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日蓮大聖人・池田大作

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第11回学生部総会 戦う学生部に栄冠あれ

1968.9.8 「池田大作講演集」第1巻

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1  諸君の汗と涙と、そして友情で成し遂げた学生部二十三万人の達成、まことにおめでとうございました。(大拍手)
 本日、九月八日は、昭和三十二年に横浜の三ツ沢競技場で、恩師戸田前会長が原水爆に対する画期的な声明を発表した、忘れもしない歴史的な記念の日であります。私は、英知と情熱あふるる、妙法の自由と平和の戦士たる諸君とともに、この恩師の遺訓を、再び胸に刻んで前進したい。
 恩師は、その声明のなかで「世界の民衆は生存の権利をもっております。その権利をおびやかす者はこれ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」とされ、「たとえある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用した者は悪魔であり魔ものであるという思想を全世界にひろめることこそ、全日本青年男女の使命である」と叫ばれたのであります。
 日本には、利害にとらわれ、人気取りと口先だけの平和論を叫ぶ小利口な指導者や政治家がたくさん動いている。そのなかにあって、真実の世界平和の大宣言ともいうべきこの声明は、まさに問題の根源を断ち切った大利剣であるとともに、我々創価、員の永遠の根本精神であり、世界人類への不滅の指針なのであります。私は、世界から″悲惨″の二字をなくすまで、諸君とともに、全生命、全生涯をかけて、この恩師の精神を訴え続け、横暴と増上慢の権力者達と断固戦い抜いていく決意であります。(拍手)
2  教授よ、年をとったのではないか
 過日、私は、ある学者と話をする機会をもちました。その学者は、ちようど海外から帰ったばかりで、パリの学生運動のなまなましい状況を聞かせてくれました。そのなかで特に興味深く感じたのは、有名なパリ大学の学生達が掲げていたという三つのスローガンであります。それは第一に「教授よ、年をとったのではないか」第二に「学説が役に立たなくなったのではないか」第三に「教授よ、信念がないのではないか」というのであります。
 これらの三項目は、パリ大学だけの問題ではないと思う。まるで我が国の大学の実態をいっているかのように聞こえるではありませんか。
 まず、教授の老齢化――これは、具体的には、現在の年功序列的な行き方に責任の一端があるといえましょう。だがもう一歩突っ込んでいえば、第一の「教授よ、年をとったのではないか」ということは、単に肉体的な老齢化を指しているのではなくして、むしろ、指導者に最も大切な精神年齢こそ問題だといえる。現在の日本の各大学において、学者、教育者として、常に若々しく情熱に燃えて研究に教育に取り組んでいる教授が、はたして何人おられるであろうか。来賓の方のなかに、もし教授がおられましたならば、きようだけはかんべんしていただきたいと思います。(笑い)これは一般論として私の考えを述べる次第であります。
 おそらく、パリの学生が責めていることも、まさにその点にあるのではないかと思う。したがって、この「教授老齢化」の問題は、一面からいえば、年功序列的な文部行政の行き方に責任があり、より本質的には、教授達の情熱の欠如と考えることが、妥当でありましょう。とすれば、それは、パリだけではなく、我が国、否、世界的に共通な重大問題の一つとはいえないでしょうか。(拍手)
 第二、第三のスローガンも、結局はこの第一のスローガンのなかに含まれています。いずれにしても、こうした教授のあり方が、若い学生達とのあいだに、越えがたい距離感と、隔絶感を生み出していることは明らかであります。
 学生運動の直接的な原因、スローガンは、国により大学によってそれぞれ違いはありましょう。特に我が国の学生運動が、政治に偏向しているとは、よく指摘されるところであります。だが、そうした原因、スローガンは、いずれも近因であり動機であって、根本的には、学生と教授との隔絶感、すなわち世代の断絶に本当の原因があるといいたい。ということは、この問題に真剣に取り組み、教授と学生とのあいだの溝を埋めない限り、決して現今の学生運動、いわゆる大学の危機を解決することはできないことを意味すると思いますが、いかがでありましょうか。(拍手)
 私が憂えることは、しかるに現在もなお、各地の大学で起こりつつある紛争に対して、政府がただ上から圧力をかけて弾圧しようとする現状であります。
 大学教育のおかれている環境を、物質面と人間関係のうえから抜本的に改善し、前途有為の学生達が、自由に、伸びのびと勉学に打ち込める理想的な方向へと、一歩一歩、再建を図るべきであると私は思います。更に根本的には、時代を変えていく若き世代の代表として、色心不二の大生命哲学をたもった諸君が大きく成長し、安定した理想的な社会を建設してくれる日の、一日も早からんことを期待するものであります。(大拍手)
3  学会、公明党の若々しい力
 またその学者は、大学教育について次のようにいっておりました。それは、現代は自然科学はもとより、あらゆる学問が日に日に著しい発展を遂げているので、大学で学んだことがすぐに役に立たなくなってしまう、大学でたくわえたものを活用していけるのはせいぜい社会に出た最初の十年間である。たいていの人はそれ以降は惰性で仕事をしているにすぎない。そのときに惰性に陥らず、常に意欲的に進んでいけるためには、どうしても深い思想、哲学、また仕事に対する信念が必要だと。
