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日蓮大聖人・池田大作

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名誉主義廃して謙虚に 大幹部会

1961.12.23 「会長講演集」第5巻

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1  どうも長い時間、ご苦労さまでございます。
 めんどうな、かたい話ばかりで、また少し、かたくなるような気もしますけれども、私は大幹部だけには、少し無理であるなと思っても、大幹部のいかんによって、創価学会の盛衰が決まりますので、創価学会の盛衰によって、日蓮正宗、また広宣流布が、できるかできないかが決定されることを考えた場合に、どうしても、やかましく、または訓練においても、無理をいわざるをえない場合がありますから、その点、なにとぞ大幹部の皆さん方はご了承してください。
 最初に大幹部として、とくに気をつけていただきたいことは…… 書く必要はありません。いちいち書かなければ自分のものにならないような人は、大幹部の資格がありません。だからといって、書かないで、みんな忘れてしまったならば、また資格がないし、その点は要領よくやりなさい。
2  それは創価学会は『名誉主義』であってはならないのです。『自分は十年、二十年、組織のうえで、そうとういい位置にいたから、とうぜん学会の大幹部なんだ』ということは、絶対これは広宣流布まで許しません。『ずいぶん、自分は折伏をやってきたのだから、皆から人気があるのだから、自分は、もうたいしたものだ』ということが、もしか許されてしまったならば他の会社や、他の団体と同じになってしまうのです。
 『名誉主義』の、『功績主義』だけの組織で学会は行ってはならないのです。したがって、自分の使命を達成して、自分に力がなくなったらば、一兵卒になって、そこでまた、最後のご奉公をしていく場合もあります。そのぐらいの清らかな、謙虚な気持ちになって、学会を守り、広宣流布の推進をしていっていただかなければならない場合があります。
 そうでないと、大幹部になった、そして『殿さま気分』になるおそれがあるのです。私たちがいる前では、わりあいに謙虚な姿で、礼儀正しく、とってもりっぱな大幹部みたいにみえるけれども、一歩、北海道に帰り、または九州に帰り、四国に帰り、おのおのの支部に帰った場合には、傲慢無礼になり、ほんとうの民衆の指導者として、こんな人が創価学会の大幹部であるのかなと、内外の人が首をかしげていくようになっていくことも、私は心配するのです。
 いままでは、ひとりもおりません。だが、私が倒れ、また第四代が倒れ、そのときに皆さん方が長生きして、やれ六十だ、七十だ、八十だといって長生きしていった場合に『おれは会長よりも偉いのだ』『第五代の会長よりも、たいしたものだぞ』というふうになってもいけないのです、信心の世界は。
 その意味はわかりますね。殿さまになってはいけません。
 また、最高幹部は、その点はおたがいに気をつけて、そうさせてもいけない。大幹部の一念によって、いっさいの支部・地区、または部隊・隊が左右されるのです。
 会社をみたって、国をみたって、また歴史をひもといても、一家をみても『長』がりっぱであれば、いっさいがりっぱに成長していきます。どんなところであっても『長』が堕落し、後輩を思う一念に欠け、惰弱であるならば、後輩がどんなにりっぱに真剣に戦おうと思っても、それはかわいそうです。目的が達成するわけはないのです。『長』の一念によて、いっさいが決まる。さっきも、私は理事室をしかったのです。なぜか。『きょう集まったおのおのの総支部の員数は何人か』と聞いたときに、わからないのです。
 それは大将だから、おうよに構えていいといえば、いいかもしれないけれども、知っていたうえのおうようならば、これは大将です。人に任せて、自分が横になって、そして、おうようということはバカという意味なのです。『愚将』という名称になるのです。
 支部長も同じです。いま私が、これから各支部長に、または福支部長に、組は何組あるか、または班は何班あるかを聞いていくつもりでありますけれども、きちっとそれを知っていてそして地区部長や、または福支部長に任せてあるなら、これはりっぱな大将であると思います。
3  いわんや、私たちの教団においては、信心根本に、後輩をぜんぶ成仏させていく、全世界にただひとつの清らかな、正しい指導者の団体です、教団です。
