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日蓮大聖人・池田大作

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信心欠けば空回り 東京第三本部地区部長会

1965.4.20 「会長講演集」第13巻

前後
1  かつての参院戦で、私が指揮をとった大阪では当選し、東京が敗れたことがありました。そのとき戸田先生は、大阪は信心で勝ったが、東京は政治性で負けたといわれた。一切法これ仏法、体曲がれば影がななめなりで、とうぜんの道理です。
 その時、私は“私にはなんら力がない。しかし、ひとたび王仏冥合のために戦うからには、責任ある戦いをすべきである。これが信心である”と自覚し、朝晩、御本尊様に題目をしっかり唱えてお願いしました。また、あらゆる作戦、戦いにも全力をあげた。同志も同じ心で奮い立ちました。人事を尽くして、あとは御本尊に祈りきったのです。また、御本尊に願いきって、あとは人事を尽くしきった。こうして広宣流布途上において、栄光ある金字塔を打ち立てることができたのです。
 これから長い長い王仏冥合の戦いがごさいますが、まず御本尊にしっかり祈りきっていただきたいのです。題目をあげていきましょう。それから、題目をあげているといっても、カラ回りの場合があります。「私は何百万遍題目をあげたわ」などといばって、見えを張るような題目は、これは境智冥合しません。観念的な題目になってしまう恐れがあります。題目の力はすごい。南無妙法蓮華経――それは御義口伝にも、私なりに真剣に思索をし、勉強した説き方をさせていただきました。甚深のこの大法門に対しては、とうてい奥底に到達することはできない。  あとは私どもが真剣に題目をあげきって、さらにさらに境涯を開いていく以外にはない。だが南無妙法蓮華経――因果の理法です。因果倶時の法である。ともに一口にいうならば、絶対的幸福ということ自体が南無妙法蓮華経ということなのです。
 かつて六十六か国が日本の二字のなかにありました。日本の二字のなかに六十六か国がぜんぶはいっているのです。いまでいえば、いっさいの都道府県ははいってしまう。いま百何十かの国が世界にある。それは世界の二字のなかにいっさい含まれてしまう。宇宙には、何千億万の星やなにかがある。“宇宙”というその二文字のなかに、何千億万という星も月も太陽もぜんぶ含まれてしまう。と同じように大宇宙の根本の法則は南無妙法蓮華経です。信じないといおうが、わからないといおうが、わかったといおうが、どうしようもない。久遠元初以来、尽未来際まで、この大法則によって動かされているわけです。
 生命の本源、生命の本質、これは南無妙法蓮華経に尽きてしまいます。道理のうえから見、現象の究極に到達した原理から見、幸福生活の源泉の意味からいっても、横にも縦にも、広さにも、ぜんぶ幸福を与えていく、力を与えていく、真理のなかの大真理、これが南無妙法蓮華経です。どうしようもない絶対のものです。その南無妙法蓮華経を私どもは受持している。その南無妙法蓮華経に題目をあげる。したがって、そこに力が出ないわけはありません。
 自分は幸福のため、宿命転換のため、王仏冥合実現のため、人々の幸福のために、しょせんは題目以外にない。あとは人事を尽くしていけば、ぜんぶそれが生きてくるわけなのです。
 きのうも会合の帰りに、ちょっとあるところへ寄ってあげようかなと思って、同志のお宅へ寄りました。その人は私が来るようにと、一生懸命、題目をあげていたらしいのです。だからといって、皆さんも、私がくるようにと題目をあげては困るのです。私がフラフラになってしまうから。(笑い)それでは困るけれども、やはり題目の力はすごいなあ、とすぐわかります。こちらも信心で、きているのですから信心はつうじます。感じます。行く予定などぜんぜんなかったのに、ひょっと行ってあげたのです。
 いわんや皆さん方が強盛な信心をしていったときに、もっとも自分の身近ことが達成されないわけがありません。願わくは、何十万遍、何百万遍の題目をあげきって、大御本尊の功力を知りきろう、ほんとうに大仏法力はすごいものだということを自分が体得しよう、この決心で題目をあげきろうではありませんか。(拍手)
2  題目をあげきっている人は、顔色が違います。題目をあげきっている人の行動は、ひじょうに軽快である。そして深みがある。同じ指導をしても、題目をあげきっている人の指導は、ひじょうに徹底してきます。題目があがっていない、小手先のじょうずな話をしても、その場ではいいようであるけれども、長い目からみますと、大きいクサビは打てないものです。人々が最後まで自信をもち、安心してつききることはできないものです。われわれは、自分に力があって、人を引っぱっているのではありません。御本尊に力があって引っぱっていく。その媒介は何かといえば、題目しかないのです。