 私も全くその通りだと思う。昨年の学生部総会において、私は知識と智恵の問題について仏法の本源的な立ち場から話をしましたが、どんなに知識を身につけようと、根本の智惠がなくては知識を生かしていくことはできない。また、知識というものは、時代の流れ、学問の進歩にしたがってどんどん追加されてくるし、古いものは役に立たなくなってしまう。
 だが、智恵は決して古くなることはない。その智恵とは、思想、哲学を根幹とし、体験に裏づけられつつ、信念から湧きいずるものであります。したがって、現代も、そして未来においても、最も深い哲学、最も偉大なるゆのない思想は、結論していえば、日蓮大聖人の大生命哲学であり、この思想・哲学をもった学生部の諸君こそ、永遠に時代をリードしていく真の知識人であり、真実の、新しき世紀の指導者であると、私は確信したいのであります。(拍手)
 更にもう一点、その学者は、学生や大学を卒業したばかりの人達と、社会のいわゆる指導者階級の人達との年齢差について、アメリカの例を引いて面白い話をしておりました。それは、かつてのアメリカは、その年齢差が二十歳ぐらいで、だいたい理想的であったが、現在では、四十歳ぐらいになっているというのです。
 この例は、アメリカに限らず、ソ連や中国もそうであるし、西欧諸国もしかりであります。そして、我が国においても全く同じであります。各党の党首をみても、自民、社会、民社は六十代、共産党にいたっては七十代です。しかるに公明党の国会議員は平均年齢四十三歳、学会を動かしている主力メンバーは三十七、八歳であります。
 この実相をみても、我が学会、また公明党が、どれほど若々しく、未来性を秘めているかは明瞭であると思う。私は常に青年を最も大事にし、その若々しい力に最大の期待をかけております。この精神は、未来永遠に変わらない学会の根本精神であり、学会の智恵であることを明確に宣言しておきたい。(拍手)
 ともあれ、この二十世紀後半から二十一世紀初めにかけての時代は、若き妙法の使徒たる諸君達の時代であります。この時代に、諸君達は思う存分に人生を乱舞し、広宣流布の黄金時代を築いていっていただきたい。それが学生部諸君の今世にもって生まれた宿願であり、地涌の菩薩としての大使命であるということを強く訴えておきたいのであります。(拍手)
4  大国は他国の民衆を犠牲にするな
 次に、話は変わりますが、今、全世界の注目の的になっている、ソ連はじめ東欧五か国のチェコに対する軍事介入の問題について申し上げたい。これは、アジアにおけるアメリカのベトナム戦争と同じく、小国に対する大国の力の抑圧としてとらえることができると思う。それとともにこれは一九三〇年代に起こったナチス・ドイツの武力侵略と同じ系列に立つものであるといっても過言ではない。
 かつて恩師戸田前会長は、次のように叫ばれた。
 「社会の繁栄は、単なるその一社会の繁栄であってはならない。全世界が一つの社会となって、全世界の民衆が、そのまま社会の繁栄をしなければならない。それが王法と仏法との冥合である。日本の民衆の幸福のために他の民衆をにしてはならないし、アメリカの民衆の幸福のために、日本の民衆を犠牲としてもならない。共産主義の一指導者の幸福のために、他国の民衆が犠牲になってはならない」と。
 まさにこの恩師の叫びは、パワーポリシーの吹きすさぶ今日、国際社会の最も重要な理念とすべきであると思うのであります。すなわち、デモクラシーの国際的普遍化を達成すべき今日、自国のために他国を犠牲にすることは絶対に許されない。いかなる小国といえども、大国の利益や権力欲のために犠牲にされては断じてならない。否、そのようなことは、絶対にさせてはならないというのが、私どもの王仏冥合の理念であります。(拍手)
 かつてヨーロッパに、またアジアに吹きまくった、ファシズムの悪夢から二十数年たった現在、なお、人類がこのような悲惨な現実を目前にしなければならないということは、全く残念でなりません。だが、大きい目でこの現代世界の動向を見るとき、こうした大国主義、権威主義に反抗して、小国の自主独立、ひいては個人個人の人間性の尊厳を叫ぶ声は、もはや時代の趨勢となってきているのであります。
 パリをはじめとする世界的な学生運動も、古き権威に対する新しき世代の反抗でありました。中国の文化大革命すら、ある意味では、機構、制度、技術に対する人間の挑戦だともいわれております。このたびのチェコの問題、あるいはベトナム問題は、いずれもそうした古い権力主義にしがみつく大国が、時代の流れにらって歴史の逆行を試みたものだともいえる。
 ソ連は社会主義を看板に人間性を抑圧し、アメリカは自由主義の旗をかげて生命の尊厳を蹂躙している。その理念と行動の矛盾はおおうべくもないのであります。アメリカにせよソ連にせよ、彼らがいかなる大義名分を掲げようと、武力に訴え、暴力によって一国の自主独立、人間性の尊厳を踏みにじること自体、それは悪魔の所行であり、断固、排斥されるべきであると私は強く訴えたい。(拍手)
 先日、ソ連軍等のチェコ侵入が起こる直前、朝日新聞にイギリスの歴史家トインビーが書いた文章のなかに、次のような一節がありました。それは「権威主義の権力が、その権威を主張するとき、これは、たいてい統制力を失ったことを権力自体が感じているしるしである」というものであります。私も全く同感であります。
5  生命の尊厳を知る新しい世紀の夜明け
 時代は人間の尊厳を目指して大きく動いております。私は、この時代の潮流の本質を、生命の世紀への黎明としてとらえ、機会あるごとにそのことを申し述べてまいりました。ここでは、この生命の世紀の輝かしい開幕を決定づける本流こそ、我が創価学会のたくましき前進であり、日蓮大聖人の生命哲学の興隆であることを強調しておきたいのであります。(拍手)
