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日蓮大聖人・池田大作

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東北本部幹部会 広布は時代の潮流

1968.3.25 「池田大作講演集」第1巻

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1  皆さんのお元気な姿を拝見しまして、これ以上の喜びはありません。
 東北方面は、総じて人口密度も低いし、まだ非常に根強く因習の残っているところもあり、そうしたなかで活躍する皆さん方の苦労が、ひととおりでないことは百も承知しております。
 したがって東京、大阪、名古屋などの大都市と比較した場合、東北方面の一世帯の折伏は、人口に対する比率からいっても、五世帯以上に通ずる計算になるし、その内容を含んでいることになる。どうか一人一人がこういう自負をもって進んでいっていただきたい。(拍手)
 しかし、東北での折伏が大変であるといっても、所詮、自分自身の人間革命、宿命転換のための戦いであり、仏道修行です。子孫末代の繁栄を約束し、永遠の幸福を獲得する一生成仏のための戦いでありますから「極楽百年の修行は穢土えどの一日の功徳に及ばず」との大聖人の御金言を胸に、苦労のなかにこそ、偉大な福運を開く鍵があると確信して、希望と勇気とをもって、私とともに頑張っていただきたい。(拍手)
2  粘り強い信心の伝統を
 東北の人は、確かに地味であるかもしれない。しかし長年のあいだ、何人かの東北の幹部の人達の姿を見て、私はそこに、深雪に耐えて色変えぬ雄々しい松のような感じをうけるのです。
 東北人のもつ、この性格、体質こそ、長い長い人生にあって、どれほどたくましく人生を確立していくことができるかは、論をまたないところであります。その意味で、どうか一つ一つの活動を誠意を込めて実践し、そして持ち前の粘り強さを発揮して、一日一日を着実に仕上げ、積み上げて、自分自身の勝利と幸福の栄冠のため、東北の王仏冥合のために、勇敢に頑張っていただきたいと願う次第であります。(拍手)
 周知のごとく、仙台周辺は、第三祖日目上人が妙法広布の礎を築かれた土地であり、日蓮正宗にとって忘れることができない国土世間であります。私は、東北健児の皆さん方の五体に四十数度の国家諫暁を続けられたこの日目上人の誠実な粘り強い信心の伝続が、そのまま受け継がれているような感じをうけるのであります。
 王仏冥合のために真剣に戦いきった人が、必ず不滅の栄光に輝くことは、御書に照らしても必定です。また、私どもの手によって見事な勝利を勝ち取ったときに、国土世間を福運に満ちた平和社会、楽土に大きく変えていくことができるのです。
 私どもは、世間の多くの人達が、昭和元禄や太平ムードに酔って遊んでいるさなかに、崇高な使命感に立って輝かしい未来のために日夜活躍しております。私どもは、その平凡さのなかに、学会っ子であるという偉大な誇りと信念をもって前進していこうではありませんか。(拍手)
3  妙法広布への潮流は時代の趨勢
 最近の世界の情勢をみると、そこには一貫して既成の権力・権威のという現象が、相次いで起こっております。国際経済のうえでいえば、ポンドの平価切り下げによる信用の失墜、また、ドルの不信からくる金の買いあさり、いわゆるゴールドラッシュという現象があげられます。
 こうした、権威失墜の傾向は、教育界でも政界でもまた、学術界やスポーツ界等々いたるところに起きており、いわば現代の特徴とさえいうことができる。
 こうした一つ一つの問題については、いろいろな見方があると思いますが、私は、これこそ現代文明あるいは人類が、一つの大きな転換期を迎えている結果にほかならないと考えるのであります。
 すなわち、これまで長年にわたり、絶対と思われ信頼されてきた数々の権威が、次々と崩壊していく根底には、人間の精神それ自体の転換、あるいは時代そのものの急激な変化がある。それはとりもなおさず、既成の思想、宗教、体制への不信から起こっている。人類の心が、この混乱と不安からのがれようとして、確固たる信頼を寄せうる思想・哲学、そしてそれを根底とした新しい社会体制を求めることは、もはや時代の趨勢になってきているのであります。
 広宣流布はご仏智であります。私ども凡夫の目には、見えないようであるけれども、こうして冷静に世界の動きを観察するならば、広宣流布の条件は着々と整い、時代はまさに広宣流布へ、妙法広布へと、潮流となって動いている。
