Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

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13  日蓮正宗の歴史を遡ると、法論対決を行った事例は数多くあるが、身延との対決となると、いつも争点になるのは、「本迹一致」か、「本迹勝劣」かにあった。この典型的な法論としては、「砂村問答」がよく知られている。
 戸田城聖は、一九五一年(昭和二十六年)の暮れから翌年にかけて、『大白蓮華』誌上に、四回にわたり、「砂村問答」の記録を現代語訳して連載したことがある。彼は、身延との法論の決行を決めた時、真っ先に「砂村問答」を思い出し、果敢な折伏活動の闘将・永瀬清十郎(一七九四年ごろ〜一八五六年)に思いを馳せた。
 江戸時代の末期、文化・文政のころ、武蔵国川越に生まれた永瀬清十郎は、江戸・目黒に住んでいた。富士門流の強信な信徒で、鮮烈な論陣を張り、しばしば遠い地方にまで出かけていた。その足跡は、尾張国にまで及び、弘教が進むにつれ、弾圧が始まり、文政から安政年閉まで約三十年にわたる尾張法難に発展している。
 彼は、ある時、東北の会津若松の城下で、日蓮宗一致派の信徒に対し、理路整然と果敢な折伏をしていた。
 ところが、一方、時を同じくして篠原常八という者が、一致派の論客として、城下で盛んに折伏していた。彼は、江戸・砂村(現在の東京都江東区東部)の住人で、佐渡や、その他の日蓮大聖人縁の地を訪ね、その帰りに、会津若松に留まっていたのである。相対立する二人の主張に戸惑った城下の信徒たちは、この両人に法論対決を求めた。二人は承諾した。当時、城下の治安は、はなはだ悪かったので、大勢の人びとの集会は得策でないとし、清十郎と常八のほか、双方五人に聴衆を限定し、十二人をもって法論に臨んだのである。
 永瀬清十郎は、まず篠原常八の格好を見て、厳しく問い詰めた。
 「その方は、首に頭陀をかけ、手に数珠を持ち、千箇寺もうでと申して、修行者の様子であるが、これは、なんの義によるものか」
 「頭陀の行と申して、法華経の行者である」
 「法華経の行者は、頭陀を掛けたり、托鉢をしない。その理由は、法華経の宝塔品に説かれるごとく、法華経を持ち只南無妙法蓮華経と唱うるのが、法華経の行者である。頭陀の行を行うのは、いわゆる律宗等の行者である。これを宗祖は律国賊と破折せられた。ゆえに、その方は国賊である。この義、閉口かどうか」
 「…………」
 永瀬清十郎は、悠々と落ち着きはらっていた。彼にとって、本迹一致派の篠原常八の言い分など、小児を相手にするに等しかった。
 彼は、いよいよ本題に入った。
 「その方は、本迹一致と言っているが、それは何ゆえなのか」
 常八は文証で答えた。
 「六万九千三百八十四字、一一文文是真実仏、真仏説法利衆生とある。この文によるならば、本迹は一致ではないか」
 「汝、この釈は天台の三大部にあるか、どうか?」
 「三大部にあるかどうかは知らないが、御書にはある」
 「御書にはあると言うが、この文をもって、その方が一致と言うならば、この文の出所を尋ねなければならぬ。当に知るべし、この文は三大部にはないのである。だとすれば、宗祖は、なんの文によって講釈なさったのであるか。その方たちは文の出所も知らないで、わかったと思って説明を加えているから、切り文といって大僻見である。
 その方、閉口、ならば、この文の出所を説明しよう。この文は、天台大師の『略法華経』の文である。であるから大聖人開会の上に立てた御文言であって、この文によって一致であるとするのは、非常なる誤りである……」
