目指しておきました。
 私自身、三十九年の結党大会にも出ていません。また四十年七月に「宗教政党」という理念を述べましたが、ここでも、「理念においては一体であるが、体制、機能においては別である」むねを前提として、そう申し上げたのであります。
 これは、学会と公明党は「一体不二」であるという言葉を使ったので、一部に誤解した受け取り方をされておりますが、よく読んでいただければわかるように、民衆の幸福と平和を願う理念、理想が同じであるという意味であって、体制、機能の面までも「一体不二」ということは決していっておりません。
 また、その後「公明党のビジョン」を発表したときも「学会員一人ひとりの政党支持は自由である」と明言しておきました。むしろ創価学会は宗教団体として、信仰、布教に専念し、公明党は公党として、立派に社会に貢献し、大衆福祉のために戦ってほしいということが、私の一貫した願いであったのであります。
8  党の独立と健全な発展
 もとより、公明党誕生の母体は、創価学会であることは間違いない。しかし、いくら母体といっても、いつまでも、それに依存するようであっては、党の健全な発展はない。たとえていえば、賢明な母は、子がひとり立ちできることを願うものであります。
 いつまでも自己の支配下におこうとして、かえって成長を妨げてしまうのは、愚かな母親であります。
 子は、いつまでも幼児ではない。体の成長にともなって、精神的にも、一人前の社会人として、活躍できるようにならなくてはなりません。
 今までは、創価学会と公明党は、この母と子の関係にあると見られてもやむをえなかった。それにしても、我々は、愚かな母親であってはならない。この愚かさは、結局、重荷となって自らにおおいかぶさってくるでありましょうし、子供も社会に貢献できない大きい赤ん坊として社会の笑い者になってしまうでありましょう。
 我々は、これまで、公明党のために一生懸命応援し、守り育ててまいりました。だが第三党にもなれば、すでに立派なおとなであります。それでもなおかつ、これまでのように面倒をみなければならないとしたら、それは不合理というものであり、社会の批判をうけるのも当然の理でありましょう。
 そこで、これは提案になりますが、創価学会と公明党の関係は、あくまでも、制度のうえで、明確に分離していくとの原理を、更に貫いていきたいのであります。もちろん、理念においては、ともに冥合するものでありますが、実践面においては、それぞれの目的に向かって将来も進むことは、当然であります。これは、特に党幹部からの強い要望もあり、学会でも当然のこととして、理事会でも決定したことでありますので、皆さん方のご賛成をいただきたいのであります。(賛成挙手)
 今後、たとえ票が減ろうと、議員数が減ろうと、それが世論の要望であり、本来のあり方であるならば、近代政党として、当然の道であります。具体的には、議員で、学会の役職の兼任している場合、党の仕事に専念していただくために、学会の役職は段階的にはずす方向にしていきたい。党の要望もあり、できれば、二、三年のあいだに安定をみる方向に、党も学会も話し合っていきたいと思っております。
 ただ、本人の意思も、民主主義の建て前から、当然、尊重しなければなりませんし、当分は過渡期のため重複する場合もあるかもしれませんが、それはご了承ください。
9  学会は公明党の支持団体
 また、学会は、公明党の支持団体ということになります。当然、学会員の個人個人の政党支持は、従来どおり自由であります。学会は、日蓮大聖人の仏法、三大秘法の御本尊を信奉する宗教団体であって、政党支持については、会員の自由意思にまかせ、全く干渉するものではありません
 逆にいえば、いかなる政党支持の人であろうと、いかなるイデオロギーをもつ人であろうと、この妙法の旗のもとには、全く、なんの差別もなく、平等に包容されるべきであることを、明瞭にしておきたいのであります。
 ただし、このことは、同時に政治の次元、イデオロギーの次元の問題で、学会内部を攪乱し、人々の信仰を濁らせ、組織を破壊する行為は、許されないことも意味します。信仰の純粋性、美しい和合僧の団結は、どこまでも守らなくてはならない。これを乱す行為に対しては、除名などの措置をとるのもやむをえないと思うのであります。
 また、選挙にさいしても、公明党は党組織を思いきって確立し、選挙活動もあくまで党組織の仕事として、明確に立て分けて行っていただきたい。むろん、創価学会も支持団体として従来どおり地域ごとの応援は当然していきたい。党員についても、学会の内外を問わず、幅広くつのって、確固たる基盤をつくっていただきたいと、公明党に要望したい。また、党がひとり立ちしたことに対し、皆さん方も暖かく見守っていただき、応援もしていただきたいのであります。
 以上のように、創価学会と公明党を分離していくことを提案いたしますが、賛成の方は挙手願います。(全員挙手)
