Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人間蘇生の宗教運動  

「池田大作講演集」第2巻

前後
1  種種御振舞御書にいわく、
 日蓮にりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり
2  日本国の有無は日蓮大聖人によって決定されるとの烈々たるご確信です。国が根本的に安定するか、また決定的に敗北するかは、思想・宗教の是非によって決定されるということです。
 たとえば、家に柱がなければ家は保たず、すぐに崩れてしまいます。人に魂がなければ死人と同じです。したがって「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」を現代的に解釈するならば、結論は、創価学会がいよいよ日本のみならず、世界の動向を決定する段階に入っていくということです。これから十年、二十年、三十年と、新しい時代をつくり、伸ばしていく主体者は、断じて私達以外にはないという栄誉ある自覚をもちたいと思う。
 今後、十年先、二十年先が楽しみになりました。過去の足跡をみれば、その一直線上にある未来の姿がに見えてきます。確信に満ち、希望にあふれてくるではありませんか。
 今日、末法の御本仏日蓮大聖人のご遺命の通りに信心に励み、社会の矛盾に挑戦しているのは創価学会です。
 宗教は、社会の道標、時代の生命であります。今の日本の人達は、今までの宗教が全部、低級宗教であり、誤った宗教であったが故に、宗教といえばイコール=非近代的・前時代的と錯覚しています。本来、宗教の教義にも、浅深・高低・善悪があるということがわからない。まして、浅深・高低の判断の基準をもっていません。残念なことであります。宗教なき社会、時代は、生命なき屍であり、不毛の砂漠と同じです。日蓮大聖人の御金言を現代語に開いてみれば、こうなります。
 創価学会の宗教運動、民衆運動こそ人間を蘇生させ、そして社会と時代にみずみずしい活力を与えていく源であります。更に固いスクラムを組んで、一波が二波を、二波が三波を、三波が万波を呼ぶように、日本国中に偉大なる活力を与えきって、広宣流布を私どもの時代に成し遂げようではありませんか。そして今まで私達を中傷し、批判してきた人達に、正義の実証を示すとともに、またそうした人達を暖かく包容しつつ、ともに幸福への道を進んでいこうと手を差し伸べていこうではありませんか。
3  広宣流布への実践こそ最高の満足  
4  御義口伝上にいわく、
 今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなりあに今者已満足こんじゃいまんぞくに非ずや、已とは建長五年四月廿八日に初めて唱え出す処の題目を指して已と意得可きなり、妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり此れを思い遣る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり
5  日蓮大聖人の三大秘法の御本尊、南無妙法蓮華経は、末法万年に輝く大哲学であります。そしてまた、人類を救うという大宣言であります。大聖人の「今者已満足」――すでに満足する、ということは、建長五年四月二十八日の立宗宣言をいいます。それが日蓮大聖人の「今者已満足」であり、仏としての最高の満足であるという宣言であります。
 「妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり」――根本的には個人の大病を治し、普遍的には社会の大病を救いきっていく働きであります。これは社会全般にわたるものであり、社会革命、文化革命と進行します。自分を改革することは自転、社会を改革していくことは公転です。自転の個人生活と公転の社会生活との調和がとれ、ともに将来の幸福と繁栄を目指して前進していくというのが本来の正しい姿であります。自分が幸せになろうと努力しても、世の中が乱れていれば、本当の幸せはつかめません。依正不ニの原理から照らせば、やはり不幸であります。
 「無明の大病を治せん事疑い無きなり」と仰せであり、個人も社会も、ともに妙法の大良薬によって変革されていくことは、絶対に間違いありません。
 「此れを思い遺る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり」――我々の立ち場に立って満足というのは、日蓮大聖人の御遺命、御金言をにせず、大聖人のお言葉をそのまま実践していくことが最高の満足であり、それが成仏につながっているのです。
 題目をあげ、化儀の広宣流布実現を目指して実践していくことが最高の満足であります。
 食事をしたという満足、ほしかった靴を買ったという満足等々、日常生活には、いろいろな満足がありますけれども、一切のものを包含した、最高の満足は、結局は大聖人のお言葉通りに信心・実践を貫くことであります。それが即成仏につながる――こう仰せであります。
 日蓮大聖人の言葉にはうそはありません。大聖人は末法万年尽未来際にわたる全人類救済のただ一人の仏です。その教えの通りに実践していけば必ず幸福になっていくのです。
 しかしながら、私達が心すべきことは、前進が激しくなればなるほど、勢力が伸びれば伸びるほど、魔も競い起こるということです。「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」との御金言の通り、魔が現われてこそ私どもの信心・実践が本物である証拠なのです。その魔を魔と見破っていけば、魔の力、働きは私達の前進にとって、むしろ追い風となってひとつの大きな加速度となる。しかし所詮、魔は打ち破らなくてはならない。さもなければ、どこに冥伏したかわからなくなってしまいます。一直線にスクラムを組んで、大聖人のお言葉通りに進んでいきましょう。

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