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日蓮大聖人・池田大作

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第一節 武田信玄  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
15  長篠の戦いに関連して着目すべき一つの事実がある。それは、勝頼が五月に出陣し、決戦を挑んだということである。
 旧暦の五月といえば、農民にとっては、一年のうちで、最も忙しく重要な季節である。その時期の争乱は、農民たちの最も忌み嫌うものであった。信玄は、民衆の「生活」と「心情」に、深く、こまやかな配慮を巡らし、民衆の負担が必要以上に大きくならぬように心掛けていた。それに対して、勝頼は時の流れもあったとはいえ、農民のことを考えずに決戦を挑み、その結果、武田軍に対する不平がつのり、民衆の「心」が離反していったとも考えられる。
 武田勝頼は、長篠の戦いに臨むさいに、宝飯郡(現在の愛知県宝飯郡)の付近で豊川の用水の堰を切り、水を平野に流した。長篠へ向かう徳川軍の後方をたたいておくためであったようだが、おびただしい水量が田畑へと流れ込み、農民は甚大な被害をこうむっている。また、東三河の田畑にとっては貴重な用水であったので、この年は旱魃にも悩まされたという。
 いかに軍事上の作戦とはいえ、このような、農民の生活の基盤までも破壊してしまう行為は、他に例をみないといわれる。その時の農民の嘆きと怒りは、いかばかりであったろうか。
 要するに、勝頼は、民衆の「心」を知ることができなかった。それは、苦労を知らずして高位に上った“権威の人”に、おうおうにしてみられることである。しかし、それでは最後の「勝利」と「繁栄」を得ることはできない。
 反対に、人の「心」を知り、人情の機微に通じゆくことこそ「将に将」たる要件である。民衆の心がわからずして、真実の指導者とはいえない。
 しかも長篠の戦いでは、致命的ともいえる内部の結束の乱れがあった。武田軍の強さは、究極するところ、信玄という一個の人物の大きさと力に帰着する。信玄を失い、若き勝頼がそれを補うにはあまりにも荷が重すぎた。悪いことに勝頼は、長篠城を陥落させることによって、武将に己の手腕を見せつけようと焦った。信玄以来の武将は、織田・徳川連合軍の兵力と陣形を見て、決戦回避に固まっていたという。しかし、焦る勝頼は強引にこれを無視した。結束の乱れを戦いの勝利をもって力ずくで補おうとした彼の意図は無残にも裏目に出た。多くの武将が命を落とし、絆はもろくも崩れ去った。
 信玄はどこまでも、兵を守り、国を守り、ひいては領民を守ることに徹していた。そのためには退くべき時には退く真の勇気を持っていたといえよう。そして最後には、自国の偉大な繁栄を築いた。逆に勝頼は、悲惨な滅亡を迎えることになる。
 このように一人の指導者の優劣で、国や団体は、繁栄もすれば、滅亡もする。その重大な責任を担った存在が、指導者である。
 実に、誤った指導者に率いられた民衆ほど不幸なものはない。
 かつて軍部権力の愚かな指揮のもと、数限りない辛酸をなめ、犠牲になった日本人の悲しい経験も、その一例であろう。そのような悲惨を、絶対に繰り返してはならない。
16  長篠での敗北後も、勝頼の「傲り」と「焦り」のいのちは消えなかった。その結果、人心は離れ、家臣の離反も相次いだ。
 天正十年(一五八二年)一月、臣下の木曾義昌は、信長と通じ謀反を起こす。義昌は、勝頼の妹の夫であり、いわば親族の反逆であった。義昌が反乱したときに勝頼は“まさかあの義昌が……”と信じようとしなかったという。それだけ一人一人の人心の掌握がなされていなかったともいえよう。義昌に対する対策は後手になり、傷口を大きくした。
 信長には勝頼が暴悪で領民は圧政に苦しんでいることが伝えられたようである。そして勝頼の下から去る者が相次ぐようになった。信長の隆盛と武田の衰運を多くの者が敏感に感じとって、離反したというだけでなく、勝頼自身に対する信頼の欠如が、天下に名をはせた強固な武田軍を滅亡へと追い込んだ。
 義昌の反乱を機に、武田家は一気に傾き、滅亡する。
 ともあれ、人心が指導者から離れてしまえば、発展はありえない。これは時代を超えた方程式であり、いずこの団体であれ、これほど恐ろしいことはない。

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