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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

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1  一九五八年(昭和三十三年)の元日は、晴れて風もなく、冬には珍しい、穏やかな暖かい日であった。
 午前十時、戸田城聖は、自ら予告していた通り、創価学会本部の広間に姿を現した。
 広間には、東京の支部幹部ら二百人ほどが待機していた。約四十日ぶりに戸田の姿を見かけると、激しい拍手が広がった。
 幹部たちは、″もう戸田先生は、完全に健康を回復されたのだ″と思った。しかし、その戸田の体は、痛々しいまでに痩せていた。顔も一回り小さくなったようであり、服は肩の辺りが、だぶついている。
 参加者は、胸を突かれる思いで、戸田の闘病が、ただならぬものであったことを察した。
 しかし、戸田城聖は、厳然と彼らの前にいる。その侵しがたく、厳しく気高い表情は、いつもの戸田であった。
 皆は、さっと居ずまいを正した。戸田は、無言のまま御本尊の前に端座し、深々と頭を垂れてから勤行を始めた。例年通りの、元旦の初勤行である。
 いささか、しわがれてはいたが、力強い響きがあった。勤行を厳粛に終えると、戸田は、御本尊を背にしながら、座ったまま語り始めた。
 「寿量品には、三妙が合論されています。三妙とは、本因の妙、本果の妙、本国土の妙のことであり、妙とは、思議しがたいことをいいます。久遠の仏の境界を得るための原因を本因、その仏道修行の因によって得た仏果を本果、その仏が住する所を本国土というのは、皆さんも知っていることと思う」
 参加者は、三妙合論という言葉は知っていたが、戸田が、開口一番、こう語りだしたことに戸惑いを覚えていた。
 何ゆえ戸田は、元旦から三妙合論を説くのか、いぶかりながら耳を澄ました。
 「本果の妙を表しているのは、寿量品の『如是我成仏己来、甚大久遠』(法華経四八二ページ)、すなわち、『是の如く我れは成仏してより己来、甚だ大いに久遠なり』の文であります。ここで、釈尊は、今世で三十歳で悟りを開いて成仏したのではなく、実は、久遠の昔に、既に仏となっていたことが明かされる。
 では、その仏は、どこにいるのか。法華経以前の教えでは、浄土にいて裟婆世界にはおられないと説かれてきたが、寿量品にいたって、仏は、裟婆世界にいると説く。
 つまり、仏は、凡夫と一緒に、菩薩や声聞、縁覚、また、畜生、餓鬼などと共に、裟婆世界に同居していることが明かされる。それが本国土妙を示す『我常在此裟婆世界、説法教化』(法華経四七九ページ)、『我れは常に此の裟婆世界に在って、説法教化す』という文です。
 文底からこれを広く深く論じれば、南無妙法蓮華経の生命は、久遠以来、大宇宙とともにあるということです」
 参加者は、皆、難解そうな表情をしていたが、彼は、さらに話を続けた。
 「大事なことは、仏は現実の世界以外には、いらっしゃらないということです。五濁悪世の世の中にいてこそ、真実の仏なのであります。
 さて、釈尊が仏の境界を得るには、その根本原因があった。それを明かしているのが本因妙であり、『我本行菩薩道……』(法華経四八二三、『我れは本と菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命……』という箇所であります。
 では、仏が行じた菩薩の道とは何か――。
 それこそが、この文の文底に秘沈されている大法であり、南無妙法蓮華経です。末法の私たちは、この南無妙法蓮華経という仏の悟りを、直接、信じて仏になるんです。
 この成仏の根本原因を説くのに、釈尊は、既に成道した仏、すなわち本果の立場で説いている。ですから、寿量文上の釈尊を、本果の仏と称するのであります。
 しかし、大聖人は、御内証は御本仏でありますが、仏自体の立派な姿を現されることはなく、凡夫の立場で、仏になる本因の菩薩道を説き、行じられた。ゆえに、大聖人様は、本因の仏となります。
 御書のどこを拝しても、大聖人は、″私は、既に仏なのだから、みんなを救ってやろう″などとは、おっしゃっておりません。大聖人が、生まれながらにして御本仏の体を現し、御本仏の行を行じられたとしたならば、それは菩薩道ではなくなってしまう。ここに、本果妙の釈尊の仏法と、本因妙の教主釈尊、すなわち、日蓮大聖人の仏法との大きな相違がある。これをもって、私の、今年の初めての講義に代えます」
 この指導は、戸田城聖が、これまで行ってきた方便品・寿量品講義の、締めくくりともいうべき話となった。
 戸田の話は、難解といえば難解であった。参加者の多くは、戸田が、何を言わんとしたのか理解しかねていた。
 彼は、日蓮大聖人は本因妙の仏であることを説くとともに、この裟婆世界にあって折伏行に励む同志こそ、大聖人の末弟として、菩薩の道を行ずる人であることを、教えておきたかったのである。
 同志の多くは、病苦や経済苦など、幾多の苦悩を背負いながら、日々、広宣流布に悪戦苦闘していた。しかし、戸田は、そこに尊い仏子の輝きを見ていたのだ。
 妙法広布に生きるわれらの菩薩道の実践は、そのまま裟婆世界を仏国土に転ずる仏の行となる。そして、それを行ずる同志は、一人ももれなく地涌の菩薩であり、その内証は仏にほかならない――それこそが、七十五万世帯の折伏を成就した戸田城聖の、不動なる確信であった。
 彼は、諸仏を仰ぎ見る思いで、居並ぶ弟子たちに視線を注いだ。
 戸田城聖の三妙合論についての話のあと、最前列にいた山本伸一が、戸田の新年の三首の和歌を披露した。
  獅子吼して 貧しき民を 救いける
    七歳ななとせの命 晴れがましくぞある
  
  若人の 清き心よ 七歳の
    苦闘の跡は 祝福ぞされん
  
  今年こそ 今年こそとて 七歳を
    過して集う 二百万の民
 一首目と三首目は全会員に、二首目は青年部に贈られたものである。いずれの歌にも、「七歳」とある。
 七十五万世帯を成就し、晴れやかに迎えた会長就任七周年となる新年である。戸田を慕い、戸田と共に戦ってきた幹部たちは、この七年を振り返りながら、感慨無量の思いで、三首の和歌を聴いていた。
 新年を祝い、乾杯したあと、小西理事長が、あいさつに立った。
 「本日は、戸田先生のお元気なお姿に接することができましたことは、私どもの最大の喜びでございます。昨年の暮れに、私たちは戸田先生から、『一、一家和楽の信心。二、各人が幸福をつかむ信心。三、難を乗り越える信心』との、三つの指針を頂きました。本年は、この指針を心に刻み、今日の喜びをかみしめながら、共々に頑張ってまいろうではありませんか」
 学会本部での新年の勤行会は、午前十一時に終了した。参加者の多くは、総本山に行くために、それから東京駅に向かった。
 総本山は、全国各地から集って来た会員でにぎわっていた。その人たちに、この日の朝、本部で発表された戸田の和歌が伝えられた。各坊で会員たちは、健康を回復した戸田と共に新年を迎えた喜びをかみしめつつ、三首の和歌を朗詠した。
 翌二日は、朝から雨であった。午前十一時から、法主・日淳に新年のあいさつをした。
 三日は、雲一つない晴天となったが、戸田は理境坊の二階にあって、各方面から集った幹部と懇談し、外に出ることはなかった。伸一を傍らにおいて、廊下の藤イスに座り、各地の幹部の報告に耳を傾けながら参道のにぎわいを眺めているのであった。以前の体力を取り戻すまでには、まだ、いたっていなかったのである。
 彼は退屈すると、伸一を相手に将棋をさした。一勝一敗のいい勝負であった。
 伸一が、廊下に出た戸田を写真に撮ろうと、カメラを向けると、戸田は、にっこりと笑った。久しぶりに目にする、まばゆい笑顔であった。
 総本山への初登山は、元日から五日まで行われたが、初登山が終わると、学会は総力をあげて、大講堂落慶総登山の準備に入った。
 三月の一日から、一日七千人、延べ約二十万人に上る登山となる。それは総本山にとっても、学会にとっても、空前の壮挙であった。大成功、無事故を期し、万全の構えで準備が進められていった。
 輸送計画に基づく各支部の参加者の割り当てをはじめ、国鉄やバス会社などとの綿密な協議、総本山との打ち合わせ、各役員の人選――と、数えきれないほどの事項を、次々と、さばかなければならなかった。
 その準備、運営のすべての責任を担っているのが、参謀室であった。室長の山本伸一は、連日、多忙を極めた。伸一の疲労は募り、発熱する日が続いていた。しかし、彼は、この総登山に一切をかけた。
 大講堂の落成は、師である戸田城聖の念願であり、総登山は、戸田が七十五万世帯を達成した広宣流布の刻印ともいうべきものであったからである。
 戸田は、準備に余念がない伸一の姿を目にし、自分は、三月の一カ月間に及ぶ総本山での滞在に備えて、体の調整に専念しようと決めた。そして、会合への出席は、すべて差し控えることにした。
 とはいえ、一月七日の、僧侶十六人を招待して行われた新年の宴には、会長である彼は、出席せざるを得なかった。しかし、彼の疲労は、はなはだしく、宴半ばにして退席したのである。
 この時、戸田の病は、ほとんど回復していたが、病による体の衰弱の回復は、容易ではなかった。三月まで、十分な静養が、何よりも必要であった。
2  一月二十六日の日曜日のことである。思いもかけない痛ましい事故が起こった。男子第四十四部隊の部隊長である大野英俊が、″交通事故によって不慮の死を遂げた″との報告が入った。
 彼は、この日の午後、仕事でオートバイに乗り、新宿区内で私鉄の踏切を渡ろうとして、電車にはねられたのだ。踏切には、警報機はあったが、遮断機はなく、彼は、上り電車が通過した直後に飛び出した。そこに下り電車が来たのだ。一瞬の出来事であった。彼は、電車に三十メートルほど引きずられた。即死である。
 山本伸一は、この日、疲労から熱を出して寝込んでいた。そこに事故を知らせる電話が入った。伸一は、知らせを受けると、戸田に一報し、直ちに大野英俊が運ばれた病院を訪ね、大野の遺体と対面した。
 電車に引きずられたにもかかわらず、外傷は、額にわずかな擦過傷があるだけであった。眠るような、安らかな臨終の相だった。
 それから、伸一は、事故現場に向かい、事故の状況を詳細に確認した。そして、大野の関係組織の青年たちと、葬儀の手配などの打ち合わせをし、翌日、戸田城聖の自宅に報告に訪れた。
 戸田は、仏壇に向かい、大野の冥福を祈り、唱題しながら伸一を待っていた。
 伸一は、開口一番、戸田に詫びた。
 「先生、大切な弟子を亡くすようなことになり、まことに申し訳ございません」
 彼は、部隊長という青年部の中核である幹部の死を、青年部の室長である自分の責任として、とらえていたのである。
 「これを契機に、全男子部員が、″事故など絶対に起こさない″という決意を固めることだ。今は大事な時だけに、魔も強いのだ。わずかでも油断があってはならない」
 戸田は、厳しい表情で、こう言うと、大野の家族の状況を尋ねた。大野には、子どもはなく、妻と二人で暮らしていた
 「かわいそうなのは、奥さんだな。後々のことも、皆で、よく考えてあげなさい。それから、葬儀は部隊葬として、皆で、彼を送るようにしなさい。ところで、藤川はどうしているのだ。本来ならば、彼こそ、大野のために奔走すべき立場ではないか」
 「はぁ……」
 伸一は、答えに窮した。藤川というのは、第七部隊長の藤川一正のことである。彼は、当時、戸田の事業の関連会社である大洋精華の営業部長をしていた。大洋精華は、家庭用品や電気器機などの販売会社であった。
 大野英俊は、ここの営業部員であり、また、学会の組織にあっても、第四十四部隊の部隊長になるまで第七部隊に所属していた。
 戸田は、怒りの表情を浮かべ、押し黙っていた。
 彼は、深い思いに沈みながら、この事故について考えをめぐらしていった。
 ″本質的には、大野の宿業ゆえの事故といえよう。しかし、注意力が散漫になっていたことが、直接的な事故の原因であることは間違いないだろう。それは、過労による可能性もある。あるいは仕事に追われ、焦りがあったのかもしれない……″
 戸田は、こう思うと、数カ月前の彼の指摘が、現実となってしまったことが、残念でならなかった。
 ――前年の夏、戸田は、大洋精華の社員の表情が暗いことが気になった。関係者に聞くと、営業部長である藤川の、常軌を逸したやり方に、社員が苦慮しているとのことであった。社員に休日も与えずに働くことを強い、営業成績が悪いと怒鳴りつけ、時には、コップを床に叩きつけたりもするという。そして、社長をしている十条潔が、社員を温かく激励するのを冷ややかに見ながら、自分は、社員への監視の目を光らせているというのである。
