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日蓮大聖人・池田大作

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序曲  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  一九四六年(昭和二十一年)十一月三日――新憲法、つまり、「日本国憲法」が公布された。明治憲法と言われてきた「大日本帝国憲法」が、ここで根本的に改革されたのである。
 旧憲法は、欽定憲法といわれたように、天皇によって制定されたという形式をとっていた。要するに天皇主権主義であり、軍国主義を可能にした条項を含んだ憲法であった。
 これに対し新憲法は、国民主権を掲げ、平和主義を標榜し、基本的人権の尊重を高らかにうたっている。
 その条文のなかでも、制定の際に論争の的となったのは、第一章第一条から第八条までの天皇に関する条項と、第二章第九条に定められた戦争放棄の条項であった。
 しかし、このうち特に第九条の規定が、将来どのような事態を招くことになるか、誰人も予測できなかったのではないだろうか。当時の指導者、マッカーサーや幣原喜重郎、吉田茂等も、例外ではなかったにちがいない。
2  第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
 第九条 (1) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇文は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
     (2) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 第一条の後段にも明記されているように、主権が国民にあること、つまり主権在民は世界の趨勢であり、当然のことである。しかし、第九条に定められた戦争の永久放棄は、世界の政治常識の意表を突いたものであったことは確かだ。
 平和主義を理念とするこの第九条が、好戦国と思われていた日本に出現したことは、世界の人びとにも、一種異様な不思議さとして受け止められたにちがいない。
 日本の軍事力の解体を完了したマッカーサーは、将来にわたって、再び日本が戦争できぬよう、その能力を剥奪することを意図していた。彼は、これが人類の歴史上、前例を見ない難問であることを承知していた。しかし同時に、恒久平和をめざす民主国家を、自らの手でつくり上げたいという理想に燃えていたにちがいない。
 占領下の日本政府の首脳は、幣原喜重郎にしろ、吉田茂にしろ、何よりも、天皇制の維持に最も心を悩ませていた。マッカーサーと天皇との第一回会見以来、天皇が戦犯として起訴される心配はない、との感触は得ていたものの、まだ確実に保証されていたわけではなかった。皇室の存続を最大の課題とする彼らは、そのためには、他の譲歩はやむなしとの決意をいだいていた。
 マッカーサーは、日本の占領統治を円滑に実施するために、天皇を温存させることが、得策であるとの方針を固めていた。しかし、連合国側には、天皇を軍事裁判にかけるべきだとの、強硬な意見をもつ国も多かった。そこで、連合国のなかにある天皇に対する批判の声を、封じ込める必要があった。そのためには、日本を徹底的な平和国家につくり上げる道筋を示すことが、最も効果的な方法であったのではなかろうか。
 このような勝者と敗者との思惑が交錯するなかで、第九条は生まれたともいえる。少なくともその出発点が、平和主義という本質的な理念からでなかったことは、確かであろう。それは、憲法改正作業をめぐる経過を振り返ってみれば、明白である。
3  マッカーサーは、一九四五年(昭和二十年)十月四日、東久邇内閣の国務大臣・近衛文麿と会談し、日本の民主化へ向けての憲法改正を示唆した。その東久邇内閣は、翌五日に総辞職し、九日に幣原内閣が発足した。
 近衛は、国務大臣の職を離れたが、マッカーサーから憲法改正の指示を受けたと信じていた彼は、準備のために、八日にGHQ(連合国軍総司令部)の顧問であるジョージ・アチソンを訪ねた。この時、アチソンは、多項目にわたる改正の基本的な要綱を、近衛に伝えている。しかし、そのなかには、天皇の象徴化も、戦争放棄の項目もなかった。
 近衛は、十一日に内大臣府御用掛に就住し、具体的な作業に取りかかった。近衛が内大臣府御用掛に就いたのは、明治憲法においては、憲法改正の発議権は天皇にしかなく、天皇に助言を与えるのが内大臣府の任務であったからである。
 この十一日に、新内閣の幣原首相は、マッカーサーを訪ねて会見したが、そこでもマッカーサーは、憲法の民主的改正を示唆した。しかし、この際にも、天皇の地位についても、戦争放棄についても、話題が及ぶことはなかった。
 この二日後の十三日、政府は国務大臣の松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会の設置を決めた。
 こうして、マッカーサーの示唆によって、憲法改正を研究する機関が、内大臣府と内閣の双方にできてしまった。しばらくすると、このことが問題視され、憲法改正は内閣の仕事であり、内大臣府が、かかわるのはおかしいとの声が起きてきた。また、近衛の戦犯問題も話題に上るようになってきた。
 このような事態の推移のもと、マッカーサーは態度を一変させた。十一月一日、GHQは、憲法改正問題に関して、近衛を支持しないと表明したのである。
 近衛は、自分が天皇の命によって憲法改正に向けて準備していることを述べ、十一月二十二日に調査結果を天皇に報告したが、十二月六日に戦犯容疑者として逮捕命令が出されると、出頭日の十六日、服毒して自殺した。
 十一月二十六日に、第八十九回臨時帝国議会が召集された。議会では、憲法改正問題がたびたび議員から提起された。
