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日蓮大聖人・池田大作

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師弟勝利の7月(上) 真実は勝て! 必ず勝つのが師子!

2007.7.20 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

前後
1   師子の道
    共に征かなむ
      悠然と
    三類三障
      笑い飛ばして
 アメリカの民衆詩人ホイットマンは高らかに歌った。
 「まだまだ勝負はこれからだ、一つ元気いっぱい頑ばろう、
 (闘争と捨身の攻めを喜ぶ心は最後まで手ばなすな)」(『草の葉』下、酒本雅之訳、岩波文庫)
 学会精神も、また同じだ。
2  戸田城聖先生は、常々、私に語っておられた。
 「指導者を狙い撃ちにするというのが、弾圧の常套手段なのだ」
 法華経には「数数見擯出」(法華経420ページ)と説かれる。「数数」とは「度度」ということである。御書には「王難すでに二度にをよぶ」とも記されている。
 戸田先生に襲いかかる、再びの王難だけは、絶対に阻止せねばならない。いな、私が代わりに受け切って、断じて先生をお護りし抜くのだ。
 「若し恩を知り心有る人人は二当らん杖には一は替わるべき事ぞかし」。この御聖訓が、私の誓願であった。
3  一九五七年(昭和三十二年)の七月三日、あの「大阪事件」で、私は、全く無実の選挙違反の容疑で不当に逮捕され、二週間にわたって拘束された。
 私が絶対無違反を繰り返し訴えていたことは、同志の皆がよく知る事実であった。
 大聖人は、佐渡流罪を前に、「本よりして候へば・なげかず候、いままで頸の切れぬこそ本意なく候へ」と仰せになられた。
 そして殉教の先師・牧口常三郎先生は獄中にあって、「大聖人の大難から見れば、自分の難などは九牛の一毛である」と言われていた。
 その先師と恩師の苦難から見れば、私の投獄もまた「九牛の一毛」に過ぎない。
4   関西の
    友との苦楽を
      誇りとし
    原点深く
      常勝永久にと
 ある全国紙は、私の逮捕の前日から、真実とかけ離れた学会批判の連載を始めた。同志は、どれはど唇を噛み、悔し涙を流したことか。
 しかし、虚偽は虚偽である。
 古代ローマの哲人セネカは、「われわれを欺くものは何ら真実のものをもっていません。うそは浅薄です。注意深く検査したならば、それはみえみえです」(『道徳書簡集』茂手木元蔵訳、東海大学出版会)と言った。
 関西本部の仏間は、私の無事と早期の釈放を祈って唱題する同志で、昼も夜もあふれかえっていた。
 アメリカ・ルネサンスの旗手エマソンは言った。
 「わたしは生気に溢れて正しい道を歩き、あらゆる方法で歯に衣きせぬ真実を語らねばならぬ」(『エマソン論文集』上、酒本雅之訳、岩波文庫)
 わが友は、必死に祈り、そして魂を打つ肉声で、創価の師弟の正義を語り抜いていったのだ。
 「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」。我ら創価の陣列には、臆病者は一人もいなかった。
 なかんずく、常勝関西は広宣流布の鑑である。師弟不二の鑑である。異体同心の鑑である。
 そして、この関西と一体に、中部をはじめ、全国の同志も、勇猛に戦いを繰り広げている。
5  人類に環境危機の警鐘を真っ先に打ち鳴らした、ローマクラブの創設者ペッチェイ博士とは、何度もお会いした。
 博士は、第二次世界大戦中の一九四四年二月、ファシストに逮捕され、ほぼ一年、投獄された。
 牧口先生、戸田先生の獄中闘争と同じ時期だ。拷問を受け、顔が見分けがつかなくなるほど殴られた。
 ふだん号令をかけて人を動かしていた人間たちが、いざという時に変節していった。
 だが日頃は目立たなくとも、絶対に裏切らぬ真の同志がいた。この苦難は「私の人生を最も豊かにした時期の一つである」(大来佐武郎監訳『人類の使命』菅野剛・田中努・遠山仁人訳、ダイヤモンド社)と、大博士は言い切っておられた。