 戸田は、その話を耳にすると、十条に厳しく言った。
 「社員を、よく休ませなさい。大事故を起こすぞ。社員を犠牲にするようなことがあっては、絶対にならない!」
 社長の十条も、その強引なやり方を心配し、悩み抜いていた。大野英俊は、生真面目で責任感の強い青年であった。理不尽なことにも耐え、休みの日曜日にも仕事に出かけて行ったのであろう。
 戸田城聖は、今、彼の憂慮の警告にもかかわらず、無残な事故が起こってしまったことに、悔しさをかみしめながら、藤川という人物について考えていった。
 藤川は、区議会議員でもあったが、一九五五年(昭和三十年)の六月、河口湖畔で行った水滸会の野外訓練の折、議員になって間もない彼が、″故郷に錦を飾るとはどういうことか″と尋ねたことがあった。
 戸田は、青年たちに、偉大なる政治家や大実業家になることを説いてはきたが、人生の至高の価値は、広宣流布の使命に生きること以外にないと訴え続けていた。それだけに、その問いは、ピントのずれた妙な質問といえた。
 戸田は、瞬間的に藤川の心を察知した。区議会議員となった彼には、社会の栄誉や権力の威光が、よほど尊く、まばゆく思えたにちがいない。
 戸田は、質問を聞くと、言下に、こう答えた。
 ″戸田の弟子となって、広宣流布に戦っている姿が、最高にして永遠の錦じゃないか! この錦こそ、最高にして不変の錦なんです!」
 戸田は、青年の心に兆した名聞名利の心を、砕いておきたかったのである。以来、戸田は、彼の生き方を危慎してきた。根底の一念の、微妙なずれを感じたからである。
 藤川は、やがて、女子部の幹部である松田幾代と結婚するが、その後、彼の名聞名利を欲する心は、ますます強くなったように思えた。
 戸田は、怒りを込めた声で、山本伸一に言った。
 「藤川は、一将功成りて万骨を枯らすことになる。とんでもないことだ。しかし、女房も女房だ。あの見栄っぽりの性格が、ますます亭主をおかしくさせている。悪いのは女房だ。
 今度の事故も、上司である彼に、社員を思いやる心があれば、あるいは防ぐことができたのかもしれない。大野の死は、宿業であることは間違いないが、藤川は、真摯に自分を反省する機会としていかなければならない……」
 それにしても、戸田にとって、部隊長という青年部の最高幹部の不慮の死は、初めてのことである。彼は、大野の死は、仏法のうえから見る時、何を物語っているのかを考えざるを得なかった。
 ″三障四魔のなかに、死魔とあるが、幹部である彼の死から、信心に不信をもつ人がいるならば、それは死魔に翻弄された姿といえよう。彼の死には、何か大きな意味があるはずである……″
 戸田は、愛する弟子の大野のためにも、また、多くの会員たちのためにも、彼の死が何を意味するかを、明らかにしておかなければならないと思った。
 戸田は、伸一が帰って行くと、原稿用紙を広げた。万年筆を手にし、一行目に「大野君の死を悼む」と記した。かわいい弟子の痛ましい死を思うと、彼の手は、小刻みに震えた
 戸田の脳裏に、大野の屈託のない笑顔が浮かんだ。戸田の目は潤み、熱い涙が頬を濡らした。彼は、しばらく思索にふけっていたが、あふれる情愛をぺンに託して、堰を切ったように書き始めた。
 「大野君、君の死を聞いて、ぼくは非常に驚いた。わが学会は、ぼくが会長就任以来、大幹部の死は一人もみない。また、青年部において、いかなる意味においても、部隊長級の死は、いまだこれをみない。
 大御本尊様に奉仕する身として、一時は、ただ驚くのみであった。
 生命について、これを論ずれば、三世の宿命を基礎としなければならぬ」
 戸田は、込み上げる悲しみをとらえ、努めて冷静に、論を運ぼうとしていた。部隊長として、健気に信心に励んでいた同志が、なぜ不慮の死を遂げたのか。大聖人の仏法は、宿命の転換を可能にする大法ではないのか――戸田は、今、会員たちの心に兆すであろうこの問いに対し、三世の生命のうえから、真っ向から答えようとしていた。死の解明こそ、仏法の偉大なる法理の証明である。
 「その三世の宿命について、健康とか、智慧とか、家庭不和とか、金銭とか、という問題は、わりあいに簡単に解決ができることを、釈尊も、天台も、妙楽も説いているが、生命の転換については、釈尊、天台大師、日蓮大聖人の深く悩まれたところである。
 釈尊は、釈尊の立場において、天台は、天台の流儀において、大聖人は、大聖人の流儀において、いずれも解決はしている。これには、深い思索と強い信仰とが必要であることを、先哲は強く主張せられている。
 日蓮大聖人は、三大秘法の本尊を根本として、生命問題を解決しておられる。もし、われらが、これに随順するならば、必ずや大聖人の仰せのごとき結論を得られるのである。
 佐渡御書に、般泥洹経を引いていわく、『善男子過去に無量の諸罪・種種の悪業を作らんに是の諸の罪報・或は軽易せられ……』、又云く『及び余の種種の人間の苦報現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり
 この経文は、過去世において、多くの罪や悪業をつくった者が、その報いによって、人びとから軽んじられるなどの苦しみに遭うことを説いたものである。そして、本来、その苦しみは深く、大きく、未来世にわたるところを、仏法を守った功徳によって、現世で軽く受けることを示している。
 戸田は、黙々と万年筆を走らせていった。
 「この御文によれば、君の横死も軽く受けたるの部類に属するか。かく論ずれば、死というものを解決しえぬがゆえに詭弁を用いるというかもしれぬが、それは三世の生命観を知らず、仏法のなにものかも解しえぬやからの妄言である」
 また、戸田は、「兄弟抄」に引用されている涅槃経の「よこしま死殃しおうに羅り呵嘖・罵辱めにく鞭杖べんじょう閉繋へいけい・飢餓・困苦・是くの如き等の現世の軽報を受けて地獄に堕ちず」の御文を引いて論じていった。
 「横に死殃に羅り」とは横死のことである。経文の意味するところは、今世で横死しなければならないことも、また、人から問責されたり、罵られ、辱しめられたりすることも、現世にあって報いを軽く受けている姿であり、それによって、地獄に堕ちることを防いでいるとの教えである。
 大聖人は、この経文から、さまざまな苦報を受ける因を明かされ、「我身は過去に謗法の者なりける事疑い給うことなかれ」と、池上兄弟に御指導されている。つまり、私たちの苦報の因は、過去世に正法を行ずる人に怨をなした、謗法の罪にあることを明示されているのである。
 そして、その罪は深くとも、今世で正法を信受し、行ずる功徳が大きいために、それが、未来の大苦を招き寄せ、今生の少苦となって現れていると仰せになっている。
 まさに、転重軽受の法門であり、苦しく、悲惨に見える報いも三世にわたる仏法の法理に照らすならば、偉大な功徳といえるのである。
 さらに、大聖人は、それを疑って、現世の軽苦を忍ぶことができず、退転するようなことがあってはならないと、戒められている。
 戸田は、一文の結びとして、こう記していった。
 「この大聖人の御心を拝するに、君の横死は現世の少苦である。少しも悩まず、いたまずして死に、しかも大地獄に堕ちずして成仏の相をいたす。また、死後は大聖人のもとにありて、次の生命活動の強き根源を与えられる。喜びとするか、悲しみとするか。その人びとによるともせよ、ぼくは君のために喜びとするものである。
 願わくは大野君、今や広宣流布の途上にある。一日も早く、この地上に返り咲き、われら同志と手を握って、大聖人の御遺命を達成しようではないか。若々しき青年として、君を見る日も遠からじと思う。速やかに、学会のもとへ帰り給え。同志は君の帰り来らんことを待望している」
 愛弟子の、無残な交通事故死という不可解に思える現象も、広宣流布に命を捧げ、大難を忍んできた戸田には、御聖訓に照らして、その真意を明らかに知見することができた。彼は信心の眼をもって、生死の深淵を凝視することができた。
3  大野英俊の通夜は、一月二十八日に営まれた。
 戸田は、通夜の席に駆けつけ、大野の遺体を抱き締めてやりたかった。しかし、いまだ整わぬ彼の体調が、それを許さなかった。彼は、やむなく、山本伸一に、遺族へのお悔やみの伝言を託した。
 伸一は、通夜の席で大野の冥福を祈り、懇ろに読経・唱題した。そして、悲しみにやつれた夫人を、力の限り、励ますのであった。
 「奥さん、今は、ご主人を亡くした悲しみでいっぱいであると思います。しかし、一日も早く、その悲しみを乗り越えてください。
 大野さんは、電車に、はねられながら、不思議なことには、ほとんど外傷がない。眠るような臨終の相をしています。
 それは、彼が見事に宿業を転換し、成仏を遂げた証であるといえます。夫を亡くしたとしても、家族が、真剣に信心に励んでいくならば、必ず崩れざる幸福を築いていけるのが仏法です。
 あなたが、強く、強く、生き抜いて、幸せになることが、ご主人の願いであり、彼は、それをじっと見守っているはずです。負けてはいけません」
 伸一は、悲しみに凍てついた夫人の心に、勇気の明かりをともそうと、懸命に語りかけていった。
 社長の十条潔は、出張中であったが、急遽、引き返し、通夜に駆けつけた。彼は、大野の遺体の顔をなでながら、肩を震わせて泣いた。
 「大野君、痛かっただろう。辛かっただろう……」
 それは、十条の精いっぱいの言葉であった。そこには、万感の思いが込められていた。しかし、この通夜にも大野と最も関係の深かった藤川一正は、この通夜にも姿を見せなかった。
 伸一は、彼に憤りを覚えた。そして、そんな人間の未来を案じた。
 戸田城聖は、翌日、藤川が通夜にも参列しなかったと知ると、顔を真っ赤にして激怒した。
 「なにっ! 藤川は、人間として許せん。先輩でありながら、無責任極まりない態度ではないか。今後、藤川のことは、一切、信じるな!」
4  二月四日、大野の部隊葬が、東京・池袋の常在寺で厳粛に営まれた。
 親しかった同志の弔辞などのあと、戸田城聖の綴った、あの哀悼の辞を、小西理事長が代読した。切々と愛弟子に呼びかけるような、戸田の言葉に、場内のあちこちから、すすり泣きの声が漏れ始めた。
 三世の生命の実在を説き、永遠の生命観から導き出された戸田の結論、「ぼくは君のために喜びとするものである」との言葉を聞いた時、青年たちの表情に、一筋の光芒こうぼうが走ったかのように思えた。
 厚い雨雲の一角から、光が差し込み、雲を払うかのように、戸田の哀悼の辞は、人びとの心に安堵と希望をもたらしたのである。
5  そのころ、戸田城聖の健康は、日を追って回復しつつあった。
 十二月下旬には、彼の肝硬変症は奇跡的に治まり、医師は、ほぼ正常に戻ったと告げ、一月に行った検査の結果は、さらに良好と出たのである。
 ――尿ウロビリン体、ならびに尿ビリルビンも陰性となり、血清黄疸指数も、ほぼ正常値の八となり、肝臓も明らかに縮小していた。ただ、尿糖が陽性を示していたが、これは軽度であり、今すぐ、生命にかかわるものではない。
 全身の衰弱は、まだ残っていたが、剛毅な戸田は、元日には本部にも顔を出し、また、総本山にも赴いた。そして、疲れがひどくなると、静養しながら、復帰の日を待っていた。
 肝硬変症からの危機を脱し、ひとまず病魔を乗り越えた戸田は、快気祝いを行うことを思いついた。
 彼が病床に臥している間、懸命に頑張ってくれた首脳幹部を招いて、その労をねぎらいたかったのである。戸田は、その日を、彼の五十八歳の誕生日にあたる二月十一日とした。
 この前日の十日朝、山本伸一が戸田の自宅にやって来た。伸一は、七日から関西の指導に出かけていたが、夜行列車で東京に戻ると、その足で報告に訪れたのである。
 戸田は、関西の現況を聞くと、伸一に言った。
 「関西は完壁に仕上がったな。これで、日本の広宣流布の重要な基盤が整ったといってよいだろう。さて、問題はこれからだよ。あと七年で、どこまでやるかだ」
 戸田は、伸一の顔を見つめた。彼のメガネの奥の目は、燃え輝いていた。
 「急がねばならんのだよ。伸一、あと七年で、三百万世帯までやれるか?」
 戸田は、昨年十二月の男子部総会の翌日、七年後の指標として、伸一に二百万世帯を達成することを示した。しかし、彼は、熟慮の末に、壮大な広布の展望を練り上げ、その実現のためには、さらに前進の歩を速めなくてはならないことを感じていたのである。だが、それを成すのは、戸田自身ではないことも、彼は悟らざるを得なかった。病魔を乗り越えたとはいえ、自らの寿命の長からぬことを、戸田は覚知していた
 伸一は、きっぱりと答えた。