 今まで多くの人々が、物質文明の進歩に対する精神文明のはなはだしいを″おうむ″のように繰り返し指摘してきましたが、私はこの点について、決して悲観的に考えてはおりません。なぜならば、現代の指導者達の考えよりも、世界の現実の回転のほうが、はるかに進んでしまっているからであります。指導者達は、その頑迷さの故に、そのことを気づこうとしない。そこに現代の悲劇が生じているだけだ、と私は考えているのです。
 言論の自由のために、膨大な武力を目前にして少しもたじろぐことなく、生命を賭しても悔いない民衆が世界の各地に散在し、拡大しつつあるという昨今の事実――これは十年前には見られなかったことでありました。人間性が最も大事であり、その人間が人間らしく生きるための自由と権利を希求する、これこそ人間の尊厳にめざめた人々の、新しい勇気ある戦いではないでしょうか。(拍手)
 この新しい突風が東西の両陣営にわたっていまや地球の全地表に吹き始めていることを、いったい、何人の指導者が気づいているでありましょう。生命の尊厳を真に知る私達だけが、敏感にその動向を察知し、新しい世紀の夜明けの機運が、すでに熟していることを知るのであります。
 いまや、狂暴な武力は、所詮、無力と化しつつある。第三文明は、まさに開幕せんとしております。我が若き同志諸君よ、我々は一丸となってその先駆者となり、限りなき自負と誇りとをもって全世界を舞台に躍り出てまいろうではありませんか。(大拍手)
 もとより、人間の尊厳を要求する民衆の行く手、時代の潮流に対して、なお古き権力の牙城が牢固としてそびえ、さえぎっていることは事実である。であればこそかのフランスの学生、労働者による五月危機も、結局、総選挙の結果、不発に終わってしまった。チェコの自由化も今度の武力介入で、いかに前途が多難であるかということを、まざまざと感じさせた。ベトナム戦争の終結も、パリ会談が相変わらず停滞し難航を続けている。
 これらは、いずれも民衆の熱望に反して、古き権力がいかに強いかを物語っている事実である。この牙城を打ち破って、真実の人間性の世界を開くためには、どうしても生命の尊厳を裏づける、確固たる哲学を根底とした、全く新しい第三勢力が、全世界の民衆の力を結集して、台頭しなければならない。
 かくして、日蓮大聖人の大生命哲学をもった私どもの実践と闘争こそ、この既存の権力主義の牙城を、完膚なきまでに打破し、過去数千年にわたる悪夢の連続の歴史に終止符を打つ、真実の生命の世紀への本流であります。我らはこのことを、強く自覚して進んでまいろうではありませんか。(拍手)
6  中国問題こそ世界平和実現の鍵
 ここで私は、中国問題についてふれておきたい。中国問題については、かねてからベトナム戦争が終結すれば、次の焦点は中国であるといわれてきました。しかし、今、ベトナムそしてチェコの情勢から、ここで、中国問題を論ずるのは時宜を得ていないという人もいるかもしれない。だが、日本の置かれている立ち場からいっても、遅かれ早かれ、中国問題を避けることは絶対にできなくなるのであります。また、我々の世界民族主義の理念のうえからも、どうしてもふれなければならない第一の根本問題なのであります。故に、私はあくまでも、そうした立ち場にある日本人の一人として、また、未来の平和を願う一青年として、諸君とともにこの問題を考えておきたい。
 いうまでもなく、中国問題は現在の世界情勢において、平和実現への進路のうえで非常に重大な隘路になっております。第二次大戦後、今日にいたる二十数年間の歴史をみても、東西二大陣営が、軍事的に真っ向から衝突し、悲惨な戦争を引き起こしたのは、ほとんどアジアの地でありました。周知のように、その一つは朝鮮戦争であり、もう一つは現在も続いているベトナム戦争であります。
 これらの戦乱に関係している自由主義陣営の旗頭はアメリカであり、共産主義側の後ろだてはソ連よりもむしろ中国なのであります。しかるに、その中国の国際社会における立ち場は、国連にも参加せず、諸外国とも極めて不安定な外交関係しか結んでいない。″竹のカーテン″に包まれて、お互いの実情が漠然としか、わからないというありさまであります。このいわば国際社会の異端児のような中国を、他の国と同じように、平等に公正に交際していくような状態にもっていかなければ、アジア、世界の平和は、いつまでたっても実現できない。そのことを私は非常に憂えるのであります。そして、これこそが韓国や台湾、ベトナム、タイ、ラオス等のアジアにおける国々の政治的安定と、経済的繁栄を可能ならしめる絶対条件であると確信したい。
7  中国を国際的討議の場へ
 それでは、そのために必要なことは何か。その一つは中国政府の存在を正式に認めること。第二は、国連における正当な席を用意し、国際的な討議の場に登場してもらうこと。第三には、広く経済的、文化的な交流を推進することであります。
 現在、かたくななまでに閉ざされた中国に対して、それを開かせる最も有力な鍵を握っているのは、歴史的な伝統、地理的な位置、民族的な親近性からいっても、我が日本をおいては絶対にないのです。ところが、現在の日本は中国が最もきらっているアメリカの核のカサに入り、中国政府を承認もしなければ、国交を回復しようともしない。あまつさえわずかの貿易ルートすら、年々減少している状態であります。
 かつて、恩師戸田前会長の詠まれた歌に「アジアの民にひかりをぞ送らん」との一句があります。私どもの提唱する日本の進路は、あくまでも中道主義であり、右でもなければ左でもない。「日をぞ送らん」とは、もとより大仏法の東洋広布であります。日本がアジアの一国である以上、アジアの民衆の幸福を最も重視し、最も優先させることは当然の道理であり、また義務であると思いますが、どうでしょうか。(拍手)
