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不退転が学会精神 中部第一本部地区部長会

1963.7.17 「会長講演集」第9巻

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1  たいへんに中部の幹部の皆さん方が、日夜闘争しておられて、小平先生からも、種々と報告を聞いておりますが、すべてに大きい成長ができたことを私はひじょうに喜んでおります。たいへんご苦労さまでございました。
 長年のあいだ、ひじょうに不便を感じておりましたが、いよいよ明日、三階建て鉄筋コンクリートの中部本部の起工式が行なわれるはこびになりました。どうか、その本部ができ上がりましたならば、皆さん方の本部でありますから、縦横無尽に活用していただいて、後輩のため、不幸な人のために、牙城として戦っていただきたいことをお願いしておきます。
 ただひとこと付け加えておきますが、それは、頭がいい人は「なんだ、こんないい場所で、もう二階か三階ぐらい、よけいに造っておけばいいではないか。六階建てぐらいにすればいいのに」とか、また、こういうふうに、もっと豪華で、実用的に造ったらどうか、こういうふうにいう人がいると思いますが、そういう人こそ、なにもやっていない、一銭も払っていない。皆さん方の側は一銭も払っていないのですから、そうでしょう。
 建設にあたって、そういう文句をいう人は一銭も払っていないし、むしろ、なにもやっていない人こそ、そういうことをいうのだと先に申し上げておきます。文句なしといたします。
 さきほど、辻先生からもお話がありましたが、皆さん方が、皆さん方のために一生涯、大御本尊様と離れないで、大御本尊様を放さずに、まっすぐに進んでいけば、あとの指導はなにもないのです。ぜんぶふくまれます。「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」です。
 皆さん方も五年、七年と信心して、退転したときの苦しみ、悲しみ、苦労、そしてまた、まじめにみずから学会活動を、仏道修行をするときの楽しみ、生きがい、皆さん方自身が私は知っていると思うのです。
 信心している自体のことで、いろいろ指導されたり、注意されたり、すぐに感情的になって退転するようではもともと信心がないのと等しいわけです。そういう根性を捨てないで大功徳がわくわけがありません。願わくは、皆さん方のために、自分自身のために、日蓮大聖人様のおおせどおりに信心するならば私たちのうまい話や、ヘタな話は聞く必要はありません。
 だが、私どもは先輩として、日蓮大聖人様のおおせどおりの話であれば、これは聞かなくてはならない。「法に依って人に依らざれ」――法それ自身は聞くべきがとうぜんであります。
 したがって、一生涯、大御本尊様を放さない、これが学会精神です。これが日蓮大聖人様の究極の指導です。そして、自分自身も功徳を受け、御本尊様を知らない人、不幸な人々を救いきっていく、御本尊様のことをいいきっていく、そういう一生を生ききっていこうではないかという激励のしあいが学会の和合僧なのです。そのなかにはいっての幹部でありますゆえに、その精神、その方針、前進だけは、しっかりやってください。
2  長野県へ行って帰りの車の中で幹部のひとりと話をしました。ひじょうに明るい、楽しそうな支部がある、なんとなく暗い、圧迫感をうけるような、うけさせるような支部もあり地区もあります。そういうことについて、いろいろと私も話をし、話も聞き、また私も意見をいったのでありますが、その結論として、その支部長さんの人がら、信心、真心、確信、それで決まることはとうぜんでありますが、その人たちの結論としては、その次にもっとも大事なのは、地区部長さんの、いい地区部長か悪い地区部長かで、いっさいが決まってくる、こういう結論に、きのうはなったのです。
 それは、いい班長さん、組長さん、とうぜんこれは、そういういい組長さん、班長さんがいることが、その地区がよいことにつうずるわけでありますが、地区部長がすぐに感情的になっておこっていまうような地区は、どうしても地区員の人たちが、そばにいる人たちがかわいそうです。また地区部長が、班長さんや、組長さんや、組員さんの話を聞いてあげない、そういう地区部長さんは、なんとなく暗い。
 意地悪では後輩の人たちがかわいそうです。そこへくると、地区部長さんが暖かく、自信を与え、なんでも聞いてくれる、そしてむりをいわない、信心のことを毅然とするけれども、さまざまの指導においては、あくまでも包容して圧迫を与えない、反対に激励をしてくれるという地区部長さんのところは、とても皆が明るくなっているし、自信をもって戦えるし、のびのびとしている、こういうような分析なのです。
 どうか、このなかにも地区部長さん、そしてまた地区担さんがいると思いますが、大事な大事な何百人、何千人の命をあずかっている「長」であります。私に代わって全員の地区員の人たちが「ああ、楽しく信心できる、楽しい。あの地区部長さんには一生、恩がある、恩義がある。あの地区部長さんのためならば、一生涯ついていこう。どんな三障四魔があってもなんで退転してたまるか」と、全地区員の人たちがなるまで、将の将としての自覚をもって戦いきっていただきたいことを心から念願するのであります。
 何万という地区があれば、この十年、十五年のあいだにおいても、途中、地区部長となって二、三、脱落していった人もおります。信心を利用し、地位を利用し、失敗し、女性問題または共同事業等、そういう地区部長のもとの地区員さんのかわいそうな姿、ツエとたのみ、柱とたのんでいるその人が学会精神に反し、純真な人々を裏切っていく、その姿、そういう人たちの最後、人生のみじめさは、私は三年、五年、十年と見ておりますが、あまりにもみじめであります。