 なお、公明党は六月に党大会を行うことになっているそうでありますが、国民の皆さんが納得するような、立派な近代政党の第一歩を踏み出すことを、心より期待するものであります。そして右にも寄らず、左にも偏せず、ともに左右を包含し、民衆から、さすがあっぱれだと賛嘆される確固たる中道政治の大道を勇んで進んでいかれんことを願ってやまぬものであります。また、当然のことながら、党の問題は、人事についても、政策についても、全く党の自主的決定によることは変わりありません。
 更に私自身は、生涯、宗教人として生きぬく決意であり、政界に出るようなことは決してしないと、重ねて明確に申し上げておきたいのであります。
10  立正安国の原理
 次に、創価学会より公明党をなぜ誕生させたか、これについて、多少むずかしい論理になりますが、立正安国、王仏冥合の原理を通して、その意義を明確にしておきたいと思います。なぜなら、立正安国こそ、日蓮大聖人の教えの根幹であり、私どもの実践の基本原理であることには変わりはないからであります。
 日蓮大聖人の仰せは“安国”を実現するためには、根底に“立正”がなくてはならないということであります。立正とは正法を立てることであり、色心不二の生命哲学をもってする、未曾有の宗教革命のことであります。これは、個人の内面の信仰の次元であります。安国とは社会の繁栄であり、民衆の幸福、世界の平和であります。立正が宗教の次元であるのに対して、安国は社会の次元であります。
 ゆえに、安国の直接的に拠って立つ理念は何かといえば、それは生命の尊厳の理念であり、人間性の尊重、絶対平和主義の原理であります。
11  立正と安国の接点
 これらの理念は、宗教のいかんにかかわらず、人種、民族、イデオロギーのいかんを問わず、人類に普遍する理念であります。いいかえると、人間の生存の本源から出てくるものといってよい。一切は、この“人間主義”から出発するのであります。
 宗教もまた、この生存の本源たる理念を究明していくものであります。すなわち、この理念を掘り下げ、確固たる基盤を与えたのが、日蓮大聖人の仏法であり、それを信ずるのが、私どもの信仰であります。したがって、“立正”と“安国”の接点は、これらの理念であり、しかも信仰は、それ自体が直接、社会的な行動にあらわれるのではなく、人格の陶冶を通じ、具体的には、生命の尊厳等の理念の反映としてあらわれてくるものでなければならない。
 この原理は、すでに私どもが信仰と生活、仏法と社会の関係として、日々、実践しているとおりであります。すなわち、社会的活動の次元には、宗教性をもちこむ必要は毛頭ないし、むしろ、直接、もちこむことは、信心即生活の誤った解釈であり、立正安国、王仏冥合の原理からの逸脱といっても過言ではありません。
 したがって、生命の尊厳、人間性の尊重、絶対平和主義という普遍的理念をいかにして具体化するかという“技術”が、政治の次元の課題となるわけであります。我々が公明党を誕生させたのも、その理念を政治の分野に実現してほしいという純粋な気持ちからであり、その願いはいまなお一貫して変わっておりません。
 公明党は、安国の次元に立つものであり、立正を問題にする必要はない。むろん、個人として立正を確信することは信教の自由であるが、党としては一切宗教上の問題を政治の場で論議する必要はない。また、あってもならない。また、宗教上の目的を党の目標とする必要もないし、すべきでもない。あくまでも、現行憲法の定める信教の自由を遵守し、宗教的には中立を貫き、政教分離でいけばよいと思うのであります。
 ただし、生命の尊厳を根本に人間性の尊重、絶対平和の実現という理念。理想だけはどこまでも堅持しきっていく政党であってほしい。そのかぎりにおいて、同じ志に立つ優れた人物を、公明党として推薦することにも、われわれはなんら異議はないし、選挙にあっても喜んで応援することもあるでありましょう。
 公明党が宗教的中立に立ち、宗教上の目的を政治の場で追求するものでないからといって、公明党の存在意義がいささかも減少するものでないことは、以上のことから考えていただければ、明白であろうと思いますが、いかがでありましょうか。
 逆説的ないい方をすれば、もし公明党がなければ、これだけの庶民大衆のエネルギーは、現在の政治地図のなかに、確固たる位置を占めるまでにはいたらなかったはずであります。大部分が政治的無関心層として姿を没してしまったか、あるいは日本の社会に亀裂を深めていく作用をしていたかもしれません。
 以上は、政治の分野を一例として申し述べましたが、更に王仏冥合の原理について論及しますと、立正安国の“立正”が王仏冥合の“仏”であり、“安国”が王仏冥合の“王”になります。
 仏法でいう王とは、全民衆、全社会を包含した内容であり、もはや、国王をさすのでもなければ国家権力でもない。現代的にいえば政治、教育、文化等、社会全般のことをさすと考えるべきでありましょう。主権在民の現代では、民衆が王であり、社会が王なのであります。
 故に、現代においては、単に政治という限られた分野だけにとどまることなく、より広く民衆、社会のあらゆる分野にわたって、底流を築き、その上に、広範な、新しい社会の建設、文化の建設がなされる時代であることを訴えたいのであります。