 十二月八日、憲法問題調査委員会の委員長でもある松本烝治国務大臣は、質問に答えるかたちで、後に「松本四原則」と称される内容を、個人的見解として述べた。しかし、それは明治憲法の基本理念を改革しようとする内容ではなかったし、そもそも政府は、本格的な改正が必要とは、考えていなかったようである。
 このころから、各党も憲法改正案を相次いで発表した。自由党案も、進歩党案も、天皇に統治権を与える内容であった。
 改革的と見られていた社会党でさえも、主権は天皇を含む国民協同体にあるとし、統治権は天皇と議会に分割するとの考えであった。
 天皇制廃止を主張する共産党が発表した「新憲法案成の骨子」にも、戦争放棄については影すら見えなかった。
 要するに、保守、革新ともに、世界の動向についての把握が的確でなく、明確な方向性も展望も、もっていなかったのである。
 年が明けた一九四六年(昭和二十一年)一月末から、内閣では、数回にわたって憲法問題について討議が行われた。
 二月四日、憲法問題調査委員会での最終意見を聴取して、内閣としての審議を終えた。しかし、内閣がとりまとめた憲法改正要綱は、統治権は天皇にあるとする明治憲法の条項には、ほとんど手をつけておらず、憲法改正をめざすというには、程遠いものであった。
 松本国務大臣が、この改正要綱をGHQに届けたのは、二月八日であった。この時、既に、GHQが憲法改正作業に全力を集中していることなど、首相の幣原も、松本も、全く知る由もなかった。
 その一カ月前の一月十一日、マッカーサーは、スウインク(SWNCC=合衆国国務省・陸軍省・海軍省の三省調整委員会)から、一通の極秘文書を受け取っていた。「日本の統治体制の改革」と題するこの文書は、憲法改正に関する米国政府の考えを示したものであった。GHQは、日本政府の動きを注視しつつ、憲法改正に向けた準備作業を開始した。
 二月一日、毎日新聞が重要なスクープ記事を一面に掲載した。それは、「憲法問題調査委員会試案」の全容なるものであった。
 そこには「憲法改正・調査会の試案」「立憲君主主義を確立」という見出が躍っていた。正確には一委員の試案であったが、憲法問題調査委員会が準備している試案と、骨子において本質的な相違はなかった。
 このスクープ記事に、GHQは即座に反応した。試案の全条文が英語に翻訳され、マッカーサーに届けられた。
 マッカーサーは、日本政府に民主的な憲法の立案を期待することは、不可能だと判断したにちがいない。二月三日の朝、彼は、GHQ民政局に対し、憲法改正草案の早急な作成を指示し、草案に盛り込むべき不可欠の内容として、三点を記したメモを渡した。いわゆる「マッカーサーノート」である。
 そこには、(1)元首としての天皇の地位、(2)戦争放棄、(3)封建制度の廃止、が記されていた。ここに初めて、「戦争放棄、軍備撤廃」が浮かび上がってきたのである。
 マッカーサーの指示を受け、翌四日から、草案作業が急ピッチで進められ、GHQの憲法草案は十二日に完成した。
 翌十三日、GHQ民政局長のコートニー・ホイットニーは、吉田茂外務大臣、松本震治国務大臣に会い、八日に受け取った日本政府の憲法改正案は容認できないことを告げ、同時に、GHQが作成した改正草案を提示した。
 両大臣は驚愕した。彼らは、この日、八日に提出した憲法改正要綱についてGHQの意見を聞き、それに基づいて憲法改正作業を開始するつもりだったのである。
 GHQ草案の内容を見て、彼らの驚きは深まった。驚きというより、憂慮を深めたといった方がいいかもしれない。革命的ともいえる、あまりにも抜本的な改革内容だったからだ。即答できるようなことではなかった。
 松本は、幣原と協議し、日本側の要綱について再説明書を提出した。だが、十八日、ホイットニーは、GHQ草案の原則を盛り込んだ改正案を作成するか否か、二十日までに回答するよう告げてきたのである。
 二月十九日、閣議が聞かれ、松本国務大臣から経過報告が行われた。各大臣には、初耳であった。青天の霹靂ともいうべきGHQ草案に、議論百出となった。
 あまりにも斬新な草案内容に、彼らには、GHQの意図がどこにあるのかすら、見当もつかなかった。結局、幣原首相が、自らマッカーサーを訪ね、GHQの考えを確認してくることを決め、閣議は終った。
 二十一日に、幣原はマッカーサーを訪ね、長時間にわたり会談した。この時、幣原は、マッカーサーの話を聞いて、日本が、いかに厳しい国際世論のもとにあるかを初めて知ったのである。
 この時期、日本占領政策についての連合国の最高決定機関である極東委員会の第一回の会合が、二月末に開催されることが決定していた。委員会には、天皇制廃止を強硬に主張しているソ連やオーストラリアが参加していた。極東委員会が活動を開始した場合は、その指示に従わなければならない。
 マッカーサーは、日本が天皇の地位の安泰を図るには、極東委員会が異を唱えにくいような、平和的、民主的憲法案を、早急に示す必要があると考えていた。
 それには、象徴天皇制と主権在民、戦争放棄を明確にすることが絶対に必要であり、これを受け入れなければ、日本の安泰も、天皇の安泰も困難であろう――と、彼は説いたのである。
 幣原は、もはや、GHQ草案を拒否することはできないと悟った。
4  ところで、当時の状況から、天皇に主権を与えないための条項が考えられたことは当然として、戦争放棄というアイデアは、どこから出てきたのであろうか。
 マッカーサーは、後に、彼の回想録のなかで、一月二十四日の幣原首相との会見の折、幣原から、新憲法を起草する際に、戦争放棄の条項をつくり、一切の軍備をもたないことを明確にしたい、という提案があったことを述べている。
 また、幣原自身も、彼の回顧録のなかで、中途半端な軍備をもつより、戦争を放棄し、軍備を全廃した方がいいとの考えをもっていた、と述べている。
