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日蓮大聖人・池田大作

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鶴見合同幹部会 学会活動のなかにこそ真の幸福

1960.5.17 「会長講演集」第1巻

前後
1  ちょうど昭和二十五、六年当時に、私は毎日のように鶴見のほうへおじゃまをしにきておったのです。講義にもきておりましたが、非常に、そういう点からみて、縁が深いのです。そのころは、戸田先生は牢から出られ、会長におなりになることをきらって、罰をうけられ、事業の方面でも、大きい難を受けられておったときなのです。
 そのときに、先生から非常にごやっかいになっておった人が三人おりました。その三人の人から私も指導を受けたのです。ちょうど私も、からだを悪くして、もうこれで一巻の終わりかなというぐらいの、私個人にとっても三障四魔でございました。 
 そのひとりは『戸田などに使われるのはやめたまえ』『ばからしいではないか、からだまでこわして』と、こういうふうに私に進言してまいりました。しかし、その人は現在、半気違いのようになって、みすぼらしい姿で生活をしている事実をみております。
 もうひとりの人は、私を指導してくれたときに言うには『戸田につかないで、私についてこい。私につけ。私のほうの商売をやっていけ』このように指導をしてくれた、そうとうりっぱそうな人がおったのです。その後、その人の状態も聞いておりますが、さびしそうに小さい店をもって暮らしているということをうかがっております。本部にもこられないような状態です。
 そうして、もうひとりの人は、その苦難の最中に『いまこそ、御本尊様を拝むときだ。絶対に御本尊様をうたがってはいけないよ』と、このように指導してくれました。今その人は、名実ともに学会の大幹部として、公私ともに、幸福に満ち満ちて指導の任にあたっている姿を拝見しております。
 私は大事なときこそ、大御本尊様を忘れてはならないと思うのでございます。
 御書のなかに、また法華経のなかに、而強毒之ということばがあります。どういう意味かといえば、戸田先生の御解釈を拝し、倒れても御本尊様に、御利益のあることを疑わない。どんなことがあっても、どんな事態があっても、御本尊様を疑わないで折伏していくという意味なのです。
 これが、日蓮正宗の大御本尊様を拝む信心の究極であると私は信じます。
2  大聖人様は、佐渡御書(御書957㌻)に『難があるときこそ師子王の心をいだしたものが仏になる』とおおせです。ふだんのときは、いいかげんでよいということではありませんが、いざという場合、個人にあっても、学会にあっても、家庭にあっても、そういうときこそ信心が大事である。師子王の心をいだして、信心をふるいおこし、邪宗を折伏していく、それが宿命の転換になるのです。その心のある人が仏になるのです、幸福になれるのだというおことばでありますが、つねづね先生も、そういうふうにお教えくださっておりました。
 私は昔、病気も非常に多かったからだでありました。しかし、戸田先生につき、信心をし、信心して三年目に先生の大きな難にお供をしました。先生は、そのときに『題目を唱えきれ。そうすれば、お前のからだもよくなる。こういう大きい難があったときに、信心しきっていけば、そのときこそ大功徳があるのだ』とおおせくださっておったとおりに、現在あらゆる点で私はしあわせです。
 その原因は、七年前、八年前に、その題目をあげきった、先生の指導を実践しきった賜物であると、それしか考えられないのです。
 新聞にいくら誹謗されようとも、雑誌にいくら学会のことを書かれようとも、世間の人々がどんなに誹謗しようとも、そんなことは、たいしたことではない。
 先生は、そんなことは蚊の鳴くようなものだと申されておりました。
 また、大聖人様は御書に『世間の留難というものは、ちょうど雨にぬれているようなものだ。あとはさっぱりするのだ。もしか、そのために退転したならば、阿鼻叫喚地獄に落ちて、炎のなかに、真っ裸になってはいっていって、閻魔の法王に責められながら、業苦のなかに、はいっていくのだ。それを思ったとき、なにも今世の難などは、たいしたことではないではないか』という意味のことを、おっしゃっておられますけれども、今、私どもには『大きい難をうけるべき資格などない』と、先生もおおせになっていました。
 すべて、一個人の宿命転換への戦い、家庭革命への闘争、そのぐらいの戦いへ向かっての難に対しては、どんなことがあっても、御本尊様を放さないで、しみじみと御本尊様の偉大なるお力を感じきるまでは、信心しきっていきたいと思うのでございます。
3  願わくは、何年先になったならば一生懸命信心しようとか、ある一定の時期がきたならば勉強しようとか、もう少し気分がよくなったならば先輩に指導をうけにいこうとか、そういうような考えではいけません。
 永遠は瞬間に含まれ、永遠は瞬間の連続である。
 大聖人様も『ただいまを臨終と思うて』というおことばをおおせでございますが、今、きょうが大事である、こういう自覚をもって、きょう、今から、もしも自分が間違っておったならば、自分の信心が足らなかったならば、自分の修行が足らなかったのだなあという自覚をおもちになったならば、即座に勇ましく前進していこうという心構えこそ、真の前進であると私は思うものでございます。
 映画館へ行っても、パチンコ屋へ行っても、どんな享楽の遊びをしても、一生は一生です。そういうようなことを長くやったからといって、ひとつも楽しみではないことはわかっております。
 学会活動が非常にたいへんだ、折伏がたいへんだ、どうもその、信心すると苦しいとおおせになるのであるならば、一週間か一か月ぐらい、ゆっくりお家で休んで、どこでも、ほうぼうへ遊びに行かれて結構だと思うのです。
 どれほどそれが、はかないものであるか、かえって苦しいものであるかということは、体験をおもちの方もあるのではないかと思うのですがね。
 ほんとうの喜びは、衆生所遊楽、また自受法楽とおおせでございますが、法戦のなかに、信心のなかに、学会活動のなかにこそ、真実の、どこでも味わうことのできない幸福感、喜びというものを、味わっていける世界であるし、また味わいきれるまで、修行しきっていただきたいことを切望して話といたします。

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