 「開会」というのは、「方便の教えを聞いて、真実の教えに帰入させる」ということである。
 方便のさまざまな教えは、一面のみの真理を説いたものであり、相互に矛盾する場合もある。しかし、真実の教えに立脚した場合には、方便の教えも部分的な真理としてつつみ込まれ、活用することができる。これが「開会」である。
 つまり、生命の極理を明かした日蓮大聖人の仏法から見れば、迹門も一分の真理を明かしたものとして位置づけられる。この「開会」の立場から、大聖人は、本門・迹門を一括して、真実を明かした教えであると説かれている場合がある。大聖人滅後、師敵対した五老僧の末流に、その真意を理解できず、本迹に勝劣はなく、等しく真理を明かした教えであるとする邪義を唱える者が出てきたが、今、篠原常八も、そのような過ちに陥っていたのである。
 清十郎は諭すように言ったが、根拠となる文献、教義を示しての理路整然とした追及は、一つ一つ手厳しいものであった。七カ条にわたる問答で、篠原常八は、完全に敗れたことを知ったものの、なおも求めて、翌日も問答の続行を願った。だが、既に勝敗は明らかであるので、清十郎は応じなかった。
 常八には、求道の心が芽生えていた。彼は、それから清十郎の行方を探したがわからなかった。また、越後から佐渡まで旅をし、江戸への帰途、はからずも清十郎の奥州・二本松(現在の福島県二本松市)滞在を知って追いかけた。二本松で両人の問答が再び始められたのだが、今度は長時間にわたる問答は避け、負けた者は、自分の宗旨を捨て改宗するという、厳しい約束のもとに行われたのである。
 もはや勝負は問題にならなかった。本迹の勝劣について、本尊について、立像の釈迦について、薄墨の法衣について等々、永瀬清十郎は、一毛の疑念もいだけないまでに解明し尽くした。篠原常八は、感涙して、これからは富士門の奴婢となり、正法を弘通すると誓って、江戸・砂村へと帰っていった。
 このような縁によって、江戸に帰ってからも、常八は、清十郎を師として、日蓮大聖人の極理に迫っていった。そして、熱心に一致派を折伏し、遂に十一世帯の講中をつくるまでになった。
 一致派の多くの人びとが、常八を非難し始めたことは、言うまでもない。そこで、一致派から、常八に法論を申し込んできたのである。常八は、負けたら富士門に帰伏するかと質し、この約束のもとに法論を受けて立った。しかし、一致派は、対決の講師をなかなか立てることができなかった。多くの僧俗は、尻込みしたからである。五十余日たって、やっと成瀬玄益なる旗本の隠居を名乗る人物に決まった。そして、一致派は、また注文をつけた。常八の師匠・清十郎の出馬を強要してきたのである。
 場所は江戸・両国の柏屋という茶屋である。定刻の午後二時、ここに両派の聴衆、六、七百人が集まってきた。成瀬玄益は、黄金作りの大小の太刀を携え、浅黄綾の十徳を着し、威儀を正して、南面して上座を占めた。永瀬清十郎は、北面して下座についた。両側には、双方の世話人が五人ずつ控え、筆録者が一人ずつ並んでいた。
 約定は、仏教の正邪を決するのであるから、返答のできなくなった者は、自分の宗旨を捨て、勝った方へ帰伏すると決めた。そして、この義を違えてはならぬと確約して問答が始まった。
 永瀬清十郎は、虚を衝くような第一問を玄益に放った。
 「身延山の歴代で、衆人に念仏を勧めた人がおる。この義はどうか。宗祖は念仏無間と破られているのに、その源たる歴代として念仏を勧める法があるか」
 「なにつ、その方、嘘をつくな! 日は西から出るとも、大地は反覆するとも、身延山で念仏を勧めることがあるわけはない。なんの証拠をもって悪言を吐くのか。その証拠を出せ!」