 幣原が、軍備全廃の考えをもち、マッカーサーとの会見の際に戦争放棄の考えを述べていたとすれば、彼の頭脳のなかにあったそのアイデアは、なぜ憲法改正要綱に反映されなかったのであろうか。
 戦争放棄は、幣原が発議したのか、マッカーサーの指示によったのか、今となっては真相を検証するのも困難である。
 ともあれ、国際紛争を解決する手段として、武力を行使することを排除し、戦争を永久に放棄するという規定は、極めて画期的な発想であったことは間違いない。戦争放棄をうたった憲法第九条の精神は、世界がめざすべき平和の理念であり、この精神こそ、永遠に堅持し、掲げ続けていくべきものであろう。
 戦争放棄の考え方そのものは、この時、初めて登場したものではない。既に、一九二八年(昭和三年)のパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)に出ている。不戦条約の第一条には次のようにある。
5  第一条 締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを不法と認め、またその相互の関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その人民の名に、おいて厳粛に宣言する。
6  第一次世界大戦は、毒ガス・戦車・潜水艦・飛行機など、大量破壊を可能とする新兵器が登場し、八百数十万人という未曾有の死者を出した。大戦後、一九一九年(大正八年)にパリ講和会議が聞かれ、二〇年(同九年)には国際連盟が設立された。あまりの戦争の惨禍に、世界には、二度と戦争を起こしてはならないという反省が満ちていた。そして、パリ不戦条約となって結実したのである。
 その後、国際連盟は十分に機能せず、不戦条約も一片の紙と化し、条約は破られていくが、戦争放棄の理念は、スペイン憲法や、イタリア憲法にも引き継がれており、多くの人に知られていた。さらに第二次世界大戦を経て、このような惨禍を繰り返してはならないとの願いを込め、四五年(昭和二十年)十月に発効した国際連合憲章にも、その精神は受け継がれている。
 こうしたことは、幣原やマッカーサーも、当然知っていたであろうし、GHQの草案作成メンバーにも、知っていたスタッフはいたと考えられる。
 そこから、第九条の発案者が、幣原であるとか、マッカーサーであるとか、あるいはマッカーサーの側近であったホイットニーやケーディスであったなど、さまざまな人の名前が登場してくるのであろう。
 ともあれ、マッカーサーが、戦争放棄を草案に入れることを指示した背景には、憲法改正について、極東委員会から、なんらかの方針が示されるのを避けたいとの思いがあったことが、うかがえるのである。
 そこで、極東委員会が活動を開始する前に、憲法改正を進め、天皇の象徴的地位を明確化するとともに、平和国家への意志を、戦争放棄の条項で明言しておくことが、有利と考えていたことは間違いない。
 結局、憲法改正は、GHQ草案を基本として進める以外にないと決意した幣原は、二月二十二日午前の閣議で、マッカーサーとの会見の情況を報告した。閣議は紛糾したが、最終的に、草案を受け入れる方向で決定をみた。
 同日午後、松本国務大臣、吉田外務大臣らは、ホイットニーと会い、GHQ草案について意見を交換した。
 そして、二十六日の閣議において、日本政府案の起草を正式に決定し、翌二十七日から、極秘のうちに、作業が開始された。
 日本政府案は、三月二日に完成し、四日にGHQに提出された。GHQと交渉を重ねた末、「憲法改正草案要綱」として、三月六日に発表され、翌七日付の各紙に掲載された。
 この報道を見て、まず有識者が驚愕した。そして、全国民も驚いた。二月一日に、毎日新聞にスクープされた「憲法問題調査委員会試案」の内容とは、あまりにも隔たりがあったからだ。約一カ月間に、かくも大変貌したことは、全く不可解に思われた。
 保守政党の政府が、社会党よりも、さらに進歩的な内容をもった草案を発表したのである。社会党は唖然とした。共産党も、キツネにつままれた思いであったろう。多くの人が、理解に苦しんだのは当然であった。
 四月十日に、戦後初の総選挙が行われた。結果は、鳩山一郎が率いる自由党が第一党となり、二十二日に幣原内閣は総辞職した。
 鳩山が、後継内閣の首班になるかと思われたが、GHQは、彼を公職追放とする指令を出した。
 首班指名をめぐって政局は混迷し、ようやく、五月二十二日に吉田茂内閣が誕生した。新憲法草案を成立させることは、幣原に代わって吉田内閣の仕事となった。
 六月二十日に、第九十回帝国議会が聞かれ、憲法改正が最大の議題となった。戦争放棄を定めた第九条も、大きな争点となった。
 衆議院では、二十八日、共産党の野坂参三が質問に立った。彼は、戦争には、「不正の戦争」と「正しい戦争」があり、「侵略の戦争」は不正だが、「自国を守るための戦争」は正しい戦争であるとして、吉田茂を追及した。
 彼は、自衛戦争まで否定するような、戦争一般を放棄するかたちの第九条は行き過ぎであると迫ったのである。
 彼が、このような質問をした背景には、同日二十八日に決定された、共産党の「日本人民共和国憲法草案」があった。その草案の第五条には、「どんな侵略戦争をも支持せず、またこれに参加しない」とある。しかし、野坂の質問からわかるように、自衛戦争は正義の戦争として認め、軍備の放棄までは考えていなかったといえる。
 野坂の質問に対して、吉田は、「国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせらるるようであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思う」答え、近年の戦争の多くは、国家防衛権の名において行われたとして、野坂のような議論は、有害無益であると突っぱねたのである。
