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日蓮大聖人・池田大作

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わが大切な団地部の友へ  

2004.1.29 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

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1  幸福に輝け「我らの合衆国」
 ロシアの大文豪トルストイは叫んだ。
 「安らかで強くありたいと思うならば――自分の信仰を強めることである」(小沼文彦訳『ことばの日めくり』女子パウロ会)
 その通りと思う。「信心が正しく強い」ということは、人間として最強なのである。
 米国の人権闘争の、あの有名な指導者キング博士の宣言も忘れることができない。
 「世界的な混乱の時代には、真理のために勇敢に戦おうとする男女が非常に必要とされている」(『汝の敵を愛せよ』蓮見博昭訳、新教出版社)
 それは、博士が貫いた如く、人間の尊厳を冒す暴力や抑圧やデマとの戦いである。
 ともあれ、勇気ある信念の闘士が、今ほど渇望される時代はない。乱世を照らす創価の友の奮闘は、なんと雄々しく光っていることか。
 この最も地域に根ざした力強い「人間共和」の陣列こそ、わが誉れの団地部である。
 二十世紀フランスの作家ジッドは、幸福とは「協調の観念のうちにある」(「文学と論理」堀口大学訳、『アンドレ・ジイド全集』10所収、建設社)と言った。
 私は、団地を「小さな合衆国」と呼んだことがある。団地などの集合住宅では、お互いの安心と幸福な暮らしのためにルールを作り、協調し合っていかねばならない。その自治の姿は、一つの国を思わせるからだ。
 昭和三十年代の団地ブームに始まり、高層化、巨大化していった団地は、現代社会の一つの縮図ともなった。
 この使命の舞台で活躍する同志の拡大に伴い、「団地部」が誕生したのは、昭和四十八年のことである。
 昨年、晴れ晴れと結成三十周年の佳節を迎えた。
2  先週の日曜日(一月十八日)、快晴の青空に白雪の富士が映える朝、私は、第二総東京の武蔵村山文化会館を車で視察した。
 凛々しく集う青年部らを見守りながら、私は題目を送り、伝言を託した。
 わが村山総区は、地域内に都営村山団地をはじめ、多くの団地を擁し、全国の模範となって、近隣の友好を聡明に、粘り強く繰り広げ、大発展を遂げてきた偉大なる天地だ。
 かつては、信仰しているというだけで、無認識な偏見や悪口に晒されたこともあった。しかし、真実に勝る雄弁はない。わが友は恐れなく、「日蓮が一門は師子の吼るなり」と、あらゆる悪を破折した。また誠心誠意の行動を積み重ねた。
 今では、地域の興隆になくてはならぬ存在として、婦人部をはじめ、団地部の友に寄せられる信頼は絶大だ。わが有志が、地域の方々と共に盛り上げていった文化行事が、今や十万人から十五万人もの市民が楽しむ一大イベントに発展した団地もある。
 私と対談集『文明・西と東』(本全集102巻収録)を発刊した、ヨーロッパ統合の父クーデンホーフ・カレルギー伯は言った。
 「誠実は嘘言に対する闘争である」(『論理と超論理』鹿島守之助訳、鹿島研究所出版会)
 まさしく、団地部の同志は、大誠実で勝ってきた。
 忍耐ある人は勝利と幸福。虚栄の人生は最後は敗北だ。
3  思えば、あの阪神・淡路大震災の時も、団地部の友の決死の行動が燦然と光った。
 自治会で活躍する婦人部の方は、家具が滅茶苦茶に散乱した我が家もそのままに、外へ飛び出した。息を切らせて、団地の中を一軒また一軒と回った。隣人たちの安否を確かめずにはいられなかったのだ。さらにまた、励ましの声をかけながら、高齢者や幼児のいる家々などに、必要な水や救援物資を迅速に手配していったのである。これこそ、仏に等しい尊極の振る舞いであった。会館が避難の拠点となったことも、ご存じの通りだ。
 一方、この渦中、冷酷にも門を固く閉ざしたままであった邪宗門の無慈悲には、皆が激怒し、呆れ果てた。
 私と妻の忘れ得ぬ友人であり、中国を代表する女性作家の謝冰心しゃひょうしん先生は記された。
 「友誼は大海の灯台であり、沙漠のオアシスです」(『お冬さん』倉石武四郎訳、河出書房)
 わが同志こそ、かけがえのない地域の灯台であり、オアシスであると、私は讃えたい。
4  私も誉れある″団地部″の一員として歴史を綴った。
 一九五四年(昭和二十四)年の五月、私は故郷・大田の大森にある「青葉荘」に住み始めた。二階建て三棟からなり、九十世帯ほど住んでいた。その三号館の一階、やや北寄りの狭い一間で、私は三年間を過ごした。事業が窮地にあった師匠・戸田先生を、一心不乱にお守りした苦闘時代だ。朝早く出勤し、連日の残業と学会活動で、帰宅は深夜になるのが常であった。
