Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

農漁村部の勝利を祈る  

2005.2.9 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

前後
1  「命」支える労苦の皆様方に最敬礼
 春は近しと、最も美しい風が吹いていた。
 それは、二〇〇三年の三月、深い親友であるゴルバチョフ元ソ連大統領と、八度目の語らいの時である。そこには、悲しく歌いゆく人間の姿はなかった。そして、苦悩に沈みゆく人生の姿もなかった。
 「ゴルバチョフ総裁の師匠は、誰でしょうか」と、私は伺った。現在、ゴルバチョフ財団の総裁である氏は、あの″ゴルビー・スマイル″を満面にたたえて、明快に、こう訴えられた。
 「農民の生活が、私にとって、広い意味での先生でした。農民は、土とともに生き、そこから何かを生み出します。その生き方には、少しも嘘がありません」
 彼の声は、嬉しそうであった。
 大自然を前にしては、人間はあまりにも小さすぎる。その人間の小才も、偽りも、ごまかしも一切きかないであろう。ゆえに、正しき生き方とは、大自然によって、自分自身が生かされていることへの「報恩」と「感謝」限りなき呼吸ではないだろうか。
 私も、海苔屋の息子であった。偉大なる大統領でもあった彼の正直に言わんとされる声に、私の心は深遠なる共鳴の爆発をした。
 わが敬愛する農村部、そして漁村部の皆様方も同じく、限りなく崇高な魂をもって実感しておられるに違いない。
2  人間が人間として生きていくための「食」が、農業、そして畜産物と水産物を基としていることは、当然のことだ。私たちの生命の営みは、農業、そして漁業に携わる方々の尊い労苦と汗のうえに成り立っていることは言うまでもない。
 この一点で、大恩ある農村部の方々、そして漁村部の方々に最大に感謝し、その忍耐強く、勇敢なる正義の行動に対して、私たちは最敬礼をしなければならない。「IT(情報技術)革命」がどんなに進んでいこうが、新鮮な穀物や野菜を食べていかなければ、私たち人間は力が出ない。
 日蓮大聖人の聖典に、「食物三徳御書」(御書一五五八ページ)という御手紙がある。そこには、食の三つの働きが説かれている。
 (1)「命をつぎ」――生命を維持する働き。
 (2)「いろをまし」――健康を増す働き。
 (3)「力をう」――心身の力を盛んにする働き。
 まさに「食は命」である。この「食」がなければ、永遠に人生には歓喜の春はやってこない。私たちが食事の前に手を合わせて「いただきます」と教えられてきたのも、我らの命を支える「食」への感謝の心から、当然、生まれてきたものである。
3  あの暗い敗戦の年、「瑞穂の国」であるべき日本列島は大凶作であった。とにかく、食べるものがなかった。人間でなくして、畜生の如く、その日その日を食べることに狂奔していた。
 情けなかった。人間として生まれてきたくなかった。皆の心が、そういう気持ちであったに違いない。「餓死対策」を政府に要望する国民大会が行われたことがあった。皆、痩せ細っていた。哀れであった。
 買い出し買い出しで、列車は、米や野菜や芋の入ったリュックなどの荷物で、ごった返していた。「誰に責任があるのか」と、多くの人びとは怒りをもって、唾を吐く思いで罵った。
 当時、戸田先生は、この窮状を見ながら、怒気を含んで叫ばれた。
 「日本は、瑞穂の国じゃないか! 飢饉なんか、ないはずの国のじゃないのか!」
 「瑞穂」とは、みずみずしい稲の穂のことである。「瑞穂の国」とは、稲作が発展したわが国の美称であった。それが、無残にも総崩れした。東京をはじめ、都市部の食糧不足はあまりにも深刻であった。
 先生は、この問題の本質を鋭く見抜かれて、こう語った――農村を、長年、下に見ていた都会人の慢心だよ。食べ物がなくなって、初めて、ずっと下に見ていた農村に頭を下げて、都会人が買い出しに行くのだ。農村の大切さがやっとわかったのだ――と。
4  翻って、現代の日本はどうであろうか?
 わが国の食料自給率は(カロリーベース)は四〇パーセント。いわゆる先進国の中では、極めて低い。穀物自給率は、二八パーセント。なんと世界百二十四位の低さだ(二〇〇二年)。
 もちろん、国内で不足する分は世界から補っているが、これでは、「都市」が「日本」に、「農村」が「世界」に置きかわっただけである。戸田先生が鋭く喝破された「農村を『下』に見る」体質は、今も全く変わっていないのではなかろうか。この傲慢なる″転倒″を、謙虚に、また賢明に正さなければ、日本の未来はあまりにも暗い。