 後にこの二人は、攻守所を変え、全く逆の立場に立って論争を繰り返すことになる。今、当時の議事録を読む時、滑稽に感じるほど、互いの混乱と矛盾が、数多く散見される。質疑応答の両者とも、平和に対する確固とした思想も、理念もなかったことを物語っている。
 ともあれ新憲法は、一九四六年(昭和二十一年)八月二十四日、衆議院の本会議において、賛成四百三十一票、反対八票という圧倒的賛成によって可決された。反対八票のうち六票は、共産党議員の全員であった。
 憲法改正案は、八月二十六日に貴族院本会議に回された。十月六日、貴族院で修正可決された。即日、衆議院へ回され、翌七日の本会議で採決された。共産党議員を除く圧倒的多数で可決されたのである。そして十一月三日、「日本国憲法」として公布されたのである。
 しかるに、時を経ずして真っ先に後悔したのは、おそらくマッカーサー自身であったにちがいない。
 五〇年(同二十五年)六月、朝鮮戦争(韓国戦争)が勃発した。
 この時、日本の占領政策にあったていたアメリカ軍のうち、四個師団が韓・朝鮮半島に送られた。この結果、日本の防衛体制には、大きな穴があくことになった。日本を、二度と戦争のできない国につくりかえるという、アメリカの対日政策は、日本を反共の防波堤にするという方向に、大きく転換していくのである。
 マッカーサーは、日本の再軍備の必要性を、痛切に感じたはずである。彼は、日本の防衛体制の穴埋めを、考えなければならなかった。しかし、第九条が立ちはだかっていた。そこで八月十日、GHQから指令が出され、警察力の不足を補うという名目で、警察予備隊が発足した。警察予備隊は、四個師団に相当する体制であった。
 マッカーサーが、後に、アメリカ上院での証言や回想録で、憲法第九条が、日本側からの発案であったと述べているのは、朝鮮戦争で、日本の再軍備へ対日政策が大きく変更されたことと、無関係とはいえまい。
7  新憲法と呼ばれた日本国憲法も、既に長い歴史を刻んできた。いずれ、改正が論義されることもあろう。しかし、その改正は、一部の権力者や党派によってなされるのではなく、どこまでも、国民全体の総意に基づくものでなくてはならない。
 また、何よりも平和主義の理念と精神は、永遠に堅持されなくてはなるまい。そうでなければ、「角を矯めて牛を殺す」過ちを犯すことになるからだ。時代の変化のなかで、憲法の平和主義の精神を守り抜いていくためには、政治の根底に、確固不動なる生命尊厳の哲学、思想が不可欠である。
 マハトマ・ガンジーは、喝破した。
 「宗教の欠如した政治は、国家の首を吊るロープであります」
 この言葉を、政治家も、国民も、深く心に刻むべきであろう。
8  一九四六年(昭和二十一年)十一月――新憲法公布のころ、戸田城聖は、ある未明、寝床の上で考え込んでいた。未明の思索は、彼の習性なのである。
 天井裏に、騒々しい物音がした。ネズミの群れである。
 ″ネズミのやっ、なかなか元気だな″
 ネズミの跳梁は、彼の家庭の食糧事情の好転を意味していた。この数年、彼の家庭には、ネズミさえ、寄りつかなかったのである。
 彼には、戦力ならびに戦争放棄の条文が、最初は極めて不自然なことに思えた。その成立過程が、暖昧模糊と見えた。まるで、降って湧いたような話である。
 彼の思索の糸口は、″この憲法を現実化していくことのできる政治形態は、いかなる形態であろうか″と思いいたった時、強く未来の光明をつかんだのである。
 ――資本主義であれ、共産主義であれ、また、いかなる政治形態であれ、戦争放棄をうたった憲法を、どのように生かしていくかは、主権者である国民一人ひとりに、かかってこよう。その根本である人間の変革が、不可欠となろう。
 たとえば、人びとが核爆発の脅威に怯えながら、戦争を放棄する勇気など、あるはずがない。本当に人間とは、出来の悪いものだ。どんなに善意に満ちていたとしても、次の瞬間、悪縁に遭えば、何をしでかすか、わかったものではない。そのようにできているのが、人間の本性である。数多くの政治家の限界も、ここにある。彼らに、第九条を永久に維持する能力があろうとは、とうてい思えない。
 しかし、第九条は、戦争の悲惨と残酷を知った人びとの、心に芽生えた悲願であることは疑いない。戦争放棄を、実現可能にするためには、今までにない、全く新しい理念を必要とするだろう。それは何か……。
 多大な犠牲を払って、世界大戦は終結したが、地球上には、新たな対立と不信が、広がろうとしている。人類の平和への悲願にもかかわらず、再び、戦争が不可避になってしまうことを、危慎せざるを得ない。しかし、もはや資本主義、社会主義の思想をいくら折衷しても、理論をこね合わせたくらいでは、平和を実現し得ない段階である。それは、誰人も知悉している通りであろう。
 既存の、あらゆる主義、思想を、人間という根本の次元から、人類の平和と幸福へリードしゆく、新しい理念は、日蓮大聖人の仏法の生命哲理から生まれるにちがいない。この大哲理によって、民衆の新しい時代が開かれた時、人類は、劫初以来の悪夢から覚め、平和の大道を力強く歩み始めるにちがいない。同時に、憲法の平和精神を、広く世界に宣言しきることができるだろう。
 広宣流布とは、まさしく、永遠の平和を地上に具現することであり、それは、仏法の慈悲と平和の哲理が、人びとの精神の大地に、深く打ち立てられていくところから達成されるのだ――。
9  今、地球上の一角にある日本国に、戦争の放棄、平和主義を掲げた憲法が、忽然と現出したことが、戸田城聖には、不思議に思えてならなかった。
 彼は思った。いや強く確信した。
 ″広宣流布が、まず、この国に実現できるという証拠なのだ!″
 御書には、広宣流布は、「大地を的とするなるべし」と、明白に仰せである。「時」と、「機」と、「国」の条件は、熟しきっている。あとは「教」を教え、「流布」を実践することが、今、残されていることだ。
 それにしても、これに気づいている人は、ほかに誰もいない。話しても、誰も信じようとしないだろう……。