 「はい、成就いたします。ますます勇気が湧きます。私は、先生の弟子です。先生のご構想は、必ず実現してまいります。ど安心ください」
 戸田の思いは、そのまま伸一の誓いとなった。戸田は、「そうか」と笑みを浮かべると、嬉しそうに言った。
 「伸一の手で、どこまで、できるかな。一千万人が信心する時代が来たら、すごいことになるぞ。楽しみだな、本当に楽しみだ……」
 伸一は、その言葉を遺言として心に焼き付けた。師から、生涯の大指針を示されたのだと思うと、胸が高鳴るのを覚えた。
6  二月十一日の夕刻、戸田城聖の快気祝いと、誕生祝いを兼ねた祝宴が、都内の中国料理店で行われた。これには、理事長の小西武雄をはじめとする理事室、東京の支部長、青年部の最高幹部、婦人部の本部常任委員ら、四十数人の幹部が招かれた。
 戸田は、和服姿のくつろいだ装いで部屋に入って来るなり、「よお」と、一同に呼びかけた。
 皆にとっては、久方ぶりに聞く、戸田の親しさを込めた元気な声であった。
 戸田は、テーブルに着くと、一同の顔を見回してから、静かに語り始めた。
 「私の闘病中は、諸君らに苦労をかけ、大変に申し訳ないことをしたと思っています。その間、学会の運営については、なんら支障をきたすこともなかった。ここに、あらためて御礼申し上げたい」
 師である戸田の謝辞に、参加者は、恐縮しながら、次の言葉を待った。
 「私は、会長就任以来七年になるが、人生を振り返ってみると、七年ごとに難に遭っていることになる。昭和十八年(一九四三年)の弾圧による投獄、二十五年(一九五〇年)の事業の問題、そして、今回の病気です。しかし、今度の病気も打ち破ることができた。かくなるうえは、もう七年、また会長として頑張るつもりだから、ひとつよろしく頼みます」
 戸田は、こう言いながら笑いを浮かべた。どこか、寂しい笑いであった。それは、自らの命の長からぬことを、予期していたからにほかならない。
 それから戸田は、語気を強めて言った。
 「ところで、会員への指導には、これまで、ずいぶん力を注いできたが、最近の状況を見ると、あまり指導の成果が出ているとはいえません。それは、会員のせいではなく、むしろ、根本となる幹部の信心の問題であり、幹部の成長がないことが原因です。
 学会の発展のためには、まず、会長である私自身が、しっかりしなければならん。私自身が自分を教育し、磨いていかねばならんと思っている。同様に、各支部にあっては、支部長がしっかりすることです。そうなれば自然に、地区部長も、班長も、しっかりしてくる。
 なんといっても、まず、自分がどうするかが大切だということを、自覚しなければなりません。私もそのつもりで、明日から、以前と同じように本部に行って指揮を執ります。皆もよろしく頼みます」
 病気療養について振り返るのではなく、あくまでも未来をめざしての指導である。そして、まず自戒するところから始まり、幹部の奮起を促すのであった。
 戸田の指導に応え、一同を代表して小西理事長が、一言、決意を述べた。
 「私たち弟子一同は、ただ今の先生のお言葉を肝に銘じ、互いに新たな決意で、しっかり頑張ってまいることをお誓い申し上げます」
 そして、乾杯となった。祝宴が始まった。宴は喜びにあふれ、やがて、歌が相次ぎ披露された。「白虎隊」を歌う人もいれば、一高寮歌「鳴呼玉杯に花うけて」を高唱する人もいた。
 婦人部は、皆で「田原坂」を歌った。
  ♪雨は降る振る 人馬はぬれる
   超すにこされぬ 田原坂
 戸田城聖は、熱唱に目を細め、歌に合わせ、拳で軽くテーブルを叩き、さも愉快そうに聴き入っていた。
  ♪右手に血刀 左手ゆんでに手綱
   馬上ゆたかな 美少年
  
   天下取るまで 大事な身体
   蚤にくわせて なるものか
 「みんなは、この歌の意味を知っているかな」
 歌が終わると、戸田は一同の顔を見回しながら、静かな口調で言った。
 「これは、西南の役の時に、伝令となった薩摩軍の一青年・三宅伝八郎を歌ったものだといわれている。
 西郷隆盛の率いる薩摩軍は、熊本の田原坂で、官軍と激戦になったが、近代的な装備を整え、武器、弾薬の豊富な官軍の前に敗北を余儀なくされる。そして、多くの青年や少年が命を失ってしまう。
 西郷という人物は、立派ではあったが、結果的に、有能な若い命を散らせてしまった。私は、それが気にくわんのだよ。
 いよいよ敗戦が決定的になった時、薩摩の本陣に、敗北を伝えに行く伝令を送ることになった。それを命ぜられたのが、二十歳の三宅伝八郎だった。
 同志は、次々と討ち死にしていった。激戦に、伝八郎も疲れ果てていた。しかし、彼は最後の力を振り絞り、死んでいった同志のためにも、伝令の使命を果たし、必ず、生き抜いて天下を取ろうと心に誓いながら、馬で敵の囲いを抜けようとした。
 その後、伝八郎がどうなったかは知らないが、君たち青年部は、生きて、生き抜いて、天下を取り、民衆の楽土をつくるんだ。つまらぬ失敗で、身を滅ぼすようなことがあってはならん」
 戸田は、それから、合唱した婦人たちを見て言った。
 「この歌には、また、母の心が託されているように、私には思えるのだ。男は戦場に行き、子どもまで、送り出さなければならなかった。
 そのなかには、戦いに出たまま帰って来ない子もいただろう。あるいは、傷ついて帰って来た子どもも、いたはずだ。その傷ついて帰ったわが子をかくまって、傷を癒やしてやる。そして、立派に大きく育てて、天下を取るために、再び世に送り出そうとする。その母の心境が、この歌だと考えてみてはどうかね。婦人部のみんなも、子どもを立派に育てて、広宣流布の庭に送り出すんだよ。きっと、送り出すんだぞ」
 戸田の言葉には、力がこもっていた。
7  二月十四日付の「聖教新聞」に、戸田城聖は、「私の闘病八十日」と題する手記を寄せた。
 彼を襲った大難ともいうべき、このたびの闘病体験を、戸田は、ありのままに、全会員に伝えておきたかったのであろう。
 「小事にすら前兆がある。ましてや、大事においてをや……。昭和二十六年(一九五一年)、会長就任以来、まさに七年、振り返って考えるに、その時、『七十五万世帯の折伏をなし得なければ私の墓は建てるな。骨は品川の沖に捨てよ』と弟子たちに命じたのであった。しかるに、大御本尊の御威光盛んにして、三十二年(一九五七年)末にもう既に七十五万世帯を突破し、比叡山の像法の講堂焼落をしり目に、法華本門の大講堂落慶を目の前に見るにいたった。
 愚人の名誉このうえなきものとして、私は喜ぶとともに、三障四魔の出来必ずあるべしと、思わざるを得なかった。果たせるかな、昨年の四月以来、これが病魔、死魔として、いくたびか、わが身に襲いかかった。『来たな』と思ったので、東奔西走しつつ闘病生活に入ったが、俄然、十一月二十日、重大な病症となり、遂に立つあたわざる状態にいたった。
 どの医者も、もうだめだという表情である。しかし、いまだ広宣流布への途上にもついておらず、建築でいうならば、ようやく地ならしができた程度にすぎない。土台も、また柱もと考えていけば、この生命は、今、みすみす捨てられないようである。
 医者は『半年で事務が執れれば、上等な経過をたどったことになる』という。
 私は医者に言った。
 『あなたは、医者としての最善の手を尽くしてください。私も少々、生命哲学を学ぶもの、生命を延ばすことは少々知っているはずであるから、私も最善を尽くす。よろしく頼む』と。
 心のなかでは、『この最悪な闘病は一カ月、正月には初登山をし、三月の大講堂落慶総登山には、自ら総本山にいて、その総指揮を執る』と決めていたのである。事実、正月には初登山を行い、総本山で、五日間を過ごした。そして、幸いにも下山後、一月七日の医師の診断により、重症を警告されていた肝臓病の症状が、全くなくなったことが明らかになったのである。残るは糖尿のみであるが、これは、現時点では、直接、生命に急激な危険は伴わないことを知っている」
 戸田は、まず、回復にいたるまでの経過を簡単に記していった。そして、次に、医学と信仰の関係について論じている。
 彼は、自分自身の体験を通して、日蓮大聖人の仏法の偉大なる力を、明らかにしようとしていた。体験こそ、万言に勝る証明である。
 「私は医術を排撃はしない。あたかも智慧をうるのには知識の門をくぐるがごとく、健康の道に医術を忘れることは愚かだ。しかし、私は、現代の医学をもって最高とはしていない。ゆえに、ちょうど道路の技師が測量技術をもって道路を測定するように、医学、医術を、健康の道を測定する技術として待遇しているのである。ゆえに、わが身に課せられた病魔、死魔は、妙法によってこれを打ち、その経過は医術によって知らされるようにしてきたのであった。
 おかげをもって、満五十七歳の年を終わって、二月十一日の五十八歳の誕生日を選んで、全快祝いをあげることになった。
 昔、旅人が、一里塚、一里塚と追うて旅したごとく、私も七年、七年と、七里塚を越えては、広宣流布の道へ進もうと思う。今まで通り、同志諸君の協力を望んで病気の経過をあらまし報告する」
 手記では、そのあと、病気をする前まで、好んで口にしていたウイスキーも飲みたくなくなり、タバコの量もめっきり減り、しかも、おいしく吸うことができるようになったことを述べ、さらに、次のように記している。
 「また、私にとって、ありがたいことは、糖尿病は、過去十五年前の牢獄生活に発したことがはっきりわかったことである。糖尿病のために、私は左の目の網膜を痛めていたのであるが、これまで、眼科医ではその原因を知ることができなかった。不治なりとされて、私自身もそんなものかと思っていた。
 だが、時折、見えたり見えなかったりする現象に、おかしいなという感じをいだいてきた。ところが、今度の病気で、徹底的に膵臓の治療も受けたところ、左の視力が復活してきて、七分通り見えるようになってきた。いわば、死んだ網膜が生き返りつつある。網膜を一枚、大御本尊より下賜されたというところである。ただただ、御本尊に対する感謝の心でいっぱいである。
 この手記の冒頭で、戸田は、七年ごとの難について触れたが、前年夏には、夕張の炭労の問題、そして、大阪での小西理事長や山本伸一たちの逮捕事件もあった。
 競い起こったこれらの事件は、戸田の心身をいたく苦しめた。また、大阪地検の狙いが、戸田の逮捕、投獄にあったことを考えると、障魔の嵐は、戸田という広宣流布の指導者を狙って、激しく吹き荒れていたといってよい。
 しかし、彼は、それらを、ものの見事にはねのけ、今、高らかに凱歌の曲を奏でたのである。厳しい冬は終わり、まばゆい陽光の春が、いよいよ訪れようとしていた。
8  白雪の富士を背に、本門大講堂は、杉木立のなかに威容を見せていた。
 二月二十二日には、大講堂落慶総登山に備えて進められてきた、寂日坊、了性坊の増改築がなり、この二坊の落成の法要が営まれた。
 坊の増改築は、創価学会の発展にともなう登山者激増により、一九五四年(昭和二十九年)夏ごろから着手されてきたが、五五年(同三十年)五月には、東之坊が新築され、以後、理境坊、南之坊、浄蓮坊、蓮成坊、本住坊、百貫坊、蓮東坊、久成坊、本境坊、観行坊と、増改築が行われてきた。
 いずれも、戸田城聖をはじめとする創価学会員の、外護の赤誠によってもたらされた供養である。
 また、宿坊に限らず、五三年(同二十八年)四月に、倒壊寸前であった五重塔を修復したのに始まり、御影堂、蓮蔵坊の修復、五五年(同三十年)十一月の奉安殿の建立、五六年(同三十一年)三月の水道工事の完成など、学会によって着々と総本山の整備が進められてきた。
 そして、さらに、ここに戸田の念願であった本門大講堂の竣工をみた。戸田城聖の会長就任以来七年にして、終戦直後の、あの荒れ果てた総本山は荘厳され、面目は一新されたのである。
 寂日坊、了性坊の落成の法要のため、総本山に駆けつけた戸田は、夕暮れのなかに広がる総本山の威容を眺めながら、ひとり、深い感慨に浸っていた。彼は、今は亡き日昇を偲びつつ、語りかけるのであった。
 ″この総本山をご覧ください。戸田の生涯をかけた、赤誠の証でございます。いよいよ大法興隆の基盤は整いました……″
 翌二十三日には、大講堂の引き渡しが行われた。
 大講堂は、総床面積二千八百坪(約九二五六平方メートル)の、鉄筋コンクリート七層の楼閣である。三、四階が吹き抜けの講堂になっており、広さは七百余畳で、周囲には回廊が巡らされている。
 また、講義室、会議室、貴賓室などのほか、屋上には池のある庭園もつくられ、いかなる来賓を招いても恥じない、近代的で荘厳な建物となった。
 五六年(同三十一年)十二月、起工式が行われ、以来、一年二カ月余を経て、創価の同志の真心が、ここに結実したのである。