 現在では落ち目続きで、斜陽の国といわれているイギリスも、十六世紀から十七世紀初頭にかけての、あのエリザベス一世の時代は、新興の隆々たる機運に満ちていた。
 そのころ、ヨーロツパでは、キリスト教が旧教と新教に分かれて、激しい宗教戦争を繰り返しておりました。ところが、イギリスはいち早くそうした争いを超克して、一歩先を見通して、前進と建設を開始したのであります。そして、ドイツ、オーストリア、フランス、スペインなどという、当時の強国をたちまち追い抜いて、世界第一の勢力となり、更に産業革命をどこよりも早く達成して、政治的にも経済的にも、全世界をリードする国となったのであります。
 現代にもこれと同じ方程式が当てはまる。今、世界は資本主義と共産主義に分かれ、有形無形の激しい悲惨な戦いを繰り返しております。日本は、資本主義、共産主義のいずれの陣営に加担しても、戦乱の渦中に巻き込まれることは必至となる運命にあります。
 したがって、日本の繁栄と平和の道を切り開き、確立していくためには、この無意味で無価値な争いを超越して、真の中道主義を貫いていく以外に絶対にないと、私は訴えておきたい。(拍手)
 そうすれば、かつて、イギリスの議会民主政治、産業革命が、世界の世論となり、主流となったごとく、仏法民主主義が、未来の世界のあらゆる国々の模範とされ、大衆福祉経済が世界の経済機構の源泉となっていくことができると、私は堅く信ずるのであります。
4  平家の滅亡に学ぶ教訓
 「花の源義経」の歌のなかに「おごる平家」という一節があります。その平家の減亡について、私はさまざまなものを感ずるのであります。すなわち、平家も、初めはおごる権力ではなかった。″田舎侍″とか″地下人″とか、さまざまなはずかしめをうけ、大変な苦労をしながら、営々として地盤を築いてきた。上野殿御返事のなかにも、このありさまは詳しく述べられております。
 「日本国の武士の中に源平二家と申して王の門守もんまもりの犬二疋候、二家ともに王を守りたてまつる事やまかつ山人が八月十五夜のみねより・づるを・あいするがごとし、でんじやう殿上の・なんによ男女の・あそぶをみては月と星との・ひかりあわせたるを・木の上にて・さるのあいするがごとし、かかる身にてはあれども・いかんがして我等でんじやう殿上の・まじわりをなさんと・ねがいし程に・平氏の中に貞盛と申せし者・将門を打ちてありしかども昇でん殿ゆるされず、其の子正盛又かなわず・其の子忠盛が時・始めて昇でん殿をゆるさる、其の後清盛・重盛等でんじやう殿上あそぶのみならず、月をみ日をいだとなりにき、仏になるみち・これにをとるべからず、いをの竜門をのぼり・地下の者の・でんじやうへ・まいるがごとし」と。
 これを要約すると、源平二家とも初めは、犬みたいに、天皇や貴族に使われ、その人達の生活を山賊すなわちきこりが、八月十五夜の月を見るごとく、あるいは、猿が月や星を木の上で見て愛するごとく、遠くかなたのことのように思っていた。やがて平貞盛が将門を討って名声を得たが昇殿は許されなかった。その子の正盛の時も昇殿は許されず、ようやく正盛の子・忠盛の時にいたって初めて昇殿が許された。それから約五十年間、清盛の時代に入って、全盛を極め、月すなわち皇妃を生み、日すなわち天皇を抱く身分となった。
 だが、それから数年のあいだに、源氏のために滅ぼされてしまった。建設の期間は長く、それこそ百数十年、否それ以上ともいわれております。
 しかし、平家が功成り名を遂げて、建設期の精神を忘れたときに、すでに減亡の因をつくってしまった。最後はわずか数年で悲運の道をたどり、西海の果てに没し去ったのであります。平家が全盛を極め″平氏にあらずんば人にあらず″とまで豪語した時代に、だれが数年後のこの減亡を予測しえたでありましょうか。
 私は、このなかに、さまざまな教訓が含まれていると思う。まず第一に、いかなる時代、個人、そして団体においても、草創期の建設精神を忘れたときに、すでに堕落が始まり、滅亡の因があるということであります。我が創価学会は、永久に本因妙の精神、建設の息吹きで進んでいかなければならない。そしてこの建設精神を、いつまでも伝えきっていかなければならない。私どもには、それを実践で示し、実証で伝えていく使命があると訴えておきたいのであります。(拍手)
5  第二に、いかに既成の権力のが厚かろうが、おごる権力はその一角が崩れ去れば、急速に衰え、減亡していくという原理が示されているということであります。