 この創価学会の火が消えたならば、全世界は闇です。その先駆けをきっているがゆえに、私はやかましくいくつもりなのです。
 日蓮大聖人様の『上野殿御返事』の有名な一節に、『ただをかせ給へ・梵天・帝釈等の御計として日本国・一時に信ずる事あるべし、爾時我も本より信じたり信じたりと申す人こそおほくをはせずらんめとおぼえ候』 という一節があります。
 前半のこの一節は『日本国・一時に信ずる事あるべし』というのは、絶対に広宣流布ができるというご断言であります。いまもその序幕です。『一時に信ずる事あるべし』もう十世帯に一世帯人が御本尊様を拝んでいる現状です。その次の、その時になって、広宣流布の時になって、いまを中心にしても、過去においた場合にも適用されます。将来においても、広宣流布実現の時にまた、それは応用される原理です。
 『我も本より信じたり信じたりと申す人こそおほくをはせずらんめとおぼえ候』広宣流布になった時に、大勢の人が後悔するであろう。なぜかならば、自分も御本尊様をたもっていた、自分も何年間か、じつは信心していたと、このようにいっても、もうおそい。
 広宣流布の先駆として、広宣流布実現に戦った地湧の菩薩の先駆者、すなわち、日蓮正宗創価学会の大幹部こそが、名誉のなかの名誉であるというおことばと、私は拝したいのでしあます。
 これから、何百万、何千万の人が信心するでありましょう。だが、大幹部にはいってこられる人は、それこそ数少ない人しか、はいってこられません。また、過去において相当数の長い信心をしている人があったけれども、大幹部になれないで途中で失格した人が、どれほど多くあるかしれません。
 途中において難があり、誹謗された場合に、御本尊様を信ぜず、大聖人様の広宣流布を疑い創価学会を疑って、途中で皆倒れていっているのです。いまになっておせじをつかい、要領をつかい、または、ある人は真剣に後悔して、なんとかまた、名誉ある位置につきたいと思っている人も何百人、何千人もあることも、私はよく知っております。
 また、戸田先生がなくなって『もう学会はダメだな』と疑って、いまになって前非を悔い、くやんでいる、大幹部候補になって、ぜんぶ落とされている人も、何十人も何百人も私は知っております。戸田先生が大幹部に対しては『霊鷹山会に「戸田の弟子である」といって、大手を振って、霊鷹山会にいらっしゃい』とまでおおせになっておられました。
 願わくは、皆さん方大幹部の方々は、ひとりの落後者なく、最後まで私とともに、名誉ある地湧の菩薩の代表者として戦っていただきたいことを、私は念願申し上げるしだいでございます。
4  次に申し上げたいことは『責任をもって自由に活動をしていただきたい』ことです。これはよく理事長からも皆さん方に話されていることなのですが、いちいち本部でどういう指示をするかということにとらわれて、お人形さんみたいにならないでいただきたいのです。
 やるべきことは決まっております。それは企画として、来年いっぱいのこととか、とうぜん全体観にたってのうえでの、歩調を合わせるための指示、企画、伝達もあります。それはそれとして、支部長とし、大幹部として、指導、戦い、包容等において、自由奔放に皆さん方はやっていただきたいのです。
 ちょっと事件があった、いちいち本部の指示をうけたならば、どう解決してよいかわからない。そういう、ぎごちないいくさは困ります。頭を使っていただきたいと思うのです。思う存分に。
 ただし、大幹部として、ぜんぶ本部で任命した皆さん方でありますから、責任をもっていただきたい。だが、そこで、なにか失敗があったとしても、ぜんぶそれが学会の前進のためであり、学会人のためであるならば、仏法のためであるならば、私たちは全面的に皆さん方をお守りします。安心してそのような行動をお願いいたします。いいですね。
 次に申し上げたいことは、大幹部になると、後輩の人が『先生、先生』と頭を下げ、また、なかにはお金持ちやなにかもみえて『なんとか、このへんで、利用でもしようかな』という根性がでてくるものなのです。これは人情なのです。いばることだけではなくして、とっても、これは『あの人と関係を結べば、なんとか商売のほうがうまくいきそうだな』こうなるのが常なのです。
 もしか、大幹部となって『信心利用』の根性のでた人は、これは即座に大幹部を解任いたします。一時的に、もうけるような、そういう状態があったとしても、最後は必ず地獄へ行くことは、もう過去十何年間の、たくさんの現証を私たちは見ておりますし、皆さん方も知っていると思います。