 戸田城聖は、眠ることができず、寝床の上で何度も寝返りを打った。そして、わが胸に手を当て、深い吐息をついた。
 彼は、近くに迫った恩師・牧口常三郎の三回忌法要と、戦後第一回の総会の開催に、心を砕き始めた。
 一年前の十一月十八日――日蓮正宗寺院の歓喜寮での法要の席上、彼が深く決意した牧口の三回忌が、目前に近づいていたのである。
 ネズミは、また天井裏で、傍若無人に騒いでいた。″こら、ネズミども、あんまり調子に乗るなよ″
 彼は、この一年間の戦いを、思い起こしていた。
 創価学会も、いつしか元気を取り戻してきていた。牧口門下三千人といわれた弟子たちは、疎開やら退転やらで、数少なくなってはいた。しかし、次から次へと、法要の連絡だけは取れていた。上京する会員の便りも、数多く集まっていた。
10  十一月十七日――牧口常三郎の祥月命日の一日前である。神田の教育会館講堂で、三回忌法要が、懇ろに営まれた。
 壇上の正面中央には、牧口の大きな写真が掲げられていた。この講堂は、戦前、しばしば創価教育学会の総会が行われた、懐かしい会場である。その会場で、恩師の懐かしい遺影を目にした時、人びとは、言い知れぬ感動に身を震わせた。
 場内は、二階の席も、ほぼ埋まっていた。五、六百人の参加者である。
 午前十時、読経、唱題に入った。続いて順次、焼香が行われていった
 導師は、かつて法主を務めた堀日亨にちこうであった。その傍らに、歓喜寮住職の堀米泰栄、常在寺住職の細井精道たちが控えていた。
 参列の人びとは、在りし日の牧口会長の面影を胸に浮かべ、獄中での痛ましい逝去に思いを馳せて、感無量の面持ちであった。すすり泣いている人も数多くいた。
 講堂には、焼香の煙とともに、一つの大きな感動が張りつめていた。
 法要の儀が終わると、戸田城聖は、壇上に進み出て、日亨に深く頭を垂れた。続いて、堀米、細井にも、丁重に礼を述べた。
 日亨は、戸田の傍らに歩み寄って、何事かささやいた。
 戸田は、頷いて顔を上げ、参列者に向かって言った。
 「日亨上人のお言葉がございます」
 日亨は、壇上中央に進み、懐中からメモを取り出すと、参列者に向かって話し始めた。小柄な体ではあったが、矍鑠かくしゃくとして、磨き抜かれた古木を思わせるものがあった。白い、太い眉毛、血色のよい顔は輝き、時折、両眼がキラリと光った。この時、既に満七十九歳であった。
 「今日は、当学会の会長・牧口先生の門下の方々が、大勢、集まって、学会としての追悼法要を行われるとのご通知に接し、皆さんの思師を偲ぶ報恩の誠のほどに、深く敬服いたし、老躯に鞭打って、わざわざ上京した次第です。
 私は、今、牧口氏と私との関係、創価学会等については、何も申す時間もありませんが、牧口会長の献身的弘教の精神は、大聖人の御遺誠を深く体得せられたことによると信じます」
 日亨は、ここで章安大師の『涅槃経疏』から、「慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり(中略)彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」を引用して、謗法を傍観し、捨てて置くのは、真の弟子に非ず、偽りの弟子であると強調した。そして、牧口会長は絶対に傍観せず、謗法を身をもって呵責した、まれに見る真の弟子であった、と賞揚した。
 日亨は、まことに不世出の大学匠であった。
 一八六七年(慶応三年)、九州の久留米藩士・堀家の長男として生まれた。翌年には、母と死別している。幼い時から祖父より漢学を学び、尋常小学・中学と学力優秀で通し、日亨の話では、十三歳で小学校の教壇に立ったという。
 社会で、さまざまな仕事も経験した日亨は、十七歳になった一八八四年(明治十七年)に、霑妙寺でんみょうじの信徒の折伏で入信した。三年後の八七年(同二十年)に得度し、やがて五十二世法主・日霑にちでんの弟子となって、総本山大石寺に登っている。
 以来、日亨は宗内外の史書の研究を始め、一九〇二年(同三十五年)から、全国にわたって寺院旧跡を訪ね、宗史古文書の研究踏査に全力を傾注している。二六年(大正十五年)から二八年(昭和三年)まで、第五十九世法主を務めたあと、それまでの研究成果を集大成する宗学全集の編纂にあたると同時に、『日寛上人全伝』『南条時光全伝』等を次々に著した。さらに、三七年(同十二年)『身延離山史』を発刊している。
 こうした、明治、大正、昭和と、三代にわたる約四十五年間の一途な研究、調査、考証から、三八年(同十三年)に至って、遂に、『富士宗学全集』百三十四巻の完成をみたのである。ここには、宗旨、宗義に関する一切の諸説が、文献的、実証的に網羅されているといってよい。
 創価学会の躍進が、怒講の勢いを見せるようになったある日、大石寺の庭で、日亨は戸田城聖たちと談笑したことがあった。このころ、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布が、いよいよ現実の姿となって、浮かび上がってきたのである。
 このことから、同席のある幹部が、日亨に質問した。
 「どうして、もっと早く、広宣流布しなかったのでしょうか」
 日亨は、戸田の顔を顧みた。そして、いたずらっぽく笑いを浮かべながら言った。
 「それは、戸田さんに責任がある。戸田さんが、もっと早く生まれて来ればよかったんじゃ」
 戸田は、これを聞いて、さも愉快そうに笑った。
 「私の責任ですか?」
 「そうじゃ、戸田さん。あなたが戦国時代に生まれていたら、既に正法もぐっと広まっていて、今、こんなに大騒ぎしなくても、よかったはずじゃ。遅すぎた」
 日亨の深い温顔には、真剣味さえ漂っていた。
 長身の戸田も、ぐっと何か、鋭く突かれた思いであった。
 「猊下、私は生まれたくても、猊下が、その時、お生まれにならなかったから、いけないのです。私は、猊下より三十年遅れて生まれる約束になっております。猊下が、今、ご出現だから、私も、ちゃんと三十年遅れて生まれてまいりました。猊下のご出現と、ご研鑽を待っていて、私は生まれてきたわけです」