 日中両国のあいだには、いまだにあの戦争の傷跡は消えておりません。しかし、戦後すでに二十三年、きようここに集まった諸君達のほとんどは、あの戦争には直接関係のない世代であります。中国で活躍している紅衛兵等の青少年も、やはり戦争とは無関係でありましょう。そういう両国の前途を担う未来の諸君達にまで、かつての戦争の傷を重荷として残すようなことがあっては断じてならない。
 やがて諸君達が社会の中核となったときには、日本の青年も、中国の青年もともに手を取り合い、明るい世界の建設に笑みを交しながら働いていけるようでなくてはならない。この日本、中国を軸として、アジアのあらゆる民衆が互いに助け合い、守り合っていくようになったときこそ、今日アジアをおおう戦争の残虐と貧困の暗雲が吹き払われ、希望と幸せの陽光が、さんさんと降り注ぐ時代である、と私はいいたいのであります。(拍手)
 私は、決して共産主義の礼賛者ではありません。また、善良な日本の多くの人々が、中国の出方を心配し、警戒している心理も、よく感じ、知っておるつもりであります。ただ国際社会の動向のうえから、アジアはもとより、世界の平和のためには、いかなる国とも仲良くしていかなくてはならないということを訴えたいのです。
 核時代の今日、人類を破減から救うか否かは、この国境を越えた友情を確立できるか否かにかかっているといっても過言ではない。ここで中国問題をあえて論ずるのも、この一点に私の発想があったためであることを知っていただきたいのであります。
 見方が甘い、研究が足りないといわれるかもしれない。しかし、この中国問題の解決なくして、真に戦後は終わったとはいえません。進運の早い現代において、このままの体制で、なんらの前進的な手を打たず、これが最上の方法だと安心しておれば、いつか日本は大波と怒濤をうけねばならぬ運命となることも必定でありましょう。
8  毛沢東主義はむしろ民族主義
 ところで、具体的な問題に入るに先立ってふれておかねばならないのは、毛沢東主義をどう評価するか、また中国は侵略的な危険な国かどうかということであります。なぜならば、我が国の保守派の人々のあいだには、中国は侵略的で危険な国だから、日米安保体制を固めて、中国とはあまり付き合わないほうがよいという考え方が非常に強いからであります。
 この点について私の意見を述べるならば、毛沢東主義は、マルクス・レーニン主義というよりも本質的には民族主義に近い。また、唯物論的な共産主義である以上に、東洋伝統の精神主義的な血を引き継いでいると思う。したがって、毛沢東主義は一応、マルクス・レーニン主義の正統学派であると称しておりますが、それは革命の旗印にすぎない。″中華″の誇りに燃える中国人の民族意識というものは、私達の想像以上に強いのであります。
 たとえば、中国が初めて核実験に成功したときのことでありますが、これに対して台湾や香港の人達が涙を流して喜んだといわれております。また、中印紛争等の際も、台湾の国府は、はっきり中国支持を打ち出しております。
 また、唯物主義であるよりも、むしろ精神主義的だといったのは、毛沢東が非常に人間の思想的変革を重んずるからであります。それは現在の文化大革命のやり方をみても、同じ革命初期のソ連などのように簡単に処刑したりしないで、皆で非難したり、引きずり出して、みせしめにはするが、身柄についてはなにもしない。我々にとってはまことに不思議なやり方でありますが、彼らは彼らなりに、意識革命の方法を取ろうとしているように思われるのであります。
 外国に対する勢力拡大も、こういう伝続的な考え方に基づいている。また、現在の中国の国力、経済建設の段階から判断しても、直接に武力をもって侵略戦争を始めることはとうてい考えられない。彼らの主張からしても、またこれまでのやり方をみても、まず相手国内部の革命分子を援助し、そして育てて、その国の内部から船すというのが定石のようである。
 したがって、中国との交際を深めたからといっても、こちらの国情が安定し大衆が豊かであれば、決して革命が起こることはありえない。私は、いたずらに侵略の幻影に脅かされて、武装を強化したり、反共の殻を固めたり、あるいは安全保障体制を固めることよりも、大衆の福祉向上こそ最高の安全保障であり、暴力革命の波に対する最も強靭な防波堤であるといいたいのであります。(拍手)
 ただし、仮に中国が他国を武力侵略するようなことがあれば当然、私の考えも変更せざるをえません。
 ともあれ、中国は人口七億一千万の巨大な国であります。更に、三千年以上の大河のごとき歴史の流れをもつ大民族であります。その思考形式は全く複雑であり、単純に割り切ろうとすると必ず行き詰まってしまう。また気短かに小さなスケールで計ろうとすると、とんでもない誤りをおかしてしまう。
 国交回復の問題、国連での代表権、日中貿易の問題等の具体的事項の解決にあたっても、こうした前提、知識を十分にわきまえ、長期の見通しに立ったり強い交渉が必要であることを強調しておきたいのであります。
9  早急に日中首脳会談を
 まず第一に、日中国交の正常化について話しておきたい。これについては、一九五二年に台湾の国民政府とのあいだに日華条約が結ばれており、我が日本政府は、これによって、すでに日中講和問題は解決されている、という立ち場をとっております。だが、これは大陸・中国の七億一千万民衆をまるで存在しないかのごとく無視した観念論にすぎない。
 およそ国交の正常化とは、相互の国民同士が互いに理解しあい交流しあって相互の利益を増進し、ひいては世界平和の推進に貢献することができて、初めて意義をもつものであります。