 清十郎は、しばらく無言でいて、玄益の怒るに任せた。聴衆が、清十郎の口からの出まかせの放言かと疑った時、清十郎は、おもむろに口を開いた。
 「勝手な非難をしたのであったら、衆人は納得しないだろう。当門流では、証拠がないことは、一切、言わないのである。当に知るべし、あなたの宗派から出た書籍のなかにこれがある。その証拠があれば、どうするか」
 「証拠あれば、閉口する」
 清十郎は、言質をとり、まず第一問の勝負を決した。
 「『啓蒙』二十八に次のようにある。
 ――身延山の日乾が、先年、京都の本法寺で談義興行の際、題目抄を引いて、″念仏も悪くない。世人が、念仏を申せば口もただれ、舌も抜けるように思うのは、愚痴の至りである″と破した。それを、直接、聞いた人が、その内容をある僧に語った。その僧が書きとめたものを見た――とある。
 また、『啓蒙』には、日乾が、京都の在家・佐藤久兵衛に、同じ趣旨を語ったのを、久兵衛より聞いたと、はっきり出ている」
 『啓蒙』というのは、元禄のころ、不受不施派の日講が著した『録内啓蒙』三十六巻の略称であるが、日寛上人は、『六巻抄』で、しばしば『啓蒙』を引いて、他宗の邪義を叱正するために用いている。未熟な玄益は、その文証すら知らなかったのである。
 清十郎は、このあと、宗祖に背いて本尊を雑乱させ、謗法の山と化した身延山には、厳しい罰の現証が相次いでいることを突きつけ、身延は無間地獄であると責めた。玄益は沈黙し、やがて席を立った。結局、勝敗は他愛なくついてしまったのである。一派の世話人は、驚いて、清十郎に教えを請うかたちとなった。
 この問答は、たちまち多くの人びとの噂になった。ことに砂村の一致派の信者は悔しがり、せめて砂村在住の勝劣派・篠原常八を破ろうとたくらんだ。一致門流の著名人・梶柔之助という旗本を引っぱり出し、砂村で盛んに講演させ、勝劣派に切り込んできた。そして、永瀬清十郎が、大石寺へ参詣中の時を狙って、常八を、そのような講演の席に誘い出すことをたくらみ、それは成功した。
 梶柔之助は、二、三の御書を引用して、本門、迹門について傍正はあるが、勝劣はないなどと、勝手なことをしゃべりまくっていた。
 たとえば、「四菩薩造立抄」のなかから、次の文を引いた。
 「今の時は正には本門・傍には迹門なり、迹門無得道と云つて迹門を捨てて一向本門に心を入れさせ給う人人はいまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ以ての外の僻見なり
 「このようにあるからには、傍正に一往は勝劣があるが、再往は一致であることは明らかである。しかるに富士派が、傍正に勝劣があると立てるのは誤りである」
 ――梶柔之助のあげた御文は、「今、末法の時は、中心となるのは本門であり、それを補うのが迹門である。ゆえに迹門では得道しないといって迹門を捨てて、本門ばかりを信ずる人びとは、いまだ日蓮の本意の法門を知らないのであって、もってのほかの僻見である」との意味である。
 常八は、柔之助の言い分を十カ条に書きとめて、反論に移ろうとした。
 「不審の点が多くあるが、ここで返答ができるか、どうか?」
 「不審があるならば、文書にして出してもらいたい」
 梶柔之助は、質問をするりと避けて、この日は、これで散会した。
 三日後の約束の日に、砂村の常八の家へ富士門講中の人びとが集まり、相談しているところへ、思いがけず永瀬清十郎が現れた。彼は、寺行きを中止していたというのである。一同が喜んだことは、言うまでもない。
 清十郎は、この時、初めて梶柔之助との対決を知らされたのであった。
 しかし、彼は、慌てず、騒がず、常八と共に、四、五百人の聴衆の集まった柔之助の講席へ出かけて行き、まず、あいさつをした。