 この工事の期間中、事故は一切なく、工事現場からは、古銭が発掘されている。また、良水を得ることは不可能とされてきたにもかかわらず、井戸を掘り当て、増大する登山者の飲料水の確保も可能となった。
 施工会社からの大講堂引き渡しのあと、戸田城聖は、法主の堀米日淳を案内し、大講堂内を回った。彼の心は、落成の喜びに弾んでいたが、その足取りは、おぼつかなかった。
9  薄明の空に、青紫の富士が、ほのかに浮かんで見えた。やがて、朝の光に白雪の山肌が金色に染まっていった。
 三月一日、総本山大石寺の門前には、未明から続々とバスが到着した。
 参加者は、「祝落慶大講堂」との文字が掲げられ、杉の葉でつくられたゲートをくぐり、喜々として参道を進んでいった。空には、アドバルーンが上がり、花火が打ち上げられた。
 白雪に輝く富士を彼方に、晴れ渡る空にそびえ立つ、大講堂を目の当たりにした登山者は、その荘厳なたたずまいに息をのんだ。
 会員たちは、貧しい暮らしのなかで、生活費を切り詰め、供養金を捻出してきた。権力の庇護によるのではなく、民衆の真心の浄財によって、広宣流布の逸材を育成する大講堂を建立することは、会員の夢であり、誇りであった。それは、まさに法華本門大講堂と呼ぶにふさわしい、民衆の手による、民衆のための仏法の殿堂であった。
 大講堂前の待機していた参加者は、弾む喜びのなか、午前九時から、講堂内に入場を開始した。午前十一時、戸田の最後の願業である、本門大講堂の落慶法要が開始された。
 日淳の導師で読経が進められ、方便品が終わると、会長・戸田城聖から、大講堂の御供養を認めた目録が贈られた。日淳から請書が手渡され、次いで、慶讃文が奉読された。
 「……然る処、此処に法華講の大講頭たる創価学会会長戸田城聖一天広布を祈願して、本門大講堂の一大法城を建立して寄進せり」
 日淳の声が、静まり返った大講堂に響いていった。
 「その結構をみるに、日本仏教界未曾有之本門之大講堂にして白亜七層之楼閣は、まさに是れ東海の偉観と云うべし。(中略)然れども、荘厳広大を如何に誇るとも、此の大講堂に講経論談の華咲かず、説法講演の法鼓を打たずんば如何せん。昔、伝教大師は叡山に迹門の大講堂を建立して、日本仏教界を指導す。今此の処に、法華真実、本門之大講堂忽然として涌出す。敢て、日本仏教界を指導せずんば如何となすや。然るに、広宣流布を願業とする七十五万世帯の創価学会会員の日夜不断の折伏逆化は、今正に現代仏教界の動向を左右せんとす。まことに喜ばしき哉……」
 慶讃文奉読に続いて再び読経に移り、唱題をもって法要の第一部は終了となった。
 第二部に入り、理事長の小西武雄が、この晴れの日に至る経過を報告した。
 そのあと、大きな拍手に迎えられて、戸田城聖が、あいさつに立った。
 彼は、満面に笑みをたたえながら、細く痩せた体には不似合いな、気迫に満ちた声で語り始めた。
 「今日は、私と共に喜んでいただきたいのであります。今まで、日蓮といえば身延だと、日本中が思い込んでいた。今でも、そう思っている人もいる。しかし、言うまでもなく身延は大聖人の教えから外れた宗派であります。
 ところが、その身延に、当山が、何をやっても、負けてばっかりいた。御書の発刊をする時も、身延にもその計画があった。最初は、こちらが負けてしまいそうで、非常に残念だった。そこで、学会は懸命に作業を進め、身延を追い越して、あの立派な御書が出来上がったんです」
 祝典のあいさつにしては、型破りな内容であった。
 「先ほど、猊下が仰せになったように、日本で迹門の法華経が興隆した時には、比叡山の講堂があったが、今や、その比叡山の迹門の講堂は焼失してしまった。そして、今、ここに本門の大講堂が、かくも立派に出来上がった。この大講堂の建立は、七十五万世帯の人びとが、いや、八十万世帯を超える人びとの真心が、一致したればこそできたのであります。これは、私一代の時代にできれば、ありがたいと思っていました」
 戸田は、率直に胸の思いを語っていった。
 「これから、猊下からお酒をくださるそうですが、ちょっと体を悪くしまして、このごろは、体の方が言うことを聞かない。しかし、飲む方は、前と変わらずに飲めるから、今日は十分に飲んで死んでみようかと思うんです」
 どっと、笑いが起こった。しかし、その笑いは瞬間にすぎなかった。「死」という戸田の言葉に、参加者の多くは胸を突かれ、場内は、すぐに静寂につつまれた。
 戸田が、冗談のように「死」を口にしたのは、身近に忍び寄る自身の死を、強く意識していたからにほかならない。しかし、彼は、既に生死を超越していたといってよい。
 寿量品には、「無有生死、若退若出(生死の若しは退、若しは出有ること無く)」(法華経四八一ページ)とあるが、それは、生きているとか、死んでしまったとかは、一つの変化にすぎず、生命は永遠であることを教えている。
 彼は、この経文を深く確信することができた。生死を突き抜け、永遠の生命への、揺るがざる境地を体得していたといえよう。
 それゆえに、自己の死をも、笑いながら口にすることができたのである。また、七十五万世帯を達成し、大講堂の落成をみた今、ただ、ひたすら嬉しく、死しても悔いはないというのが、彼の心境であった。
 戸田城聖は、力を込めて言った。
 「ところで、この大講堂の完成は、ことごとく皆さんの、おかげです。地元にお帰りになったら、戸田が心から感謝しておったと、皆さんにお伝えください。そして、丁重にお礼を言ってください。お願いします。
 創価学会は、わずか百円の金も、一千万円の金も、心をもって測るものであります。乏しい生活費を切り詰めて御供養してくださった方に、『俺は、百円ほどしか供養していないのに、戸田がそんなに喜んでくれたか、すまん』なんて、肩身の狭い思いをさせないでください。その百円札一枚が、十円玉一つが、ありがたい。その真心が嬉しいし、また、それが偉大な福運を積んでいくことになるんです。
 金が欲しければ、日本銀行に行けば幾らでもある。行ったところで、くれないだろうから行かないけれども。ともかく、私から、皆さんに心からお礼を申し上げます。本当にありがとう」
 戸田は、同志の真心の供養に、深く謝意を表した。
 「今、日本の国は、自界叛逆の難に陥っている。その典型的な姿が政界です。政党をご覧なさい。もし、このなかに、政党のご関係の方がおりました、ならば、″戸田は口から先に生まれてきたのだ″と、おぼしめしていただきたい」
 どっと笑い声があがった。
 この日の式典には、戸田の友人であった首相の岸信介が、代理として差し向けた政治家をはじめ、何人かの政界人も来賓として参列していた。
 「共産党にせよ、社会党にせよ、自民党にせよ、仲間割ればかりしている。これは自界叛逆の姿です。会社は会社で喧嘩ばかりしている。家庭は家庭で、まとまっていない。この自界叛逆が、日本の国を覆っている。このままいけばどうなるのか――。
 これを救うのが妙法の力です。この大講堂で、そのための教えを受け、それをもって、日本の国を救っていく以外にない。そこに学会の使命があります。
 これからは、日本の民衆が、皆さんが、世界に向かつて、まことの信心の力を示す時です。よくよく心して、信心第一に励み、この日本に、真実の楽土を築いていってください。また、一人ひとりが幸福になってください。それが、私の願いです。これで、私のあいさつを終わります」
 あの敗戦から十余年――戸田城聖は、人びとが日蓮大聖人の仏法を根本として、社会の建設に励む時、真実の日本の復興がなされ、世界を平和と繁栄に導く力となることを、宣言しておきたかったのだ。
 そして、そのための哲理を学ぶ殿堂こそ、大講堂にほかならないと、彼は考えていた。ただ、寺を荘厳し、権威づつけるための伽藍となってしまえば、そこには、生きた仏法の脈動はない。
10  戸田は、話しながら、何度もハンカチで額の汗をぬぐった。彼は、体の変調を感じていたが、そんな素振りさえ見せなかった。
 話を終えて着席する時、足もとがふらつき、戸田の体が、ぐらりと揺れた。しかし、彼は、何事もなかったかのように静かに座った。なお鳴りやまぬ拍手を耳にしながら、彼は、これで何もかも無事に終わったと思った。
 続いて細井総監のあいさつがあった。そのあと日淳から、戸田城聖に賞状と記念品、設計者の横田君雄と、施工会社の社長に、感謝状と記念品が贈られた。
 戸田への賞状には、こう記されている。
 「貴殿は創価学会会長として能く宗門を隆盛ならしめ今亦茲に大講堂を建立寄進し以て総本山を荘厳ならしむると共に広宣流布の基礎を確立せらる その功大なり……」
 それから、来賓の祝辞に移り、学会歌の合唱、閉会の辞をもって式典は終了した。
 そのあと、午後一時から祝宴となった。
 戸田は、日淳と共に、来賓を招いて行われる六階の貴賓室での祝宴に、出席することになっていた。また、五階の大会議室では寺族の祝宴が、講堂の大広間では学会員の祝宴が、行われることになっていた。
 山本伸一は、戸田の腕を取って言った。
 「先生、まいりましょう」
 戸田の腕は温かかった。伸一は、体内に脈打つ師の鼓動を感じた。しかし、その腕は、元気だったころと比べ、一回りほど細くなっていることに気づいた。
 清原かつ、森川一正もやって来て、戸田を囲むようにしてエレベーターに向かった。
 エレベーターが上昇し始めると、戸田は、伸一の顔をのぞき込むように見すえた。そして、静かだが、力を込めて言った。
 「さあ、これで、私の仕事は終わった。私は、いつ死んでもいいと思っている。伸一、あとはお前だ。頼むぞ!」
 伸一の体に電撃が走った。伸一は、緊張した面持ちで戸田を凝視した。二人の目と目が光った。
 「はい!」
 自らを鼓舞する、深い決意を秘めた声であった。それだけで、言葉はなかった。静寂のなかに、戸田の、やや荒い息遣いが聞こえた。師と弟子は、無限の生命の言葉を交わすかのように、沈黙したまま、互いの顔を見つめ合った。それは、厳粛を瞬間であった。
 清原と森川も、緊張した表情で、このやりとりを見ていた。二人は、戸田と伸一の厳粛を瞬間の姿のなかに、師から弟子への、広宣流布の継承を鋭く感じ取ったにちがいない。
 エレベーターは六階に着いた。
 祝宴は、午後二時ごろには終わった。
 戸田城聖は、日淳や、来賓らが退出するのを、六階の貴賓室で端座して送った。
 そして、立ち上がろうとした途端、彼の体がよろけた。それは、体の衰弱のためか、久し振りに飲んだ酒のせいかは、わからなかった。とっさに、伸一が、戸田の右腕を支えた。
 「いや、大丈夫だ」
 戸田は、伸一に体を預けながら屈託なく笑った。彼の機嫌は、すこぶるよかった。伸一に支えられて、エレベーターに乗った。
 一階に着くと、男子部長の秋月英介をはじめ、青年部の幹部が待機していた。秋月は、戸田のもう片方の腕を支えた。
 戸田は嬉しそうに、誰彼となく声をかけながら足を運んだ。
 「ご苦労。みんな、よくやってくれたな。おかげで無事に終わったよ」
 大講堂を出ると、前の広場には、春の陽光を浴びて、役員の青年たちが、音楽隊の演奏に合わせ学会歌を合唱していた。歓喜は、いまだ尽きなかったのであろう。
 戸田は、笑いかけながら、青年たちのなかに入って行った。青年たちは、驚きと喜びを満面にたたえ、彼を迎えた。
 戸田は、音楽隊の側まで行くと、「ぼくが太鼓を打とう」と言って、隊員の持っていた大太鼓のばちを手にした。この日の盛儀を陰で支えた青年たちを、心から励ましたかったのだ。
 「こうか、これでいいのか」
 戸田は、両脇を支えられたまま、腰をかがめ、枹で太鼓を、ドン、ドンと叩いた。そして、左手で太鼓の上のシンバルを打ち、まことに無邪気な笑顔を浮かべて、白い歯を見せた。辺り一面に、笑顔の花がぽっと広がり、大きな拍手が起こった。
 伸一は、側にいた音楽隊長に何かささやいた。音楽隊は、「学会の歌」を奏でた。伸一は、自ら歌の指揮を執り始めた。青年たちの、元気な歌声が響き渡った。
 その姿を、戸田は満足そうに見ていた。伸一は、途中まで指揮を執ると、再び戸田の腕を支えた。戸田は、この合唱に送られて、伸一と秋月に体を預けるようにして、そろそろと歩きだした。
 彼は、理境坊に向かって歩きながら、傍らの伸一に語りかけた。
 「来賓たちは、いたく感激していたよ。『学会のある限り日本は安泰だ』『暁の太陽を見るようだ』とていた人もいたが、決して、お世辞ではないだろう。伸一は、渉外部長としてよく戦ったな。これからは学会の正義を、世間にどう認識させるかが勝負だ。外交戦が、ますます重要になるぞ!」
 戸田は、こう語ると、つぶやくように言った。
 「明日から、いよいよ総登山だな。私が、断固として指揮を執るからな……」
 大講堂落慶を記念する総登山は、一カ月で二十万人に上る未曾有の登山会である。一日当たり、約七千人が参加することになる。そのうち約四千人が一泊で、三千人が日帰りであった。
