Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

『折伏小論』講義 夏季講習会講義

1959.8.8 「会長講演集」第4巻

前後
1  最初は『認識と評価と実践という問題』です。あくまでも大御本尊様様のお力を、自分自身が知りなさい。しっかり勉強して、日蓮正宗の偉大な仏法を知っていき、それを実践して自分の生活、生命のうえに、厳然たる確信をもたなくてはいけませんよとの会長先生のおおせせです。
 敷衍していえば、自分の支部員を動かす場合にも、書記に堪能な人、折伏のじょうずな人、教学が非常にすぐれている人と、ひとりひとりの個性、境遇というものをよく認識し、評価し、実践にあたらせていきなさい。やはり大将は、認識をしてあげなければ、その人を評価し、実践させていただくときに苦しんでいまう。
 もう一歩進んで、認識を間違え、おばあさんが苦しんでいるところへ、一生懸命に教学の話をしてもだめです。また、学生に金もうけの話をしてもしようがない。学生には一念三千の理法でもいいでしょうし、相手が納得できるような教学、哲学を話してあげることが大事だという三段階の理法を説いていらっしゃる。これは大事なところです。
2  二番目は『組織は完ぺきにできているけれども、どう運営したらよいか』という問題。学会の組織は広宣流布のための組織であり、仏道修行をやすやすとできるための組織ですから、組織が動かなかったらだめです。
 組織を動かす源泉はなにか。それは中心者の御本尊様の対する絶対の確信と情熱です。その確信と情熱をもって任務を達成しなさい。あくまで『将』の立場をいっていらっしゃいますね。
 組織があるのだから、うまく自分のアゴで使っていけば組織は動くだろうなどという考え方は邪道です。御本尊様の法力・仏力を源泉として組織を動かしていきなさい。
 最後のことばは大事ですね。『卒に将たるはやすく、将に将たるは難し』と。班長とか分隊長とかいうのはまだいい。組長、班長、地区部長のうえに立った将『将に将たるは難い』と。『お山の大将』ではいけない。よくよく玩味すべきでしょう。
 それから、もうひとつは、仏法のためには学会精神を中心として厳然たる確信をもっていく将でなくてはならない。自分の地位を中心とした確信ではいけない。『法』のうえからみても、厳然たる確信。また『人』のうえからも人々から慕われる人がらで、根本は人を愛し、その人の幸福を願っての指揮をとっていかなければならない。それも、自分についてこないなんていう自分本位ではなく、ぜんぶ御本尊様に直結させていくための媒介です。
 大御本尊様、仏法に対しては謙虚な態度で、こんな若輩の自分が、何千、何万の人の仏道修行を誤りのないように指導させていただける地位に立ったのだ。もったいないと、あやまりなく御本尊様に直結させていく。そして、信心しやすいように、一日も早く御本尊様の功徳を体得できることを願っての将こそが『将の将』であると思うのです。
 会長先生がいらっしゃるときは、まだ先生の威光と訓練がきびしかったから、わりあいに心配はなかったのですが、先生の思想、訓練ということが、だんだんうすらいでくる。信心が慣れ、組織が惰性になり、自分自身が、しらずしらずのうちに悪鬼・魔民にたぼらかされて、このような弊害におちいってしまう。
3  折伏小論(2)、この段はもっとも反省し、自覚をしていくべきところです。
 最初のところは『感激がないのに理論に走る型』
 学会は信心の団体なのです。まず、ふりかって『信心』という立場に戻れ、御本尊様の前にすわったときに『過去遠々劫の罪業を消してください。尽未来際への福運を積んでください……』と願う、感激のあらわれになってきますよ。そこから出発いなさい。
 オウムみたいに、自分はこれだけ知っているのだ、なんでも答えてあげるというような、感激のない、信心のない指導は、排除しなければならない。これは非常にあるのですよ、青年部のなかにも、生活体験がないところから、こうしたことが、ときどきあります。こうなる原因は、やはり『慢』です。どこまでも法を求めきっていく精神、『求道精神』を失っていなければ、この型にならないのです。法華経のなかに『仏があるときに大衆とおわしき』とあるが、大衆とともに仏道修行しいくという自覚があれば、こういう型にはまらないのです。感激をもって指導し、仏道修行していきなさい。
 第二は『御本尊様の威光をかりて、折伏の系統を自分の子分とみなす徒輩がある』これも気をつけるのですね。御本尊様をたもつ人は地涌の菩薩であり、日蓮大聖人様の弟子なのです。あくまでも大聖人様のもとには平等です。
 したがって、自分の『系統』を重んじていくことは『派閥』をつくる根本原因になるのです。組織というものは、広宣流布への便宜上のもので、絶対のものではありません。眷属妙といえば一応はいえますが。
 自分の支部員や地区員を、子分や女中みたいにアゴで使っていくということは、もっとも広宣流布への害毒です。幹部の家へこなければキゲンが悪い、自分のそばへきてなければおかしいなんていう、そういう偏頗な、偏狭な行き方はいけないといっていらっしゃいます。
 いま、学会にはないですが、人間は感情の動物ですから、そういう傾向に流れるときがある。五年、十年、二十年たってくると、とくに、文化部員の人は気をつけるのですね。微塵でもそういう傾向があらわれたら、きびしいですよ。
4  第三は『信仰利用の徒輩です』生命保険、物売り、金銭貸借、共同事業など、これも、そうとうでてくるのです。これからも多角的な、いろいろな文化活動がはじまってきますが、気をつけなければいけませんね。
 自分の力で信仰で生活するのです。それで初めて指導ができるのです。組織や信心を利用して自分の生活をたてていこうなどというのは、下劣のなかの下劣です。ほんとうの信心ではありません。功徳はでません。自分の力で信仰し、生ききっていくのです。
 『三千羅列してきびしき身なり』仏法にはおまけも割引もないのです。断じてそういう弱気をはいたり、工作的な、卑怯な行き方はやめたいと思うのです。これが学会のなかにはびこったら学会は腐る。官庁や政党、また末期の軍隊と同じことになってしまう。そしたら学会は解散したほうがいいのです。
5  第四は『信仰しているふりをして、じつは信仰していない』 
 『カモ信』というのです。信心しているかもしれない。していないかもしれない。このところは、組織という、地位という美名にかくれて魔になるのです。暗雲たなびく姿になってしまうのです。これもこわいのです。『カモ信』はいけない。上へいけばいくほど気をつけなければいけない。進まざるを退転という。どこまでも学会の歩調に、ギアに、はまって指導の任にあたっているかどうか。見えなくなりやすいから気をつけなさいというところです。胸が痛いところですね。
6  第五は『偉大な信念も、絶対の確信もないのに、大信者のような顔をして指導に立つ輩』
 慢心、増上慢、いばり、これも気をつけなければなりませんね。会合などにいって『なんだ、この変な企画は』などとおこる資格なんかありません。もしもまずいところがあったら、そのために行ったのですから『笑みをたたえて』ということばがありますが、その人の身になって、暖かく指導してあげるのです。そうでなければ、後輩はこわくって、安心してついてきませんよ。
 上であろうが、下であろうが、同じです。法は平等です。少しぐらい偉くなったからといって、組員や地区員のところで、傲慢な姿をみせてはいけませんよという戒めなのです。そのひとを励ますためにいうことはいいですが、自分の感情や慢心で虫ケラのように支部員をみていったりしたら、罰をうけます。これも、こわいことです。

1
1