 そして、「この時期の経験から私は、人間の中には善を求める偉大な力が潜んでいることを確信するようになった」(同前)とも語られていた。
 ともあれ、いかなる迫害にも属せぬ、強靭な魂の発見である。
 「名誉は正義を行なってのみ得られる」(『ホセ・マルティ選集』2、青木康征・柳沼孝一郎訳、日本経済評論社)とは、キューバ独立の父ホセ・マルティの言葉であった。
 ペッチェイ博士のほかにも、私が交友を結んだ世界の指導者の多くは、投獄や亡命などの苦難を乗り越えておられる。
 思い起こすままに、お名前をあげれば──
 中国の周恩来しゅうおんらい総理。寥承志りょうしょうし中日友好協会会長。
 インドの社会運動家ナラヤン氏。同じくガンジーの高弟パンディ博士。さらにガンジー記念館・前館長のラダクリシュナン博士。
 カンボジアのシアヌーク国王。
 キューバのカストロ議長。
 アルゼンチンの人権活動家エスキベル博士。
 ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁と、詩人のチアゴ・デ・メロ氏。
 チェコのハベル大統領。
 フランスの作家で、レジスタンスの闘士として戦った、アンドレ・マルロー氏。
 ロシアの児童劇の母ナターリア・サーツさん。
 イラン出身のテヘラニアン博士。
 ナイジェリアの劇作家ショインカ氏。ケニアの女性環境運動家のマ一夕イ博士。
 南アフリカの詩人のムチャーリ氏。
 そして、二十七年半に及ぶ投獄を勝ち越えて、私に会いに来てくださった南アフリカのマンデラ大統領......。
 マンデラ大統領が、獄中から愛娘に贈られた手紙には、「鉄の意志と必要な熟練とがあれば、個人的な勝利へと転化することができない不運などこの世にはほとんどないのだよ」(ファティマー・ミーア『ネルソン・マンデラ伝』楠瀬佳子・神野明・砂野幸稔・前田礼・峯陽一・元木淳子訳、明石書店)という一節がある。
 一九九〇年の十月、初来日されたマンデラ大統領を、聖教新聞社にお迎えした。
 その折の感慨を、人権の王者は、こう語ってくださった。
 「滞日中、最も嬉しかったことは、池田SGI会長にお会いしたことです。
 また、その際、若い学生の方々らが温かく迎えてくださり、歌まで歌ってくださった。
 私は、二十七年間、囚われの身で戦ってきましたが、"これで、その努力が報われた"と思いました」
6  私が牢獄にある間、戸田先生は、日に何度も、大阪の本部に電話をかけられ、釈放に手を尽くせと叱咤なされた。
 時には、何と十分おきに電話が鳴ったこともあった。
 私が手錠をかけられたまま、取り調べられていると聞かれると、「即刻、手錠を外させろ! 一刻も早く、大作を出せ⊥と激怒された。
 転機は七月十二日である。
 この日、台東区の蔵前国技館で、わが恩師と、溢れる正義と勇気の四万の同志たちが「東京大会」を開催した。
 私の不当逮捕に抗議し、直ちに釈放することを要求するため、烈々たる反転攻勢の烽火を上げてくださったのだ。
 この十二日、入信十六周年の記念日を迎えた私の妻も、ひたぶるな祈りのなかで、勇み出席した一人である。
 「東京大会」を終えると、先生は自ら大阪地検へ乗り込まれた。喘ぐように階段を上られて、強く怒りながら、無実の私の釈放を訴えてくださったのだ。
 「師なくして広宣流布はない」と、生命を捧げた弟子がいた。
 「この弟子なくして未来は暗黒である」と、生命を削られた師がいた。
 関西本部で恩師は、会長室と三階の仏間を、幾度も幾度も往復しておられたという。
 「大法興隆所願成就」の関西常住の御本尊に、真剣に祈り抜いてくださったのだ。
 「権力の魔性との戦いは、題目をあげなければ勝てないんだよ」と述懐される真剣な先生であられた。
7   忘れまじ
    この日この時
      戦いし
    歴史絵巻の
      あの友この友
 七月十七日の水曜日。晴天であった。
 朝から、堂島川の河岸では、音楽隊の有志たちが拘置所の私に届けとばかり、汗まみれになりながら、勇壮な学会歌の演奏を続けてくれていた。