 また、王仏冥合、立正安国が、あくまでも宗教による人格の陶冶を基盤とするものであり、直接、社会的活動の次元に信仰を持ち込むのでないことは、政教一致の根本的な違いであり、政教分離の原則に立つものであることも、ここに明確に申し上げておきたいのであります。
12  共産党に対する態度
 次に、共産党に対する、これからの基本的な考えを述べておきたい。現在、共産党と学会が、つねに敵対関係にあるかのような印象を世間に与えております。しかし、これは私の本心ではない。共産党の創価学会に対する攻撃から、防衛のため、こちらとしても反撃せざるをえなくなっただけのことであります。
 私としては、こうした泥仕合はできるかぎり避けたいというのが本意であります。我々は、かたくなな反共主義を掲げるものではない。また、そうあってはならない。
 創価学会は、宗教の次元に立つものであります。宗教は、一切を包容していくべき立場のものであります。ゆえに、政党と同じ次元で争うべきではありません。
 ただ、不当に私どもの信仰を圧迫する動きに対しては、信教の自由を守るために、正当防衛として戦っていくのはやむをえない。したがって、こちらの自由意思だけでは、いかんともしがたいことですが、私どもの意向としては、こうした無益な争いは、絶対にやめるべきであることを訴えたい。
 この創価学会の立場を、皆さんとともに再確認しあうとともに世論に対しても、明確にしておきたいのであります。
13  創価学会の体質問題
 次に、学会が、これだけ大きくなり、社会に占める比重、責任が大きくなった現在、どうしても、私どもが、心していかなければならない問題は、創価学会の体質という問題であります。
 学会の体質ということについては、言論問題をめぐる種々の批判のなかでも、論議されてきたことでありますが、私どもとしても、受け入れるべきは冷静に受け入れ、改めるべきは率直に改めていかなくてはならないと思う。
 この体質問題についても、すでに総務会、理事会で何回か検討を重ねてまいりました。
 したがって、ここで申し上げる諸点は、すべて、その検討のうえ決定をみたことであり、皆さんかたご賛同をいただければ、今後の基本方針として、決定したいのであります。
14  道理を尽くした布教・折伏を
 第一点は、布教、折伏の問題であります。
 確かに、これまでは建設期であったがゆえに、また若さのゆえに、あせりすぎた面もあった。そのため、ずいぶん注意したのですが、一部に熱意のあまり、つい行き過ぎて摩擦を生じた例があったことも知っております。今後は、そうした行き過ぎの絶対にないよう、道理を尽くした布教、折伏でいくよう、これまで以上に、互いに戒めあっていきたいと思いますが、いかがでしょうか。
 現在は、たとえていえば、これまでの高速道路から、混雑した都会の道路を車で走っているようなものといえましょう。したがって、決して数をあせる必要はないし、あせっても絶対にならない。無理な学会活動をして、社会に迷惑をかけることは、大謗法であり、学会の敵であります。多少減ってもいいから、立派に整頓しながら、悠々とやっていきましょう。むしろ、入信するのが、すばらしい名誉であり、栄光なのだという気概でいくのが、ほんとうなのであります。御本尊を受持するということは、最高の宝をいただくのと同じであります。これが仏法の原理である。無上宝聚不求自得ということであります。
 御本尊をなんでもいただかせようとして、粗末にするようなことがあっては、大聖人の仰せへの反逆である。そのためには、入信にさいしては、座談会に原則として三回以上出席することを条件とし、きちんと名簿に登録するようにもしたい。
 また、退会したいという人に対しては、道理だけは尽くしても、決して執拗にとめてはならない。むしろ、本人の意思を尊重し、その意向を認めていくことを、更に強く徹底しておきたい。
 これと関連して、第二点として、これまで学会は、紹介者というつながり、すなわちタテ線を基調として前進してまいりました。だが、ここに完璧な基盤ができあがりましたかので、地域社会と密接なつながりをもつという意味からも、これまでのタテ線を基調としたのと同じく、これからはブロック、すなわちヨコ線を基調としていきたい。
 このブロックの体制を基本にしながら、伸びのびと、仲良く、楽しい信心をしていきたいと思いますが、この点もいかがでしょうか。(全員挙手)
 ともあれ、今後は社会を大切に、そこで信頼され、尊敬されていくことが大切であります。社会に根を張れるか否かで、学会の将来は、決定してしまうのであります。それができなければ、広宣流布の進展は絶対にありえぬ時代であることも銘記したい。
 第三点は、事故を起こした人の問題であります。仏法は、慈悲が根本精神であり、いかなる社会の片隅の人をも救っていく使命があります。虚栄であってはならない。最高に寛容であり、包容性に富んでいかねばならない。
 ただし、学会員でありながら、悪いことをしたり、折伏や選挙にさいして事故を起こし、世間を騒がせ、同志にも迷惑をかけた場合には、いかなる幹部であっても、解任または除名処分にしていく以外にないない時代であると思う。この点についても、厳格に臨んでいきたいと思っておりますが、いかがでしょうか。