 「私は、目黒の住人、永瀬清十郎と申す富士門の者でござる。今日は、先生のご講談を伺いに参った」
 「今日は、常八氏と、一致、勝劣の法門の邪正を結論することになっているので、貴公はお控えください」
 柔之助は、清十郎と聞いて、避けるようにして常八に向かった。
 ――大聖人の御在世にあって、迹門を無得道といって読まない者のために、その非を諭されたが、だからといって、本迹一致とはならない。あくまでも本迹の傍正は、それ自身、勝劣を表している。
 しかし、梶柔之助は、勝劣ということと、傍正ということは、全く異なることであると、頑強に主張して譲らなかった。
 「互いに口で言い合っていても仕方がないから、記録したうえでやったらどうでしょう」
 永瀬清十郎は、こう言って、紙に書きとめて二人に見せた。
  梶云く傍正は勝劣に非ず
  篠原云く傍正は勝劣なり
 論点を鮮明にしておいてから、清十郎は、柔之助に向かって、「傍正とは、いったい、いかなる意味か」と問いただした。柔之助は、傍は傍意、正は正意としか答えられなかった。
 清十郎は、字訓を説き、文字の意味に即して語っていった。
 「正は君を意味し、また長という意味もある。傍は、側という意味で、左右のことである。つまり君と、その左右とのことではないか。君と君側、君臣の勝劣は明らかである」と結論して続けた。
 「したがって、傍正が勝劣でないということは僻見である。ゆえに本門は正、迹門は傍と大聖人は定められた。この言に背くのは謗法である。録内録外のなかに、正は勝なり、傍は劣なりとの明文は顕然としている」
 「それは、いずれの御文にあるのか」
 梶柔之助は、臆面もなく、無知をさらけ出した。
 この時、清十郎は、初めて怒気を含んで、柔之助に鋭い視線を浴びせた。
 「ものを習うのは弟子であり、教えるのは師匠である。貴公は席を去って、閉口のうえで、私に降参して質問をすべきではないか。貴公が上席で肘を張っているのは、礼を失するも、はなはだしい。私を上席に請じ、貴公が下座に着いて聞くべきである」
 敗色は、明らかに旗本の梶柔之助にあった。一致派の信徒、五、六百人は、これを聞いて動揺した。武士の顔が立たないと罵る者も出てきた。この時、興奮した聴衆のなかから、泥を清十郎めがけて投げつける者があった。泥は講席に散乱した。誰がやったのかという犯人捜しから、いつか喧嘩となり、同士打ちが始まって、取っ組み合いの騒ぎになった。
 この騒動を余所目に見ながら、清十郎をはじめ六人の富士門の信徒は、書物や記録を懐に悠然と席を立ち、講中の家に引き揚げたのである。もし、この時、騒動とならなかったら、文字の意味を答えられずに恥をかいた梶柔之助は、武士の恥辱として刃傷沙汰に及んだかもしれないのだ。騒ぎは、まことに諸天のお計らいであったかと、講中の人びとは語りながら、御造酒を御本尊に供えて、勝利を祝い合った。
 時に天保六年(一八三五年)十月のことであった。明治維新に先立つこと三十三年、世は騒然とし始め、徳川幕府崩壊の胎動が始まったころである。この年の九月、天保通宝という百文銭の銅銭が鋳造され、悪貨のはしりとなった。
14  戸田城聖は、理境坊の二階で床に就いていたが、深夜の静寂のなかで、坊の側をせせらぐ清流の音を耳にしながら、はるか昔の「砂村問答」を思い返し、永瀬清十郎の濠然とした剛直無垢な信心を偲んだ。そして、彼の姿を思い描きながら、親愛の情のなかで、この先達の壮烈さに思いを馳せていた。
 彼は、この連想から、近く明治初期の「横浜問答」が、ふと思い浮かんだ。