 この日の午後零時過ぎ、私は大阪拘置所を出所した。
 「しばらくでした。ご心配をおかけしました」
 幾百人もの真剣な胆差しの同志、懐かしき大関西の仲間たちが、わっと、歓声をあげながら、私を取り囲んだ。
 万歳の声が起こった。
 創価の師弟は、悪戦苦闘のなかで一段と堅固になった。一段と団結が鉄桶となった。怒りが広布の推進力となり始めた。
 「三類の強敵」と戦う正義の師弟のみが、真正の強者となり、勝者となる。仏となるのだ。これが仏法である。
8  「大作、戦いはこれからだ」 
 伊丹空港に到着された戸田先生をお迎えにあがった時、眼光鋭く、先生は決意の魂を訴えた。
 「御本尊は、すべてわかっていらっしゃる。
 勝負は裁判だ。裁判長は、必ずわかるはずだ。裁判長に真実をわかってもらえれば、それでいいじゃないか」
 大聖人は、「我今度の御勘気は世間の失一分もなし」と断言なされている。
 蓮祖の大難は、悪辣きわまる讒言による陰謀であった。牧口先生を獄死に至らしめ、戸田先生を投獄したのも、悪法による弾圧であった。後継の私も全くの冤罪である。
 古代ローマの哲人指導者ボエティウスは、その人望のゆえに嫉まれ、虚偽の中傷によって囚われの身となった。
 彼は叫び残している。
 「彼ら(=悪人ども)の残酷なきたならしい精神は、善良な人々の破滅をはかって荒れ狂っています。私はこんなことを彼らに許しておきたくないのです」(「哲学の慰め」渡辺義雄訳、『世界古典文学全集』26所収、筑摩書房)
 この正義の闘争は、後世、ダンテら幾多の賢者の仰ぎみる鑑となった。
 仏法では「本末究竟して等しい」と説かれている。
 私は、私自身の勝利を起点として、あらゆる虚偽の謀略に、創価の正義が未来永遠に勝っていく道を開きたいと、心に期していた。
9   あまりにも
    思い出深き
      中之島
    大講堂の
      勝利の歴史よ
 「大阪大会」には、権力の横暴に憤怒する同志たちが、西日本を中心に、各地から遠路をいとわず、旺盛なる決意をもって集ってこられた。
 一ヶ月で折伏一万一千百十一世帯の大金字塔を打ち立てた同志たちが大勢いた。その中核の一つだった岡山県の友も勇んで来てくださった。
 そして私が師の厳命を受けて、大開拓した山口県の同志も義憤に燃えていた。
 さらに一月に私が初訪問した広島県をはじめ、中国方面から、多数の同志は勇躍、駆けつけてくれた。
 拘置所の門で、私を、手を叩いて迎えてくださった方々も数えきれぬほど多かった。
 今、その同志たちも、目覚ましい成長を遂げ、広宣流布の大舞台で戦っておられる。
 遠き四国からも、突然の出所の連絡にもかかわらず、多数の同志が時間と旅費を工面しながら、急いで船に飛び乗ってくれた。
 私は勝ったのだ!
 これほどの弟子が、同志が、私のために一心不乱に立ち上がってくれた事実は、大勝利の姿だ。
 後年、会長を辞任したあと、愛する神奈川の城で指揮を執る、その私の元に、私のためにと、それはそれは多数の四国の同志が、大きな大きな船に乗って、来てくださった。
 私はその友たちを、「志国の同志」と呼ぶようになった。今でも、そうである。
 大阪大会には、はるか遠き九州からも、自らの組織の旗を立てて勇んで駆けつけてくださった多くの同志がいた。
 その方々の氏名を、克明に書いてもらい、今もって私の側に保管している。ご多幸を祈りながら──。
 東京はもとより、夕張で共に戦った北海道の同志も、また、七月に予定していた私の来訪を待っておられた東北の友も、懸命に戦ってくれていた。
 さらに埼玉をはじめ関東も、神奈川も、静岡も、信越も、愛知を中心に中部も、北陸も、そして沖縄も、全国の同志が、この日を「異体同心」の強盛なる祈りで迎えてくれた。
 中之島の公会堂には、尊き広布の同志は雲集された。
 波また波の偉大な同志の姿は、永遠に私の脳裏から離れない。今でも、その方々に栄光あれ! と、私は祈っている。同志ほど、ありがたいものはない。
 反対に、人の苦難を笑い、喜ぶ、卑劣な心を持つ同志は魔物である。提婆達多の如く、同志の姿をした極悪の人間だ。
 絶対に騙されるな!
 絶対に叩き出せ!
