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日蓮大聖人・池田大作

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革新のなかの革新 5月度男子部幹部会

1963.5.6 「会長講演集」第9巻

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1  この一年間、そしてまた選挙戦における一か月のりっぱな男子青年部の闘争に対しまして、私は心から感謝申し上げるものであります。ありがとうございました。
 すでに今回の王仏冥合への先駆者として、現役の青年部より百名に近い同志を議員として、大衆の幸福のために、政界浄化のために広宣流布のために送ることができました。しかし、これで広宣流布ができ上がるわけでもありませんし、四年先、八年先、十二年先をみた場合に皆さん方のなかから幾百名の議員が、そしてまた幾千名かの議員が出ていただかなければ、広宣流布はできないという自覚をもって、希望に燃えて、忍耐強く前進しきっていただきたいと思うのであります。
 かつて恩師戸田先生は「わが創価学会の男子部は、明治維新を成し遂げた高杉晋作であり、久坂玄瑞である」といわれました。彼らは明治維新をりっぱに成し遂げたけれども、御本尊様をもっておらず、やがてはこわれてしまった革命でありました。
 いま私どもは、永久にこわれない、またこわれることのない大御本尊様を根本とし、日蓮大聖人様の色心不二の大生命哲学を根底として、革命の道を進んでいるものであります。したがって、彼らよりも百千万億倍すぐれ、力あることを自覚して、確信をもって、私ども青年の力で、信心して、意気と情熱で、王仏冥合をりっぱに完遂しようではありませんか。
 広宣流布の道はまだまだ遠く、険しいことはとうぜんであります。青年期における私どもは、理想を高くもつことは、とうぜんであります。しかし現実に、足を大地にしっかり踏みしめていかねばなりません。
2  第一に大事なことは、なんといっても題目を上げきっていくということであります。これがいっさいの向上、活動の源泉であります。
 次に日蓮大聖人様の生命哲学を心肝に染めきっていく、その熱意であります。真剣さであります。日蓮大聖人様の哲学を根本として、いっさいの思想、そしてまた現実の政治、指導階層の間違った考え等に対して、おう盛なる批判力をもっていっていただきたいことであります。
 次に、おのれの職場にあって、絶対の勝利者になる、いなくてはならない社会の勝利者になることであります。また部隊にあっては、組織のうえにあっては、その責任をまっとうして、一つの歯車を広宣流布の全体の生命体への歯車の一つと自覚して、それを完遂しきっていく、そのように自覚をもって進んでいくことが、とりもなおさず広宣流布のぜんぶ原動力につながっていると、こう私は思うのであります。
 私もかつては、青年部にあって一青年部員の時代もありました。また班長の時代もありました。当時は隊長がありませんもので部隊幹部をいたしました。そして部隊長もいたしました。輸送班もやりました。私は輸送班の先駆者であります。
 また王仏冥合への第一回戦において、個人演説も街頭演説も、そしてまた、あらゆる細微にわたる小間使いもいたしてまいりました。私はぜんぶが、おのれがなすべき仕事は、御本尊様が見通しておられるし、いっさいが、自分自身の人間革命であり、一生成仏の源泉であるということを自覚して、どんな場合でも大御本尊様を信じ、戸田先生を信じきって、自分自身のためと喜々として、のびのびと戦ってまいりました。
 皆さん方も、ある人は班長であり、隊長であり、または下積みのような分隊長である人があると思いますが、私もそのような経過を踏んできたということを、どうか知っていただいて、私とともに最後の最後まで、がんばっていただきたいのであります。
3  また日蓮大聖人様の御書に「当体蓮華」というおことばがあります。当体蓮華ということは、妙法蓮華経ということであります。その当体蓮華というその法を説明するために、譬喩蓮華を天台大師はよく使っておられました。
 照れ文書華の花は、花と実が同時に咲き実るという因果倶時を表わしております。当体蓮華として、妙法蓮華もやはり因果倶時の法則であります。それがいっさいの生命活動の本源であり、宇宙活動の根本であることは、皆さんもじゅうぶんに知っておられることと思いますが、二、三年前の新聞で、たまに報道される記事のなかに、千何百年前に、または二千年前の蓮の実が今日になってりっぱに花を咲かせた。このように報道されてきたことが何回かあります。
 いま日蓮大聖人様の仏法は、七百年以前に説かれた仏法であることはとうぜんであります。しかし、青年が幾百万、このように自分自身も人間革命し、また政治革命、社会革命をしていく、この現状の縮図を見た場合に、蓮の花が二千年前であっても、現在きちんと咲いたということは、現実に花が咲いたというその現象は、日蓮大聖人様の仏法が七百年間、今日まで伝わってきた。ちょうど日蓮大聖人様の仏法を実とたとえた場合に、いまが爛漫と蓮の花が咲いた第三文明の花が咲いたという姿であいつうずるわけであります。したがって、その姿こそ私はもっとも新しい革新の姿であると思うのですが、どうでしょうか。
4  保守でも救われなかった人間が、日蓮大聖人様の仏法によって救われた。革新といっても、叫んでも、救いきれなかった、何千、何万、何十万人の人が大御本尊様の力によって、学会の力によってりっぱに救われた。すなわち、だれびとがなんと批判しようが、創価学会の前進こそがもっとも私は進歩のなかの進歩であり、革新のなかの革新であると断言するのであります。
 批判する人それ自体が、創価学会の本質を知らないではありませんか。王仏冥合のなんたるかを知らないではありませんか。また宗教から論ずるならば、既成宗教に対して、それを保守とするならば、新興宗教は革新ともいえるかもしれません。
 ですから新興宗教といわれております。両方ともたいしたことはありませんし、邪道でありますけれども、知識階級がバカにされきっておりますけれども、じっさい創価学会の前進は、古さをいえば久遠元初、近くをいえば七百年前であります。だが既成仏法もひろまりきったあと、新興宗教もひろまりきったあと、ぜんぶひろまりきったあとに、創価学会の折伏の大行進があったわけです。あらゆる面から総合して、王仏冥合の思想、そしてまた創価学会の思想、前進の姿は、絶対に進歩のなかの進歩であると、一念のめざめがなくして、なんの真実の革新や進歩があるかと私はいいたいのです。本源的の一念のめざめがある、そこからでき上がったいっさいが、初めて私は真実の革新であり、進歩であると確信するのですけれども、どうでしょうか。
 どうか、私どもこそがもっとも時代の先駆を進み、時代を切り開いているという誇りをもって、だれびとがなんといおうが「なんと時代遅れなことをいっているのだ」と見下げつつ、楽しみきって仲良く、またこの一年間、がんばっていこうではありませんか。

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