 日蓮大聖人は、「草木は大地なくして生長することはない」(御書九〇〇ページ、通解)と言われた。人間は「大地」を母とする。ゆえに、母なる大地に根ざし、命を支える「農」を軽んじる所業は、結局、自分自身を侮辱し、腐らせていくことに等しいのだ。
 また、大聖人は、御自身を「草木」に譬えられ、「師匠は大地の如し」と、深く深く感謝しておられる。反対に、師恩の大地を裏切った忘恩の弟子は、腐り枯れ果てていくのである。
 ともあれ、農村を大切にしない社会は、生命を粗末にする野蛮な社会となり、すべての面で行き詰まる。私には、インドの「緑の革命」の父スワミナサン博士の言葉が思われてならない。
 「農民が不幸な国は、どんな国民も幸福ではありません。農民の幸せな笑顔が、その国の幸福を決める。私はそう思っています」
 ここに「生命の世紀」への重大なる急所があるのだ。私は、農業、そして漁業を営まれる方々の幸せな笑顔輝く社会の建設へ、宝の農漁村部の皆様とともに、一段と強く、取り組んでいく決心である。
5  今月、2・17「農村部の日」を記念し、第八回「農漁村ルネサンス体験主張大会」が盛大に開催される。私も、登壇される方の原稿を拝見したが、まことに素晴らしい体験で感動した。
 この一年も、「農村ルネサンス体験主張大会」や「漁村ルネサンス体験主張大会」、さらには、太陽の女性たちによる主張大会、後継の青年たちによる主張大会が、日本の津々浦々で行われることも、お聞きしている。心から大成功、大勝利をお祈りしたい。
 ともあれ、仏法は、一番、苦労した方々が、一番幸福になるためにある。「陰徳あれば陽報あり」と御聖訓に仰せである。この厳たる仏法の法理を、農漁村で働く皆様こそ、強く確信していただきたい。労苦の汗と涙を、必ず勝利に輝く黄金の稲穂に変えていくのだ! これは、皆様の使命であり、責務である。そして、勝利である。
 草創以来、農漁村地域で戦ってきた同志の苦労は、並大抵ではなかった。村中、町中から嘲笑され、無数の悪口も言われてきた。卑劣な村八分もあった。あまりに長い冬に溜め息をつくように、わが地域の広宣流布が遅々として進まないと、何度も、泣きながら題目を唱えたこともあった。
 だが、歯を食いしばって、自身のため、家族のため、地域のため、創価の旗を厳然と掲げて、戦い抜いた。炎の「勇気」で! 常に変わらぬ「誠実」で! そして鉄の「忍耐」で!
 皆様方は、大聖人に賞賛され、十方の仏菩薩から守護されゆく幸福の長者として、三世にわたり輝く「絶対的幸福の軌道」を歩んでいかれるのだ。
 これが仏法だ。因果の法則だ。蓮祖は、厳然と仰せだ。
 「冬は必ず春となる
 この通りに、大きく時代は変わってきた。希望の春は来たのだ! 我らが妙法を唱え、我らが生き抜く大地だ。郷土だ。必ず妙法に包まれ、自他ともに栄える、広宣流布の天地へと開かれゆくのだ。仏法の労苦の汗に、絶対に無駄はないのだ。
6  災害がうち続いた昨年のように、台風、冷害、干ばつ、伝染病等との戦いに、休みはない。また、市場の動向に左右され、「豊作」「豊漁」の喜びを、突然曇らされる時さえある。しかし、現実が厳しければ厳しいほど、自分のためにも、皆のためにも、断じて負けてはならない。
 「善徳はすべてに打ちかつ。そして自らは何ものにも打ち負かされない」(『人生の道』下、原久一郎訳、岩波文庫)
 これは、農村の改革に尽くしたロシアの大文豪トルストイの確信であった。
 人生は「勝負」だ。どこまでも、勝つか負けるかだ。祈りは、勝利の原動力である。祈りは、建設の推進力である。祈りは、一家一族の勝利の道である。
 御聖訓には、「植えた木であっても、強い支柱で支えておけば、大風が吹いても倒れない」(御書一四六八ページ、通解)とある。いわば、自らが何ものにも揺るがない「大樹」となり、さらに、愛するわが郷土にあっては、皆の「強い支え」となる存在こそ、我ら妙法護持の農村部・漁村部の皆様方なのである。
 妙法護持の人は、無上宝聚を持ちたる人である。相互扶助、そして助け合いが不可欠な地域社会であればあるほど、農村部・漁村部の皆様は、いよいよ大切な柱であり、偉大にして誠実な、勝利の光り輝く太陽となっていくのだ。その大使命があることを忘れまい。
 私は、青春時代から愛読してきたトルストイの、この言葉を忘れることができない。
 「農業は人間にふさわしい職業のなかの一つというわけではない。農業こそ万人にふさわしい、最大の独立性と幸福とを与える唯一の職業なのである」(『文読む月日』下、北御門二郎訳、筑摩書房)
 その通りだ。全くその通りである。
 どうか健康第一で、ご長寿で、建設と忍耐の大王者として、この尊き一生を、″地域の灯台″″希望の灯台″となり、そして「農業の大英雄」「漁業の大英雄」となって、生き抜いていっていただきたい。
 私は、尊い皆様に最敬礼して、「永遠に、ご一家に栄光あれ」と祈り、「万歳! 万歳!」を贈ります。

1
1