 「ワッ、ハッ、ハッ、そうじゃ」
 日亨は、高い声で笑った。
 戸田も、空を仰いで笑った。仰いだ空に、早春の富士が美しくそびえていた。
 同席の幹部たちは、二人のさりげない会話のなかに、不可思議な仏縁を探り当てたような気がして、皆、静かに、じっと耳をそばだてていた。
 この徹底した学究肌の日亨は、同じく価値論の探究に没頭していた牧口前会長と意気投合して、よく話が合った。だが、謹厳実直な牧口を評して、日亨はよく口にした。
 「牧口さんの言うことは正しい。……だが、わしは嫌いじゃ」
 学究同士の、肩の凝りがあったのであろう。
 日亨は、形式ばった、肩の凝ることが、何よりも嫌いな性格であった。法主を退いて以後、僧侶・信徒が、「猊下」などと奉ることも、うるさがった。
 「わしを、平僧に返せ」と言ったりもした。
11  今、牧口会長の三回忌に臨んで、日亨は、牧口の生涯を、感慨深く思い浮かべながら、参列者に向かつて語った。
 「……宗祖日蓮大聖人の御一生は、大慈悲をもって、この大良薬、大諌言も敢然として言い出されたのであります。
 今、牧口会長は、信者の身であり、ながら、通俗の僧分にも超越して、国家社会のために大慈悲心を奮い起こして、釈迦仏の遺訓、章安大師の活釈、宗祖日蓮大聖人の御意を体して、上下に憚りなく、折伏大慈の手を緩めず、為に有司に誤解せられ、遂には尊い大法に殉死なされたのであります。いつの時代であっても、偽りの心を捨て、真の愛情をもって世人に接すると、かえって憎まれ、怨まれるのであります」
 その声は、次第に、人びとの胸臆を動かしていった。
 「このことは、宗門の歴史にも、数々の先例がありました。たとえば……」
 ここで一息ついて、熱情も新たに、宗門の法難史の話に移っていった。
 宗門にも、数々の法難の歴史があった。それらは、すべて詳細な資料の裏付けを得て、『富士宗学全集』に収められている。この全集の完成した翌年、日亨は、大石寺から静岡県の畑毛に居を移した。、戦後の乱世のなかで、小柄な体を机に向け、さらに研鎖を積む日々であった。
 戦後、学会の機関誌『大白蓮華』に「富上人詳伝」を執筆、さらに立宗七百年慶祝事業として、創価学会版『新編日蓮大聖人御書全集』の出版にも、協力を惜しまなかった。実に、この時、八十五歳であった。
 日亨は、戸田城聖に先立つこと四カ月、一九五七年(昭和三十二年)十一月に、享年九十歳で死去している。
 日亨の、法難の話は、水の流れるように続いた。
 「……かつて、私が三十余年前に、熱原の法難史を編纂いたし、その後、さらに『富士宗学要集』の大編集の最後版のなかに、古今の法難史料を掲載して、二百五十余ぺージに集めました。
 そのなかに、熱原三人兄弟の鎌倉にての斬罪と、宝永三年(一七〇六年)の下総の多部田村の四人の斬罪と、宝暦七年(一七五七年)、讃岐の敬慎きょうしん御房の丸亀にての牢死、天明六年(一七八六年)、竹内八右衛門の金沢にての牢死、寛政九年(一七九七年)の貫道日誠かんどうにちじょうの牢死、常在寺檀徒なる上総屋かずさや善六の伝馬町の牢死等が載せてありますが、それ以下の入牢、追放等の僧俗の法難は、数千百人にのぼるのであります。
 その大別は十一項目より成っておりますが、これらの人びとの法難と、牧口会長のそれとは、縦にも横にも、内外の影響にも、格段の相違があるのであります。私は、この法難史を追加集録する機会がありましたなら、ぜひとも牧口会長のことと、戸田理事長等のことを明記しておいて、後世の鑑としたいと思っています。
 何とぞ諸氏は、牧口会長の心中を、よくよく推察して、国家のため、社会のため、広宣流布を目標に大いに敢闘せられ、相共に、名声を仏陀の願海に、流されんことを切望いたします」
 日亨は、語り終わると、無造作に席に戻った。瓢々たる態度である。
 参列者たちは、数々の法難と戦った、地涌の菩薩の先達に、心からの冥福を祈らずにはいられなかった。
 日亨は、この三回忌の、この時の約束通り、十年後、再刊された『富士宗学要集』第九巻(史料類聚二)の″法難編″に、牧口会長はじめ創価教育学会の法難を加えている。
 続いて、堀米が立った。牧口会長とは、特に親交深かった僧侶である。
 堀米は、いつもと変わらず、静かな口調で語り始めた。
 「私は、今日、牧口先生の法要に加わり、感慨新たなものがあります。私は、かつて牧口先生と五年間、毎週、一緒に仏書の研究をいたし、信仰に励んできました」
 そして、堀米は、牧口の価値論に言及していった。
 「先生は、価値論の完成を期し、信仰のうえに立脚され、自身の生活上に如実に現して、それを他に説いていった。その先生の労苦を、深く考えなければなりません。
 これが解決されるならば、道は開けてくるのであります。牧口先生は、これを解決されたのです。
 牧口先生は、価値を研究なされて、妙法蓮華経を体得されたのであります」
 哲学者の道が、遂に仏法の真髄に到達していった、その牧口会長の思索と実践の、希有にして崇高な生涯を、堀米は力説した。
 次に細井が、張りのある朗々とした声で、話し始めた。
 細井は、江戸時代の国学者、本居宣長、平田篤胤等によって、仏教が外来思想として排斥され、天台や日蓮大聖人に対する誹謗がなされたことを述べ、以来、多くの学者の邪見は悪見を生み、今日の日本の運命を招いたと断じ、次のように結んだ。
 「日本は、まさに邪見によって敗れ、今なお、邪見の学者によって堕落している今日、牧口先生の志を継いで、われわれ同志は、正宗の教義を深め、ますます広く流布し、正しいものは正しく認識するような研究が行われんことを、希望する次第であります」
12  場内は、静まり返っていた。咳払い一つない。
 やがて、「追悼の辞」となり、司会者は、まず岩森喜三の名を指名した。経済人グループの幹部である。