 「この部屋は、本当に住んでいるのか」などと、噂されていたようだ。
 私は決意し祈った。「信心は最高の生活法だ。戸田先生の弟子として、このアパートの中で接しゆく方々を妙法の功徳で包んでいくのだ」と。私はいつもいつも、爽やかな挨拶を大事にした。皆、縁深き方々である。何か意味があって、このように近所におられるのだと、大切にしていった。でき得る限り、友好と親交を結ぶことを心がけた。
 やがて、私の部屋で開いた座談会にも、同じアパートや近隣の方々が参加されるようになり、そして幾人かが入信されたのである。
 大森駅にほど近い、大田区山王の「秀山荘」も懐かしい。赤い屋根の二階建てで、十世帯ほどが住んでいた。我が家は一階で、六畳二間である。転居後すぐに名刺を持って、「このたび越してまいりました池田です。お世話になります」と、ご近所に足を運んだ。
 まだ幼い長男が走り回るようになると、妻は、隣室や階上の方々を気遣い、なるべく早く寝かしつけるようにしていた。私も、年の近いお子さんのいる方には、「いつか必ず遊びに来てください」と声をかけ、友情を広げた。
 このアパートで過ごした三年間も、大闘争の日々となった。男子部の部隊長、文京支部長代理、青年部の室長、そして学会の渉外部長と、重責を担い、広布の戦野を駆けた貴重な月日であった。当然、我が家には人の出入りも誠に激しくなっていた。
 いつも妻と語り合っていた合言葉は、「どなたが来ても温かく迎えて、希望を″お土産″に送り出そう」ということであった。苦悩を抱えて訪れた青年への励ましが、深夜に及んだ日も少なくない。
 翌朝、妻は、近隣のお宅に「昨夜は遅くまで来客がありまして、すみません。うるさくなかったですか」と、必ず挨拶に伺ったものである。
5  この半世紀、社会は激動を続けた。加速したのは「人間の孤立化」である。
 壁一つを隔てた近さでも、互いに顔も知らないということも少なくない。もちろんプライバシーは大事だ。ただ、″心の扉″まで閉ざしてはあまりにも寂しい。
 だからこそ、縁あって同じ団地に住む方々と、麗しき人間関係を築きゆかんとする、わが同志の使命は大きい。高齢化の進むなかで、青年部のリーダーが自治会長を務めている団地もある。住民と協力して防犯活動や、地域の催しを運営しているメンバーも多い。
 仏法では、共同体を栄えさせていくための四つの徳目(四摂事)が説かれている。(大正十一巻三一六ページ)
 第一は「布施」。人に何かを与えることであり、励ましや哲学を贈り、不安や恐れを取り除いていくことである。
 第二は「愛語」。思いやりのある言葉をかけることだ。
 第三は「利行」。他者のために行動することである。
 第四は「同事」。人びとの中に入って共に働くことだ。
 団地部の友が毎日、具体的に取り組んでいる共和と平和の実践といってよいだろう。
6  海外でも″団地部″の方々の献身は、目覚ましい。
 昨年(二〇〇三年)、香港で「新型肺炎SARS」が流行し、ある団地では三百人以上もの患者が発生した。最も罹患者が出た一棟は、全住民が隔離され、周囲からも極度に避けられ始めた。住民は病気の恐怖に加え、無理解な風評に苦しめられた。
 そのなかで、この団地に住む地区部長は健康を保ち、「勇気があれば必ず道は開ける」との学会指導を胸に、友を明るく激励し続けた。
 そして団地の″スポークスマン″の使命を担って、報道機関の取材を受け、住民の声を積極果敢に代弁した。感染予防と保護政策を願う真摯な主張は、あらぬ誤解を氷解させ、正しい理解と共感の波を起こしていったのである。
 「虚偽や苦痛や禍いはそのまま続くものではない。人間の魂はそれらに挑み、打ち勝つことができる」
 このインドの大詩人タゴールの確信が思い起こされる。
 正義の我らは、威風堂々と打って出て、大いに人と会い、語りまくり、しゃべりまくることだ。「声仏事を為す」である。
 創価哲学は――
 「幸福の哲学」である。
 「歓喜の哲学」である。
 「連帯の哲学」である。
 「平和の哲学」である。
 そしてまた創価哲学は――
 「極善の哲学」である。
 「破邪の哲学」である。
 「栄光の哲学」である。
 「勝利の哲学」である。
 大聖人は、「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ、仏種は縁に従つて起る」と仰せになられた。
 団地は一つの「世界」だ。わが団地こそ、広宣流布の壮大な建設のモデルである。皆様方は、団地という「我らの合衆国」の喜びと繁栄と安穏を担い立つ賢者であられるのだ。
 頭を上げよ、胸を張れ!
 今日も、戦いに勝ちゆけ!
 君よ、あなたよ!
 断固として「勝利博士」に!
 「幸福博士」に! そして「喜びの博士」として、悠々と生き抜かれんことを!

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