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日蓮大聖人・池田大作

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第1回高等部総会 広布への決意で豊かな独創性を

1968.8.8 「池田大作講演集」第1巻

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1  諸君が栄光の年の講習会に、全国の高等部を代表して元気はつらつと出席されたことに、心から敬意を表します。特に、本日は、希望に輝く高等部の発足以来、歴史的な第一回の総会であり、ここに代表として出席できた諸君の未来に栄光あらんことを、心からお祈りし、お祝いいたします。(拍手)
 きようは、学会の未来を担う高等部の将来のために、御書を現代に約し、五項目にわたって話をしておきたい。諸君に大きな期待をかけている、その方向づけを申し上げておきたいのです。
2  第一に『未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能の芽は、急速に伸びることができる』
 その裏づけとして新池御書には「たとえば鳥の卵は始は水なり其の水の中より誰か・なすとも・なけれども觜よ目よと厳り出来て虚空にかけるが如し、我等も無明の卵にして・あさましき身なれども南無妙法蓮華経の唱への母にあたためられ・まいらせて三十二相の觜出でて八十種好の鎧毛生そろひて実相真如の虚空にかけるべし」という有名な一節があります。
 すなわち、鳥の卵の中は液体です。そこから、生物としての各部分が形づくられていく。この一節は、そのたとえを大聖人が引かれているところであります。鳥におけるくちばしや目や羽等は、我々の現実の立ち場に約していうならば、おのおのの特質であり、才能と考えていいわけであります。
 「三十二相の觜」とは、我々自身の特質を意味しておりますし、また「八十種好の鎧毛」とは、我々自身の才能ということになる。したがって「南無妙法蓮華経の唱への母」すなわち信心強盛に励んでいったときには、必然的にたくましい生命力が湧現し、観念論ではなくして、事実のうえに、自己の人生観、使命感が自覚されるものであります。
 この自覚を根本とすれば、自分のもって生まれた特質、才能はしぜんに大きく伸びていく。また人生、社会のうえに大きく生ききっていくことができる、との御文であります。
 したがって、諸君の使命は、生涯、広宣流布達成への寄与をしていく。日本の国の平和、民衆の救済、世界の広宣流布――これを成そうとするところに最大の使命がある。そしてそこに最大の自覚が生まれるのです。青年の自覚は、そのまま決意となっていきます。では、なにをもって自分は広宣流布に寄与するか――それはおのおの自身の才能をもってする以外にはない。
 今、勉学にいそしみつつある諸君は、その才能の芽ばえを大事にし、自らたくましく育てる年代であるということを実感していかなくてはならない。その自覚なくしては、真実の才能は育たない。そして、その自覚は、使命という目的観なくしては湧かない。
 明治維新の時には、吉田松陰のもとに、有為な人材が輩出しましたが、それらの青年は、いずれも平凡な田舎の青年です。ですから、そのままではあるいは、彼らは歴史に名をとどめない平凡な一青年として終わっていたかもしれない。
 ところが、彼らは、日本の前途を憂え、そして日本を救い、社会を改革しよう、新社会をつくろうという使命を自覚した。そのときから彼らは、救国の有為な逸材となっていったのであります。
 同じように、諸君が人類最高の、崇高なる使命である広宣流布に、それぞれの立ち場で、寄与しようとするところに偉大なる自覚が生まれないわけはない。その自覚のなかに最大の才能が発揮されるのです。諸君はどうか、この原理を忘れないで進んでいただきたい。
3  第二に『才能は独創性をもたなければ、偉大な力として発揮されない』
 御書には、この点について、次のように説かれております。
 御義口伝下に「此の文は一句妙法に結縁すれば億劫にも失せずして大乗無価の宝珠を研き顕すを生値仏法と云うなり所謂南無妙法蓮華経の仏法なり」――まず、独創性とは何か。仏法用語では「自体顕照」と説かれております。御本尊に境智冥合していったとき、自己の特質が遺憾なく発揮され、優れた独創性をもつことができるのです。″創価学会″という名称も、おのおのの人生の価値を創造し、自分自身の生命の奥底から、たくましい独創性を発現するという意義から出ているのであります。
 したがって「大乗無価の宝珠を研き顕す」という意味は、生命論に約すと、信心を根本にすれば、他のなにものにもかえがたい自分自身の特質、独創性が発揮されていくということを意味するのであります。この独創性をもった才能こそ、自己の人生を無限に開き、時代と社会をたくましく進歩させていく本源力となっていくと確信していただきたい。
 独創性は、まず、徹底的な模倣から生まれるものであるかもしれない。しかし、世間では、模倣だけで終わってしまう人が大半であります。その場合、その人の人生は、結局、安逸と惰性に流されていく結果となります。
 人それぞれの生命、性格が異なるように、才能もまた、異なることを知らなくてはならない。
 事実、この世に才能のない人は一人もいないのです。これは大事な定理です。いわんや妙法を護持した人に、偉大なる才能が発揮されないわけはありません。その才能は、結局、峻厳な修練を自らに課するとき、いつかしぜんに独創性をもっていくものなのです。したがって、まず信心に励み、真剣に勉強することが大切です。
 勉学も一つの模倣でありますが、その地道な積み重ねは、信心即生活のうえから、必ず自分らしい無限の独創性を開花させ、自分を輝かせ、栄光の人生を歩ませることができるということを申し上げておきたいのであります。
4  第三に『英知なくして知識は生きない。信心なくして真実の英知はない』
 御書には、この点について次のように述べられております。
