Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一節 武田信玄  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
16  長篠での敗北後も、勝頼の「傲り」と「焦り」のいのちは消えなかった。その結果、人心は離れ、家臣の離反も相次いだ。
 天正十年(一五八二年)一月、臣下の木曾義昌は、信長と通じ謀反を起こす。義昌は、勝頼の妹の夫であり、いわば親族の反逆であった。義昌が反乱したときに勝頼は“まさかあの義昌が……”と信じようとしなかったという。それだけ一人一人の人心の掌握がなされていなかったともいえよう。義昌に対する対策は後手になり、傷口を大きくした。
 信長には勝頼が暴悪で領民は圧政に苦しんでいることが伝えられたようである。そして勝頼の下から去る者が相次ぐようになった。信長の隆盛と武田の衰運を多くの者が敏感に感じとって、離反したというだけでなく、勝頼自身に対する信頼の欠如が、天下に名をはせた強固な武田軍を滅亡へと追い込んだ。
 義昌の反乱を機に、武田家は一気に傾き、滅亡する。
 ともあれ、人心が指導者から離れてしまえば、発展はありえない。これは時代を超えた方程式であり、いずこの団体であれ、これほど恐ろしいことはない。

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