 そういう、やましい、卑屈な、貧乏根性だけは、大幹部は絶対にだしてはなりません。いっさい、大御本尊様から大功徳をいただいてみせると、生活即信心で戦っていただきたいのであります。
 したがって、きのうもお話がありましたが、信心のことにおいて後輩から物ひとつもらってもいけません。そのときに、ちゃんと、りっぱな指導ができるのです。
 最後まで、創価学会は世界でただひとつ、純粋なる団体でいきたいと思います。
5  それから、次に申し上げたいことは、これは、もう一節御書を拝読いたしますが、大幹部になると、いろいろな点で、組織のうえで、名誉のうえで、位のうえでは、大幹部であるけれども、信心が、しらずしらずのうちに、自分自身で気がつかず、皆が大幹部と信頼しているうちに、落ちていく場合があるのです。
 『身はをちねども心をち或は心は・をちねども身はをちぬ
 四条金吾殿御返事にありますが、大幹部の成長が、ぜんぶの成長に通じてくるのです。それで、大聖人様は四条金吾殿に、このようにおおせになっています。
 これは四条金吾殿に対する指導を、私どもへの指導と拝したいのです。それは、 『賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人を必ず天はまほらせ給うなり』       
 次にもう少しありますけれども、ここまでできっておきます。
 賢人とは賢い人ということです。賢人と申すは、八つの風に左右されない人をいうのです。自分自身がりっぱな大指導者として、つね日ごろ人間革命に励んでいかなければ後輩がかわいそうです。大将軍になっていかなければならないのです。賢人ということは大将軍ということです。いまのことばでいえばりっぱな指導者ということです。
 その指導者は『うるおい』金だけの目当てでもいけない。『おとろえ』だんだんだんだん自分は年をとっているから、もうこのへんで信心やめてもいいだろうという、おとろえに左右されてもいけない。おとろえの風という意味です。『やぶれ』なにか失敗があった。だからもう自分はダメなのだ。そういような、弱い根性でもいけない。『ほまれ』人からほめられた。名誉をもらった。そういうことで浮き足になってもいけない。『たたえ』皆からほめられた、賛嘆された。だから自分はたいしたものだ、ということにとらわれてもいけない。『そしり』これは、しょっちゅう、そしられているから驚くことはないとおもいます。『くるしみ』苦しいからといって、それからまた『たのしみ』いまはもう幸福でいっぱいだといって、そういうようなことで、民衆の指導をお断りしてはいけない。こういう意味なのです。
 ですから、われわれは、凡夫即極、諸法実相のふるまいでありますから、うれしいときは、いくら喜んでもいいし、苦しいときは、ああ、苦しいと思うこともやむをえないし、楽しいときは、うんと楽しんでもかまわないのです。だが、それだけに流されて、民衆の指導を忘れてはいけない。信心の向上を忘れてはいけない。
 したがって、うんと金がもうかったら、もうこれで自分は学会をやめよう。御本尊様の手柄ではないのだというふうになってもいけないし、だんだん、だんだん、自分が商売がたいへんであるからといって、卑屈になって指導を怠ってもいけない。そういう八つの風に少しも左右されないで、流されないで、どんどんどんどん広宣流布のために指揮をとっていく人には、必ず天の守りがある。大御本尊様の功徳厳然たり、というおことばなのです。
 したがって、皆さん方は、ついいままで工員であった人もいるかもしれません。
 それが、何千、何万人のうえにたって『先生、先生』とあがめたてまつられて、いい気になるような大幹部になっていただきたくないのです。
 また、自分は大幹部であるけれども、金がない。商売がひじょうにまずいからといって、なんら卑屈にならず、堂々と信心指導の指揮をとっていただけるような大幹部になっていただきたい。このように、御書をとおして、私は深く皆さん方が大将軍として、内外に厳然たる確証をにぎるまで成長されんことを、心から念願するものです!
 以上、強い団結と、強い信心の向上とをお祈り申し上げて、来年一年、楽しく、仲良く、力強く、ひとりひとりの勝利と、創価学会の大勝利を心から期待して、私の指導といたします。たいへんご苦労さまでございました。

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