 また、第四点は、大きな問題でありますが、学会の体質として、特に外部からいわれていることの一つとして、学会は上意下達で、下意上達がないという点があります。ほんとうは、そうでもないのですが、とかくそう見られてしまう一面があることも否定できません。これまでも、なるべく民主的な運営を心がけてきたことは、皆さんが、もっともよく知っているはずであります。
 今後とも、まず会の運営や会合等について、一人ひとりの意見が、なんとか最大限に吸収できるように改善したい。そして、こうした具体的な積み重ねのうえに上意下達という傾向を完全に是正していくように努めたいのであります。
 ただし、教義の問題は、これは大聖人が定められていることであり、絶対的なものであります。仏の教えに従うことが、仏弟子の道です。しかし、教義と関係のない運営面、活動面は時代と状況に応じて、われわれが考えていかねばならない。これは、最高に民主的な方法で、衆知を集めて、推進していくべきであります。
 いうまでもなく、民主的な方法ということは、無秩序ということではありません。各人の自覚を根本とした建設的な運営であり、そうでなければ衆愚となり、仏法の道理に反します。立案の段階では、どしどし意見を出す。そのかわり、決まったら、心を一つにして遂行していくのが民主主義のやり方であり、仏法の世界の異体同心の定義であります。
 それには、なによりも、一人ひとりが学会の運命を担い、広布を推進している主体者であるとの強い自覚が必要であります。会長がなんとかやってくれるだろう、総務がうまくやっているだろうといった、傍観者の気持ちはみじんもあっては困るのであります。
 僣越ないい方ではありますが、私は、十年間、いな戸田前会長時代から二十数年間、一瞬たりとも学会のことを忘れたことはありません。この体を痛めつけ、また、神経をすり減らして、広宣流布のために戦ってきたつもりであります。学会も、これだけ大きくなったのですから、今度は、皆さん方幹部全員が力を合わせ、学会を支えていく以外にありません。しかも、新しい段階に入ったということは、学会の新路線は、全学会員が、そうした自覚ある団結、めざめた意識に立つべき時代を意味すると申し上げておきたいのであります。
 この考えにもとづき、学会本部の機構も、抜本的に近代的なシステムに変えていきたい。現在、検討中でありますが、やがて実現してまいります。
 なお、宗教法人法にもとづく創価学会の規則についても、全宗教界の先駆をきってもっとも民主的な内容にしていきたい。現在、委員会で検討中でありますが、たとえていえば、会長の任期を三年ないし四年にするとか、選挙制にするといったことであります。
 いままでの規則では、会長は終身制と定められてきました。世間から会長はカリスマ的支配だなどといわれてきましたが、会長だけ終身制ではそういわれてもやむをえない。もっとも、私にいわせれば、これは終身制でなくして、終身刑と同じで、(笑い)これ以上わりにあわない話はないのであります。
 すでに学会の基盤も盤石となり、正本堂もできたも同然であります。公明党も第三党となり、立派なおとなの政党として成長していくであろうし、創価大学も来年開学になります。一切の基盤を整えた現在、あとは、皆で学会を守り、学会を育てていっていただきたいと重ねてお願い申し上げるものであります。私も、総本山の整備もあり、小説「人間革命」も今後十数巻つづくであろうし、未来のために人材を育てておかねばなりません。これからの学会は、なんとか皆さんで力を合わせてお願いします。
 そのほか、創価学会規則の全般にわたって、現在、検討を進めております。できあがりましたならば、本部幹部会等で、皆さん方におはかりしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
15  70年代・21世紀の展望
 ここで私は、一九七〇年代は、いかなる時代であるべきか、また、やがてきたるべき二十一世紀は、いかなるものであるかを展望し、そのうえから、私どもの進むべき方向を考えてみたい。
 はじめに、一九七〇年代とは、どのような時代であるか。激流のごとく進む現代にあっては、これからの十年間の変化は、想像を絶するものとなることでありましょう。
 しかし、基本的には、私は、現代文明がはらむ問題点は、一往、そのほとんどが六〇年代で出尽くしたとみたい。そして七〇年代は、これをいかに解決すべきかという、具体的な第一歩を踏み出す時代になると想像するのであります。
 現代文明の特質は、なんといっても、科学技術の驚異的な発展であります。あの万国博覧会にあらわされているような、生活環境の変化は、決して遠い夢ではない。この趨勢は、もはやとどまるところを知らず、政治的、経済的諸要素と複雑にからみあいながらも、着実に浸透し、拡大していくことは、間違いないことでありましょう。
 しかし、科学文明の進展とともに、ますます、そこに重大な矛盾があらわれてまいります。すなわち、すでに幾多の人々によって、指摘されている、人間精神の空洞化、脆弱化の問題であります。