 百万言のりっぱな指導よりも、題目をいっしょにあげきって、仏界を湧現させきっていく、その実行のほうが、どれほど本人をよりよくするかもしれない場合が多い。この実行をさせるための指導であるともいえるのです。それには、まず指導をするほうの自分が題目をあげる以外にない。
 皆さん方も、題目はたくさんおあげになっていると思いますが、信心強盛な人とは題目をあげきれる人です。題目をあげきれる人は事の一念三千の当体です。本化地涌の菩薩としてのいっさいの活動が、しぜんになされていかなければならなくなります。その人の活動は、なんのムダもなく、王仏冥合の磁石のような力に変わっていくのです。結論していうならば、いっさいが題目です。
 きょう、異体同心という揮毫をしました。それは箱根に職員の研修所ができまして、異体同心という額を揚げてあげたいということで揮毫したのです。異体同心ならば万事を成ず。同体異心であればなにも成ずることはできない。世間の面からいっても、仏法の面からいっても同じです。一切法これ仏法ですから。世間法も深くこれを知れば、仏法に帰着するのですから、最後は同じことになります。
 現代語でいえば、異体同心とは団結ということです。先日、アメリカの雑誌記者がきました。初めは学会はファッショであるとか、やれ軍国調であるとかいっていたが、いろいろ調べ、学会の会合等を見てみると、ぜんぜん違うといっていました。
 「ただ、あまりにも団結が強い。あの文化祭の姿を見ると、われわれには考えられないことをやる。ですから一般の人や評論家やなにかには、あの団結の姿を見て、イコール、ファッショと見たり、やがては軍国調にいくのではないかと見るのではないですか」「ああ弱った話だなあ。どこの団体だって、どこの会社だって、どこの野球のチームだって、団結を欲するのはあたりまえではないか。バラバラではなにもできないし、みんなが不幸ではないか。団結するのがわるいというならば、日紡のあのバレーチームは団結が強かったけれども、あれはそれでは軍国調になるのか、あれはファッショなのか」「そうですね。そうじゃないですね。そうはいえませんね」これは英語でいったのです。向こうは。(笑い)通訳がそういったのです。野球のチームはどうするのです。一家だって、異体同心が理想です。おとうさん、おかあさん、そしてお嬢さん、むすこさん。これは異体です。体が異なる。だが同心、一家の場合の同心は、一家安穏に暮らそう、一家を幸福に暮らそう、そういう心は同心でなければいけません。
 仏法の異体同心の同心とは、南無妙法蓮華経を唱えるという意味です。再往は、王仏冥合を目的とした心のつながりです。これは同心です。したがって、仏法には矛盾はない。仏法は最高の民主主義の原理を説いております。異体とは個々の確立をいいます。自己のことをいいます。その証拠に、創価学会は、ある人は社長さん、ある人は工員、ある人は主婦、ある人はオフィスガール、ある人は学生、ある人は議員、ある人は教育者、ぜんぶ異体です。ぜんぶおのおのが自分の境遇で、自分のやりたい職場に、のびのびと社会に巣立って活躍している。社会に生きている。
 異体の姿ではありませんか。それであって、個人の真の幸福確立のために南無妙法蓮華経を唱えるしかない。
 邪宗を撲滅して、楽土日本をつくる。平和な日本をつくる。即王仏冥合のために、社会の繁栄を実現していくために、題目をあげて、おのおのの分野で活躍していく。これは異体の姿です。ですから根本的にはしあわせのために題目をあげる。これが同心です。だが実際上、家庭の姿、職場の姿、おのおの社会にあっての活躍の姿は、いっさい異体です。自由自在です。私はこれが最高の民主主義の方程式であると思いますけれども、どうでしょうか。(拍手)
 職場のこと、結婚のこと、その他いっさいの社会的問題に対して、創価学会として規制する、なにものがありますか。命令する、なにものがありますか。圧力を与えていくなにものかがありますか。信心ということに対しては、教義のうえから、大聖人様の教えを間違ってしまえば、我見になり、せっかくの大功徳を失ってしまうがゆえに指導します。これは同心であるがゆえに、とうぜん、大目的のため、大善のため、日本の安泰のため、政界の浄化のために活躍していこうということは、しぜんの発露として、自分自身の自覚からいっても、出てくることが創価学会の前進の姿ではないでしょうか。(拍手)
3  これが民衆からの盛り上がりです。民主主義です。これが無血革命の姿です。他の政党やなにかとはぜんぜん違う。その意味において、皆さん方が、さらに信心強盛になられ、人間革命され、福運を積まれ、偉大なる仏法の大功徳をうけた実証を示しきっていただきたいのであります。それが私のお願いです。そして皆さん方は、全員が政界に立つわけでもない。やはり、やむをえないおのおのの役目があります。しかし、皆さん方のお子さんのためにも、お孫さんのためにも戦っていただきたい。令法久住のためにも戦っていただきたいのです。
