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日蓮大聖人・池田大作

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教学を学ぶ心がまえ 7月度教授会

1963.7.26 「会長講演集」第9巻

前後
1  また少しずつ昔に戻って観心本尊抄をやって、頭を整とんしましよう。さっきも読み合わせをしたとき、だれかがもう何回もやったはずなのに、初めて読むのと同じだなといっておりましたが、それがほんとうなのす。自分はわかったといえば増上慢、わからないといえば謗法なのです。
 戸田先生もおっしゃっていましたが、それは、日蓮大聖人様の奥義がぜんぶわかるわけはない。信心でしかわからない。それをみんなでわかっていこう、後輩から質問されても納得をさせていく力をもとうと、日蓮大聖人様の御書を一生懸命わからないながらも、かじりつきながら、みんなで研究していくところに功徳があるのです、前進があるのです、大きい進歩があるのです。
 法華経の二十八品、寿量品と方便品を読んだって功徳があるのです。これはおかずになるけれども、ごはんは南無妙法蓮華経です。日蓮大聖人様の御書はお経ですから、いわんや日蓮大聖人様の仏法を拝読し、説き、研究して功徳がないわけはないのです。それから、ただわからないから謗法になってもいいのだという考え方はいけないけれども、ひととおりやって正直に調べてみればわかるわけです。また、わかったとしても、そういうわかったこと自体は、それは私からみればなにもわかっていないということなのです。増上慢の心になったわけです。
 あくまでも、みんなにわからせていく、後輩のために土台石になって、そして信行学を励む、それでいいのではないですか。いわんや教学部長や副教学部長や教授の人たちは、どうかひとつ実力をつけていただき、とくに教授以上の方などは、戸田先生時代からの伝統を受けて、小平教学部長、副教学部長、それから教授は、とくにがんばっていただきたいのです。
 そうすれば依正不二で、ほんとうはひじょうにらくになるのです。なんでもかんでも会長ができるのだ、会長がわかっているのだというのはウソです。私はぜんぶ謙虚な気持ちで、少しでも研究してきた人に対しては敬意を表するし、頭を低くしてその人の意見を尊重します。これは一貫して変わりない。これがほんとうの日蓮大聖人様の弟子であり、戸田先生を師匠としての弟子の道です。
2  だが、やるべきことをしなければならない。きちんと確信をもっていえるようにというふんいきをつくっていただきたい。
 そうすると、教授会のなかの一致和合、大教団としてずーっと間違いない法水ができるのです。法水瀉瓶になるのです。あの人は進んできた、この人はぜんぜん進んでいないというみたいな、こういう偏ぱなことは信じもしないし、考えもしない。これがほんとうの弟子の道です。これがほんとうの信心修行をしていく態度です。
 それで質問会のときには、ちょっとのひっかかりでも、なんとなくという場合があったら、遠慮なくこういう会合で聞くと、こうしましょう。恥でもなんでもないのですから、「爾前迹門とはどういうことですか」と聞いてもいいのです。「三種の法華経とはどういうことですか」と。もうこのようなことはほんとうは基本でしょう。
 しかし私は、けっしてその人は劣るとは思いません。三種の教相を掘り下げていくとすごいのです。爾前迹門だって掘り下げていったらすごいことになるのです。
 また現実の生活のうえでどういうことになるか、ぜんぶ、だんだんわかってくるのです。心境が進んでくれば進んでくるほど御書が恐ろしくなります。また深く読めるのです。
 死ぬまでもうわかったということはないのです。いちおうの道理のうえから、解釈のうえからは納得できる場合はあるけれども、ぜんぶ境涯です。からだで読みきれない、どこまでそれを把握できるか、ものにできるか、それが信心です。「行学は信心よりをこるべく候」とはそこでしょう。
 御書をどう重んじていくか、どう確信をもって指導に反映できるか、生活のうえに確信がもてるか、これは信心です。信心がなければ行学はないでしょう。怠らず一か月一か月前進しましょう、向上しましょう。たった一つの問題でもいいのです。
 大きく将来のカテになっていけばそれでいいのです。
 この教授会はそういう謙虚な気持ちで私はいいと思います。

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