 したがって、日中国交についても、その対象の実体は、中国七億一千万の民衆にあるわけであります。それを無視して単なる条約上の大義名分″にこだわり、いかに筋を通したと称しても、それはナンセンスであるといわざるをえない。現に、周恩来をはじめ、中国の首脳は、一貫して中国と日本との戦争関係はまだ終結をみていないとの見解をとっている。このままの状態では、いくら日本が戦争は終結したといっても、円満な国交関係が実現するわけがない。したがって、なんとしてでも、日本政府は北京の政府と話し合うべきであると思うのであります。
 しかも、その国交正常化のためには、それにして解決されなければならない問題がたくさんあります。第二次大戦中、日本が中国に与えた損害に対する賠償問題、また、主として満州における在外資産の請求権の問題等々であります。これらは、いずれも複雑で困難な問題であり、日中両国の相互理解と深い信頼、またなによりも平和への共通の願望なくしては解決できない問題であります。
 こうした日中間の解決については、これまでの小手先の外交や、細かい問題を解決して最後に国交回復にもっていくという、いわゆる帰納法的な行き方では、いくら努力しても失敗するでありましょう。私は、むしろ、まず初めから両国の首相、最高責任者が話し合って、基本的な平和への共通の意思を確認し、大局観、基本線から固めていく。そしてそれから細かい問題に及んでいく。この演繹的な方法でいくことが、問題解決の直道であると主張しておきたいのであります。(拍手)
10  日中両国の首脳が粘り強く何回も何回も前向きの交渉を繰り返していくならば、いかに困難のようであっても、必ずや解決の光明が見いだせることは間違いない。しかし現在では、佐藤政権に、その意思もなければ、中国も佐藤政権を見向きもしていないことは明らかであります。私は、その困難な問題を成し遂げていくのは、公明党以外に断じてないと申し上げたいのであります。(大拍手)
 もとより、こうした中国への接近に対しては、台湾の国民政府やアメリカから、相当強い反対が出てくることも必定でありましょう。だが、我々は、中国に接近するからといって、台湾やアメリカと離れるわけでは決してない。今、最も必要なのは、この両者の橋渡しではないでしょうか。(拍手)
 私は、その役目を日本が担うべきであると訴えるのであります。したがって、これはどこからも反対される筋合いはない。それどころか、必ず将来、感謝され、期待されていくことは当然であります。否、必ずや後世のアジアの民衆、日本の民衆から、感謝される時がくると私は深く確信するものであります。(拍手)
 すでにアメリカ国内においても、米中を平和関係にもっていかない限り、戦争の根は断ち切ることができないとする良識ある意見も出始めております。たとえばマンスフィールド上院議員は、ベトナム戦争に関して「遅かれ早かれ、朝鮮戦争のときと同じように、一時的な休戦が成立するかもしれない。しかし、私の判断するところ、我々が米中関係の諸問題と率直に対決しなければ、朝鮮でも、ベトナムでも、また、アジアのいかなるところにおいても、永続的な平和がくることは望みえないであろう」と述べております。
 だが、アメリカ政府ならびに国民が、中国に対して好意的な態度をとるようになるには、あまりにも遠い先のことであるように考えられる。それに比べて、戦争の危機は、あまりにも近くに迫っている。原水爆戦争の脅威を考えるならば、一刻も早く、この両大国を和解させなければならない。その仲介の任にあたるべき国こそ、日本をおいて絶対にないと私はいっておきたいのであります。(拍手)
11  世界民族主義の理念実現へ
 日本は古代の国家統一のころ、以来、否、厳密にいえば、それよりはるか以前から、一貫して中国文明の影響をうけつつ生々発展を続けてまいりました。我が国の仏教も中国から伝えられたものでありますし、私どもが勤行のときに読む経文も漢文で書かれております。政治哲学や道徳などは、中国の儒教をそのまま取り入れております。今ではすっかり日本化してしまったさまざまな風俗習慣も、もとをただせば、中国に起源をもっているのであります。
 民族性の点からいっても、奈良朝時代、かなりの中国人がしてきたといわれております。有名な伝教大師もそうした帰化人の子孫だと伝えられております。たとえば当時の日本の中心地であった京都の太秦うずまさは、当時の中国帰化人氏族の居住地であった。そうした面影をしのばせる地名は、各地にたくさん残っております。このような歴史的な関係、民族性や風俗の相似からいっても、日中友好は自然の流れであります。
 更に御書の鏡に照らして論ずるならば、中国は、かつて大乗仏法の流布した国であり、また、未来においては、仏法西還の御金言のごとく、必ず妙法が流布していく有縁の国土であります。(拍手)
 したがって、今のように、日本が中国に背を向け、東洋民衆の苦悩に対して、手をこまねいていることこそ、なににもまして不自然であり不合理であるといわざるをえない。
 あるフランスの評論家は「アメリカの極束政策を修正させる鍵をもっているのは日本である。その日本が国際情勢を緩和するという役割りを果たすためには、中国との関係をすみやかに正常化し、独自の政策をもつべきである」という意味のことを述べておりました。この意見には私も全面的に賛成であります。
 日中国交の正常化は、単に日本のためのみならず、世界の客観情勢が要請する日本の使命であると私はいいたい。(拍手)
 この意味においても、公明党の中道主義、世界民族主義の理念が、いよいよ具体的な意義を発揮する時代に入ったと確信するのであります。(拍手)
12  中国の国連参加へ強い努力を
 次に中国の国連参加問題について意見を述べたい。これは、一般には代表権問題といわれるように、国連における中国の名札のある席に、北京の政府と台湾の政府とどちらの代表がすわるかという問題であります。常識的には、大陸の中華人民共和国と中華民国と、新たに席を設けて、両方が並んですわれば、それでよしとする意見もありますが、それではどちらも承知しない。いずれも「自分が全中国の代表である」というのです。