 岩森は、屍となって出獄した、牧口会長の寂しい葬儀に参列した一人であった。彼は、その折の牧口の見事な成仏の相を語った。そして、最後まで実験証明をもって教えてくださった、と言って、涙ながらに追悼の言葉を結んだ。
 さらに、三島由造、小西武雄も、遺影に向かって数々の思い出を語った。そして、謝恩の言葉を繰り返し、決意と誓いを披瀝した。
 このあと、五人の代表の弟子が、次々と立ち、それぞれ悲しみと感動とをもって、弔辞を述べた。皆、立派な言葉である。
 そのなかには、かつて理事で、教育者グループの中心であった寺川洋三もいた。多くの人が、戦時中退転し、今、牧口に詫びているようであった。
 また、はるばる那須の山中から来た、増田久一郎もいた。
 彼らは、それぞれの立場で、牧口会長に接していた。そして、一代の師と仰いだ人への、追慕と追善によって、あらためて自身の悲しみや無力さを知り、次の時代への新たな前進を固く誓ったのである。
 最後に戸田城聖が立ち、マイクの前に進んだ。彼は、話し始めた。まるで、生きている人に語りかけるような、話し方であった。
 「思い出しますれば、昭和十八年(一九四三年)九月、あなたが警視庁から拘置所へ行かれる時が、最後のお別れでございました。
 『先生、お丈夫で……』と申し上げるのが、私の精いっぱいでございました。
 あなたは、ご返事もなく、頷かれた。あのお姿、そして、そのお目には、無限の慈悲と勇気とを感じました。
 私も、後を追って巣鴨にまいりましたが、あなたはご老体ゆえ、どうか一日も早く世間へ帰られますようにと、朝夕、御本尊様に、お祈りいたしました。が、私の信心いまだ足らず、また仏慧の広大無辺にもやあらん、昭和二十年(四五年)一月八日、判事より、あなたが霊山へおたちになったことを聞いた時の悲しさ。杖を失い、灯を失った心の寂しさ。夜ごと夜ごと、あなたを偲んでは、私は泣きぬれたのでございます」
 ここまで来た時、戸田は鳴咽をこらえた。体をこわばらせ、しばらく、口をつぐんでいた。
 場内には、すすり泣きが、かすかな波のように起きた。涙を流すまいと、耐え忍んでいるかと思えば、ハンカチを目に当てる人もいた。喪服に、キリリと身を包んだ清原かつも、こらえかねる涙を抑えていた。
 戸田は、一段と力を入れて、話を続けて言った。
 「あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れて行ってくださいました。そのおかげで『在在諸仏土常与師倶生』(法華経三一七ページ)と、妙法蓮華経の一句を、身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味を、かすかながらも身読することができました。なんたる幸せでございましようか」
 彼の語調は、場内に、びんびんと響いた。人びとは、水を打ったように、静まり返っていた。そして、彼の一言一句に、真剣に耳を傾けていた。
 「創価教育学会の盛んなりしころ、私は、あなたの後継者たることをいとい、先に寺川洋三君を推し、後に神田丈治君を推して、あなたの学説の後継者たらしめんとし、宮島辰司君を副理事長として学会を総括せしめ、私はその列外に出ようとした、不肖の弟子でございます。
 お許しくださいませ。
 しかし、この不肖の子、不肖の弟子も、二カ年の牢獄生活に、御仏を拝し奉りては、この愚鈍の身を、広宣流布のため、一生涯を捨てる決心をいたしました。
 ご覧くださいませ。
 不才愚鈍の身ではありますが、あなたの志を継いで、学会の使命を全うし、霊鷲山会にて、お目にかかる日には、必ずや、お褒めにあずかる決心でございます。
 弟子 戸田城聖申す」
 彼は、追悼文を畳んだ。そして、涙を拭きながら、霊前に捧げた。
 三回忌法要は、これで終了した。
 だが、興奮は冷めなかった。やがて、一種のさわやかな空気が通過したように、皆、明るい元気な顔色に変わっていった。
 心ある同志たちは、過ぎ去った悲哀よりも、やがて開かれる新しい時代の決意に、満ちあふれでいたからである。
 日亨の一行は、休憩の後、他の僧侶たちも、続いて帰って行った。
13  一時間の休憩後、同じ会場で、「創価学会第一回総会」が開催されたのである。まさしく広布の序曲にふさわしく、本格的、具体的な第一歩であった。民衆救済の広宣流布に向けて、麗しい師弟の道を踏んでの出発であった。
 一九四三年(昭和十八年)五月の第六回総会を最後として、三年半たって復活した総会であった。
 開会の辞に次いで、北川理事の長い経過報告があった。
 彼は、創価教育学会の創立以来の歩みや、受難の歴史等を述べ、今や、新しい時代が来たと、参加者の奮起を促した。
 また、戸田理事長の率先して聞く折伏座談会の実践により、一月から総会当日までに、約二百人の入会者をみたことなどを報告した。
 数百人の参加者は、総会の進行につれて、次第に熱を帯びてきた。心から耳を傾け、時には割れるような拍手をもって、応えていた。
 戸田は、嬉しかった。だが、未来への、前進に前進を重ねなければならない責務を自覚した時、彼に心休まる思いはなかった。
 御書には、「聴聞する時は・つばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たい退せず信ずるなり」とある。
 戸田は、心のなかで祈った。祈らずにはいられなかった。
 ″どうか、一人も退転せず、尊い生濯を送ってもらいたい″
 体験発表が、次から次へと続き、いつ果てるとも知れないほどであった。実に十五人、二時間余りになんなんとしたのである。男女、年齢、職業、性格、学歴、方言のすべてを網羅したような、盛大な総会であった。
 出征中、また戦後の引き揚げの際に、命拾いしたという功徳の体験。学童疎開中、眼病で医師から見放された学童を、一人の教師が夜を徹しての唱題で全快させた体験。戦災の炎の中で死の迫った時、唱題し通して、危機を脱した体験。戦後、失業と貧乏のため、一家心中を図ろうと最後のお別れに唱題した時、牧口会長の「出直しが肝心だ」との言葉が蘇り、心機一転、真剣に信心に励み、努力した結果、今は小さな家を建てたという生活体験……。