 この期間は、総本山は、終日、にぎわいをみせた。まず、前夜、東京を出発した日帰り登山者のバスが、午前六時ごろから、次々と到着する。そして、大講堂での諸行事をすませ、正午を過ぎたころから下山するのである。
 列車登山は、ほとんどが一泊登山者で、各地から臨時列車を仕立てたり、指定列車でやって来る。北海道の旭川からだと、総本山まで片道五十二時間を要した。
 伸一は、青年部の室長として、この総登山の一切を支えていた。無事故を期して運営の全責任を担う彼は、登山列車や登山バスが、深夜も走っていることを思うと、夜も熟睡することはなかった。
 戸田は、一日の大講堂落慶法要以来、日ごとに衰弱の度を増していた。彼は、理境坊の三階で、体を布団の上に横たえながら、伸一を傍らに置き、総登山の指揮を執っていた。
 体を動かすことは、ままならなかったが、頭脳は、どこまでも明断であった。階下の運営本部から次々ともたらされる報告を聞いては、的確な指示を与えた。
 また、理事室をはじめ、幹部たちが、あいさつに来ると、「今のうちに何でも聞いておけ」と言いながら、一つ一つの質問に、全精魂を込めて指導するのであった。
11  ある時、報告にやって来た滝本欣也が、戸田に尋ねた。
 「先生が一日の落慶法要で言われましたように、御書も発刊され、大講堂も建立された今、学会は身延をしのぎ、もはや、敵はなくなったと思います。これからの学会は、何を敵として進んで行けばよいのでしょうか」
 戸田は横になっていたが、質問を聞くと、布団の上に起き上がった。そして、滝本の顔を見て、厳しい口調で答えた。
 「敵は内部だよ!」
 実はそのころ、学会員同士の共同事業の失敗や金銭貸借から怨嫉が起こり、それが組織での人間関係に亀裂をもたらすという、由々しき事態が、幾つも生じていた。
 また、一部に学会の組織を利用して、保険の勧誘や商品の販売を行う者があり、いたく戸田を悩ませていた。ことに、それを行った者が幹部である場合には、会員は無下に断ることもできず、不本意ながらも、勧めに応じてしまうというケースも少なくなかった。
 戸田は、広宣流布の組織である学会が、個人の利害によって撹乱されることを深く憂慮し、それらの行為を、「信心利用」「組織利用」であるとして、厳しく戒め、固く禁じていた。
 学会の組織は、広宣流布という聖業の成就のための組織である。戸田が会長に就任してから七年に満たない短日月のうちに、学会がこれだけ大きな飛躍を遂げたのも、どこまでも清浄に、一切の不純を排して、厳格な運営が行われ、広宣流布の聖業に向かつて邁進してきたからにほかならない。
 その組織が、私利や私欲によって利用されれば、学会の崇高な目的は汚され、異体を同心とする同志の団結も破壊され、広宣流布は、根底からむしばまれることになるだろう。
 戸田は、まさに「佐渡御書」に仰せの、「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食」との御聖訓が、現実となりつつあることを、強く実感せざるを得なかった。
 学会は、信仰によって結ばれ、相互の信頼を基調とした善意の人の輪である。同志というだけで人を信じもし、安心もする。因っている人には、なんらかの手を差し伸べてあげようとする思いも強い。それだけに、悪意の人に、利用されかねない面があることも事実であった。いわば魔は、会員の信頼と善意に、巧妙に付け入ってきていたといってよい。
 戸田は、それを防ぐために、信仰のうえで知り合った同志間の共同事業や金銭貸借、組織を利用しての商売を厳禁し、これを学会の鉄則としたのである。そして、この鉄則を破り、会員に迷惑をかけた幹部に対しては、解任も辞さぬ決意をしていた。彼は、邪悪の付け入る余地を、微塵も与えまいとしていたのである。
 しかし、自己の利益のために学会の組織を利用しようとする者は、今後、学会が大きくなればなるほど、さらに、出てくるであろうことを、彼は予見していた。それゆえに、″今後の学会の敵は何か″という滝本欣也の質問に、即座に、「敵は内部だ」と答えたのである。
 しかし、それは同時に、滝本自身に対する戸田の警鐘でもあった。滝本をよく知る戸田は、彼の生き方に対して、人知れず心を痛めてきたのである。
12  滝本欣也は、福岡県大牟田の出身である。千葉の陸軍戦車学校で終戦を迎え、戦後、神奈川で製塩業に従事していた彼は、一九四六年(昭和二十一年)の十月に入会している。その後、学会員の紹介で牧口初代会長時代からの会員である、蒲田の酒田たけ一家が営む鉄工所に住み込みで働くようになり、やがて酒田の娘と結婚した。
 それから間もなく、鉄工所を切り盛りしていた、酒田の息子・義一の悩みが始まった。義弟となった滝本が、満足に仕事をしないのである。
 滝本は、五一年(同二十六年)に男子部が結成され、部隊長制が敷かれると、第四部隊長になった。すると彼は、ますます仕事の手を抜くようになっていった。勤務時間中に、信心指導や打ち合わせと称しては、仕事を抜けてしまうのである。
 また、遅刻が多く、納期に間に合わせようと皆が深夜まで仕事をしていても、夕刻になると、「学会活動があるから」と言って、さっさと出て行ってしまう。
 青年部の幹部である滝本の行動は、他の学会員の従業員にも波及していった。朝は、前夜の活動を理由に遅刻してくる者が増え、残業は、にべもなく断るのである。
 さらに滝本は、昼休みに学会員の従業員を集め、大学者ぶって御書の講義を始めた。さして広くもない町工場のことである。一般の従業員は、休憩する場所が、なくなってしまった。遂に、鉄工所内で、学会員に対して非難の声が出始めた。
 鉄工所といっても、十人ほどの従業員であり、皆が力を合わせて懸命に働き、なんとか、守り立ててきた会社である。それだけに、社内に生じた不協和音は、会社の存亡にかかわる重大問題であった。
 それまで酒田は、滝本を努めて理解しようとしてきた。仕事の手抜きも、信心への熱心さのあまりであるととらえて、こらえこらえてきた。しかし、それも、もう限界に達していた。
 ″このままでは会社が危ない。滝本のやっていることは、戸田先生の指導とは正反対だ。あれは、絶対に幹部のすることではない!″
 酒田は、この数年間、滝本と身近に接するなかで、会合などで見せる幹部としての顔とは全く裏腹な、彼の実像を見せつけられてきた。
 酒田が、滝本に対して最初に大きな不信をいだいたのは、戸田城聖の経営していた東光建設信用組合が不況の波に洗われ、頓挫をきたし、業務停止となった五〇年(同二十五年)ごろのことであった。
 その時、戸田は、自分の事業の破綻から、会員に迷惑をかけるようなことがあってはならないと、学会の理事長を退き、事業の再建のために必死に戦っていた。いわば、戸田にとっては、戦後の最大の苦境の時代であった。
 心ある学会員は、戸田の再起を祈り、彼のために何か応援し、せめてもの恩返しをしたいと願っていた。
 戸田が、事業で得た財の一切を学会のためになげうち、負担を会員にかけまいとしてきたことを、よく知っていたからである。
 だが、その時、滝本は、酒田に、傲然としてとう言い放った。
 「戸田先生の事業の問題は、折伏の邪魔になるんだよ」
 吐き捨てるような言葉であった。
 酒田は、愕然とした。日ごろ、口を聞けば「戸田先生、戸田先生」と語り、自らが第一の弟子であるかのように吹聴していた滝本から、そんな言葉を聞くとは、夢にも思わなかったからである。初めて、滝本という男の本性を、垣間見た思いがした。
 そのころ、戸田城聖のもとにあって、事業の活路を開くために、時に喀血さえしながら、病身に鞭打ち、壮絶なまでの戦いを展開していたのが、山本伸一であった。
 伸一は、やがて戸田が会長に就任してからも、陰で戸田の事業の一切を支えて仕事に全精力を注ぎ、孤軍奮闘する日が続いていた。
 滝本欣也が第四部隊長になった時、伸一は、滝本の部隊の班長となった。ある日、酒田の家で、滝本の部隊の班長会が行われた。伸一は、この日も、やむなく仕事のために欠席せざるを得なかった。
 滝本は、伸一が欠席していることを知ると、冷たく言った。
 「山本は退転だよ。また欠席だ。仕事という魔に負けているんだ!」
 当時、酒田義一は、滝本とは、別の部隊に所属していたが、第四部隊の青年たちから、その話を聞くと、憤りが込み上げてくるのを覚えた。
 酒田は、今、伸一がどれほど苦労して、戸田の事業のために奔走しているかを、よく知っていた。それは、滝本も知っているはずである。自分は、まともに仕事もせずに、幹部という立場を笠に着て、平然と、伸一を「退転」と言つてはばからぬ滝本に、酒田は、人間として異常なものを感じた。
 この時に、酒田のいだいた不信感は、滝本の、その後の生活態度を見るにつけ、ますます深まっていった。
 酒田は、この先、滝本をどうすればよいかと考えあぐねた末に、暗澹たる思いで戸田城聖を訪ねたのである。義弟であり、幹部である滝本欣也の問題を口にするのは、身を切られるように辛かったが、彼は、すべてをつつみ隠さず、戸田に話した。
13  酒田の話を聞くと、戸田は口惜しそうに言った。
 「やはり、そうか。困ったものだな……」
 戸田は、以前から、滝本の壮士気取りの生き方を憂慮し続けてきた。他宗の寺や本部などに押しかけ、法論を挑むといった派手な活動には意欲を燃やすが、陰で着実に努力を重ねることができない滝本の、だらしなさを見抜いていたからである。
 「君の話はよくわかった。滝本の行為は、畜生の命さながらだ。信心を利用する許しがたい行為だ。しかし、会社としてどうするかは、君が勇気をもって決断していく問題だ。今後の具体的な対処については、泉田君とよく相談しなさい」
 戸田は、理事の泉田弘に、酒田の相談に乗って、対策を協議するように命じた。
 酒田が帰ったあと、戸田は、深い憂いに沈んだ。
 彼はこれまで、功名心の強い滝本を、幾度となく厳しく諌めてもきた。
 しかし、厳しく言えば言うほど、心が戸田から離れていくのを感じていた。
 以前から懸念されてきたこととはいえ、なんとか伸ばしたいと思って育ててきた、青年部の幹部の醜態を聞くのは、戸田にとっても、辛く、悲しいことであった。
 戸田は、このままいけば、滝本欣也は、常に同志を食いものにする、師子身中の虫になっていくにちがいないと思った。
 ″滝本は、酒田義一の義弟とはいえ、幹部として、信心を利用し、酒田一家に迷惑をかけたことは、解任にも値する不祥事である″
 戸田は、そう考えたが、解任すれば、滝本は、怨嫉し、退転、反逆していくであろうことが、目に見えていた。それを思うと、かわいそうでならなかった。戸田には、滝本の心理が手に取るようにわかった。
 炭鉱の街に生まれ、十四歳で父を亡くし、貧しい少年時代を送り、苦労の辛酸をなめて育った滝本にとって、学会は、自分を花開かせることができる、唯一の世界であったにちがいない。
 滝本は、その学会が、善意の人の世界であるのをいいことに、有頂天になり、わがまま放題になって、遂には、周囲の人を自分のために利用する心が芽生えたのであろう。
 戸田には、滝本の浅ましさが、哀れに思えた。
 戸田は、不遇な生い立ちを背負い、誤り多き、未熟な青年であればあるほど、なんとしても、社会的にも立派な、ひとかどの人物に育て上げたかった。
 それを、自らの責任として課していたのである。
 ″腐っても、私の弟子であることに変わりはない。私が自分の手で、あの心根を断って、忍耐強く育て上げる以外にないだろう″
 戸田の心は、どこまでも広く温かかった。
 酒田義一は、泉田弘の指導を受け、遂に、義弟の滝本を解雇することにした。
 滝本は、「俺をクビにしたから、酒田の会社は潰れた、と言われないようにすることだな」と、捨て台詞を残して辞めていったが、その後、しばらくは酒田の家に住んでいた。
 戸田は、それから、滝本を抱え込むようにしながら、折に触れて厳しく指導していった。滝本が、その心根を入れ替え、まことの人材として育つことを願つての、粘り強い、厳愛の指導であった。滝本は、戸田の指導によって、変わっていったように見えた。
 そして、五五年(同三十年)の区議会議員選挙に、戸田は、滝本を候補者に推薦した。滝本は、同志の献身的な支援活動によって、品川の区議会議員となった。
 戸田は、彼が当選した時、山本伸一に言った。
 「滝本は、いつ退転してもおかしくない男だ。だが、そんな男だからこそ、まともな日の当たる人生行路を歩かせてやりたいと思って、私は、滝本を育ててきたんだよ。このまま、真っすぐに伸びてくれればいいがな。
 伸一、仏法者というのは、騙されても、騙されても、最後まで相手を信じ、つつみながら、再起と更生を願って、手を尽くしていく以外にないんだよ」