 ひじょうに私は生意気なことをいうようでありますが、二十年、三十年先の構想まで手は打っておりますし、そのようにしていきます。皆さん方のお子さん方といっしょに総決起する時を楽しみにしております。なぜかならば、若い会長ですから、右を見ても左を見ても、年配者や、だいたい同じ年の人が多すぎる。先輩は尊敬しなければならない。年配者は大事にしなければならない。そこへくると、皆さん方のお子さんは、いくら年配者でも私よりか年が上の人は少ないと思う。(笑い)
 初めて私は私なりに「さあ、おとうさんやおかあさんや先輩が土台をつくってくれたぞ。あとはその上に踊り出て、ひのき舞台として私といっしょに最後の総仕上げをしようじゃないか」こういうふうにいいたいと思うのですけれども、ご援助お願いします。(拍手)
 第三本部関係は、私も第三代でありますゆえに、ひじょうに縁が深いのです。昭和三十五年の四月十九日に、私が会長となることを引き受けたのです。きょうは二十日でありますが、じっさいは二十日から実質の会長としての指揮をとりはじめたのであります。満五年前のきょうから始まったのです。また第三本部で、第三代として、きょうは心待ちにしてまいりました。
 大聖人様は、立正安国論をおしたためになり、いっさいの邪宗を破折せよと師子吼されました。立正安国論に始まって、立正安国論に終わるというのが、日興上人様のご説法です。また代々の日蓮正宗の骨髄であります。したがって、創価学会は立ち上がった。いっさいの邪宗教を破折してまいりました。名実ともに日本第一の日蓮正宗になりました。本尊流布をいたしました。このおほめのことばは、おのおの大聖人様からいただけることを確信していただきたい。
 ともに立正安国論ということは、王仏冥合論と拝読するのです。生死一大事血脈ということばがある。天台流でいけば生死一大事血脈。大聖人様のご観心から申し上げれば南無妙法蓮華経の七文字と拝するのです。立正安国論も同じです。立正安国論ということは五重相対で、いっさい日寛上人様がお説きあそばされておりますが、一口に再往を申し上げれば、王仏冥合論となります。したがって、邪宗破折から始まって、今日まで大戦果をあげました。こんどは王仏冥合論としての立場から、最後は立正安国論に終わるのですから、立正安国論に終わる形態は、王仏冥合論と拝しての実践活動になるのです。
 おおぜいの同志を国会におくり、最後の最後まで、私がいずれにしても王仏冥合の指導者であることは間違いありません。私も皆さん方のご要望に、ご期待にそうように、断じて広宣流布の総仕上げまでのクサビは打ちきってまいりますから、私とともに戦ってください。(拍手)
4  安心して信心していきなさい。なにも恐れずに、御本尊をだきしめして、信心しきっていきなさい。また今回の戦いも、さまざまな困難があるかもしれませんが、ゆうゆうとやってください。頭を使って、賢明なるいくさをしていただきたい。終わったときには、いちだんと成長したといえるようになっていただきたい。これだけでいいのです。
 長い長い旅路ですから、あせらず、折伏に対しても、選挙の戦いに対しても、えみをたたえて、口笛を吹くぐらいの気持ちで指揮をとっていかなければいけないと思います。今回の戦いにおいても、長い戦いにおいても、そのぐらいの余裕をもつ。それであって、根底の信心は、燃え上がるような信心、闘魂、求道精神、これを失わなければ、りっぱな水の信心であります。
 水の上に鳥がゆうゆうと泳いでいる。ゆうゆうと泳いでいるようであるけれども、皆の見えない水の下では、だが、鳥自信ちゃんと一生懸命、足で水をかいているのです。これを忘れていけません。新幹線もスーッとゆうゆうと突っ走っているみたいであるけれども、運転手や、責任ある車掌やなんかは、そうとう責任を感じて緊張している。ところが全体からみればゆうゆうとしている。
 皆さん方は、全体的においては、ゆうゆうとした姿で指揮をとり、また地区員ひとりひとりに対しては深い深い自覚を忘れないでめんどうを見、指揮をとっていただきたい。くどいようでありますけれども、これだけ申し上げまして、皆さん方のご健闘と、ご健康をお祈り申し上げまして本日の地区部長会といたします。きょうは早くお休みになってください。また班長、班担の皆さん方、地区員の皆さん方にも、くれぐれもよろしくお伝えください。からだを大事にして信心していきなさい、戦いをしていきなさいということをお伝えになってください。たいへんにご苦労さまでございました。

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