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日蓮大聖人・池田大作

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永遠なれ栄光の五月三日(上) わが「創価の出発」の記念日

2007.5.3 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

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1   天も晴れ
    我らの心も
      晴れ晴れと
    勝利の五月の
      三日来たれり
 君も、戦い勝った!
 あなたも、戦い勝った!
 ありがとう。本当にありがとう。私の胸は涙で一杯だ。
 我ら戦い抜いた同志の完勝の三色旗が翻るなか、輝く創立七十七周年(2007年)の五月三日を飾ることができた。
 日本全国の皆様、そして、世界百九十の国々と地域の広宣流布の英雄に、私は最大の敬意を捧げたい。
 暦の上でも、五月の三日は、立春から"八十八夜"の節を越えて、いよいよ万物が生命の勢いを増しゆく明るい季節に入っていくのだ。
 御聖訓に「春を留んと思へども夏となる」と仰せである。
 大宇宙の妙なるリズムに則り、威光勢力を倍増させながら、広宣流布の勝利の歓喜の目標を、悠然と朗らかに達成していくのが、わが創価の大行進であるのだ。
 「人生を美しくするということは、目標を与えることである」(Jose Marti, Obras Completas, vol.15, Editorial Nacional de Cuba)──これは、キューバ独立の父ホセ・マルティの有名な言葉である。
 今年、このキューバにもSGI(創価学会インタナショナル)の法人が誕生し、わが友が五月三日を喜び迎えている。
2   天までも
    また花までも
      広宣の
    勇者を讃えて
      飾り護らむ
 光栄にも、世界の良識が五月三日を祝賀してくださっている。
 慶祝議会を挙行して、「五・三」を「全人類の平和を実現するための"歓喜と希望"の幕開けの日」と宣言してくださったブラジルの市もある。
 かつては、批判の烈風に吹かれながら、歴史を築き上げてきた時期もあった。
 しかし、今や、全世界から、SGIが信頼され、「大いなる希望の星」として讃えられる時代に入った。広宣流布の伸展によって、時代は大きく変わった。
 もはや昔のように、SGIを誤解し弾圧する国は、一つもない。すべて共感と賞讃をもって、温かく見守ってくださるようになった。そして今では、多くの日本の各界の指導者、識者の方々も、心から信頼し、五月三日をお祝いしてくださっている。嬉しい限りだ。
3  「真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり
 これは、御本仏・日蓮大聖人の厳然たる御確信であり、未来を見通しての峻厳なる御心であられる。この一節は、私が六十年前、戸田城聖先生にお仕えし始めた時、生命に深く刻みつけた御聖訓である。
 戸田先生が、事業の敗北、そして苦境のゆえに、創価学会理事長の辞任を余儀なくされたのは昭和二十五年の八月のことである。ひとたび進退窮まった姿を見るや、皆、恐れおののき、多くの幹部が浅ましく遁走していった。逃げるだけならば、まだよい。親も及ばぬほどの大恩を受けながら、師を罵り、悪口雑言の限りを浴びせかけた卑劣な恩知らずも出た。
 反逆の彼らは、ここぞとばかりに野心の牙をむきだし、学会の内部撹乱に狂奔した。
 "人生行路の最大の難所は人の心の恐ろしさなり"とは、唐の大詩人・白居易が詩に綴った慨嘆である(『白居易』上、高木正一注、『中国詩人選集』12所収、岩波書店。参照)。
 先生に随っている格好を見せながら、陰では、「戸田君」呼ばわりしている連中もいた。
 若き私は、怒りに満身が震えた。
 日蓮大聖人は、厳格に「師弟相違せばなに事も成べからず」と断言なされている。
 日興上人も──
 「師弟の道を、少しでも誤ってしまえば、同じく法華経を持っていても、無間地獄に堕ちてしまう」と、それはそれは厳しかった。
 師弟がなければ、広宣流布は絶対に成就できない。
 師弟がなければ、異体同心の和合は、派閥に蹂躙される。
 私は誰も頼らず、ただ一人、固く固く心に決めた。
 ──この試練を何としても打開してみせる。一切を変毒為薬して、戸田先生に、必ず会長になっていただくのだ。そして広宣流布の大師匠たる戸田先生のもと、厳然と師弟不二で戦いゆく「師子の陣列」をば、誕生させゆく決意に燃えていた。
 私は胸を病んでいた。死魔と隣り合わせの激闘であった。また、月給など、思いもよらない。通っていた夜学も休学した。
 私は祈った。一心不乱に、祈り抜き、祈り切った。"丑寅勤行"も続けていた。
 私は戦った。阿修羅の如く、戦い抜き、戦い切った。
 師のために!
 学会のために!
 遂に活路が開け、事態が好転を見せ始めたのは、一九五一年(昭和二十六年)の二月。先生の五十一歳の誕生日の節目であった。
 私は、満を持して申し上げた。
 「先生、会長になってください! 準備は整いました」
 先生の目には、熱く光るものがあった。
 「本当に弟子というものは、ありがたい。俺は幸福だ」
4   師弟不二
    生死不二なる
      意義深き
    五月三日の
      創価の佳き日は
 第二代会長の推戴の波を、私は強く深く、そして大きく起こしていった。
 推戴の署名を行った学会員は、三千有余を数える。
 そこには、傲慢忘恩の戦前の最高幹部らの名前はない。卑怯な心をもちながら、侘びしく消え去っていったのだ。