 そして、伸一の顔を見すえ、語気を強めて言った。
 「しかし、ひとたび、学会に牙をむき、仏子の和合を破壊しようとしてきたなら、その時は、徹底的に、相手を叩きつぶすまで戦うんだ。そうでなくては、創価学会が壊され、広宣流布が撹乱されてしまうからな。そうなれば、みんなが不幸になってしまう。
 邪悪を放置しておくのは、慈悲などでは決してない。それは慈無くして詐り親しむ姿だ。悪と戦ってこそ正義なんだよ。広宣流布の最後の敵というのは内にこそある。城者の裏切りが城を破るのだ。あの五老僧を見たまえ。五老僧は過去の話ではない」
 戸田は、未来を見通すかのように、話していった。
 「これから滝本たちが政界に出ていくが、私は心配で仕方ないのだ。
 政界というのは、権力と、野望と、駆け引きの、魑魅魍魎の世界だ。皆、今は新しい気持ちで張り切っているが、下手をすれば、すぐに精神が毒され、私利私欲をむさぼる者が出ないとも限らないだろう。
 私の心を忘れぬ者は、政治革新を成し遂げ、民衆のための偉大なる政治家に育つだろうが、私利私欲にむしばまれていけば、広宣流布を破壊する魔の働きになってしまうだろう。
 政界への進出は、私にとっても、学会にとっても、大きな賭けだ。私は、獅子がわが子を谷底に突き落とす思いで、弟子たちを政界に送り出そうとしているんだ」
14  以来、既に三年の歳月が流れようとしている。
 戸田城聖は、今、理境坊の二階にあって、滝本欣也を前に、この一青年の来し方を思い起こした。そして、滝本をまじまじと見つめて、もう一度、言った。
 「敵は内部だよ……」
 戸田は、私生活にだらしなく、虚栄心の強い滝本が、最後まで心配でならなかったにちがいない。
 戸田は、この総登山の期間中、折あれば、理事や青年部の幹部と語り合い、一人ひとりの未来のために、渾身の指導をしていた。衰弱のためか、言葉数は決して多くはなかったが、一人ひとりの本質を鋭く射貫く、万鈎の重みを秘めた指導であった。
 また、彼は、登山者の指導に奔走する幹部たちにも、心を配った。各坊での指導会の担当で出かけたメンバーが帰って来るのを待ちながら、役員の婦人部に語りかけるのであった。
 「今日は、誰がいちばん早く帰ってくるかな。みんなが帰ってきたら、何をご馳走するか。豚の味噌煮にするか、それとも、すき焼きがいいかな」
 戸田は、はつらつと戦う弟子たちの姿を見るのが、このうえなく嬉しかったのだ。
 婦人たちは、戸田の、弟子たちへの心遣いを知って、目頭を熱くしながら、支度に取りかかるのであった。彼の周囲には、常に創価家族の温もりが漂っていた。
15  山本伸一は、三月五日から三日間ほど、総本山の戸田城聖のもとを離れ、あの大阪の事件の裁判に臨まなければならなかった。
 伸一が、総本山に戻って間もなく、戸田のもとに、首相の岸信介から、三月の十六日の日曜日に総本山に参詣したい、との連絡が入った。
 戸田と親交の深かった彼は、三月一日の大講堂の落慶法要に参列する予定であった。しかし、所用があり、代理を差し向け、自分は日を改めて総本山を訪ねたいと伝えてきていた。それが、正式に十六日に決定したのである。
 戸田は、にこやかに笑みを浮かべながら伸一に言った。
 「よい機会だ。この日に、青年部を登山させようじゃないか。そして、将来のために、広宣流布の模擬試験、予行演習となる式典をしよう」
 彼が、模擬試験と言ったのは、広宣流布の全責任と使命を、次代を担う青年たちに託すために、その成就を想定した、模擬的な儀式を行うことを意味していた。
 御聖訓に「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇なり」と仰せのように、広宣流布の暁には、党天も、帝釈も、正法を信受する日が来よう。大党天王・帝釈等とは、現実に即して考えるならば、法華経を守護する働きを担う社会の指導者層といってよい。
 つまり、一国の宰相はもとより、各国、各界の指導者が、御本尊に帰依する日が来ることを、一つの儀式というかたちをもって、戸田は示そうとしたのである。
 戸田城聖は、目を輝かせながら言った。
 「広宣流布がなされれば、首相をはじめ各界の指導者が、この仏法を信奉して、世界の平和と繁栄を祈念する日がやって来る。いや、その時代を、青年の手で、必ずつくっていくのだ。伸一、ぼくは、この三月十六日の式典を、″広宣流布の印綬″を君たちに託す儀式にしようと思っているんだよ。この式典の全責任は、君がもつのだ。思い通りに、力いっぱいやりたまえ」
 戸田の口調は穏やかであったが、その目は光り、ただならぬ決意と気迫を漂わせていた。
 「はい、見事な後継の誓いの集いにいたします」
 彼は、伸一の返事に、笑顔で頷いた。くつろいだ和服姿の襟元からのぞく、戸田の首筋の皺が、痛々しいまでに体のやつれを物語っていた。
 伸一には、恩師の命の火は、まさに燃え尽きんとしていることが直感された。
 伸一を中心に、式典の準備は直ちに進められていった。日々、総登山が行われているうえに、急遽、青年部を登山させようというのである。
 輸送機関の確保に始まり、歓迎態勢や式典会場の検討、通常の登山者の下山と青年部の着山とを、いかに円滑に進めるかなど、困難な課題が山積していた。
 三月十六日の青年部登山の参加者は、輸送機関の関係で、首都圏から五千人、地元の富士周辺の地域から千人と決まった。
 この登山が正式に発表されたのは、男子部は十一日の男子部幹部会の席上であった。女子部も同時に連絡が流れ、十三日の臨時幹部会で再徹底された。
 ――十六日に、青年部の登山が行われる。この日は首相を迎え、広宣流布の模擬試験を行う。
 その知らせは電雷のように、瞬く間に、関係組織の隅々にまで流れた。
 人づてに知らせを受けた青年たちは、それが何を意味するのか理解しかねた。しかし、体調の思わしくない師の戸田城聖が、この日を楽しみにし、青年部の来るのを待っていると聞き、何か計り知れない、大きな意義を込めた式典が行われることを感じ取った。
 青年部員の多くは、総登山の役員として、既に登山したか、三月後半には登山することになっていた。そこに青年部の登山が重なることになる。十六日は日曜日とはいえ、時間を確保することは容易ではなかった。
 しかし、愚痴や文句を言う人は、誰一人としていなかった。万障繰り合わせて、是が非でも、戸田のもとに馳せ参じようとしていた。
 戸田は、折に触れて、「いざという時、広宣流布の戦場に駆けつけられるかどうかだ」と語ってきたが、青年たちは、今、その時が来たと思った。広宣流布への決定した一念は、まことの時に、その真価が発揮されるといえよう。
 財も、地位も、名誉も欲せず、ただひたすら広宣流布を夢見てきた青年たちにとっては、師匠・戸田城聖が指揮を執る晴れの式典に参加できることは、無上の誉れであり、喜びであった。胸躍らせながら、直前に迫ったこの日を待った。
 戸田の胸中には、広宣流布の模擬的念式典を行うという構想が、既に三月一日の大講堂落慶法要の前から、描かれていたのである。
 彼は、首相が落慶法参列できず、日を改めて総本山に参詣したいとの知らせを受けた時から、その折に青年部を登山させ、広宣流布成就の日の姿を象徴的に示す犠式を、挙行しようと決めていた。
 また、その式典が、自らの手で青年たちを訓練する、最後の機会になるであろうことを感じていた。そして、集って来る青年に何を振る舞うかまで、一人で考えていたのである。
 落慶法要が終わった翌日の、三月二日のことであった。蒲田支部幹事の板見弘次が、理境坊にあいさつにやって来た時、戸田は、にこやかに話しかけた。
 「おう、よく来た。待っていたんだ。実は、君に頼みたいことがあったんだよ」
 板見は、戸田から親しみを込めて「頼みたいことがある」と言われ、緊張して耳を澄ました。
 「首相は、昨日の落慶法要には来れなかったが、近々、総本山に来ることになっている。その時は、男女青年部を登山させ、首相を迎えようと思っている。まだ、いつになるかはわからないが、当日は、おそらく夜明け前から、青年たちが、どっと押しかけて来ることになるだろう。まだ寒いし、さぞかし腹を空かせてやって来るにちがいない。
 そこでだ、この青年たちに何か温かいものを食べさせてやりたい。何がよいかと考えてみたが、豚汁がいちばん、いいのではないかと思う。湯気の立つ豚汁は、体も温まるし、栄養にもなるからな。ひとつ、君が中心になって、この豚汁つくりをやってもらいたいんだ。できるだろうかね……」
 予想外の頼み事に、板見は戸惑いの色を浮かべたが、戸田の、青年たちへの思いやりに胸を打たれた。
 「はい、かしこまりました。やらせていただきます。そうしますと、人数はいかほどになりますでしょうか」
 「五、六千人だろうな」
 「六千人分といいますと、一人一合(約〇・一八リットル)としても六石(約一〇八〇リットル)……。役員も、五十人ぐらい必要になりますね」
 「いや、こうした作業というものは、むしろ、少数精鋭でやった方が、はかどるだろう。十人もいれば十分だ。そう難しいことではない。田んぼのなかにでもカマドを作ってやればよい。豚は、二、三頭もあればいいだろう。それで足りなければ、食べられるものなら、なんでも入れればいいじゃないか」
 戸田は、豪快に笑った。それから真顔になって言った。
 「腹が減つては戦はできん。いかなる戦いでも、これが鉄則だよ。幹部はまず、みんなが腹を減らしていないかを考えることだ。食の調達は、すべての戦いの生命線でもある。だから、これは非常に重要な仕事なんだよ」
 板見は、さっそく、同じ蒲田支部幹事を松田喜一郎と相談し、支部内で調理や精肉関係の仕事に従事している会員を中心に、役員を選抜し、具体的な方法を検討していった。
 戸田は、板見たちが立てた計画を聞くと、首相が、いつ来ることになっても対応できるように、直ちに下準備に入るよう指示した。
 三月七日には、準備に取りかかった。役員は、十人に絞られた。カマドは検討の末、ドラム缶にディーゼルバーナーを取り付けたもの四基をつくることになった。使用する用具や器具は、大釜四つ、食缶、桶のほか、小ビシャク三十本、中ビシャク十本、大ビシヤク二本、金ダライ一個、大シャモジ一つなどである。材料としては豚三頭、ジャガイモ六十貫(一貫は約三・七五キログラム)、ゴボウ十五貫、ニンジン十貫、長ネギ十五貫の、野菜計百貫と、味噌四斗樽(一斗は約一八リットル)一つが用意されることになった。
 戸田城聖は、豚汁づくりが可能となったことに、いたく満足していた。やがて、首相の来る日が決まると、青年部の幹部たちに言った。
 「参加者に、箸と椀を持ってくるように徹底するんだ。ただし、弁当は各自が持参するんだよ。そこまで面倒は見れんからな。弁当を持って来られないものは、森のなかから何か採ってきて食うのだ。
 将来、学会が大弾圧を受け、長征にでも出るようになったら、自分の食糧は自分で調達しなければならん時もあるからな。草だって食べることになるかもしれんぞ。ワッハッハッハッ……。
 本来ならば、訓練のために野宿ぐらいさせたいところだ。私は、学会の青年を軟弱にはしたくないんだよ」
 戸田は、今、広宣流布の永遠の流れを開くために、いかなる苦難も、ものともせぬ、たくましい後継の人材群の育成に、最後の最後まで力を注ごうとしていたのである。
 山本伸一は、戸田のもとにあって、一つ一つ師の意向をくみながら、十六日の式典の準備に余念がなかった。そのなかで、伸一が、ひとり心を痛めていたのは、戸田の体の衰弱であった。
 戸田の気迫は、決して変わることはなかったが、歩行は、日を追って困難になっていった。
 伸一は、師の体の負担を少しでも軽減したかった。そのために、十六日の式典には車駕を用意することを、ひそかに考えていた。彼の考えた車駕とは、輿のことで、そこに戸田を乗せ、青年たちで担ごうというのである。
 諸葛孔明が、五丈原の戦いで、四輪の車に乗って指揮を執った故事を思ってのことであった。
 彼は、式典の数日前、車駕の製作を、輸送の責任者である津田良一に依頼した。伸一は、「戸田先生がお疲れにならないように、よく工夫してほしい」と言い、あとは津田に委ねた。津田は、その言葉を思い起こしながら、真剣に思索を重ねた。
 五年前の四月に、総本山で五重塔修復記念大法要が行われた折、妙蓮寺から大石寺まで戸田を送るために、簡単な輿を作ったことがあった。
 その時は、一・五キロの道のりを十六人の代表が担いだが、果たして、乗り心地はどうであったかを思うと、改良を加える必要を感じた。ましてや今回は、衰弱した戸田を乗せることになる。
