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日蓮大聖人・池田大作

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中部三総合本部合同幹部会 全員が仲良く団結

1968.1.25 「池田大作講演集」第1巻

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1  道理正しい生活で信心の実証を
 この一年間、事故なく幸せに過ごされんことを、心からお祈り申し上げます。特に交通事故にはくれぐれも注意していただきたい。尊い大事な生命です。つまらない事故で自分自身や一家が不幸になってはならない。信心は即生活です。信心しているからなんとかなるという甘い考えではいけない。あくまでも真面目な、道理正しい生活によって信心の実証を示さなければ、法を下げ、人々に疑いをいだかせることにもなります。
 私は本年も正法流布のために戦います。また、責任をもって皆さん方を守り、雄々しく、朗らかに戦っていく決心であります。皆さん方も、生命力豊かに、福運に満ちて、笑顔で前進していただきたい。その実相があれば、人はしぜんについてきます。いくら仏法の立派な話をしても、現実の生活が乱れていては人はついてこない。仏法は最も身近なところにあるのです。
 このたびの参院選が厳しい情勢にあることは、周知の事実であります。広宣流布実現までには、長い戦いです。何回、何十回の選挙があり、勝つときもあるし、敗れる場合もあるかもしれない。しかし、未来に大きな希望をいだいて、どうか、悔いのない戦いをやりきっていただきたい。(拍手)
 たとえ途中で、一度や二度負けたとしても、決して落胆してはいけない。信心に落胆はない。どのようなことがあっても、最後は必ず勝ってみせるという、強い本源的な力が出てくるのが、仏法の真髓であり、これを信心と名づけるのです。
 ともあれ、時代は順縁広布へ、新しい時代、新しい世紀へと、潮の満つるがごとく、進んでいくことは、絶対に間違いない。あとは、幹部が仲良く団結して、見事に歩調を合わせながら、一人一人が自らの役割りを自覚し、全力を発揮して、戦線を開ききっていただきたいと願うものです。
 戦いで最も大事なことは、団結であり、スクラムを組むことです。反対に最も恐るべきことは、お互いが感情的になり不仲になり、そして無責任になることです。これらは、全て油断から起こる。結局、油断は己心の魔であり、仏法では、獅子身中の虫として、いちばん厳しく戒めているところであります。ちょっとした心のゆるみ、安心感が敗北の原因になってくることは、いかなる世界においても見られる厳しき道理であります。どうか皆さん方は、日蓮大聖人の直弟子として、新時代を建設する先駆者の自覚に立って、自己を厳しく戒めて名将らしく、最後まで立派に指揮をとりきっていただきたい。(拍手)
2  権力の魔を打ち破って新時代へ
 兵衛志殿御返事に「しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」との一節があります。「しをのひると・みつと月の出づると・いると」とは、干潮と満潮、そして、月の出と入りのことです。「夏と秋と冬と春とのさかひには」とは、春夏秋冬の季節の変わり目です。「必ず相違する事あり」――そのときには必ずなんらかの相違、すなわち変化がある。「仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」等云云。
 「凡夫」とは私どものことです。
 したがって、私ども凡夫が成仏する場合も、季節の変わり目と同じように、なんらかの宿命打破のための戦いがある。それは、個人個人において異なりますが、ある場合には病魔であり、ある場合は死魔のこともありましょう。それらの魔を信心で打破して初めて、成仏への大宿命転換ができる。これが仏法の原理です。
 個人個人の人間革命にあっても、必ず三障四魔は競い起こる。いわんや、創価学会が日本の第三勢力となり、一国の宿命転換を成し遂げるかどうかの重大な変わり目を迎えた現時点において、学会に幾多の三障四魔が競い起こることは当然であります。
 ところが、皆さん方は順縁広布の時代に生まれ、福運を積み、生命力をもち、あらゆる点で強い力をもつにいたっている。今、三障四魔があるといっても、少しぐらいの魔なんか、問題ではない。(笑い)そういう時代に入ってきているのです。