 同じようなことがないように私は、自分自身のために、こういうことはないように気をつけていただきたいということを祈る心でいます。少し信心をしっかりして長くみれば、冥益ですから、絶対よくなることは間違いないのです。組織を利用し、役職を利用し、そして純粋なる世界を不純にもっていく、それは仏罰をこうむることはとうぜんです。総罰を受けることもとうぜんであります。
 どうか中部の人たちにおいてはそういう人はひとりもいない、絶対出さないという、信心根本の鉄の団結の中部であっていただきたいことをお願い申し上げます。
 そして、全国の、全世界の地区部長さんやなにかに「中部を見よ、中部を模範とせよ」こういうふうに私どもがいいきれるようにしていただきたいのであります。
3  そこで、次に申し上げておきたいことは、皆さん方、全員功徳を受けていると思いますが、皆さん方の前にいる先輩、理事長をはじめ理事の方々をごらんになっていただきたい。信心して十五年、二十年、まじめに学会精神を根幹として戦いきった、その勝利の姿、それを模範とし、それを手本として、皆さん方のひとりひとりの信心の旗印にしていただきたい、激励にしていただきたい、こう私は訴えるのです。
 そういうわけで、先輩の人たちを見てください。絶対にどんな苦難があっても、最後まで信心しきった人は勝つのです。
 かの太平洋戦争中の大弾圧、それから戸田先生が帰ってきて三年、七年あたりに「悪い宗教だ、軍隊調だ」とかなんだかんだいってすごいアラシがありました。その時、退転した人もいます。しかしいまはみんなあやまってきています。その人たちの生活をごらんなさい。
 たとえどんなことがあっても、皆さん方の宿命として、たとえ大罰の生活にはいり、毒杯を受けて信心するようなことがあったとします、これはたとえです。毒を飲まされて殺される、そういうことがあったとしても、絶対に大御本尊様を疑わない、大御本尊様の功徳を信じていく、そういう信心に透徹した人が、これが真の日蓮大聖人様の弟子であり、これが信心の究極なのであります。
 そういう信心に立ったときに、一生成仏は間違いありません。生きていくそれ自体が楽しくて楽しくてたまらないし、仏の命が湧現してくるのです。どんな人生もぜんぶゆうゆうと勝ちきっていけます。楽しい有意義な人生航路を生きていけます。
 かく私は確信するしだいなのであります。
 その人こそが仏なのです。また真実の仏の使いであり、もったいなくも日蓮大聖人様の御命が躍動してくるのです。本地がわいてくるのです。それであるのに、やれ「寂しくなった、去ろうか」とか、すぐ感情的になって批判し、それが正しい批判であり建設的な批判であるなら、いくらしてもかまいません。どうしょうかああしょうかと心が動いている、そのきびしい一念が自分自身を楽しませもし、寂しくもするし、大功徳とも分かれていくし、功徳を受けきっていくし、罰のほうへももっていくというように、一心の妙用、一念三千の、それが原理なのです。どんなテレビでも、どんな写真機でもラジオでも、精巧な機械であっても、問題は使う人の技術でしょう。一念によって正しくも、また逆にも、運用され使われていくのです。同じく一生成仏、宿命転換のこの信心の一念だけは、しっかりと指導どおりに純粋であっていただきたい。怨嫉をする、批判をする、恨善謗法、憎善謗法です。軽善謗法、信心している人たちを小バカにしていくことです。憎善謗法とは信心している人たちを憎む、恨善謗法は恨むことです。それから嫉善謗法は怨嫉です、指導を受けても聞かないという根性です。この四つの謗法をしたら、同じ大御本尊様を蓮大聖人様の弟子であり、これが信心の究極なのであります。
4  そういう信心に立ったときに、一生成仏は間違いありません。生きていくそれ自体が楽しくて楽しくてたまらないし、仏の命が湧現してくるのです。どんな人生もぜんぶゆうゆうと勝ちきっていけます。楽しい有意義な人生航路を生きていけます。かく私は確信するしだいなのであります。
 その人こそが仏なのです。また真実の仏の使いであり、もったいなくも日蓮大聖人様の御命が躍動してくるのです。本地がわいてくるのです。それであるのに、やれ「寂しくなった、去ろうか」とか、すぐ感情的になって批判し、それが正しい批判であり建設的な批判であるなら、いくらしてもかまいません。どうしょうかああしょうかと心が動いている、そのきびしい一念が自分自身を楽しませもし、寂しくもするし、大功徳とも分かれていくし、功徳を受けきっていくし、罰のほうへももっていくというように、一心の妙用、一念三千の、それが原理なのです。どんなテレビでも、どんな写真機でもラジオでも、精巧な機械であっても、問題は使う人の技術でしょう。一念によって正しくも、また逆にも、運用され使われていくのです。
 同じく一生成仏、宿命転換のこの信心の一念だけは、しっかりと指導どおりに純粋であっていただきたい。怨嫉をする、批判をする、恨善謗法、憎善謗法です。軽善謗法、信心している人たちを小バカにしていくことです。憎善謗法とは信心している人たちを憎む、恨善謗法は恨むことです。それから嫉善謗法は怨嫉です、指導を受けても聞かないという根性です。この四つの謗法をしたら、同じ大御本尊様をを見直して、いままでの先入観念を一変して「信心したい、学会を応援したい、公政連を応援したい」こういうふうになることもとうぜんであります。
 したがって、こういう細かい問題でいちいち神経を使うことは、やっかいでしょうけれども、いっさいが信心のうえからいえば「毒鼓の縁」になり、救えることはとうぜんでありますが、価値論のうえから、小さいことも気をつけて、社会ということを考えて、非常識な行動はとらないようにしていただきたいと思います。

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