 津田は、材料から慎重に吟味していった。最初は、竹を組み合わせて作ってみようと考えたが、それでは、小さなものしかできない。小さく窮屈なものでは、戸田の体に負担がかかってしまう。
 思案の末に、材料には檜を使い、車駕に肘掛けイスを備え付けて、戸田が、ゆったりと足を伸ばすことができるものにしようと考えた。苦心しながら、自分で何度も図面を引いてみた。そして、車駕の周りには、欄干のように手摺を巡らすことにして、総本山出入りの大工の棟梁に発注した。
 三月十五日の午後、車駕が出来上がった。それは、大きくがっしりとしていた。製作費は、四万円になってしまった。まだ、国家公務員(上級)の初任給が一万円に満たないころである。
 津田良一は、車駕が出来上がると、輸送担当の青年たちと一緒に、理境坊の中庭に運んだ。山本伸一は、それを見ながら、津田らの労をねぎらい、心から感謝の意を表した。
 「ありがとう。立派にできたね。これなら、戸田先生のお体に負担をかけなくてすむ」
 そして、製作にかかった費用を聞くと、伸一は財布をはたいて、自分一人で全額を支払った。
 津田は、師の戸田城聖を、どこまでも思う伸一の姿勢に、熱いものが込み上げた。
 それから伸一は、理境坊の二階に行って、戸田に報告した。二階には、理事など、三、四人の幹部がいた。
 「明日の式典で、先生にお乗りいただこうと、車駕を作りました。ご覧いただければと思います」
 戸田は、伸一に支えられ、窓のところへ行くと、しばらく車駕を見ていた。そして、思いもかけぬ厳しい言葉が、戸田から発せられた。
 「大きすぎる。これでは戦闘の役にはたたぬ!」
 体は衰弱していても、戸田には、縦横無尽に広宣流布の戦場を駆け巡ろうとする気概が、熱く脈打っていたのだ。また戸田は、伸一に、常に実戦に即した立案、計画が肝要であることを、教えておきたかったのである。
 その言葉に、中庭にいた津田良一をはじめとする青年たちは息をのみ、呆然として立ち尽くした。
 理事の一人が、戸田におもねるように言った。
 「本当に大きいですね。これじゃあ、まるで祭の山車ですね」
 周囲の幹部は、どっと笑い声をあげた。
 津田は、二階のやりとりを聞きながら、体から血の気が引くのを覚えた
 ″山本室長のせいではない。あの形も大きさも、私が考案したものだ。責任は私にある″
 伸一が、理境坊の中庭に降りてくると、津田をはじめ、車駕を運んできた青年たちが駆け寄ってきた。
 「山本室長……」
 津田は、今にも泣きだしそうな顔で伸一を見つめた。
 「大丈夫だよ。戸田先生は、必ず乗ってくださる。弟子が真心を込めて作ったんだもの……」
 彼らは、確信あふれる伸一の言葉に慰められはしたが、半信半疑であった。伸一は、青年たちの気持ちを察すると重ねて言った。
 「戸田先生は、こうした一つ一つの事柄を通して、私たちを真剣に訓練してくださっているんだよ。ありがたいととじゃないか。今のお叱りの言葉も、先生のご慈愛なんだ。その先生が、私たちの真心に、お応えくださらないわけがないじゃないか。何も心配はいらないよ」
 戸田の心を知る、伸一の表情は、晴れやかだった。
16  十五日の夜、総本山は雨に見舞われたが、夜半には、すっかり上がった。
 十六日午前三時過ぎ、森閑とした杉林のなかに、ヘッドライトの明かりが走った。エンジンの音を響かせ、青年たちを乗せたバスが、続々と総本山をめざしていた。
 最初の着山は、前日の午後九時五十分東京発の列車で出発したメンバーであった。
 春三月とはいえ、富士山麓の外気は冷たく、吐く息は白かった。参加者は、役員の誘導で参道を進み、宗門の教学研績の施設である富士学林の庭にやって来た。
 そこには、トタン屋根の仮設の炊事場が作られ、裸電球の明かりのなかに、ドラム缶のカマドのうえで、湯気を立てる釜が見えた。辺りには味噌の香りが漂い、釜の中には、豚汁がグツグツと煮えたぎっていた。
 板見弘次、松田喜一郎をはじめとする蒲田支部の関係者が、手拭いを頭に被り、忙しく立ち働きながら、大ビシヤクで豚汁をすくい、幾つもの桶に移していった。彼らの顔には、汗さえにじんでいた。
 役員の青年が、炊事場から豚汁を運び、それを各人の椀に分配していく。青年たちは、この時、初めて、箸と椀を持参するように、と徹底された意味がわかった。
 登山者は、それぞれの椀に豚汁を入れてもらうと、近くに腰を下ろして、弁当を開いた。熱い豚汁は、寒い未明の総本山で、空腹をかかえた青年たちの五臓六鵬に、熱く染み渡った。
 ここに、それが戸田城聖の心尽くしのご馳走であると知ると、師の真心に、熱いものが込み上げるのを覚えた。
 夜は白々と明けていった。朝霧のなかに、薄紫の富士が姿を現した。やがて、靄は払われ、金の光が白雪の山肌に走った。
 相次ぎ到着する青年たちの歓談の声が、杉の巨木にこだましていた。
 午前八時には、登山者は大講堂の横に集合した。青年部の首脳幹部が次々と立って、これから始まる式典の意義と流れ、注意事項を発表した。
 最後に、青年部長の山際洋が立った。
 「本日は、岸首相を青年部で歓迎するわけですが、私たちの整然とした、たくましい姿こそが、学会の理解にもつながっていきます。
 創価学会青年部がいる限り、日本の未来は盤石であり、学会の青年こそ、東洋、世界の次代を担う指導者であることを、存分に示していこうではありませんか。それが本日の式典の意義であると思いますが、皆さん、いかがでしょうか!」
 期せずして、「おっ!」という元気な声があがり、拍手が湧き起こった。
 袖口のすり切れた背広姿の青年がいた。よれよれの学生服を着た、まだあどけなさの残る少年もいた。質素な黒いスーツに身を包み、頬を紅潮させた乙女がいた。誰もが貧しかった。しかし、戸田の門下としての誇りにあふれ、春風に胸を張り、瞳を輝かせていた。
 朝日が、燦々と創価の青年たちの顔を照らしていた。やがて、青年たちは移動を開始し、岸首相の歓迎の準備に入った。程なく、門前から大講堂に至る参道の両側に、全員が整列し終わった。きびきびとした素早い動作であった。
 男子部の音楽隊、女子部の鼓笛隊も、それぞれ配置され、午前九時半までには、歓迎の態勢は、ことごとく整った。あとは首相一行の到着を待つばかりである。
 青年たちが、歓迎の準備に急いでいた時であった。理境坊の電話が鳴った。秘書部長の泉田ためが受話器を取った。受話器の声は、回線の具合のせいか、聴き取りにくかった。
 「もしもし……岸です。戸田さんは……」
 声の主は岸首相であったが、泉田は、すぐには、それが、首相からの電話だとは気づかなかった。
 「どちらの岸さんでしょうか」
 「岸信介です。総理の……。戸田さんとお話ししたい」
 泉田は慌てて、電話の主を告げるのも忘れ、「先生、お電話です」と、受話器を戸田に手渡した。
 「戸田ですが、どなたでしょうか……」
 戸田は、こう言って耳を澄ました。
 岸は、戸田の声を聞くと、しきりに詫び始めた。
 前日の十五日に、首相は静養のために、箱根の温泉に家族と共にやって来た。そして、家族を伴って、十六日には総本山大石寺に来ることになっていた。
 ところが――今朝、出発間際に、東京から電話が入り、外交上の問題が突発したために、急速、東京に戻らなければならなくなったというのである。
 戸田の表情が、見る見る変わっていった。
 「なんですと!」
 「まことに申し訳ないが、そんなわけで、私は、これから東京に引き返さなければならんのです」
 「あなたの来るのを、六千人の青年が、前々から準備をして、待っているんですぞ。青年を騙すことになるではないか」
 「……すまないことをしました。戸田さんには、くれぐれもお詫びします」
 「私に詫びよと言っているのではない。詫びるのは、青年たちにだ!」
 戸田の声は、怒りに震えていた。
 「その通りです。戸田さんの方から、くれぐれもよろしく言ってください。私は行けないが、その代わり家内と娘、それに、婿で私の秘書の安倍晋太郎と、議員の南条徳男を伺わせます。、どうか、ひとつよろしく、お願いします。近いうちに、私も、ぜひ一度、お伺いさせていただきますから……」
 ここで、突然、電話は切れてしまった。
 戸田は、怒りもあらわに受話器を置いた。首相の電話は、途中で切れたきり、かかってはこなかった。
 戸田は、彼の声を聞きながら、外交問題が突発したので、式典に出席できないというのは、口実であることを直感した。
 ″学会に偏見をいだく側近の誰かが、学会と深く関わることを避けるように、説得したのかもしれない。あるいは、何か別の力が働いたのだろうか……″
 戸田は、この日のために準備に汗を流し、無理をして時間をつくり、登山して来た青年たちのことを思うと、彼が信義を踏みにじったことに我慢がならなかったのだ。
17  戸田城聖と岸信介との交友が始まったのは、二、三年ほど前のことであった。前々から、会員のなかに岸を知る者があり、戸田と引き合わせようとしていたが、彼が初めて岸と会ったのは、学会が政界に推薦候補者を送り出したあとのことである。
 岸信介も、急速に発展を遂げ、政界にも進出した創価学会に、少なからず興味をいだいていたようであった。
 戸田は、理事長の小西武雄と共に、食事をしながら歓談した。当時、岸は自民党の幹事長であった。もとより、二人は、思想も信条も異なっていた。しかし、これからの日本をどうするかという、建設の意気と気概は共通しており、互いに響き合うものがあった。心はすぐに、解け合った。
 戸田の、威儀を正した「岸先生」という呼びかけが、親しみを込めた「岸君」に変わるまで、さして時間はかからなかった。
 戸田は誰に対しても、恐れも、遠慮もなかった。ずけずけと忌憚なくものを言った。生来の性格に加え、あの戦時下での二年間の獄中生活が、権威や地位に決して惑わされることなく、人間の真実を見抜く眼を培ったといってよい。
 政界にあって、権謀術数を駆使することを余儀なくされてきたであろう岸が、いかなる意図をもって、戸田と接触したかは知る由もないが、戸田は、一人の人間として、誠実をもって岸に対した。以来、二人の親交が始まり、岸が首相になってからも交友は続いていた。
 戸田は、岸が首相として国民生活の向上に寄与し、民衆の支持を得るとともに、世界各国の指導者からも厚い信頼を勝ち得る、大宰相となることを念じてきた。
 岸信介の式典への欠席は、戸田城聖が直感したように、決して外交問題が突発したためではなかった。総本山での式典を終えた翌三月十七日付各紙の朝刊には、首相の側近の議員から横やりが入り、出席を取りやめたことが報じられていた。
 戸田城聖は、受話器を置いたあと、怒りをかみ殺すような表情で、しばらく押し黙っていたが、周囲の、もの問いたげな顔を見ると、鋭い口調で言った。
 「岸首相は来ないよ」
 言いながら、彼の脳裏に、この日のために集った六千人の青年たちの顔が、まざまざと浮かんだ。
 ″彼らは、どんな思いでここに集まり、首相の欠席を聞いたら、どんな気持ちになるだろうか″
 戸田には、愛する青年たちの落胆が痛いほどわかった。
 「みんなが、かわいそうだ……。よし!」
 戸田は、自らを鼓舞するように言うと、至急、青年部の幹部を集めるように指示した。彼は、既に歩行は困難であったが、死力を尽くして青年たちを励ますことを決意したのである。
 室長の山本伸一や青年部長の山際洋たちが、直ちに理境坊に駆けつけてきた。戸田は、首相の参加はなく、代理として家族らが登山してくることを手短に伝えた。それから、気迫のこもった声で言った。
 「首相は参列しなくとも、今日は、予定通り堂々たる式典を開催し、盛大に一行を歓迎しようじゃないか。この式典を、広宣流布を記念する模擬的な儀式とすることには、いささかも変わりはない。私は、本日の参加者を、戸田の後継と思い、広宣流布の一切を託す式典にするつもりでいる。首相が来ないのだから、私が全力で皆を激励したい」
 彼には、もはや落胆はなかった。ただ、青年たちが、いとおしくて仕方なかった。
18  正午前、予定より一時間ほど遅れて、門前に車が到着した。門の内側に待機していた音楽隊が、学会歌を吹奏し始めた。
 車から降りた人びとのなかに、首相の姿はなかった。最初に車から降りたのは、一日に来賓として参加し、首相の祝辞を代読した南条徳男衆議院議員であった。その後ろには、和服姿の首相夫人と娘、そして、婿の安倍晋太郎が立っていた。
 一行は、小西理事長の案内で、参道を進んでいった。参道の両側に整列した男子部員が、それを拍手につぐ拍手で歓迎した。
 御影堂前には、首脳幹部が出迎えていた。ここで、一行は、小西理事長の唱題の声に合わせ、合掌し、深々と頭を下げた。小西は、御影堂の由来を説明したあと、宝蔵、奉安殿、客殿と案内し、大講堂へと向かった。
 大講堂の前まで来ると、広場を埋めた青年部員の、ひときわ大きな拍手が湧き起こった。一行は、この大拍手に迎えられ、大講堂に入った。