 機械そのものと、機械の原理による社会の組織化とは、ともに並行して人間自身を部品化し、主体性を奪うことになってしまうという申告な事態であります。
16  危機にさらされる人間性の尊厳
 人々の生命力はしだいに弱くなり、英知もまた輝きうすれて、受動的、感覚的になり、その行動も衝動的にならざるをえない。古い権威は崩壊し、心の拠りどころとなる規範を失った結果、底知れぬ孤独感に悩まされ、ただ刹的な享楽にふけることだけが、はかない救いとなっていく。かくして人間性の勝利のあかしと考えられてきた科学技術文明が、実は、その内部に人間性の恐るべき敗北を招こうとしているというのであります。この考え方は、確かに私も正しいと思う。一言にして現代文明は、科学技術の勝利ではあっても、決して人間性の勝利ではないと思えてならない。私は現代および未来を展望するとき、人類が直面する幾多の難問は、結局、人間を人間として扱うことを忘れた、文明の基本的性格から発生したものであると、断言しておきたいのであります。
 人類の未来は、決して明るいとはいえない。それは、科学技術文明の圧倒的優位のもとに、人間性と人間生命の尊厳が、次第に見失われていることによります。戦争の危機も、もちろん無視することはできませんが、その全体のなかの一部分にすぎないともいえるのであります。
 アメリカの社会学者のエーリッヒ・フロムは、二十一世紀の未来を展望して次のようにいっております。
 「紀元二〇〇〇年という年は、人間が自由と幸福を求めて努力した時代がめでたく終わりを告げ幸福の頂点に達する年ではなく、人間が人間であることをやめ、思考も感情も持たない機械に変わってしまう時代の始まりであるかもしれない」と。
 「人間が人間であることをやめ、思考も感情も持たない機械に変ってしまう」とは、少し酷すぎる表現のように思われるかもしれない。しかし、すでに現在でもその兆候があらわれていることに気づくならば、決してこれを否定することはできないでありましょう。
 たとえば、現在、高度に発達した産業社会における人間疎外の問題が、先進諸国で深刻に論議されております。機械の導入によって、人間は確かに肉体的な労働から解放されております。それは一面からいえば喜ばしいことではありますが、裏返していえば、機械が主役であって、人間は重要でなくなったことにほかならない。
17  コンピュータに明確な規制措置を
 しかも、これまで人間だけが独占してきた知的労働の面までも、コンピューターの登場によって、どんどん奪われようとしている。そして更に、コンピューターは、やがて権力の機関である行政官庁にも採用されて、国民全部に一連番号をふり、コンピューターによって、各人のプライベートな問題まで一切が記憶され、だれかがなにかを調べたいときには、たちどころにわかってしまうようなシステムになりかねないともいわれております。
 こうして人間は、機械によって、単に職場を奪われるだけでなく、一切の機械に支配される時代がこないともかぎらない。こうした未来社会の事態は、生命の尊厳へのおそるべき脅威といわざるをえません。
 先日、わが国で行われた世界の未来学者の会議で、ある新聞社がアンケートをとったそうであります。
 そのなかで「将来、コンピューターを憎む人が増えると思うか」という質問に対し、約半分の人が「増えると思う」と答えたということであります。私も、同じ質問を今年のある新聞の新年号で受けたときに「増えると思う」と答えておきました。
 おそらくコンピューターの使用については、将来、いろいろなところで問題になるでありましょう。確かに人間の労働を肩代わりするという意味では、コンピューターの使用はまことに望ましいものであります。だがそれには、私は人々のプライバシー、人権を侵害する恐れのないよう、断じて明確な規制措置が講ぜられるべきことを主張したいのであります。
 人間性を疎外するものは、いわゆる物理的な機械だけではない。現代社会の特徴である複雑な組織、機構も、別な意味での機械であります。すなわち、極度に合理化された社会は、それ自体、人間を部品とする一つの機械マシンでもあります。そのなかで、人間は人間らしさを失い、思考も感情ももたなくなってしまう。
 そして、こうした管理社会をおおう情報の洪水は、個人を絶えまない情報の波で洗うことによって、その思考と感情をマヒさせていくことでありましょう。抽象的ないい方のようですが、具体的には、私どもの現在の日常生活が、すでにそうした危機にさらされていることを熟知しなければなりません。
 新聞やラジオ、テレビは、絶えまなく現代人に新しい情報を提供しております。飛行機乗っ取り事件は、アポロ13号の事故が報道されると、たちまち忘れられてしまう。そのアポロのニュースも、次に中国の人工衛星のニュースが出ると、もう人の口にものぼらない。カンボジアへの米軍の進撃があれば、中国の人口衛生は遠ざかってしまう。こうして現代人は一つのことを深く考えるいとまもなく、たえず新しいニュースを追って、ただ受け取るだけの受け身の存在になってしまっている。
18  深まる人間精神の空洞化