 この一八八二年(明治十五年)の「横浜問答」というのは、富士門流の本門講と、横浜にあった、当時の身延系の蓮華会との間に行われた問答のことである。蓮華会は、一致門流の流れを汲む会員、七、八十人の講であった。発端は、やはり、この蓮華会の一会員と本門講の一講員が法論したことであった。その後、蓮華会の会長・田中巴之助が、本門講に対して正邪対決の法論を挑んできた。田中巴之助とは、後に有名になった田中智学のことである。
 本門講は、直ちに快諾した。すると、蓮華会は何を思ってか、口頭での対決を避け、文筆での対決をあらためて要求してきた。本門講は、彼らの言うなりに応じ、両者の聞に文筆往復による法論の「条約書」を、取り交わした。
 「条約書」の冒頭の第一条では、「双方論議問難の末、自己の妄見を悟認したる以上は、速に潔く従来の宗派を棄てて正見なる宗派に帰住すべき事。但し蓮華会員は本門講員に加盟し、本門講員は蓮華会員に加盟すべき事」と、それぞれ自己の宗教的生命をかけた厳しいものであった。
 そして、双方提出の問題について、答弁書は七日以内に差し出すことにし、この期間に回答のない場合は、敗北とみなし、「第一条の約章に照らして改宗すべき事」と双方の総代捺印のうえ誓約したのである。
 さらに、蓮華会は、第一問の提議を本門講に請求してきた。本門講は、これをも応諾、その作成に取りかかった。
 この第一書は、十月三日付で蓮華会御中として発送された。論陣は、本尊論を中心としたものであった。蓮華会は、約定に従って、十月九日、第一問に対する回答を寄せてきた。
 本門講の第二号書は、十月十五日、蓮華会の第二号書は、十月二十一日、本門講の第三号書は、十月二十七日、といったように、一週間以内に、それぞれ反論と弁駁を繰り返し、五号書まで進んだ。討論の発展はなく、本尊論などの追及に対して返答不能に陥ったのか、蓮華会の第五号書は、回答といえるものではなかった。そこで本門講は、第六号書において、「諸氏具答に窮迫せば早く前罪を陳露して正門に帰向せよ」と、厳しく追及している。十二月四日のことである。
 以後、蓮華会からは、なんの回答もなかった。本門講は、それでも十日待った。この間に蓮華会は、口頭による討論に移ることを要求してきた。まさに違約である。
 本門講は、そこで約定に従って、十二月十四日、所断書を認め通告を発した。
 「……文壇上の対決は条約の基礎に付きいやしくも窮迫せざる以上は、徹頭徹尾を相図るべき筈なるに、俄に他に事を寄せ謝絶あるは何に意ぞや。まことに貴会の卑怯未錬なる精信求法の良心を放ち失ひ仏祖の威霊を明白に欺き去る。贋信徒たる段真に憫羞びんしゅうの至りに存じ候……」
 この痛烈な所断書に対して、蓮華会からは、一言の返答もなく終わっているのである。
 その後、伝え聞くところによると、会長の田中巴之助は、所断書を受け取った翌日、にわかに居を転じて行方をくらましたという。勝敗は、おのずから明らかとなった。後年、時の極右思想に迎合して、「国立戒壇」の名称を使い始めたのは、実は、彼であった。
 戸田城聖は、さらに宗史を遡行して、繰り返された数々の大小の法論を、思い浮かぶままに点検しながら、たどった。そして、日蓮大聖人の佐渡における「塚原問答」に思いを馳せた。
 大聖人は、文永五年(一二六八年)十月、鎌倉幕府の執権・北条時宗に対し、正邪を決する諸宗との公場対決を迫った。この年の一月、蒙古からの国書が届き、他国からの侵略が現実問題として迫ってきていたからである。大聖人が、正法を用いなければ、国が滅びると警告された「立正安国論」提出の時から七年が過ぎていた。
 しかし、幕府は、大聖人の要請に応えようとはせず、むしろ、諸宗の反発と謀略に動かされて、迫害に転じたのである。文永八年(一二七一年)九月の竜の口の法難が、それである。大聖人は佐渡流罪となり、その佐渡で、諸宗の僧たちが集まり、数を頼んで大聖人に法論を挑んできた。それが「塚原問答」である。