 そのころ戸田城聖は、山本伸一に手を取られて、理境坊の玄関に降り立った。玄関前には、車駕が置かれていた。戸田は、それを見ると、また、大きな声で言った
 「大きすぎて、実戦には向かぬ。戦いにならんぞ!」
 二度にわたる戸田の叱責であった。
 その時、伸一が一歩前に進み出て言った。
 「先生、よくわかりました。申し訳ございません。しかし、この車駕は、弟子が真心で作ったものです。どうか、お乗りください」
 自らの命の燃え尽きんとするまで、戦いの極意と闘将の気迫を、身をもって教え伝えようとする師の厳愛。その師の体を気遣い、いたわろうとする弟子の真心――それは、師と弟子の熱い生命の交流のドラマであった。
 戸田は、伸一を見て、にっこり頷くと、弟子たちに体を預け、車駕の中央に固定された肘掛けイスに座った。車駕を担いだのは、全青年部から選抜された若者たちであった。車駕は、静かに参道を進み始めた。伸一は、車駕にぴったりと付き添っていた。
 戸田は、車駕の上から、道の両側に並ぶ青年たちに、熱い眼差しを注いだ。彼は、たくましく育った青年たちに、深い感慨を覚え、心のなかで語りかけた。
 ″みんな、よくやって来たな。首相が来ないのは残念だが、私は、君たちに会えて幸せだ。よく育った。本当に、よく育ってくれた。君たちとこうして会えるのも、これが最後だろう。私がいなくなったあとは、君たちがやるのだ。広宣流布を頼むぞ!″
 万感を込めた戸田の眼差しは、青年たちの胸を射貫いた。憔悴した体で、目を輝かせて、自分たちを見入る戸田を仰ぎながら、弟子たちは目頭を熱くした。
 車駕が大講堂の広場まで来ると、待機していた青年たちの間から歓声があがり、潮騒のように広がっていった。
 「戸田先生だ! 戸田先生だ!」
 痩せて、やつれてはいるが、毅然とした戸田の姿を、久しぶりに目にした青年たちは、無性に嬉しかった。込み上げる感激と鳴咽を、懸命にとらえる女子部員もいた。青年たちは伸び上がり、手を振り、目は一斉に車駕の上の戸田の顔を見ていた。
 戸田は微笑を含んで、若者たちの一人ひとりに話しかけるように、じっと視線を注ぎながら、大講堂の中に入っていった。
 戸田も嬉しかった。かくも多くの青年が集い、元気はつらつとしている。青年こそ、未来の広宣流布の建設の力である。その青年が健在であることを目にした戸田は、まことに満足であった。″首相は来ないが、自分が力の限り青年たちに語りかけよう″と、彼は思った。
19  午後零時四十分、歓迎大会は開会となった。司会は山本伸一である。
 二階のバルコニーに演壇が設けられ、その左右には青年部の旗が林立していた。まず、理事長の小西武雄が歓迎の言葉を短く述べた。
 「先般来、内閣総理大臣・岸信介先生を、お迎えするということで、非常な期待をもって今朝まで待っておりました。天候にも恵まれ、喜んでおりましたところ、突然、総理大臣にやむを得ない事情が生じ、ご出席になることができませんでした。そして、ご
 名代として、奥様をはじめ、ご家族においでいただきました。私どもは、岸先生がいらっしゃったのと同じ気持ちで、本日はお迎えしたいと思います」
 集った青年たちは、首相の欠席が決まったことを知って、いささか落胆したが、先刻、車駕の上の戸田を見た満足感が、胸に温かく燃えていた。首相の欠席を、参加者はあっさりと聞き流すことができた。
 小西理事長の歓迎の言葉に応えるかたちで、首相夫人と娘婿の安倍晋太郎がマイクの前に立った。代表して安倍があいさっした。
 「義父に代わりまして、一言、御礼の言葉やお詫びを述べさせていただきます。義父の岸信介は、かねてから戸田先生を敬愛しておりました。そして、この講堂の完成にあたり、どうしても、お参りをしたいと、本日こちらに来るお約束を戸田先生といたしておりました。昨夜から、一緒に箱根まで来ておりましたが、出発間際の今朝の九時になって、東京から、突然、電話が入りました。外交上の問題で、どうしても帰ってもらわなければならぬということで、義父は仕方なく、東京へ引き返していったのでございます。それで、われわれ家族一同、お詫びにまいった次第です」
 安倍は、ここで参加者に頭を下げてから、さらに話を続けた。
 「義父は昨夜も、皆様方と、お会いして、祖国の再建について、ぜひとも語り合いたいと申しておりました。それが実現できず、非常に残念でなりません。しかし、義父は、また日を改め、必ずまいりますので、そのことを皆様にお約束してくれということでございました。ここに、お詫びを兼ね、義父の次の機会の参詣をお約束申し上げ、私たち一同の、お詫びの言葉に代えさせていただく次第でございます。ありがとうございました」
 安倍のあいさつに、参加者は、大拍手を送った。
 その拍手がやみかけたころ、歓声とともに、再び、ひときわ大きな拍手が湧き起こった。戸田城聖がバルコニーに姿を見せたのである。戸田は、首相夫人の右隣のイスに座った。夫人の左隣には安倍が座っている。
 司会者・山本伸一は、拍手のやむのを待ってから、戸田のあいさつを告げたが、戸田は立たなかった。いや、既に、立てなかったのである。
 三月一日の大講堂の落慶法要の時には、彼は立って、かなり長い話をすることができた。それから、わずか二週間余りであったが、体は立つ力さえ失っていた。
 戸田は、座ったままの姿勢で、マイクに顔を近づけた。彼は、軽い咳払いを、二、三回してから話し始めた。
 声は、やや、しわがれてはいたが、力強い話し方である。
 「少し体を悪くして、口は前より三人前ぐらい達者になったが、足の方が三分の一に減ってしまって、体を洗うのにも骨が折れる。これは、どっちがいいものだか……」
 緊張した空気を解きほぐすかのように、笑いを誘う話の導入であった。さざ波のような笑いが、サーッと広がっていった。
 「いや、岸総理もなかなか立派な方でありましてね。この間、週刊誌か何かで見たといって、ある人が私に報告してくれた。それは、ある大物政治家に、『岸はだめだから、もうすこし立派な人物を、総理として立でなければならぬ』と具申した人がいたが、その大物政治家は、『岸をおいて、ほかに人物がいるか』と答えたということでした。私は、岸総理が幹事長の時から、他党を押さえ、日本の政権を担っていけるのは、この人であると、深く心に思い、尊敬してきました。
 その岸総理が、『一日の落慶法要には行けない』と言うから、『そのあとはどうだ』と言ったら、『十六日なら行ける』というので、楽しみにしておったのです。ところが、今日の昼までに東京に戻らなければだめだと、電話がかかってきたそうだ。岸さんは、『今日は、ほかに約束があるから』と断ったが、どうしてもということで帰ることになった。これは、仕方がないでしょう。
 一国の総理といっても、月給は安いものだ。それで、こき使われることは、ずいぶんこき使われるらしい。大変な商売ですよ。そうしたなかで、お嬢さんご夫妻と奥様と、そのほか、自分がこの人と頼む前建設大臣を差し向けられた。その誠意というものを、私は心から嬉しく思い、感謝しています」
 戸田は、岸が、周囲の反対に屈して、参加を取りやめたことを感じてはいたが、彼の立場も、心の内も、よくわかっていた。個人としては、戸田との約束を果たしたかったにちがいない。そして、詫びる思いで、家族をよこしたのであろう。戸田は、その心を手厚く遇したかった。
 「帰ったら、あらためてお礼を言おうと思っている。しかし、今朝の電話では言うわけにはいかなかった。
 ここから電話しても、よく聞こえないうえに、電話料金も高い。東京に帰って電話すれば、七円ですむ。私がお礼をすませたと言ったら、会長は十四円ぐらいで終わらせたなと思ってください」
 どっと笑い声があがった。戸田は、青年たちの落胆の気持ちを、冗談をもって吹き飛ばそうとしていた。
 戸田は、話を続けた。
 「私は、岸先生が、総理だから偉いと思った覚えはありません。立場ではなく、人間としてお付き合いしてきた。これからも、そうです。それが友人としての真心です。君たちも、そういう心で岸先生と付き合ってください。
 妙法のもとには、皆、平等です。そして、個人も、国家も、幸せと繁栄を得るには、正法を根幹とする以外にはない。ゆえに、われわれには、広宣流布を断じてなさねばならぬ使命がある。それを今日、私は、君たち青年に託しておきたい。未来は、君たちに任せる。頼むぞ、広宣流布を!」
 それは、戸田の命の叫びであった。稲妻に打たれたような深い感動が、六千余の青年たちの胸を貫いた。束の間、凛とした厳粛な静寂が辺りをつつんだ。感動は、決意となって青年たちの胸中に吹き上げ、次の瞬間、嵐のような拍手が天に舞った。空には、広宣流布の誓いに燃え立つ青年をつつみ込むように、白雪を頂いた富士がそびえ立っていた。
 戸田は、一同を見渡すと、力強い口調で語った。
 「創価学会は、宗教界の王者であります。何も恐れるものなどない。諸君は、その後継者であるとの自覚を忘れることなく、広宣流布の誉れの法戦に、花の若武者として、勇敢に戦い進んでもらいたい」
 創価学会は、宗教界の王者である――その言葉は、戸田が生涯をかけた広宣流布の、勝利の大宣言にほかならなかった。また、彼が青年たちに放った、人生の最後の大師子吼となったのである。
 戸田は、こう言って話を結んだ。
 「今日は、少し話が長すぎてしまった。話しておきたいことは、たくさんあるのだが、これくらいにしておこう」
 彼が、名残惜しそうに話を打ち切ると、盛んな拍手が、しばし鳴りやまなかった。青年たちは、病み、衰えた師の体内から発せられた、鮮烈な魂の光彩を浴びた思いに駆られていた。
 このあと、秋月英介男子部長、森川ヒデ代女子部長の指揮で、それぞれ部歌を合唱して歓迎大会は幕を閉じた。
 それから、来賓は、大講堂六階の貴賓室に移り、祝宴が開かれた。戸田は、最後の力を振り絞るようにして祝宴に臨んだ。彼は、岸首相との友情の証として、その家族を、大誠実をもって遇したのである。
 首相夫人ら一行が、総本山を後にしたのは、午後二時半ごろのことであった。
 歓迎大会を終えた戸田城聖は、再び大講堂から車駕に乗り、理境坊に向かった。拍手で戸田を送る青年たちの、どの顔も紅潮し、瞳は決意に輝いていた。
 戸田は、これで一切は終わったと思った。この時、全身から、スーツと力が抜けていくのを覚えた。それは、心地よい、満ち足りた疲労感であった。
 彼は、車駕の上の肘掛けイスに体を沈めた。杉木立の向こうに、雪化粧をした富士が見え隠れしていた。富士を見ると、自作の「同志の歌」が思い起こされた。
  ♪捨つる命は 惜しまねど
   旗持つ若人 何処にか
   富士の高嶺を 知らざるか
   競うて来たれ 速やかに
 今、その若人は、戸田のもとに陸続と集い、妙法の旗を手に敢然と立ったのだ。
 戸田の脳裏に、獄中に逝いた師の牧口常三郎の面影が浮かんだ。牧口が柱と頼む弟子は、自分をおいて誰もいなかったことを、彼は、しみじみと思い返した。
 最愛の恩師を亡くし、憤怒に身を焦がしながら、敗戦の焼け野原に、ただ一人立ったあの日から十三星霜――彼の腕で育った若人たちは、さっそうと広宣流布の″長征″に旅立ったのである。
 戸田は、心で牧口に語りかけた。
 ″先生! 戸田は、あなたのご遺志を受け継いで、広宣流布の万代の基盤をつくりあげ、ただ今、後事の一切を、わが愛弟子に託しました。先生のご遺志は、青年たちの胸のなかで、真っ赤な血潮となって脈打っております。妙法広布の松明が、東洋へ、世界へと、燃え広がる日も、もはや、遠くはございません″
 彼の胸に、にっこりと笑みを浮かべ、頷く牧口の顔が映じた。吹き渡る春風が、彼の頬をなでた。
 山本伸一は、車駕と共に歩みを運びながら、戸田を仰いだ。戸田は、静かに目を閉じ、口もとには、ほのかな微笑を浮かべていた。伸一には、それは、生涯にわたる正法の戦いを勝利した、広宣流布の大将軍が凱旋する姿に思えた。
 しかし、晴れやかではあるが、そのやつれた相貌から、妙法の諸葛孔明・戸田城聖の命は、まさに燃え尽きようとしていることを、感じないわけにはいかなかった。
 伸一は、戸田を仰ぎ見ながら、ひとり誓うのであった。
 ″先生、広宣流布は、必ず、われら弟子の手でいたします! どうか、ご安心ください″
 広宣流布の印綬は、今、弟子・山本伸一に託された。創価後継の旗は、戸田の顔前に空高く翻ったのである。太陽に白雪の富士はまばゆく輝き、微笑むように、その光景を見守っていた。
 この三月十六日は、のちに「広宣流布記念の日」となり、広宣流布を永遠不滅ならしめる、弟子たちの新たな誓いの日となった

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