 ましてや、「悪い幹部は絶対に叩き出していくことだ!」とは、戸田先生のある日の怒りであった。
 アメリカの人権の指導者キング博士は叫んだ。
 「悪から目をそらすことは、事実上それを容認することだ」(クレイボーン・カーソン編『マーティンルーサー・キング自伝』梶原寿訳、日本基督教団出版局)
 突然の雷雨で、場外の方はずぶ濡れになってしまった。
 スピーカーから鳴り響く声に耳を澄ませるが、音は割れてしまった。
 だが、会場の中も外も、二万人の同志の心は一つに結ばれていた。誰一人として帰ろうとはしなかった。
 友の顔は、太陽の如く、鮮烈な光を放つかのようであった。
 容赦なく降り注ぐ豪雨に打たれる神々しい庶民の姿は、永遠に輝く一幅の名画であった。
 ウクライナの国民詩人シェフチェンコは謳った。
 「善で暖められた心は、決して冷めない!」(Тарас Шевченко Кобзар, Просвiта)
 乳飲み子を抱く母がいた。
 出産前の身重の母がいた。
 握り拳で立つ壮年がいた。
 職場で悪口を言われながら、懸命に仕事を終えてきた、けなげな乙女がいた。
 参加者を護る使命に燃える、凛々しき男子部の整理班がいた。
 固く手をとりあう父母と子がいた。あまりにも懐かしき、あの顔、この顔が集まっていた。
 私は、場内の熱気とともに、場内の様子を鋭く感じ取った。嬉しかった。誇らしかった。全日本、いな全世界に、叫びたかった。
 この尊極なる姿を見よ! 宇宙で最も気高く、麗しき正義の庶民の団結たる創価学会が、ここにあるのだ。
 戸田先生は、宣言された。
 「我らは、霊鷲山の浄らかな光の都から、この五濁悪世の娑婆世界に、よろこんで仏の使いとなることを願い、凡夫の身を頂戴して出世してまいりました。
 我らは、『大聖人の使い』であります。
 凡夫の姿こそしていても、われら学会員の身分こそ、最尊、最高なのである」
10  かって牧口先生、戸田先生が投獄された折、多くの狡賢い弟子たちは、共に戦うどころか、こそこそ逃げ出した。
 こともあろうに、大恩ある師を罵倒する、恩知らずの愚者さえいた。
 さらにまた、難のときに、学会の乗っ取りを謀って策略する人間が蠢くことは、牧口、戸田両先生当時も、現代の創価学会においても、まったく同じ構図である。
 これは、いずこの国、いずこの団体、いずこの部署であっても、同じ方程式であるに違いない。
 今は、同じような幹部はいる。また、いた。絶対に私は許さぬ! 君たちも断じて許してはならない!
 これが仏法であるからだ。
 恩知らず、増上慢、気まぐれ、策略……それは、仏の敵である。
 それは、経文に明瞭であり、御書に明確である。
 釈尊は反逆した提婆達多も教団の最高幹部であった。
 嫉妬と羨望に狂った提婆は、釈尊のあとを狙い、最後は地獄に堕ちていった。
 妬み嫉んで戸田先生を陥しいれた連中もいた。同じく私に焼き餅をやき、陥しいれようとする輩のいた。皆様方もご存知の通りである。その仏罰は永遠に消えることはないだろう。
 大中部が生んだ、江戸時代の大学者と謳われる細井平洲は喝破した。
 「不徳は驕慢より悪なるはなし」(『世界教育宝典 日本教育編 細井平洲・広瀬淡窓』後藤三郎・柳町達也校註、玉川大学出版部)──不徳の中で驕慢ほど悪いものはない──と。
 そして、細井平洲は、善よりも悪のほうが人への影響は甚大であるとして、こう厳しく戒めている。
 「十人の臣に一人の不良の臣が混じれば、その一人による毒の回りは早いものですから、早く取り除かねばなりません」(篠田竹邑『嚶鳴館遺草』文芸社)
11  嵐の試練のなかで、先生は私に言われた。
 「誠実な君が嬉しいよ。本当のわが弟子である君がいて嬉しいよ!」
 その戸田先生の瞳には、涙がにじんでおられた。
 私は固く心に定めていた。
 ──必ず、何があろうが、どこまでも師匠と戦い抜く、誠実な弟子の陣列をそろえてみせる、と。
 「大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし
 七月十七日は、国家権力の弾圧にも屈せぬ、金剛不壊の師子の大城が、大関西を中心として、全創価学会にそびえ立つ日である。
 「正しい信心が最後は必ず勝つ」──正義は必ず勝つ!
 この私の叫びは、全同志の不二の叫びとなったのだ。
 ああ、七月十七日!
 権力の激しき弾圧にも、学会は微動だにしなかった。
 戸田先生が一九四五年(昭和二十年)七月三日に出獄されてから十二年にして、恩師が煮え湯を飲まされた、戦時中の壊滅という大難を、創価の師弟は、遂に、遂に乗り越えるたのである。
 一人の不惜身命の、偉大なる弟子の師子奮迅の戦いによって──。
 この厳粛なる師弟の精神を軽んずる幹部は、真実の学会精神のなき、狡賢い魔物であることを知らねばならない。そんな師子身中の虫を見逃してはならない。許してはならない。見過ごしてはならない。
 私は、弟子たちに心から訴える。

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