 今、私達の眼前には、おごりたかぶった既成の権力の石垣が、今なお威猛高にそびえている。しかし、その土台はすでに腐り、大地である民衆から遊離している。したがってその一角が崩れれば全体がもろく崩壊することは、必然でありましょう。今回の参院選は、その一角を崩す一つの大事な戦であることを自覚して、断じて挑戦しきってまいろうではありませんか。(拍手)
6  第三に、平家の敗因をより根本的にいうならば、亡国の宗教である真言宗と結びついたということであります。それに対し、源氏は、曲がりなりにも時の正法たる法華経をたもっていたが故に、勝利を収めたという事実を見のがすことができない。
 今、私達は、釈迦の法華経に百千万億倍勝る偉大な正法をたもっております。既成の権力の背後には、邪教・邪義との醜い結託があります。私どもは究極の勝利は、必ずや私ども民衆が得ていくことは間違いないという確信をもって、おごる権力を打ち破り、進んでまいろうではありませんか。(拍手)
 十九世紀のイギリスの評論家であり、歴史家であったカーライルは「自ら正しと信ずる者は王の万軍よりも強く、自ら正しきを疑う者は、些かの力をも有せず」と述べております。今、この言葉は、そのまま私どもの戦いにあてはめて論ずることができる。
 すなわち「自ら正しと信ずる者は」とは、日蓮大聖人の大仏法を奉持し、確固たる人生を歩む私ども創価学会員のことといえます。「王の万軍」とは、国家権力、または国家権力を背景とした既成の勢力であります。だが、既成のおごる権力は「自ら正し」とする信念・思想・哲学を絶対にもっていない。策略と腹芸と欺瞞でようやく地位を保っているにすぎない。
 だが、民衆はいつまでも愚かではない。妙法で輝く英知と、力を湧現した無名の幾百万の民衆の出現によって、古き老弊化した勢力は、あえなく崩れ去っていくことを、私はここに断言しておきたい。(拍手)
7  清き信心の一念が時代の潮流を動かしていく
 最後に日眼女造立釈仏供養事の一節を拝読したい。
 「頭をふればかみゆるぐ心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず・大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき」と。
 「頭をふればゆるぐ」――頭をふれば、当然、髪の毛は揺れる。「心はたらけば身うごく」とは、私達は、こうしたい、ああしたいという願望、または、こうしなくてはいけない、こうしようといった義務感、決意等々、心の働きをもとに行動することは当然であります。
 「大風吹けば草木しづかならず」――大風が吹けば、草木は当然大きく揺れていく。「大地うごけば」とは地震であります。「大海さはがし」――地震が起これば、当然、波が高まり、津波とか高波が起こってくる。
 ちようどこのように「教主釈尊をうごかし奉れば」――ここで、教主釈尊とは、末法今時においては、日蓮大聖人のことであり、すなわち大御本尊のことであります。したがって「教主釈尊をうごかす」とは、私どもの信力そして行力によって、仏力・法力を湧現していくことである。仏力法力とは大御本尊のお力であります。
 すなわち、八万法蔵の極理である大御本尊を根本として、信心強盛に進むならば、「ゆるがぬ革木やあるべきさわがぬ水やあるべき」――つまり、一切の社会環境を、私達の進む方向へ、自由に動かしていくことができる。清き信心の一念があれば、大自然をも動かしていけるとの、力強い御文なのであります。
 この道理、法理からいっても、私達の一念によって、時代の潮流をも動かしていくことができることは、当然のこととなってくるのであります。
 今、私達が当面している参院選は、かつてない激戦であることは、周知に事実であります。この厳しい現実を直視し、たくましく、聡明に打開していこうとするところに、真実の王仏冥合の実践の意義があることを知っていただきたい。
 現実がいかに厳しくても、信心があれば必ず打開できる。仏の御金言に絶対に虚はありません。どうか、この御文を深く強く確信して、ともどもに信心の大風を起こし、信心の大地を揺り動かし、社会の草木をなびかせ、新時代の大波をつくってまいろうではありませんか。(拍手)
 皆さん方のご健康と、ご一家の繁栄とを心からお祈り申し上げまして、私の話といたします。(拍手)

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