 この中国代表権問題が初めて取り上げられたのは、一九五〇年の第五回国連総会であります。アメリカも、それより以前は中共が内戦で勝利を収めるにつれて北京政権の承認ということも考え始めていたということでありますが、朝鮮戦争で中共の義勇軍が出てくるに及んで、反対派になってしまった。それ以降十年間、アメリカはいわゆる″タナ上げ方式″で中国代表権問題を封じ込めてきたわけです。
 ところが、北京支持が年々増え、一九六〇年にはアメリカの″タナ上げ案″に対する賛否の数字差が、42対34と追ってきた。そこで、一九六一年からは″重要事項指定方式″をとるようになったのです。この方式は、国連憲章の第十八条に「重要問題に関する総会の決定は、出席し、かつ投票する構成国の三分の二の多数によって行なわれる」と規定されているのを、よりどころにしたものであります。すなわち、アメリカは、単純過半数の多数決では承認されそうになったために、三分の二の多数を必要とする重要事項指定の方式をとったわけであります。
 では「重要問題」とは、どういうものを指すかというと、安保理事会等の非常任理事国の選出、新加盟国の承認などが憲章にあげられていますが、それ以外の問題でも、出席し、かつ投票した加盟国の過半数の賛成があれば「重要問題」に指定できることになっている。
 中国代表権はあとの場合で、アメリカは「北京の代表権を認めるのは賛成だが、そのまえにまず、重要な問題として認める」という老獪な策をとったわけであります。しかし、それでもなお、国連における北京政府支持の票は年々増え、一九六五年の第二十回総会では、47対47の賛否同数になっております。これをヤマに、それ以降は、中国が文化大革命で外交路線を硬化させ、感情的に悪化したため、若干、支持票が減っております。だが、文化大革命も次第に収束の方向に進み、すでにパキスタンをはじめ、各国も徐々に外交を再開しておりますから、再び国際政局に大きな影響力を及ぼしていくことは間違いない。
 ともあれ、大勢としては、世界の世論は、北京政府支持の方向へ次第に傾いていくでありましょう。現に先進諸国による国家承認も少しずつ増えており、国際通の人々は「おそらく、四、五年で国連における中国代表権は、北京に帰するだろう」と予想しております。
13  我が国の自民党政府は、これまで一貫して対米追従主義に終始してまいりました。だが日本も独立国である以上、独自の信念をもち、自主的な外交政策を進めていくのは当然の権利であります。(拍手)
 まして、過去二千年の中国との深い関係に思いをいたし、現在の国際社会における日本の位置を自覚し、更に未来のアジアと世界平和の理想を考えるならば、いつまでも、このままの姿であってよいわけがない。
 時代は刻々と動いている。未来に焦点を合わせて活躍していくのは、青年の特権であります。また、青年達をそうさせていくのが、為政者、そして、指導者の責任ではないでしょうか。(拍手)
 昭和四十三年秋、また第二十三回の国連総会が開かれますが、日本はこれまでのようにアメリカの重要事項指定方式に加担するのでなく、北京の国連での代表権を積極的に推進すべきであります。およそ、地球全人口の四分の一を占める中国が実質的に国連から排斥されているこの現状は、誰人が考えても国連の重要な欠陥といわねばならない。これを解決することこそ真実の国連中心主義であり、世界平和への偉大な寄与であると思いますが、いかがでしょうか。(拍手)
14  日中貿易拡大への構想
 次に日中貿易の問題について構想を述べてみたい。もとよりこれは、日中両国の相互理解のうえに初めて成り立つものですから、中国側の主張を一方的に無視して考えるわけにはいかない。この点に関して中国は、過去二度にわたって対日三原則を示しております。
 その一つは、一九五八年五月、いわゆる長崎の国旗侮辱事件が起こったときに中国があげたもので、政治三原則といわれております。内容は、第一に、日本が中国敵視の政策をとらぬこと、第二に、二つの中国をつくる陰謀に加わらぬこと、第三に、国交回復の努力を妨げぬこと、の三点であります。
 もう一っは、この国旗事件で中断された後、一九六〇年八月、再び貿易を再開しようという動きが盛り上がってきたときに中国側が提示したもので、これは、貿易三原則と呼ばれております。ただし、こちらは、先の政治三原則のように日本側に注文をつけ制約するものでなく、日中貿易のルートを三段階に分け、むしろ推進することを意図したものと考えてさしつかえないと思います。
 すなわち、一九六二年十一月に、中国側の廖承志、日本側の高崎達之助両氏によって、新しい貿易の進め方に関する覚え書が交され、これに基づく総合貿易を、両氏の頭文字を取って″LT貿易″と呼んでおります。まず一九六三年から一九六七年にいたる五か年協定が成立し、中国側では「廖承志事務所」、日本側では「日中総合貿易連絡協議会」が設置され、この両者を通じて貿易が推進されてまいりました。
 ところが、昨一九六七年で期限切れとなったので、本年二月、再度話し合いが行なわれたわけであります。その結果発足したのが″日中覚え書貿易″で、これは期限を一年間に区切った極めて不安定な協定になっております。
 なお、LT貿易、あるいはこの継続である覚え書貿易が、政府間協定に準ずる性格をもつのに対し、民間の友好商社による貿易ルートとして、一九六二年十二月に「日中友好取り引きに関する議定書」が調印され発足しております。この日本側の窓口には「日中貿易促進会」「日本国際貿易促進協会」「同関西本部」の三団体、中国側の窓口には「国際貿易促進委員会」がこれにあたっております。
