Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
14  戸田城聖は、理境坊の二階で床に就いていたが、深夜の静寂のなかで、坊の側をせせらぐ清流の音を耳にしながら、はるか昔の「砂村問答」を思い返し、永瀬清十郎の濠然とした剛直無垢な信心を偲んだ。そして、彼の姿を思い描きながら、親愛の情のなかで、この先達の壮烈さに思いを馳せていた。
 彼は、この連想から、近く明治初期の「横浜問答」が、ふと思い浮かんだ。
 この一八八二年(明治十五年)の「横浜問答」というのは、富士門流の本門講と、横浜にあった、当時の身延系の蓮華会との間に行われた問答のことである。蓮華会は、一致門流の流れを汲む会員、七、八十人の講であった。発端は、やはり、この蓮華会の一会員と本門講の一講員が法論したことであった。その後、蓮華会の会長・田中巴之助が、本門講に対して正邪対決の法論を挑んできた。田中巴之助とは、後に有名になった田中智学のことである。
 本門講は、直ちに快諾した。すると、蓮華会は何を思ってか、口頭での対決を避け、文筆での対決をあらためて要求してきた。本門講は、彼らの言うなりに応じ、両者の聞に文筆往復による法論の「条約書」を、取り交わした。
 「条約書」の冒頭の第一条では、「双方論議問難の末、自己の妄見を悟認したる以上は、速に潔く従来の宗派を棄てて正見なる宗派に帰住すべき事。但し蓮華会員は本門講員に加盟し、本門講員は蓮華会員に加盟すべき事」と、それぞれ自己の宗教的生命をかけた厳しいものであった。
 そして、双方提出の問題について、答弁書は七日以内に差し出すことにし、この期間に回答のない場合は、敗北とみなし、「第一条の約章に照らして改宗すべき事」と双方の総代捺印のうえ誓約したのである。
 さらに、蓮華会は、第一問の提議を本門講に請求してきた。本門講は、これをも応諾、その作成に取りかかった。
 この第一書は、十月三日付で蓮華会御中として発送された。論陣は、本尊論を中心としたものであった。蓮華会は、約定に従って、十月九日、第一問に対する回答を寄せてきた。
 本門講の第二号書は、十月十五日、蓮華会の第二号書は、十月二十一日、本門講の第三号書は、十月二十七日、といったように、一週間以内に、それぞれ反論と弁駁を繰り返し、五号書まで進んだ。討論の発展はなく、本尊論などの追及に対して返答不能に陥ったのか、蓮華会の第五号書は、回答といえるものではなかった。そこで本門講は、第六号書において、「諸氏具答に窮迫せば早く前罪を陳露して正門に帰向せよ」と、厳しく追及している。十二月四日のことである。
 以後、蓮華会からは、なんの回答もなかった。本門講は、それでも十日待った。この間に蓮華会は、口頭による討論に移ることを要求してきた。まさに違約である。
 本門講は、そこで約定に従って、十二月十四日、所断書を認め通告を発した。
 「……文壇上の対決は条約の基礎に付きいやしくも窮迫せざる以上は、徹頭徹尾を相図るべき筈なるに、俄に他に事を寄せ謝絶あるは何に意ぞや。まことに貴会の卑怯未錬なる精信求法の良心を放ち失ひ仏祖の威霊を明白に欺き去る。贋信徒たる段真に憫羞びんしゅうの至りに存じ候……」
 この痛烈な所断書に対して、蓮華会からは、一言の返答もなく終わっているのである。
 その後、伝え聞くところによると、会長の田中巴之助は、所断書を受け取った翌日、にわかに居を転じて行方をくらましたという。勝敗は、おのずから明らかとなった。後年、時の極右思想に迎合して、「国立戒壇」の名称を使い始めたのは、実は、彼であった。
 戸田城聖は、さらに宗史を遡行して、繰り返された数々の大小の法論を、思い浮かぶままに点検しながら、たどった。そして、日蓮大聖人の佐渡における「塚原問答」に思いを馳せた。
 大聖人は、文永五年(一二六八年)十月、鎌倉幕府の執権・北条時宗に対し、正邪を決する諸宗との公場対決を迫った。この年の一月、蒙古からの国書が届き、他国からの侵略が現実問題として迫ってきていたからである。大聖人が、正法を用いなければ、国が滅びると警告された「立正安国論」提出の時から七年が過ぎていた。