 そこで私は、現時点において、三障四魔を広義に解釈した場合には、王仏冥合の戦いこそが、三障四魔を打ち破る大舞台に通ずるといいたいのですけれどもいかがでしょうか。(拍手)
 今、化儀の広宣流布の栄光に輝く新時代は、刻一刻と近づきつつあります。まさしく時代それ自体が大きい転換期を迎えている。この時に、既成の勢力が必死に、過去の権力の座にしがみつき、抵抗してくることは当然です。これは三障四魔以外のなにものでもありません。
 したがって、このたびの参院選が激戦であればあるほど、それを勝ち抜いたときに開けてくる新時代の舞台は広大であり、光輝に満ちているということを確信して、学会っ子らしく進んでいっていただきたいのであります。(拍手)
 社会の様相がどのように変わろうとも、またいかなる時代になろうとも、私どもには、大御本尊の厳然たる功徳が輝いております。そして鉄の団結があり、暖かい思いやりのある多数の同志がおります。安心しきって、本年一年もまた、堂々たる楽しい人生を生き抜いていただきたいことを、心から念願するものであります。(拍手)
3  創価学会、公明党の前進こそ、真実の革新
 話は変わりますが、よく論議される「保守と革新」という問題について、一言申し上げておきたい。
 公明党は保守か革新か、どちらなのだ、と聞かれることがあります。しかし私からみればこれは、いずれかにレッテルをはり色分けをしなければ、気がすまないという、日本人の性格からくる一種の病気のように思えてならない。(笑い)
 一般に、封建主義や君主政治、あるいは資本主義を「保守」と呼び、民主主義、社会主義あるいは共産主義を「革新」と呼んでいることは、ご承知の通りであります。また、国際的な勢力関係でいうならば、ソ連あるいは中共に従属するものは「革新」であり、アメリカや西欧と親密な関係にあるものは「保守」であるということになっている。
 ところが、この二つの見方は、必ずしも一致していない場合がある。たとえば昨年、戦争を起こしたイスラエルとアラブ諸国の場合、イスラエルは、その国内体制からいえば、一部分ではあるが、キブツという協同組合組織をつくり、共産主義的機構を採用している。しかし、国際的には欧米と親密である。したがって、国内的には明らかに「革新」でありながら、国際的には「保守」に属している。逆にアラブ諸国の社会体制は、総じて前近代的で、保守的である。しかし、国際的にはソ連と緊密な関係を結び、どちらかといえば革新陣営に属している。
 同じことが、日本の場合についてもいえる。保守政党が革新的な仕事をしている場合もあるし、革新政党か保守政党以上に保守的になっている面も、現実にはたくさんあります。
 結局「保守」であるとか「革新」であるとかいうこと自体、ただ単にレッテルをはっているにすぎない。そのようなレッテルは、もはや全く無意味であり、愚かなこととしかいえない時代に入ったといいたい。(拍手)
 更にいうならば、保守政党のアメリカも、革新政党のソ連、中共側に従属するのも、いずれも自主独立の精神を捨てて、前近代的な従属関係に逆戻りするものである。そうであるならば、明らかに今の保守、革新はともに保守であると、私はいいたい。(拍手)
 日本の、否、世界の第三勢力として、中道主義を根本として立ち上がり、独自の道を進み、これまでの保守、革新のマンネリ化を是正し、対立抗争と混乱に明け暮れる世界に、新しい時代の潮流を築いていく私ども創価学会、公明党の前進こそ、真実の革新であると私は訴えたいのであります。(拍手)
 今度の参院選は、その本質を論ずるならば、創価学会の奔流のように押し寄せる新しき潮と、既成権力の退きゆく古き潮との激突であります。したがって、大変な激戦ともいえるわけであります。私どもは、この戦いが激しければ激しいほど、勝利の意義がますます大きいことを確信し、一歩も退くことなく、勇猛果敢に、嵐のなかを、学会っ子らしく突き進んでまいろうではありませんか。(拍手)
4  真剣な戦いに必ず大御本尊の照覧
 末法大白法流布の時を迎え、大御本尊の大慈悲、大功徳は、いまや中天の太陽のごとく、燦然と輝き、私どもの前途は、こうこうと照らされております。こうしたとき、真剣に戦った皆さん方に、勝敗は別として、大御本尊の照覧あり、必ずや大功徳をうけていくことは間違いありません。