 このような社会の仕組みと文化のあり方がもたらすものはいったい何か。それが人間性喪失の問題であります。ここに人間精神の空洞化が深まり、物事に対して、ただ感覚的に、そして衝動的に反応するという傾向が強まってくるのであります。
 この傾向が更に進めば、人間の精神構造は、ただ自己の本能的な欲望だけを原動力とし、罪の意識も恥じらいの感情もない、単なる“知性ある動物”にすぎなくなってしまうことでありましょう。これについても、近年、ジャーナリズムをにぎわせている種々の犯罪の激増、しかもその犯罪者が少しも罪の意識をもちあわせていないという事実、また性道徳の退廃等の諸現像のなかに、あまりにも、その実体が明らかであります。
 今日、すでに憂慮されている、これらの現象は、七〇年代そして二十一世紀へと、文明の根本的な姿勢に変化が起こらないかぎり、ますます拡大し、深刻な様相を呈してくることは必定であります。それはまさに“世紀末”の姿であり、人類の内面からの破滅といわなければならないと思うのであります。
 最近、欧米でも広範かつ深刻な関心を読んでいる公害の問題も、高度産業社会のもたらしている人間生命への脅威のあらわれの一つといえましょう。特にアメリカでは、公害追放の日として提唱された“アース・デー”(地球の日)に全米で一千万人のデモが繰り広げられたと伝えられました。
 人間疎外、人間の部品化を精神的な側面とすれば、このような公害問題、更に広げていえば、年年死傷者の激増をみている交通問題等は、肉体的な側面での人間性に対する圧迫であります。現代文明の高度産業社会は、物心両面から人間生命に対して脅威を与えていることを知らなくてはならない。
 また、アメリカの経済学者ボールディングは、現代において真に恐れるべきものは、たんに人類を破滅におとしいれる核兵器等ばかりではない。社会心理学的手段によって、人間の精神の内面から切り崩してくるものこそ、更に恐れるべきであると次のように述べております。「物理学者は人間の肉体を殺したり不具にしたりすることができるだけなのに、社会心理学者は人間の魂を殺したり不具にしたりすることができる」と。
 彼のいう物理学者とは、原水爆等を製造した人々のことであります。社会心理学者とは、社会の管理機構や情報による操作の理論を生み出す人々のことでありましょう。核兵器は肉体を滅ぼすだけであるのに対して、社会機構や情報等は人間の魂を破壊するがゆえに更に恐れるべきであるというのが、ボールディングの主張であります。
 確かに、この指摘は適切であり、未来に臨む人類に対する深い教訓を含んでいると私は思う。しかし、もう一歩掘り下げてみるならば、私は核兵器の脅威といっても、所詮は、それを操作する人間の精神自体の破壊から起こるのが真相であると思うのであります。私どもは、この見えざる暴力こそ、未来を破壊していく最大の暴力であると喝破し、人間革命の大運動を展開してまいろうではありませんか。
19  国家の論理から人間の論理へ
 では、次に、この社会的・心理的な力を自在に駆使し、しかも必要とあれば、物理的暴力を使用することを許されている唯一の存在は何か。それが現代における国家権力であります。
 国家権力が、物理的暴力の行使を合法的に許された実在であることは、戦争の遂行や、警察力の行使をみれば一目瞭然でありましょう。社会的・心理的暴力の側面は,表面から容易に見ることができませんが、その恐るべき力が働いていることは、否定できない実情であるといえましょう。
 国家権力は、現代の社会では、価値体系の多元化にともなって、直接、民衆を支配することは、少なくなっております。だが、目に見えないところでの操作によって、実際には、かつてより以上に強力に統制されているとも考えられる。
 私は、現在叫ばれている“世代の断絶”スチューデントパワーに代表される若者たちの反抗の底流にあるもは、なかんずくこの横暴な国家権力への抵抗であると見るのであります。すなわち、その本質は、人々の願う“生命の尊厳”を、今日まで無残にも踏みにじってきた国家主義に対して、新しい世代の起こした反逆ではなかったでしょうか。
 生命の尊厳とは、生命こそ、他のなにものにもかえられぬ、至上の当体であるということである。生命の尊厳に立つ以上、人々を死地に追いやり、あるいは、暴力的にその自由を奪うような、国家主義の特権は断じて許されない。――この自明の理に気づいた鋭い青年たちの主張が、あのような激動を巻き起こしたと、一面では考えられるのであります。
 民衆は、国家に隷属してきた状態から脱し、生命の尊厳を至上とする新しい舞台へと躍りださんとしております。“国家の論理”から“人間の論理”へ――これが現代を深く貫く時代の潮流であり、この潮流の先端をきって、限りなき希望に満ちた生命の大海を開くのが、私どもの使命であると確信いたしますが、いかがでしょうか。
20  青年の心に拡がる“不信感”
 昨年、一九八六年をピークとして、世界各地で大学紛争が巻き起こり、古き価値観の崩壊と世代の断絶が叫ばれました。学生運動は、当時の華やかさからすれば、見るかげもなくなりましたが、問題が解決したわけでは、もとよりありません。当時投げかけられた疑問に、社会はなにひとつ答えていないのであります。