 しかし、幕府は、大聖人の要請に応えようとはせず、むしろ、諸宗の反発と謀略に動かされて、迫害に転じたのである。文永八年(一二七一年)九月の竜の口の法難が、それである。大聖人は佐渡流罪となり、その佐渡で、諸宗の僧たちが集まり、数を頼んで大聖人に法論を挑んできた。それが「塚原問答」である。
 大聖人の、諸宗の僧を責める言葉は鋭く、瞬時にして彼らの誤りを明らかにしていった。その問答を目の当たりにした多くの人びとが、正法に帰依し、僧のなかには、その場で袈裟を脱ぎ捨てて、″今後は念仏を唱えない″と誓う者もいたのである。
 佐渡流罪が赦免となり、鎌倉に帰還されて以後、幾度か公場対決の機会が訪れようとしたが、いずれも実現せず、大聖人が公場で正義を明らかにされる機会は潰えた。
 戸田は、その御無念を深く察しながら、古く天台大師、伝教大師も公場対決に臨んできたことに思いをいたした。
 天台は、陳の国主の面前で南三北七の諸宗の僧侶と法論して、正邪を決して帰伏せしめている。また、伝教は、延暦二十一年(八〇二年)一月十九日、高雄山寺で南都六宗の碩徳十四人を相手にして、桓武天皇の勅使・和気弘世の臨席のもとに、諄々と破折した。そのため十四人の学僧は、勅宣によって謝罪状を出さなければならなかった。時に伝教大師は三十六歳、後に比叡山に迹門の戒壇が建立されたのは、この時の公場対決に由来するところが大きい。
 戸田は、現代における公場対決とは、いかなる形式を指すのか思索を重ねていた。
 厳寒は深く、暁に近かったが、彼は、なおも目覚めていた。
 ″主権在民″にして、かつてのような国主の存在しない現代に、おいては、民衆の審判による以外にない。してみれば、日夜、展開されている学会活動も、夜ごとの座談会も、大切な公場対決の縮図といえるが、民衆の審判は、いまだ極小の部分に限られている。このような対決が大きな効果をもつためには、その法論に一宗の命運を賭した場合が、ひとたびは必要であるかもしれない。これこそ、現代の公場対決の一環ということができるだろう″
 戸田が、ここまで考えいたった時、小樽に惹起した事件の意義が、にわかに鮮明な色彩を帯びてきた。一宗の命運をかける可能性が、十分にあったからである。彼は、この機会を、偶然、とらえた以上、それを千載一遇としたかった。身延の日蓮宗の代表講師の顔ぶれを知った今、絶対不敗の講師を、創価学会から出す必要があると思った。教学部長・山平忠平は動かぬところであったが、あとは青年部長・関久男にすべきか、それとも他のメンバーにすべきかどうか迷った。
 法論においては、攻撃と、受けて立つ防御とを、ともに備えなければならぬ。身延の本尊雑乱を突くことは極めて重要であり、これこそ、大聖人の正法正義に違背する、断じて許すことのできない事実である。身延側は、おそらく過去の法論を蒸し返して、日蓮本仏論、一閻浮提総与の御本尊などについて攻撃してくるにちがいない。以上の二点が争点となることは疑いない。あとは枝葉末節に属する問題であって、なんら恐れることはないであろう。その解明を十分に用意し、防御から、逆に攻撃に転じる機をつかむことである。
 戸田は、床の上に起き上がった。寒気の忍び寄った明け方の部屋の中で、雪に埋もれているであろう厳寒の北海道を思った。
 昨年の夏、小樽で初めて会ったあの初信の学会員たちは、今度の事件で、心配顔をしながら雪のなかを駆け回っては、題目をあげていることだろう。彼は、かわいい、そして大切な弟子たちの姿を、思い浮かべていた。
 ″よし、よし、戸田がいる限り、あなた方は何も心配しなくていいのだよ。ご苦労だが、もうしばらく待っていなさい″
 彼は、心のなかで、がむしゃらな東班長を中心とする小樽班の人びとに、親しく呼びかけていた。

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