 実は、勇んで署名を行った過半数が女性であった。
 「戸田先生を会長に!」
 母たちの声は強かった。真剣であった。
 さらにまた、会長就任に先駆けて創刊された聖教新聞の第一号を、幼子を背負いながら配達してくれた、けなげな母たちがおられたことも、私は永久に忘れない。
 「女性は人類あるいは民族の善と美を代弁する主人公であり、興亡盛衰の底で舵を取っていく運命の天使である」(毛允淑『湖畔の声』イェウォンカ刊〈韓国語版〉)とは、韓国の大詩人・毛允淑モユンスクの言である。
 まったく同感だ。
5  一九五一年(昭和二十六年)の五月三日は、美事な快晴となった。
 思えば、牧口常三郎初代会長のもと、戦前、最後に行われた創価教育学会の総会は、四三年(昭和十八年)の五月二日であった。
 五月の三日は、牧口先生を獄死に至らしめた軍国主義と決別し、平和国家の建設を謳った憲法の記念日でもある。
 新憲法では「信教の自由」が高らかに宣言されている。
 この日を第二代の就任の日に選ばれた先生の心情は、幾重にも深いものがあった。
 この朝、先生は肖像写真を撮影された。長身に明るい色の背広が映える。髪も口ひげも、丁寧に整えておられた。
 メガネの奥の眼光は、あまりにも尊い覚悟の輝きを放っておられた。
 先生は、この日、「自分のからだ全体を学会のなかに投げ出し、世の苦悩の民衆のなかに葬ると決意した」と述懐されている。
 式典の席上、先生が師子吼なされたのは「七十五万世帯の大折伏の誓願」であった。
 私は会場の一隅で武者震いしながら、いかなる三類の強敵、そして、いかなる三障四魔が立ちはだかろうとも、師の願業を断固として実現することを、深く強く誓った。
 「わたしの胸には苦しみに耐える勇気がある」「さあ、これまでの難儀に新しい難儀よ、来るなら来い!」(『オデュセイア』高津春繁訳『世界文学大系1 ホメ一口ス』所収、筑摩書房)
 古代ギリシャのホメロスの一節はまた、私の心意気であった。
6  五月の三日は、学会において一番、祝賀の式典で賑わう日である。
 特に、戸田先生が第二代会長に就任されて晴れの一周年に当たる、昭和二十七年の五月三日の佳き日を、恩師は、あえて私ども夫婦の結婚の日としてくださった。
 両家を、お一人で訪問され、この縁談をまとめてくださったのも、先生であられた。
 昭和二十六年の師走、先生は、私の妻の実家である白木家へ訪ねてくださった。この時、妻は銀座にある銀行の勤めに出ており、同席はしていない。
 先生は「今日は、素晴らしい一世一代の話を持ってきたぞ」と切り出され、白木の両親に語ってくださった。
 それから数日後の寒い日、先生は今度は、大田区の糀谷にある私の実家にも、お一人で来てくださったのである。
 深い深い、弟子を思われる先生のこの行動に、私の父も母も、誠に恐縮し、感激していた。粗茶をお出ししながら、「急であったもので、何の準備もしておらず申し訳ありません」と、何度も申し上げたようだ。
 先生は話してくださった。
 「大作は、私の大事な弟子です。私が一生涯、訓練し、私の後を継いでもらいたい人物です。学会は今は小さい。しかし、いかなる非難中傷を受けることがあっても、大作のような、私の弟子が成長したならば、必ず学会も大きくなります。日本はおろか、世界的になるでしょう。どうか、お父様も見守ってあげてください。お母様も、お願いします」と。
 それはそれは丁重な言葉であった。
 両親は、満面、緊張して、応対申し上げたのである。
 「大作は、一切、先生に差し上げたものです。先生に、学会に、うんと、ご奉公してもらいたいと思っています」
 やがて話は、結婚の件となった。
 父母は、感謝に堪えない様子で、御礼を申し上げた。
 先生は、最も意義ある五月三日を、結婚の日として決めてくださった。この日もまた、晴天であった。
 ささやかな結婚式の席上、師であり、主であり、慈父でもある戸田先生は、本当に嬉しそうに、私たちを見守ってくださった。
 そして厳として言われた。
 「私の願うことはただ一つ、これからの長い人生を広宣流布のために、二人で力を合わせて戦い切ってもらいたいということであります」
 この師の心のままに、歩み通してきた五十五年である。
7  戸田先生は、私たちが結婚早々の時代、住んでいた大田区の大森山王の「秀山荘」という小さなアパートにも、お一人で来てくださった。
 一九五三年(昭和二十八年)六月十二日お認めの常住御本尊の入仏式の導師をしてくださったのである。
 四畳半の仏間で、勤行が終わってから、私たち夫婦に、深く未来の学会への指導をしてくださった。
 妻の膝の上には、生まれて四カ月の長男・博正がいた。
 博正と命名してくださったのも、先生である。
 先生は、赤子の生命に刻みつけておくように真剣に語りかけておられた。私たち夫婦は、その姿を見つめながら、深く感動した。
8  私が共に対談集を発刊した"アメリカの良心"ノーマン・カズンズ博士は論じられた。──活力に満ちた人びとが、少人数であっても、社会を動かし、歴史を変える実証を示せば、現代の無力感を打破できる(『ある編集者のオデッセイ サタデー・レビューとわたし』松田銑訳、早川書房)、と。
 戸田先生の会長就任前の昭和二十六年三月、一カ月の折伏は、全国で九十五世帯であった。
 先生は、「このままでは、広宣流布は一万年かかる」と嘆かれた。いな、側近の弟子たちを叱った。
 彼らは、師匠である戸田先生の心を知らなすぎる──。
 私の心は怒りに変わった。
 私は立ち上がった。一人が壁を破り、一カ所が突破口を開けば、全軍が希望と確信に燃えて続くからだ。

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