 かえって若い世代は、心の内にますます深い不信感をいだきながら、形の上だけで、一応、体制に順応しているにすぎないとみてよい。
 先日の新聞に内閣広報室が行った、現代青年の意識調査の結果が出ておりました。それによると、たとえば将来の目標という質問には「まじめに自分なりの努力をする」「明るい家庭をつくる」が51㌫を占め、「世のため人のため」とか「指導者になる」と答えたのは、わずか1㌫にすぎなかったそうであります。
 また、勤労についての質問では「人並みに働けば充分」というのが59㌫で、「他人より余計に働きたい」は33㌫。更に、仕事と余暇のどちらに重点をおくかという質問には「仕事重点」が37㌫だったのに対し、「余暇重点」が45㌫を占めた。また仕事と家庭とでは「仕事中心」が35㌫に対し、「家庭中心」が43㌫であったという結果であります。
 この調査からいえることは、青年たちの大半が、社会のなかに積極的に尽くそうという意欲をもっていない。人並みにほどほどに働いて、むしろ人生の楽しみは、余暇や家庭に求めたいということであります。その根底にあるものは、社会への不信であります。そうした社会への不信が極端なかたちをとって、暴力的、反抗的になったのがゲバルトであり、逃避的、厭世的になったのがヒッピーではないかと思うのであります。
 そのような、社会全般の傾向に対して、青年が本来の青年らしい意欲に燃え、健全な青春を謳歌している世界が、わが創価学会であります。
 一般に、宗教に対し、現代の青年は、魅力をもっていない。にもかかわらず、なぜ多くの青年が、学会で生きいきと活躍しているのか。これは妙法という信ずるにたる不動の哲学と、学会の人間性のふれあいが、疎外され孤独に陥っている現代青年の胸に、深い共感を呼んだからでありましょう。
 そして、やがて、必ずそのなかから、妙法の哲理を基盤とした新しい文化建設の機運が、萌えいでていくことも必定であると信ずるのであります。
 いまの十代の人たちが二十代になり、二十代の人たちが三十代になる十年後に思いをはせるとき、創価学会の社会に果たす役割は、ますます大きいものがあると、私は、内外の識者の方々に強く訴えてやまぬものであります。
21  真実の人間主義の源泉
 これまでの諸宗教は、一面では文化の興隆をもたらしながら、もう一面ではそれを阻害する要素もあったことも否定できない。その原因は、私は、それらの宗教のもつ戒律性、道徳的抑制作用にあったと考えたい。
 これからの宗教は、人間性をしばる宗教であってはならない。人間性を生かす宗教こそ、新しい文化の土壌となるべき宗教であると思うのであります。真実の人間主義の源泉は、ここにあるといっておきたい。
 ボールディングもまた「われわれの時代の危機は根本においては宗教的な危機である」と叫び、宗教が再び「人生や経験や知識のうねりのなかの統合的な要素」とならなければならないことを強調しております。否、それは、ボールディングだけではありません。さきに引用したフロムもしかり、アインシュタインやトインビーもしかりであります。
 これら、二十世紀最高の知的水準に立つ人々が立場の違いこそあれ、等しく提唱している宗教の重要性が、現実には、時代の思潮として広く民衆に訴えかけ、文明の転換をもたらすまでいたらなかった、その原因はどこにあるか。それは、現代という時代にあって、人々の心をとらえ、社会的・文化的に、積極的・建設的な役割を遂行できる、優れて力ある宗教の存在を知らなかったという、この一点にあると、私は思うのであります。
 私どもは、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学こそ、まさに、この時代の要求と、文明の課題に応える唯一の力ある大宗教であることを知っております。故にに今、二十一世紀に向かって、人類の前途に立ちふさがる暗黒の未来を思うとき、そこに光明を与え、輝かしい道を切り開いていく唯一の実体は、私どもの妙法流布の戦い以外に断じてないと確信し、更に新たな決意で進んでまいろうではありませんか。 
22  壮大な宗教運動の夜明け
 人間を人間たらしめる究極の条件は何か。ある人は「知恵」であるといい、ある人は「働くこと」だといい、ある人は「遊ぶこと」であるといってきました。しかし、高等動物のあるものは、かなり高い知能をもっているし、また、あるものは遊びも知っております。
 これらは、人間を特徴づける要素の一つではあっても全体ではない。また、実際、これらの基準では決して明確な区分線は引けないのであります。私は宗教をもつことこそ、他のいかなる動物にもない唯一の特色であり、かつ人間が全き人間となるための本源的な道であると思うのであります。
 二十一世紀は、おそらく科学技術の世紀となることは、まず間違いないでありましょう。しかし、人間が科学技術の奴隷となるのではなく、科学技術を使いこなしていく人間の世紀とするためには、信ずるにたる優れた宗教を根底とすべきことを、私は訴えておきたいのであります。