 しかるに、こうした日中貿易に対して日本政府の態度はどうかといえば、財界の有志まかせで、全く消極的・傍観的であるばかりでなく、中国が排撃する政経分離を固執して、対米追従主義からココムの禁輸品目を厳守するなど種々の制限を加えているのであります。その背景には、アメリカが中国を敵視していること、日米安保条約等が中国を最大の仮想敵国としていることがあげられております。
 このような、我が国の自民党政府のあり方が、先の政治三原則にふれることは当然であり、中国側もこのため、いきおい警戒的な態度をとらざるをえなくなっている。事実、日中貿易は、ここ二、三年、年ごとに減少し、我が国の貿易額全体のなかでもわずか数を占めるにすぎない現状なのであります。
15  吉国書簡は廃棄すべし
 更に、日中貿易に制限を加えているものとして、有名な「吉田書簡」があります。これはさる一九六四年に吉田元首相が台湾を訪問し、その直後、吉田氏が私信として、蒋介石の秘書に書簡を出した。
 その内容は、日本政府はLT貿易など、日本と中国とのあいだで行なわれている貿易、特に日本からの輸出に対して、輸出入銀行などの政府資金を使った長期延べ払いはしないというものであります。もとより、これは純然たる私信であり、吉田元首相もすでにな亡くなっているのですから、政府が拘束される理由はなにもない。だが、佐藤首相はかつて吉田学校の優等生であったせいか、吉田さんの亡霊にとりつかれている。(笑い)政府資金による長期延べ払いを認めないということは、事実上、貿易取り引きの首を締めるのと同じ効果をもつのであります。
 私はなによりも、まず政府は、この吉田書簡の廃棄を宣言し、貿易三原則にしたがって、一歩でも二歩でも、貿易を拡大する方向に努力を積み重ねていくべきであると訴えたいのであります。
 中国は今、経済建設の途上にあります。核兵器の製造など極端に進んだ面もありますが、全般的には産業の水準はまだまだ低い。かつてはソ連の技術を取り入れておりましたが、中ソ対立以来それもとだえ、ほとんど独力で開発を進めている。それを外見だけでみれば、自尊心が強く、孤高のようにみえますが、内心では、先進国の技術を待望していることは絶対間違いないと思う。ちなみに、中ソ分裂後、中国は西欧諸国からのプラント輸入をかなり大幅に受け入れてさえいる。
 たとえば、イギリスから化学肥料プラントを取り入れ、四川省に大規模な化学肥料工業の基地を建設している。また、オーストリアからの技術導入で、太原に酸素吹上転炉を建設しておりますし、西ドイツの原油分解プラントとイギリスのポリエチレンプラントの組み合わせで、蘭州に石油化学コンビナートを形成する計画も着々と進めている。更に現在、西ドイツとのあいだで、相当大規模な鉄鋼プラントの交渉も進めていると伝えられております。
 技術導入に限らず、貿易全体として、中国が社会主義国全体と取り引きした額と、資本主義国と取り引きした額との比率を出してみると、かつて一九五〇年代は、ソ連一辺倒で、約七割が、いわゆる共産圏内で占められていたのが、十年後の一九六〇年代に入ってからは、逆に資本主義国との取り引きが七割になっている現状であります。ここ二年間は、文化大革命の影響で、イギリス公使館が包囲されたりして、貿易も減少しておりますが、すでにこれも収拾の段階に入り、やがて落ち着くときがくるでありましょう。
 フランスの口ベール・ギラン記者は、やはり、対中国貿易で最も有利な立ち場にあるのは日本であろうと述べております。日本自体としても、その地理的条件からいって、遠い将来の発展のため、豊かな資源をもっとともに巨大なマーケットでもある中国と、密接な関係を結ぶことが相互にとって最も有利であり、必要であるといいたい。(拍手)
 しかも、それは単なる経済的利益のみならず、アジアの繁栄、ひいては世界平和への偉大な貢献に直結するものであることを、私は強調しておきたいのです。(拍手)
16  アジアの繁栄と世界平和のために
 また、すでに述べたように、世界の平和にとって最も不安定で、深刻な危機をはらんでいるのが、悲しくもアジア地域であります。そのアジアの不安定の根本的な原因は、アジアの貧困であり、自由圏のアジアと共産圏のアジアとの隔絶と、不信と、対立にあるということも明瞭な事実である。このアジアの貧困を根底からすためには、日本が、アジアの半分に背を向けてきたこれまでの姿勢を改め、積極的にアジアの繁栄のために尽くしていくことが、どうしても必要である。また、日本が率先して中国との友好関係を樹立することは、アジアのなかにある東西の対立を緩和し、やがては、見事に解消するにいたることも、必ずやできると私は訴えたいのであります。(拍手)
 確かに、現状はさまざまの不安定な要素をはらんでおりましょう。目前の利益、日本一国の高度成長のみを考えるならば、現在の外交路線が安全であるようにみえるかもしれない。だが、このままではますます戦争の危機を深め、やがて日本の繁栄も夢となってしまうことも十分考えられる。それを私は心より心配するのであります。
 現在、日本は、自由圏で第二位の国民総生産に達し、かつてない繁栄を誇っております。しかしこれは、低所得の国民大衆と、アジア民衆の貧困のうえに立った砂上の楼閣にすぎない。あるフランスの経済学者は、日本の繁栄を「魂のない繁栄」と呼び、ある社会学者にいたっては「豊かだが、去勢された国民である」とさえ評しているのであります。国家、民族は、国際社会のなかで、かつてのように、利益のみを追求する集団であってはならない。広く国際的視野に立って、平和のため、繁栄のため、文化の発展・進歩のために、すすんで貢献していってこそ、新しい世紀の価値ある民族といえるのではないでしょうか。(拍手)
 私は、今こそ日本は、この世界的な視野に立って、アジアの繁栄と世界の平和のため、その最も重要なかなめとして、中国との国交正常化、国連参加、貿易促進に全力を傾注していくべきであることを重ねて訴えるものであります。(拍手)