 御本尊の功徳を知らない人は、「そんな奇跡は信じられない」と言うかもしれない。しかし、また仮に、それが奇跡であるとしても、このような奇跡的現象が、何人にも重なって起こった場合、なんと答えるのだろうか。仏法の生命哲理は、そのような不可思議と思えるような現象でさえも、因果の理法に照らして説明しているのである。
 生命哲理の、実験証明としての切実な体験は、聴く人びとの心の奥底を動かしていった。数年ぶに、日蓮大聖人の仏法が、荒廃と焦土のなかから蘇った感じの総会である。長時間の会合にもかかわらず、一人も退屈そうな顔をしていなかった。彼らもまた、生活の切実な難題をかかえていたからである。十五人の体験を聴き、自らも確信と勇気とを、心にいだかざるを得なくなっていた。
 ″あの人にできたことが、自分にできないはずはない。御本尊が正しく、絶対の力をもつならば、あの人たちだけでなく、自分にも同じ現証が出るはずだ″
 戦後第一回の総会は、滞りなく進行していった。時間は、午後四時を少々回っていた。かなりの長時間にもかかわらず、だれるどころか、場内は熱気を帯びていた。
 二、三人の幹部の指導が終わり、最後に、戸田城聖が演台の前に立った。
 激しい拍手である。涙ぐんでいる人もいる。拍手は、いつまでも続いた。彼は、拍手の音から、全会員の信頼と希望が、一身にかかっていることを感じた。
14  彼は、極めて、やさしく話そうと思った。
 遠く日蓮大聖人は、難解な仏法哲理をわかりやすく、仮名を多く用いた御手紙で、門下を指導された。
 漢字ばかりの天台学にとらわれた僧侶たちは、それを浅はかにも笑ったと伝えられている。
 難解な理論を弄び、さも知識人ぶって、うぬぼれている偽学者たちは、現代にも多い。まず、民衆が納得するような理論でなければ、それは生活の足しにもなるまい。
 最も平易に、具体的に指導できる人物とそ、学者としても優れた力をもつにちがいない。理論のための理論の遊戯は、積み木細工の子どもの遊びと、なんら変わりないはずだ。
 戸田は、穏やかな顔で、人なつこく笑いかけた。
 「罰とか、利益とか言うと、神様や仏様の独占のように思う。ここに、現今、世間の仏様や神様は、ご利益の競争をやっている。『成田山にご利益がある。稲荷にご利益がある。仏立講にご利益がある』と。人びとは皆、このご利益に迷っているんです。そうじゃないか。
 では、この罰と利益は、果たして神様や仏様の独占物か。決して、そうじゃない。そもそも人間は、罰と利益のなかに生活しているんです。それは、信仰のあるなしにかかわらない。
 漁師が魚を釣りに出かける。魚が釣れれば利益で、釣れなかったり、船を傷めたりすれば、これは商売上の罰だ。おでん屋をやる。お客が来て儲かれば利益だ。お客が暴れたり、客が来なくて経費がかさめば、これは商売上の罰だ。漁師には漁師の、おでん屋にはおでん屋としての、生活上の罰と利益がある」
 皆、当たり前ではないか、という顔で聞いていた。
 戸田は、信仰とは、決して、人生、生活から離れてあるのではないことを、まず語っていった。
 「しかして、妙法蓮華経とは、宇宙一切の森羅万象を包含する、一大生命活動の本源力であり、人生の最高法則である。この大法則を根本とする信仰生活には、言うに言われぬ偉大な利益があるのです。
 逆に、不信、謗法の徒には、生命の一大法則に背くがゆえに、因果の理法により、厳しい罰の現証があるのであります。
 このことは、法華経に述べられ、大聖人の御書には枚挙にいとまのないほど、数多くの御聖訓があります」
 人びとが、さまざまの宗教を信仰するのも、多くは、なんらかのご利益を期待してであろう。
 大聖人は仰せである。
 「道理証文よりも現証にはすぎず
 現実の苦悩を解決できなければ、力ある宗教とはいえない。利益といっても、現実の生活のなかに現れ、自覚されるものでなくてはならない。日蓮大聖人の仏法は、一時的な、また、目先の利益にとどまらず、いかなる苦難にも負けない堅固な自己自身を確立し、絶対的幸福境涯を築き上げる大利益を、万人に約束しているのである。
 戸田は、利益・罰論を、平易に語りながら、妙法を純真に実践する人には、計り知れない大利益がともなうことを強く宣言して、話を結んだ。
15  正面の時計は、はや午後五時三十分を過ぎていた。
 この第一回総会は、創価教育学会から脱皮した、新生・創価学会の旅立ちであった。学会は、価値論を足がかりにした旧来の方式と決別し、真実の仏法の偉大なる利益を語りながら、民衆のなかへ、人間のなかへと、歓喜の行進を開始したのである。
 出獄以来、一年有余である。戸田は、新しい創価学会を、厳然とスタートラインにつけた思いがした。彼は、この日、満足であった。あとは、速度の調整に注意し、激励し、時には厳しく指導しなければならない。
 しかし、この時、スタートラインについたのは、創価学会だけではなかった。敗戦国日本もまた、新憲法によって、それまでの歴史を衣替えして、この同じ十一月に、スタートラインについたといえよう。
 既に、外は薄暗く、寒かった。水道橋駅に向かう途中、数人の青年たちが、戸田の後についてきた。皆、貧しい身なりである。が、彼ら青年こそ、宝を胸にいだいた、未来への原動力である。皆、清く、たくましい若人であった。
 戸田は、嬉しかった。
 青年たちが、誰歌うともなく、″男子青年部歌″を歌い始めた。煩わしい街の騒音をよそに、戸田は、じっと彼らの歌に耳を傾けていた。
  栄華の波の うつろいて
  野望乱舞の 沈む時
  邪法は すたれど 正法は
  威光 さんと 久遠なれ
  
  ああ吾が友が 大願の
  広宣流布の 時来る
  熱血たぎる 若武者よ
  法旗を持して 奮い起て

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