 新池御にいわく「有解うげ無信むしんとて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず、有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし、皆此の経の意なり私の言にはあらずされば二の巻には「信を以て入ることを得己が智分に非ず」とて智慧第一の舎利弗も但此の経を受け持ち信心強盛にして仏になれり・己が智慧にて仏にならずと説き給へり、舎利弗だにも智慧にては仏にならず、いわんや我等衆生少分の法門を心得たりとも信心なくば仏にならんことおぼつかなし」と。
 また十八円満抄には「貴辺年来の権宗を捨てて日蓮が弟子と成り給う真実・時国相応の智人なり総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給え智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき所詮しょせん時時念念に南無妙法蓮華経と唱うべし」と。
 知識は、好奇心さえあれば、いくらでも身につけることができます。しかし、身につけた知識を人生や社会に正しく生かすためには、英知がなければなりません。その英知の根源は何かといえば、それはただ一つ信心しかないのです。
 英知とは仏のち智慧ということなのです。真実の英知は仏の智慧であり、そのうえに生かされていく知識は、最大無限に使っていくことができるのです。この原理を知っていただきたい。したがって、真実の英知の指導者、二十一世紀の指導者は、若くして妙法をたもち、広布の基盤のうえに成長を続ける高等部の諸君以外には絶対にないと、私は断言したいのであります。(大拍手)
5  第四に『十代に身体を鍛えあげること』
 大聖人も可延定業書という有名な御書のなかで「日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣る」と厳しく申されております。
 また四条金吾殿御返事には「きたはぬ・かねは・さかんなる火に入るればけ候、冰をに入るがごとし、剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず是きたへる故なり」と。
 更に崇峻天皇御書には「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」との有名な御文があります。
 十代は、身体が最も急速に成長する時期であります。十代を過ぎて二十代に入ると、やがて成長が止まり、身体が固まってしまう。鉄は熱いうちに鍛えなくてはなりません。その″熱い″時期が、十代の諸君の時代であります。健康で、たくましい身体は、人生において最大の財産であります。四十代、五十代になったとき、そのありがたみが、心からわかってくると思う。勉学に励むと同時に、しっかり身体を鍛え、色心ともに健全で、力強い人材に育ってほしいというのが、私の最大の念願なのであります。
 将来、諸君が独創的才能をもち、無限の英知をもっことができたとしても、身体が健康でなかったならば、その人生は無に帰してしまいます。未来のどんな苦難にも耐えうる、深夜にわたる大闘争であろうが、幾十時間の理論闘争であろうが、怒涛を越え山をも抜くだけの身体を鍛えてもらいたいのです。
 それには、十代の成育期を除いては、最適期はありません。どうか、身体を頑健にするために、あらゆる方法を考え、実践していただきたい。
6  第五に『まず一か国の外国語に習熟すること』
 檀越某御返事には「みやづか仕官いを法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず」とは此れなり」とあります。
 また、曾谷入道等許御書には「此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し八宗の章疏しょうじょを習学すべし」と。
 更に、有名な顕仏未来記には「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く(中略)」と。
 学生にとって「御みやづかい」とは勉学のことであります。また「八宗の章疏を習学すべし」とは、化儀の広宣流布にあたって、あらゆる学問を身につけ、その学問を駆使して、万人を納得させていく大きい指導力がなくてはならないとの仰せなのであります。
 まして、我々の究極の目標は、世界の広宣流布であります。その大理想達成のため、また、世界民族主義という理念のうえからいっても、外国語に習熟することは、新しい時代の新しい指導者として、必須の条件といっても過言ではない、こう訴えたいのであります。
 その第一段階として、高等部員全員が、英語でもよし、フランス語、スペイン語、中国語、ロシア語でもよし、まずなにか一か国語を、習熟することを目指していただきたい。このことを私は提案したいと思いますが、いかがでしょうか。(大拍手)
 なお、誤解を防ぐ意味で一つ付言しておきますが、全員が通訳になるわけではないのですから、ただ、読み、書き、話すことが、平均して日常の役に立ちうる程度にまではなっていただきたい。
 諸君の活躍する舞台は、やがて世界的な規模のものになっていくでしょう。近年、交通機関やマスコミの発達で、地球は一年ごとに狭くなってきている。これに対し、生きた語学を身につけなければ、せっかく広い舞台で乱舞できるものを、自ら権利を放棄して、その舞台を狭いものにしてしまうようなものであります。
 以上、五つの指針は、学生として、生活実践の場にあてはめればよいのであり、要約するならば、学問、信心、スポーツということになると思います。
 ともあれ、我が高等部は、創価学会の実質的な後継者であります。諸君が成長することが、私の最大の喜びであり、希望であり、幸せであります。諸君へのバトンタッチのために、私は今までも苦難の道を開拓してきました。これからも、更に勇敢に開拓していくでありましょう。願わくは諸君が広宣流布の総仕上げを成し、学会の後継者として立派に活躍されんことを、心からお願いしたいのであります。
 高等部の未来が、栄冠に輝き渡っていくことを祈りつつ、私の話を終わります。(大拍手)

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