17  なお、私のこの中国観に対しては、もちろん種々の議論があるでしょう。あとは一切、賢明な諸君の判断にまかせます。ただ、私の信念として、今後の世界を考えるにあたって、どうしても日本が、そして諸君ら青年達が経なければならない問題として、あえて申し述べたわけであり、これを一つの参考としていただければ、望外な喜びなのであります。
 また、このように日中の友好を提唱すると、往々にして″左寄り″であるかのように曲解されます。しかし、これこそ、全く浅薄な見方であるといわざるをえない。なぜならば、我々が仏法という立ち場にあって、人間性を根幹に、世界民族主義の次元に立って、世界平和と日本の安泰を願っていくことは当然であります。そして、その本質をとらえていくならば、右でもなければ、左でもないことは明瞭に理解できると思います。現象面だけを見て、右とか左とか、性急な論断を下すことは大きい誤りである。所詮、右、左といっても、その思考の基点は何かということが大事です。それを無視して論議しても無意味であります。この基点こそ色心不二の大哲理であり、それをしっかりとふまえた行き方が、中道主義ではないでしょうか。(拍手)
 ここで、学生部二十三万の諸君の更に偉大な発展と成長のために、今後の指針を一言中し上げておきたい。(拍手)
18  第一に『ひとたび妙法に生きた学徒は未来に雄飛する革命児であることを疑ってはならない』
 その実証には、十年、二十年の歳月を必要とするかもしれません。しかし、皆さん方は、すでに一人も残らず末法万年の救世主日蓮犬聖人から受記をうけていることを自覚して、人生の前進をしていっていただきたい。(拍手)
 結局、この自覚の強弱が諸君の未来を大きく決定するであろうと私は強く申し上げておきたい。
19  第二に『妙法を実践する学徒は、今どれほどの困難にあろうとも断じてひるんではならない。恐れてはならない』
 蓮の華は泥沼が深ければ深いほど、見事に大きく咲くのであります。御書の「如蓮華在水」の原理は、諸君のためにこそあると思索していっていただきたい。花は、堅いアスファルトには咲けない。苦労して耕した土壤の上にこそ美しい花が実を結ぶのです。峻厳な尾根を登らずして真の山の味は決してわからない。
 と同様に、青春時代の、経済的な困窮も、苦悩も全てが新社会の指導者として育つ人間革命のために、必須な条件であることを知っていただきたい。(拍手)
 決して困難を避けてはならない。むしろ、それらを偉大な成長の糧として感謝していくぐらいでなくてはならない。また、たとえ中傷、批判があったとしても、一切紛動される必要はない。全て偉大なる未来のための試練であると自覚して、師子王のごとく戦っていただきたいのであります。(拍手)
20  第三に『人類数千年の文化遺産は、ことごとく諸君のために用意されている。したがって知識に対しては貪欲でなければならない』
 いうまでもなく智惠の根源は妙法にある。したがって妙法を実践する学徒でなければ、過去の文化遺産を正しく継承し、そして大きく生かしていくことは不可能であると断言するものであります。
 また、未来の真の文化を創造するのは、諸君をおいてないと思うからこそ申し上げるのです。智恵が大きく顕現するときは、常に知識の衣をまとっているものであります。知識に対し貪欲でなかったならば、せっかくの智恵は機能を失ってしまうでありましょう。
21  第四に『新しき生命の世紀の動向は、全て諸君の掌中にあることを知るべきである」
 今、世界の数千万の学徒のなかで、だれが真剣に生命の哲理を把握しているであろうか。諸君をおいていずこの国にいるであろうか。
 諸君の仏法の真髓の研鑽と努力とが、輝くばかりの生命の世紀の扉を開く原動力であることを、私は申し上げておきたいのであります。(拍手)
22  第五に『喜々として妙法を信じ、行じ、学び、真摯な学徒として行動するならば、輝く知性と鉄の意志と、頑健な身体は、諸君の生涯のものとなろう』
 二十一世紀への新しき世界的はすでに開始されております。やがては怒濤となっていくことでありましょう。その怒濤のなかで悠々と抜き手をきって、世界の民衆を青年を幸福の彼岸に運ぶためには、妙法に照らされた知性と意志と体力とをもつ諸君の出現が、絶対の要請となってくることを確信したいのであります。(拍手)
 御義口伝にいわく「此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神の力に依るなり、此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり」と。普賢菩薩とは学生部の諸君のことであります。諸君こそ世界の広宣流布の主体者であり、中心人物たれとの御文なのであります。
 どうか、諸君はしっかり語学をマスターし、いつでも世界の広宣流布の舞台におどりでていける力を、この学生時代に養っていただきたいことを重ねて強調するものであります。(拍手)
 私は、諸君にバトンタッチをするため、全力をあげて戦い、道を切り開き、舞台を整えておきます。諸君はその舞台のうえにどうか新時代の旗手、自由と平和の戦士として、伸びのびと、自由自在に乱舞していってください。(大拍手)
 観心本尊抄にいわく「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」、また報恩抄にいわく「根ふかければ枝しげし源遠ければ流ながし」と。諸君はこの御金言の体現者としてたくましく育っていただきたい。
 最後に、来賓の方々に、学生部一同に代わって深く御礼申し上げるとともに″戦う学生部に、栄光の未来に進む諸君に栄冠あれ″と念じつつ、私の話を終わらせていただきます。(大拍手)

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