 科学の世紀は、即宗教の世紀でなくてはならない。そうでなければ、人間全体、生命全体の正常な姿はありえない。ここに新しい未曾有の大宗教運動の必要性を痛感するのであります。私は、正本堂の完成による、仏法史上の新時代の開幕を目前にした今日、そして、二十一世紀まであと三十年のこの一九七〇年という年を、この壮大な宗教運動の新しい夜明けとしていきたいと思いますが、いかがでしょうか。
 これまではその序分であり、準備であった。ほんとうの偉大な仏法の開花はこれからであり、私どもの手であらゆる善意と誠実の人々とともに、新しい人間の文化、人間の世紀の黎明を告げようではありませんか。
 もはや、全体主義の道でもない。無秩序の退廃の道も選ぶべきではない。宗教を土壌とした人間の自覚、英知の湧現しか、現代文明をリードするものは絶対にないと申し残したい。もし、仏法に生きぬく創価学会の存在なくば、絶対主義が再び台頭するか、無秩序な退廃に身をまかせるしかない。日本の将来、人類の未来は、いよいよ断絶を深めるばかりでありましょう。決して独善でもなければ、慢心でもない。新しい世紀を築く責任を痛感すれば、そう叫ばざるをえないのであります。
23  教育、文化で人類に貢献
 その観点から、今後の創価学会のビジョンとして、人間生命の躍動を根底とする新しい文化の創造と、次代の人間形成をもたらす教育事業とを宣揚していきたいと思うのであります。
 民音の音楽活動、芸術部の行っている芸術活動等々、第三文明建設の前途は多岐にわたっております。それらはもちろん、私どもが母体として支え、応援はしていきますが、できあがり、独立して社会に定着すれば、一切、専門の団体に任せていくという方程式でまいりたいと思うのであります。
 かくして、創価学会は、人間生命の開拓による英知の文化、創造の文化、すなわち、創価文化ともいうべき、新しい文化の母体として、社会に貢献してまいろうではありませんか。
 学術部門においては、四十六年に創価大学が開学の運びとなります。現代文明への反省から、すでに学問の世界においても、これからの時代には、人間性への根底的な問いかけから出発した、まったく新しい学問体系の樹立が必要であるといわれるようになっております。
 これは、昨年の総会で申し上げた創価大学の三つのモットー、すなわち、第一に人間教育の最高学府たれ、第二に新しき大文化建設の揺籃たれ、第三に人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ、に要約されると思うのであります。
 考えてみれば、膨大なテーマでありますが、この新しい学問のあり方にどう応えていくかが、創価大学の究極の使命であり、責任となろうと申し上げたいのであります。
 ご承知のごとく、来年開講になるのは経済学部、法学部、文学部の文科系のみで、理工系の開講は段階的に実現していくことになるでありましょう。
 おそらく全学部がそろい、総合大学としての姿を整えるには、少なくとも、最低十年ぐらいかかると考えてよい。図書館や種々の研究設備も、大学となれば、立派なものにしなくてはなりません。やがてシルクロードの調査なども行うようになりましょう。
 ところでこうした教育、文化の推進は、決して創価学会の宣伝のためであってはなりません。あくまでも、社会のため、人類文明のために貢献していくことが元意であることを、私どもの基本姿勢として確認しておきたいのであります。
 したがって、この教育、文化の活動は、いかなる外部の世界とも、その理想を一つにするところに対してはすすんで協力し、協調していくべきであります。たとえば、その一例として、現在、文部省、外務省で「国連大学」の構想がつくられておりますが、新しい学問の発展のために、また日本が教育で世界に貢献するということからも、私も大賛成であります。そうした事業については、心から賛同もし、協力もしていきたいと思うものであります。
24  いよいよ高まる広布の時運
 最後に、私どもの真実の叫びが、やがて世界に響き渡ることを信じつつ、光輝につつまれた生涯の思い出の日々をともどもに進んでいきたいと、念願するものであります。
 選時抄にいわく「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし
 上野殿御返事にいわく「一切の事は時による事に候か、春は花・秋は月と申す事も時なり
 妙密上人御消息にいわく「上一人より下万民に至るまで法華経の神力品の如く一同に南無妙法蓮華経と唱へ給ふ事もやあらんずらん、木はしづかならんと思へども風やまず・春を留んと思へども夏となる」云云と。
 時ほど偉大なものはない。時にかなうほど力強いことははない。時は宇宙生命の大リズムであるようにも思える。正本堂建立、広宣流布への時運は、いよいよ高まり、未曾有の壮大な生命と、宇宙の儀式が展開されることは必定であります。 
 日達上人猊下のご清穆せいぼくと宗門の限りなき繁栄を祈願しつつ、また皆さま方のご健勝と、前途がますます栄光の道に輝くことをお祈り申し上げ、私の講演を終わらせていただきます。(大拍手)

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