 それに反し、正法を憎み、道理なく我々をいじめた人々は、御金言に照らして仏罰をうけていくことも絶対であります。誰人がいかに否定しようとも、因果の理法は厳としております。下山御消息にいわく「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち十巻共に引き散して散散にふみたりし大禍は現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ」と。この御文は、文永八年九月十二日の竜の口の法難のとき、平左衛門尉が、数百名の武士を従えて、大聖人を召し捕りにいったときのことを申されております。
 平左衛門尉は、このご予言の通り、熱原法難より十四年後の永仁元年四月、反逆のとがで一族が全滅しております。
 すなわち、平左衛門尉頼綱は首を切られ、長男の平宗綱は佐渡に流され、次男の安房守は、父・左衛門尉と同じ斬首の刑にあっております。この罰の現証について日寛上人は撰時抄文段に「平左衛門尉頼綱が首をはねられたのは、大聖人の御顔を打ったからである。また最愛の次男である安房守が首をはねられたのは、安房の国ご出身の大聖人の御首を竜の口ではねようとしたからである。長男の宗綱が佐渡へ流罪されたのは、大聖人を佐渡に流したためである」と申されております。
 これは仏を憎み正法を憎んだ故に、仏罰をうけて滅び去った厳然たる証拠であります。皆さんも、大なり小なり、その縮図は知っておられると思います。私どもは妙法護持の革命児であります。
 したがって、仏天の加護のないわけがありません。どうか、最後は絶対に仏天の加護があると確信しきって、進んでいただきたい。(拍手)
 そして師子王の子らしく、毅然として胸を張り、不幸な人々や庶民、大衆を真実の味方としながら、誇り高く、秩序ある行進を再び開始していこうではありませんか。(拍手)
5  信念と希望で苦境を打開
 今、経済界では″三月危機″という言葉がささやかれております。日銀では景気の過熱を防くために、昨年九月に引き続き、公定歩合の引き上げを行ないました。こうなれば各銀行とも財布のヒモをきつく締め、いよいよ三月の決算期には、そのあおりをうけて、どれほど多くの中小企業が倒産するかわからない状態となっており、巷間、未曾有の倒産が予想されるわけであります。
 こうした弱い者が犠牲になっていく冷酷非情な経済体制は、どうしても抜本的に解決していかなければ、最大多数の民衆の幸福は望めない。
 しかし現実には、あまりにも資本主義体制が強固で、自民党が強すぎる。それに対し、革新陣営は「革新」を掲げるだけで、本当にこの旧悪を打開しようという情熱がなく、なれあいになってしまっている感がある。この悪循環がとうとう第二次世界大戦後二十二年、表面的には高度成長を続け、繁栄しているようにみえても、その半面、こういう深刻な危機となって厳しく現われてきたともいえる。
 このときにあたり、私は、有名なイギリスの哲学者、バートランド・ラッセルの言葉を思い出します。それは「暗い時代こそ、人々にとって明確な信念と十分な根拠をもった希望が必要なのである」という一節であります。
 私どもには信心という、誰人にも負けない絶対の信念があります。そしてまた、広宣流布、王仏冥合という万人を納得させる根拠をもった希望があります。
 この信念と希望で、私どもは、常寂光土の建設を目指し「夢に見たよい社会」を描きながら、人間性社会主義、経済の体制を確立していくまで、一歩一歩しっかりと基礎をつくりつつ、一人も落後することなく、勝利を勝ち取っていこうではありませんか。(拍手)
 どうか全員がこの危機を立派に乗り越え、変毒為薬して、本年の末には「栄光の年」らしく、だれよりも福運を積み、幸せな一年間の総仕上げができたという証拠を、御本尊にご報告していただきたいと念願するものであります。
 その根本は、なんといっても信心にあることは、いうまでもありません。御書にいわく「法華経を持ちまいらせぬれば八寒地獄の水にもぬれず八熱地獄の大火にも焼けず、法華経の第七に云く「火も焼くこと能わず水もただよわすこと能わず」等云云」と。
 この御文は、法華経、すなわち三大秘法の御本尊をたち、リズム正しい信心即生活が確立されているならば、どんな苦しい時代に入ったとしても、絶対に窮乏生活には落ちないという断言の書なのであります。この御金言を強く確信して、題目を心豊かにあげぬいて、隣近所の人から、また職場の人々から、愛され親しまれる一人一人になり、全員が一歩前進されんことを心からお願いするしだいであります。(拍手)
 最後に、きようの会合に出席できなかった人々に、くれぐれもよろしくとご伝言ください。

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