 大聖人の、諸宗の僧を責める言葉は鋭く、瞬時にして彼らの誤りを明らかにしていった。その問答を目の当たりにした多くの人びとが、正法に帰依し、僧のなかには、その場で袈裟を脱ぎ捨てて、″今後は念仏を唱えない″と誓う者もいたのである。
 佐渡流罪が赦免となり、鎌倉に帰還されて以後、幾度か公場対決の機会が訪れようとしたが、いずれも実現せず、大聖人が公場で正義を明らかにされる機会は潰えた。
 戸田は、その御無念を深く察しながら、古く天台大師、伝教大師も公場対決に臨んできたことに思いをいたした。
 天台は、陳の国主の面前で南三北七の諸宗の僧侶と法論して、正邪を決して帰伏せしめている。また、伝教は、延暦二十一年(八〇二年)一月十九日、高雄山寺で南都六宗の碩徳十四人を相手にして、桓武天皇の勅使・和気弘世の臨席のもとに、諄々と破折した。そのため十四人の学僧は、勅宣によって謝罪状を出さなければならなかった。時に伝教大師は三十六歳、後に比叡山に迹門の戒壇が建立されたのは、この時の公場対決に由来するところが大きい。
 戸田は、現代における公場対決とは、いかなる形式を指すのか思索を重ねていた。
 厳寒は深く、暁に近かったが、彼は、なおも目覚めていた。
 ″主権在民″にして、かつてのような国主の存在しない現代に、おいては、民衆の審判による以外にない。してみれば、日夜、展開されている学会活動も、夜ごとの座談会も、大切な公場対決の縮図といえるが、民衆の審判は、いまだ極小の部分に限られている。このような対決が大きな効果をもつためには、その法論に一宗の命運を賭した場合が、ひとたびは必要であるかもしれない。これこそ、現代の公場対決の一環ということができるだろう″
 戸田が、ここまで考えいたった時、小樽に惹起した事件の意義が、にわかに鮮明な色彩を帯びてきた。一宗の命運をかける可能性が、十分にあったからである。彼は、この機会を、偶然、とらえた以上、それを千載一遇としたかった。身延の日蓮宗の代表講師の顔ぶれを知った今、絶対不敗の講師を、創価学会から出す必要があると思った。教学部長・山平忠平は動かぬところであったが、あとは青年部長・関久男にすべきか、それとも他のメンバーにすべきかどうか迷った。
 法論においては、攻撃と、受けて立つ防御とを、ともに備えなければならぬ。身延の本尊雑乱を突くことは極めて重要であり、これこそ、大聖人の正法正義に違背する、断じて許すことのできない事実である。身延側は、おそらく過去の法論を蒸し返して、日蓮本仏論、一閻浮提総与の御本尊などについて攻撃してくるにちがいない。以上の二点が争点となることは疑いない。あとは枝葉末節に属する問題であって、なんら恐れることはないであろう。その解明を十分に用意し、防御から、逆に攻撃に転じる機をつかむことである。
 戸田は、床の上に起き上がった。寒気の忍び寄った明け方の部屋の中で、雪に埋もれているであろう厳寒の北海道を思った。
 昨年の夏、小樽で初めて会ったあの初信の学会員たちは、今度の事件で、心配顔をしながら雪のなかを駆け回っては、題目をあげていることだろう。彼は、かわいい、そして大切な弟子たちの姿を、思い浮かべていた。
 ″よし、よし、戸田がいる限り、あなた方は何も心配しなくていいのだよ。ご苦労だが、もうしばらく待っていなさい″
 彼は、心のなかで、がむしゃらな東班長を中心とする小樽班の人びとに、親しく呼びかけていた。

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